秒速二十三センチメートル
淡園オリハ
秒速二十三センチメートル
『ぼ、僕と……付き合ってください!』
四・七インチの画面いっぱいに映る輝いた光景を見ながら、僕は薄汚れたシーツに横たわっていた。
つい先程まで僕の味方をするように夜を告げていた空は、いつの間にか明るくなっている。小鳥のさえずりが喧しい。
未だスマホで再生している動画からは、黄色い歓声と制服で抱き合う男女の映像が垂れ流されている。僕はいささか乱暴な手つきでそれをスリープモードにすると、枕元に伏せて置いた。
つい、本当につい出来心で開いた、高校生の青春真っ盛り動画。まさかこれほどまでダメージを負うとは想定外だった。
気がつけば欠落していたみずみずしさを補給するように、関連動画に現れるそれらを休みなくタップしていた。
気がつけば、朝。
徹夜で青春に縋っていた。我ながら涙が出る。
「…………はぁ」
ため息をついたところで逃げていく幸せなど、もう、とうに持ち合わせていなかった。
一年前まではちゃんと通っていた高校の記憶を辿る。それも随分と遠い昔の出来事に感じる。きっと僕は老けてしまっている。一足先に、僕は学生を思い出にしようとしていた。
同級生のみんなは、今ごろ登校する支度をしているのだろう。
母親の声に起こされ、じゅうじゅうと焼けるベーコンやソーセージの匂いに食欲を刺激され、爽やかな朝の目覚めに丁度良い音楽などを聞きながらインスタントコーヒーで意識をはっきりさせる。そうして、アイロンをかけられてパリッとした制服に袖を通し、友人と待ち合わせている駅へ足早に向かう。
そこにはなんの絶望も、挫折もない。平和な一日を信じて疑わない。そんな彼らの朝が、とおいとおいどこかで今も繰り広げられているのだろう。僕にはただ、それを想像することしか出来なかった。
彼らに程遠い僕は、臭くて狭くて湿っぽい部屋で夜を待っていた。
昨夜の性欲処理の残骸を無残に床へと撒き散らし、その際に使用した中学の卒業アルバムや、コンビニで買った性的な参考書籍がさらに自身を幻滅させる。
とうに熱の冷めたプラモデルや弦の錆びたギターを散らかした、穴ぐらだった。
つけっぱなしている型落ちパソコンの光と、カーテンから漏れる日差しだけが光源。もはや部屋と呼ぶのもおこがましい場所に僕は棲み着いている。唯一の利点は、ダンジョンにいる魔物の気分が味わえることだろう。
勿論、朝が来たからといって起きるつもりはなかった。学校はサボる予定だったし、他に用事もない。いつも通り二度寝して、夕方にのっそり目を覚ますサイクルに入ろうとしていた。
湿っぽい、よれたシーツに横たわり、目を閉じる。脳は疲弊して、身体もだるい。すぐに眠りに落ちそうだった。
だけど、今日はなぜだか妙に精神が昂ぶっていた。おそらく先程見た動画が効いていた。
脳内に反響する、青い輝き。見たことのない景色が鮮明に浮かび上がってきた。
僕はひとりで、桜並木を歩いている。遊歩道の両端から、僕を挟むように桜の木が身を乗り出している。等間隔に並んで、コンクリートの道を鮮やかな春に染めていた。うららかな陽気の中を、僕は歩いている。次第に、僕は春に溶け込んでいくような感覚を覚えた。体の奥がぽかぽかと温かい。充足と安心が満ちていく。気がつくと、僕は春風に花びらを散らす桜になっていた。風が吹くたび、自慢の花びらを惜しげもなく揺らし、散らす。みんながそれを見て喜んでいる。僕は得意な気分になった。誰かのためになることで、自分はここにいていい存在なのだという確信が得られた。
また人間に戻っていた。再び遊歩道を歩きだす。
ひときわ大きな桜の木があった。遊歩道に並べられたものとは違う、単体で鋭い存在感を放つ大木だ。僕が腕を広げて抱きついても到底足りないくらいの幹の太さに圧倒される。それでいて頭上に広がる枝の一つ一つは計算し尽したように繊細な軌跡を描き美しくバランスを取っている。勿論、そこに咲いた花も同様に美しい。僕の他にもたくさんの人がその桜を見上げている。幹の近くにシートを広げ、お花見をする人の姿もあった。その中には、さっき桜になっていた僕を見て、褒めてくれた人の姿もあった。
しばらく、そこで桜を見ていた。何を考えていたのかは、わからない。
そろそろ戻ろうと足に力を入れる。けれど突然、右足が動かなくなった。体全体ではずみを付けてもびくともしない。そうしているうちに、左足も固まった。ふくらはぎ、ふともも、腰、お腹と背中、胸、肩、腕、指の順番で身体が固定されていく。僕は恐怖を感じる。目をつぶる。瞼の裏側に蓄えられていた暗闇がそっと僕に寄り添い、少しだけ安心した。しばらくそうして安静を取り戻し、再度目を開こうと瞼に力を込める。瞼は動かない。指でこじ開けようとして気づく。腕も指も動かない。
僕は鮮やかな春の真ん中で、凍りついたように動けなくなっていた。僕の周りを覆っていた暗闇が、じわり、じわりと体内に侵入している。先程まで感じていた期待や希望は鳴りを潜め、代わりに焦燥と諦観が湧き上がっている。暗闇は皮膚を透過し僕の中心へと迫っている。湧き上がってきた焦燥と諦観を目指すように、じわり、じわりと僕を呑みこんでいく。暗闇の先に何かが見える。見上げていた大木の桜だった。先程まで美しいピンクの花を咲かせていたそれは、何故か真っ黒の禍々しい花を咲かせていた。
思わず声を上げる。飛び起きた僕の目には見慣れた景色が飛び込んだ。
昨夜の性欲処理の残骸、中学の卒業アルバム、性的な参考書籍が床に散らばっている。やりかけのプラモデル、弦の錆びたギター。見慣れた穴ぐらだった。
型落ちパソコンはスリープモードに入ったのか光を落とし、カーテンから漏れる日差しは先程より明るい。どうやら夢を見ていたらしい。
黒い桜。なぜそんなものが思い浮かんだのか見当もつかなかった。そもそも夢でみるものなんて、不規則で非現実的だ。まともに考えるだけ無駄だということは分かっていた。
それでも、今も脳裏には爛々と輝く黒い桜の木が花びらを散らしていた。少しゾッとして、ベッドを降りた。
シャワーを浴びてさっぱりしたかった。いやに重い部屋のドアを開け、一階にある浴室へと向かった。
シャワーの水圧が心地よくて、僕は頭から首筋、背中にかけて何度もシャワーをかけた。丁度良い刺激と温みを感じながら僕は思考する。依然として黒い桜はそこに咲いていた。けれど思い出したのは四、七インチに切り取られた青春だ。
僕には彼らが桜に見えた。満開の桜。ほんの少しのそよ風を受けてもひらひらと散っていくピンクの花弁。彼らの中には遊歩道に規則正しく並べられた量産的な桜もいるだろう。そしてあの大木のように鋭い存在感を放つ桜もいるだろう。いずれにせよ美しく、儚い。一生懸命に咲いて、散っていく。その中の数瞬、誰かの目に止まり喜んでもらえたのならば、彼らという桜はそれだけで咲いた価値がある。
では、咲かない桜は。いや、咲かない桜はない。どんな木でも、花は咲く。
例えば、そう。真っ黒な花弁をつける桜はどうだろう。鮮やかなピンク色に包まれる同胞達から離れたところにぽつんと咲く、真っ黒な桜の木を想像する。やはりゾッとした。同時に、悔しくもあった。黒く咲きたい桜など、存在するのだろうか。皆が美しい花を咲かせる中で美しさを求めない桜など、本当に存在するのだろうか。黒く咲くことを義務付けられた桜は、どうすればいいのだろうか。
答えが見つからないまま、僕は身体を洗い終えて浴室を出た。
存外、朝風呂は嫌いじゃなかった。
血行が良くなったためか、先程に比べて思考もいくらか前向きになった。なにより油分が落ちてさらさらになった肌は気持ちが良い。
学校に行こう。そう思ったのは、なぜなんだろう。きっと見つけたかったからだ。黒い桜の存在意義を。黒い桜が咲いていていいという確信を。それがどこにあるのか、そもそも存在するのかなんてわからない。けれどどうしようもなく、ここにいてはいけない気がしていた。たぶん、ずっと前から。
Tシャツを着てワイシャツに袖を通す。スラックスを履いてベルトを巻き、腰の位置で固定する。ジャケットを羽織り鏡の前に立つ。何の変哲もない高校生がそこには映っていた。少し、前髪が長いことと目つきが悪いことを除けば、だけど。
もう一度、一階へと戻り浴室の隣りにある洗面所へ。久しぶりに手に取ったドライヤーで風を当てつつ、髪の毛の癖を調整していく。
と、洗面所のドアが少し乱暴に開かれた。その音に僕はびっくりして、ドライヤーを落とした。床にぶつかって更に大きな音がなった。驚いた顔で僕を見つめている母と、目があった。一日分のびっくりを使い果たした僕らは少しだけその場で固まった。母が先に口を開いた。
「あ、あんた、どうしたの?」
「……や、別に。散歩しに行こうかと」
「その格好で?」
「うん」
母は訝しげに僕を眺めた。けれど、その目はいつもより少し大きく開かれていて、どことなく光が満ちているように見えた。
僕は素直に予定を告げる。
「もしかしたら、学校、行くかも」
「………………そう。じゃあ朝ごはんつくるね」
「ありがとう」
「あ、そうだ。お弁当も作らなきゃいけないね」
「…………ありがとう」
目に見えて母は浮かれていた。普段は無音のキッチンから鼻唄が聞こえてくるなんて、いつぶりの経験だろう。そうだ。確か、あれは僕が今の高校に合格した日だった。
絶対に受からないと言われていた高校をダメ元で受験した僕は、運良く欠員補充という形で今の高校へ進学することが出来た。点数は本当にギリギリだったらしい。
その報せを受けた日、母が僕の好物だけを作ってくれた日、この曲を聞いた覚えがあった。僕は洗面所を出て、ダイニングキッチンへ向かう。父親はまだ寝ているらしかった。
「ふんふーふ、ふっふっふふーふーふふん」
「母さん、その曲」
「……あ、聞こえてた? やだな、恥ずかしい」
「…………その曲、好きだよ。なんていうの?」
「昔の曲だよ。カーペンターズっていうアーティストでね、曲名は――」
母が続きを言うのと同時に、リビングの戸が開いた。
父が新聞を片手に突っ立っている。まじまじと僕を見て、何も言わず対面の席についた。母は嬉しそうにコーヒーを三杯淹れていた。
結局、曲名が聞けないまま、僕はコーヒーを飲んでいた。母が作ってくれた朝ごはんを食べながら、父の顔を見る。こうして顔を突き合わせるのも久しぶりで、何を話すべきか迷った。けれどそれは杞憂に終わり、父は一言も話すことなくテキパキと新聞を折りたたんで部屋を出ていった。しばらくすると低い「行ってきます」が聞こえ、こちらの返事に答えることなく車のエンジン音だけが遠ざかっていった。
「お父さん、喜んでたわ」
「うそ、あれで?」
「うん、私にはわかる」
「流石にそれは夫婦フィルターかかってない?」
「かかってないよ。あの人が新聞をわざわざ折りたたんでいくなんて、初めて見たかも」
「……じゃあ、今までは置きっぱなしだったの?」
母親は感慨深いというような表情でゆっくり深く頷いて、
「なんだか、家族に戻れた気がするね」
と言った。
僕はもうそれ以上何かを言うつもりはなかった。そもそも、特に理由もなく引きこもりのようなことをしていた僕が悪いのだ。父にも、母にも、随分と迷惑をかけてしまっていた。その償いというには軽すぎるが、僕は今日、朝から外に出る。
「はい、これ。食べれなかったら無理しなくていいから。もしどうしても無理なら帰ってきな」
「わかった。ありがとう」
ほんのりと温みの残る包みを受け取って、大事にリュックへと仕舞う。
ゆっくりとドアを開け、家を出る。
僕の身体は驚くほどすんなりと陽光の下へ躍り出た。ドラキュラのような反応を期待していたわけではないけど、案外日光も悪くないと思えるなんて想像していなかった。
少し歩くと、次第にぽつぽつ学生の姿が目にとまりはじめた。
僕は極力彼らに視線を合わせないよう下を向いて歩いた。
陽光は依然として優しく僕を照らしているし、背中に背負ったリュックからはほんのりと暖かさが滲む。
父の表情と、母の鼻唄。できたてのお弁当を思い出して、一歩、また一歩と進んでいった。
しかし、時刻が八時半をむかえた頃、ついに僕の疲労はピークに達した。既に高校は目前で、数分歩けばたどり着く距離だ。だけど、足が止まった。
どうしようもなかった。
自分と同じ制服であれ、違う制服であれ、学生の姿を見るだけで気分が悪くなる。
しだいに吐き気と頭痛が強くなり、僕は休憩を取るため近くにある公園へフラフラと向かった。
どうせこれまで不登校だったのだから、一、二時間の遅刻くらい、なんてことない。僕は思い切って一限をサボることにした。早速の挫折だが、もう傷つくプライドなんて持ち合わせてはいない。
すでに七分咲と宣言されている桜が咲き誇る公園内の遊歩道をのんびりと歩いた。春風が頬や耳、首筋を撫でていく。鼻孔を爽やかな春の空気が満たす。
そのままのほほんと歩いていると、広い空間に出た。
一面が芝生で覆われた、運動用の広場。まだ早い時間だからか、人はあまり居ない。散歩をしているご老人や、犬を連れた人が大半だった。
僕はとりあえず芝生の端に腰を下ろして、寝転んだ。ただぼんやりと、空を見ていた。
もし、僕を季節に例えるなら、冬だ。
僕以外のみんなは春だ。そう思った。
秒速二十三センチメートルで進む桜前線のように、皆の春は進んでいく。夏へ、秋へ。その先にある冬を超えて次の春へとずんずん進んでゆく。
対して僕は、こうやっていつまででも寝転んで、この春で置いてきぼりをくらい続ける。
それは、自分で望んだ結果なのだろう。
僕は春が嫌いなんだ。似たような言葉で、朝も、希望も、夢も、仲間も、ぜんぶぜんぶ嫌いだった。
明るいものは、いつか終わってしまう。その明るさが強ければ強いほど、鮮明であればあるほど、喪失の痛みは強くなる。最高に面白い映画を観終わった時、僕は自分がスクリーンの向こう側にいけないことを認めたくない人間だ。安っぽい感傷や感想を言い合って自分の気持を風化させることを許せない人間だ。
映画が面白ければ面白いほど、長い時間をかけてそれを理解しなければならない。自分を納得させる必要がある。それが嫌で、いつの間にか映画も観なくなっていた。
つまり僕は、春が、朝が、希望が、夢が、仲間が終わってしまうことが、怖かったんだ。
映画のスクリーンのように、最後は真っ暗になって「全て作り物でした」と明かされる瞬間が、怖くてたまらなかったんだ。
初めから終わりを予想できるものに、僕は全身全霊で挑めない。
だから、いっそ黒い桜を咲かせようと思った。綺麗なものばかりもてはやされるこの世界で、いっそ誰より汚く絶望にまみれてやろうと思った。
けど、結局そんな覚悟すらもたない僕は人の歩みよりも遅く進む桜前線の速度にすらついていけなかった。ただ、立ち止まってしまった。
終わる辛さを考えることも放棄して。真っ黒に染まることからも逃避して。僕は終わらない夢に横たわることを望んだ。永久凍土の中で幻のような春を貪っていたい。そう願った。
依然空は青いまま、雲はご機嫌に流れていく。
薄紅色の花びらを眺める。この花が散ってしまうのならば、いっそ咲かないほうがいいのではないか。だって、こんな美しい景色を失わなくてはならないなんて、おかしいじゃないか。
ああ、でも咲かない桜は、存在しない。生きていない人間が存在しない事と一緒だ。
不意に視界がぼやけたから、僕は慌てて起き上がった。
ここで泣いたら、本当にすべてが終わってしまう気がした。
周囲を見渡すと、いつの間にか人の数が増えていた。時間も過ぎていて、一時間目も半分ほどが終了している。
そろそろ行こうかと腰を上げると、耳に聞き覚えのあるメロディが流れ着いた。黄色い風に乗って、どこからか聞こえてきたその音。
きょろきょろと周りを見渡して、出どころを探る。すぐに見つかった。
芝生に座り込んで、ギターを演奏する二人組の青年だ。軽やかなメロディと、希望をそのまま切り取ったような歌声は、自然と僕の心を鎮めていった。数人の人だかりが出来ているそこに向かって、よろよろと歩きだす。
追いついたその輪に混ざって、僕は目を閉じた。
いつだったか、あの日。
僕の好物ばかりを作りながら、母さんが口ずさんでいたこの曲。今朝も聞いた。
数分間、演奏に聞き惚れていた。音が鳴り止むと、周囲の人は自然と拍手を送っていて、二人組も嬉しそうに会釈なんかをして、次曲の準備をはじめた。
僕はその光景を見て、なんだかストンと落ちるものを感じていた。
演奏が終わっても、次の曲がある。
演奏が終わるから、拍手がある。
終わらないことを望んでいた僕は、いつまでも次の曲を聞けないし、弾けない。
拍手だって送れないし、貰えない。
それなら、僕の望んでいる終わらない演奏に、価値なんてあるのだろうか。
終わらないものに、本当に、価値なんてあるのだろうか。散らない桜は、美しいのだろうか。
「……わっ、っとと」
瞬間吹き抜けた突風に、二人組のうちギターを弾いていた方の人が声を上げた。楽譜をプリントした紙が風に散らされる。僕は無意識のうちにしゃがんで、足元に散らばったその紙を拾い集めて手渡していた。
お兄さんは満開の桜のような笑顔で「ありがとう」と告げて、楽譜を受け取る。
僕は、意を決して声をかけた。
「あ、あのっ」
「ん? どうしたの?」
「さっきの曲、カーペンターズの……」
「おお、よく知ってるね。洋楽好きなの?」
「ああと、その……そういうわけじゃないんですが。母が、好きで」
「なるほどね、お母さんいい趣味持ってる」
「ありがとうございます。それで、その」
「うん?」
「き、曲名を、教えてほしくて……」
「ああ、曲名はね――――」
さっきよりも強い突風が吹いた。
吹き抜ける春一番の中で僕は、はっきりとお兄さんの声を聞いた。
せっかく咲いた桜が舞い散っていく。春はこんなにもゆっくりと訪れるのに、桜はこんなにも早く終わっていく。でも、だからこそ、その価値は計り知れないものになる。
可視化された薄紅の春風の最中で、僕は冬に立ち止まることを諦めた。
こんなに素敵な風景を見て、もう僕は永久凍土に留まれなかった。
黒い桜であってもいい。どんな花でもいいから、咲かせたかった。
この世に咲くべきでない花なんて、存在しないんだ。
「あのっ、ありがとうございましたっ!」
「お、おう。ありがとう、こちらこそ」
「また演奏聞きに来ます! それじゃあ!」
踵を返し、僕は全速力で走った。
まだ、間に合うだろうか。
秒速二十三センチメートルで進む桜前線。春の速度。
長い長い冬に立ち止まっていた僕に、ようやく訪れた春を、迎えに行く。いや、追いつく。
鼓動が早まる。これまでの分を取り戻すように早鐘が打たれる。朝の到来を告げる鐘のように身体中に鳴り響いて僕を衝き動かす。
高校の門が見えた。呼吸を整えるために立ち止まる。深呼吸をすると、膝に入っていた力が抜けてガクガクと震えが走った。
名付けがたい恐怖が僕の足を止めようとしている。焦燥と、諦観が大蛇のように首をもたげるのが分かった。
そのとき、僕の脳内でお兄さんの言葉が反芻される。
『曲名はね、TOP OF THE WORLDっていうんだ。終わっていく一日を、季節を慈しみながらも、寄り添う誰かと一緒に過ごしたい。それだけが私の望みですっていう歌』
それでも震えは収まらなかった。
けれど、暖かな春がそこにあって、僕のチンケな氷はみるみるうちに融かされていった。
今朝四、七インチに切り取られていた向こう側の世界が、今はここにある。あるいは映画館のスクリーンの向こう側にあった世界でもあり、同級生が過ごしている平和な世界。
ドアはない。ただ進むだけだった。もう、立ち止まることはない。もう、羨むことはない。冬に立ち止まることはない。
校内に入り、靴箱から真新しい内履きを手に取る。僕の足に馴染んでいないそれは、僕が教室でどんな風に見られるのかを暗示しているようだった。大蛇となった焦燥と諦観がチロチロと舌を伸ばす。
階段の一段、一段を大蛇の頭に見立て、踏んづけるように昇っていく。
そのとき、チャイムが鳴り響いた。洗面所でのびっくりなんて目じゃないほどの早鐘が打たれる。
一時間目がちょうど終わり、ぞろぞろと廊下に生徒が流れ出てくる。次第に増える人混みに紛れて自分の教室の前へ辿りついたとき、なんだかふっと気が軽くなった。
『恐怖とは実体を持たない幻影だ』と誰かが言っていたことを思い出す。恐怖に実体はない。恐怖を恐怖している瞬間にのみ、幻影として人を苦しめるが、案外目の前にすればなんてことはない。やることをやるだけだ。
だから、恐れることでしか恐れは生まれない。
教室内から陽気な談笑の声が漏れてくる。拳をギュウと握り、開く。右足も左足も、固まってはいない。
引き戸に手をかけて、ドアをスライドさせる。小さくて、大きな一歩を踏み出す。
ガラララ、という音を聞いて、クラスメイトの声が一瞬止まる。奇異の視線が容赦なく僕に突き刺さった。
引かない。ひとりずつゆっくりと目を合わせるように教室を見回す。背中にじっとり汗が滲んだ。けれど、目はそらさなかった。深呼吸をして、もう一度息を大きく吸う。
「おはようっ」
意を決して声を上げた。今からでも、遅くはないはずだと信じて駆けた。あとはもう、飛び込むだけだ。返事なんて要らない、期待していない。ただ、僕は春に追いつくために――。
「おはよう、やっと来たな」
声のした方を見ると、スポーツ刈りの男子が片手を上げて僕に笑いかけていた。しばらくキョトンと見つめていると、彼はぶはっと笑った。
次英語だぞ、教科書あんのか? なんて問いかけすら、耳に入ってこなかった。僕は今、それどころじゃなかったから。
なんて簡単だったんだろう。世界はこんなにも開かれていて、春はいつでも身近にあった。目を閉じて暗闇を作り出していたのは、いつも自分だった。黒い桜なんてどこにもなかった。
ゆっくり、教室の中へ歩を進める。スポーツ刈りの男子の隣席は、誰にも使われていない様子だった。彼が手招きして僕を呼ぶ。あそこが僕の席らしい。
クラスメイトが珍しそうに僕を見る。今朝の夢を思い出す。
僕は桜だ。
いつか、誰かに感動を与えられるような桜になろう。そんな花を咲かせよう。この視線を忘れないでいよう。
長い長い僕の夜が、いま明けた。
秒速二十三センチメートル 淡園オリハ @awazono_oriha
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