緑林の戦い

 寨を独力で脱出した齊訡せいぎんは、さすがに疲労困憊らしく、今宵はもう休むと言い、本陣裏の安息所で横になると、たちまち深い眠りに落ちてしまった。


 黄頴こうえいは夜襲に備え、不寝番の激励も兼ねて陣中を見回るとのことで、鳳凱ほうがいと麾下の将たちを別の天幕へ案内すると、一行に労いの言葉をかけ、一礼して立ち去った。


 人質に逃げられたにしては、寨は静かで、その夜は襲撃の気配もなかった。


 次の日から戦は新たな局面を迎え、西邑せいゆう軍では攻寨戦の準備が整えられ、新たな甲冑を身につけた齊訡せいぎんを囲んで、西邑せいゆうの将による軍議が催された。


 だが、鳳凱ほうがいら救出部隊は臨席しなかった。


 鳳凱ほうがいは部下達に地形の確認を命じ、自身は黄頴こうえいらとともに西邑せいゆう軍に加わって、緑林軍の戦ぶりをじっくり観察した。


 進軍の太鼓が地を震わせ、干戈の響きが蒼天を貫いて、やがて雲を運び、風雨を呼んだ。


 兵力では圧倒的な西邑せいゆう軍であったが、緑林軍は寨の出入りと地形を上手く利用して、容易に攻略を許さなかった。


 突然の豪雨で周囲は水浸しになり、火攻めを封じられた西邑せいゆう軍の兵達は、寨から降り注ぐ矢玉の雨に次々斃れていった。


 打ち続く敗報に、齊訡せいぎんはやむを得ず撤収を命じ、いったん寨の全容が見下ろせる高台へと陣を移した。


 銅鑼の音に追われ、敵に背を向け退却する西邑せいゆう軍へ、緑林軍からは絶え間ない嘲笑と罵声が浴びせられたが、寨から討って出る部隊はなかった。


 風雨の音に混じって、寨の上から唸るような勝鬨が聞こえた。


「聞け、西邑せいゆうの将邑綸ゆうりんよ!」


 岳賦がくふが寨の壁上から高らかに呼ばわった。


邑綸ゆうりんとな?」


「誰だそりゃ?」


 寨近くに陣取った西邑せいゆう兵は、みな顔を見合わせ不審がった。


「せっかく俺が逃がしてやったのに、かように逃げ隠れるのみとはな。そんなに俺が怖いか。また囚われるのが恥ずかしいか。惨めだなあ、邑綸ゆうりんよ」


 岳賦がくふは大音声でそう挑発し、豪快に笑うのであった。


「はて、邑綸ゆうりんとは誰のことやら」


 と、黄頴こうえいも兵達同様不審がった。


 しかし、背後に控えていた鳳凱ほうがいがクスッと笑うのに気づくと、


鳳凱ほうがい殿は御存知で?」


「あれはわしのことじゃ」と、齊訡せいぎんがむっつり答えた。「まさか、囚われの身で正体を明かすはずもあるまい。名を問われたゆえ、そう名乗っただけじゃ」


 降りしきる雨の中、岳賦がくふは不敵な挑発を続けていた。


「今日の勝利は天が我らに味方したもの。明日は俺も討って出るゆえ、今度こそ雌雄を決しようではないか。逃げれば、たかが山賊の頭を相手に逃げ回る腰抜けと、末代までの笑いものとなろう!よいか、構えて逃げるでないぞ!」


 そう言い放ち、岳賦がくふは寨の中へと姿を消した。


 実に齊訡せいぎんの性格をよく把握して言葉を選んでいる。


 寨に囚われている間、齊訡せいぎん岳賦がくふの間に何があったのか、鳳凱ほうがいはいよいよ知りたくなった。


 齊訡せいぎんは案の定苛立たしげに爪を噛んでいる。


岳賦がくふめ、調子に乗りおって。見え透いた挑発にのせられるわしだと思うてか。数に任せて押し包み、一気に捕らえてくれるわ」


「しかし、今日は我が軍には雨の不運があったにせよ、奴の指揮ぶりにもなかなかのものがござった」


 黄頴こうえいは真っ白な顎髭を撫でつつ、「あれは、武力のみの男ではござらぬぞ。甘くみては危険なのでは?」


「わかっておる」と、齊訡せいぎんは苛立たしげに吐き捨てた。「だからこそ、下手な小細工はせず、圧倒的な数の力で押し切ろうというのだ」


「お待ちくだされ」と、鳳凱ほうがいが割って入った。「確かに、御大将の言われるように数で圧倒すれば、いかに岳賦がくふといえども、いずれ力尽きましょう。ですが、それまでにどれほどの犠牲が出るか。御大将にも不本意なのでは?」


「だが、他に策があるのか?」


 鳳凱ほうがいは小さく肯いて、


「策と言うほどのものではござりませぬが、考えはございます」


「我らに説明できるか、いま、ここで?」


「さて、それは。いまはまだ、我ら六将を信じていただきたいとしか。ただ一つ言えるのは、我ら六名は、敵地より御大将の奪還を目的として派遣された別働隊。標的が岳賦に変わっただけと申せましょう」


 概ねそのような主旨を述べた鳳凱ほうがいは、齊訡せいぎんに別働隊として行動の自由を約束させると、六名を集めて地図に誤りがなかったか確認し、何事かを内密に指示した。

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