開戦前夜

 やがて、齊訡せいぎんは指の動きをぴたりと止めて、大きく吐息を漏らした。

 

 そして、そばに立っている二人を見上げて言った。


「実を言うと、わしがかく帰還できたのは、あやつのおかげでもあるのだ」


「あやつ? 岳賦がくふにござりまするか?」


 意表を衝かれ、黄頴こうえいは目を丸くした。


 鳳凱ほうがいは何も言わず、黙って齊訡せいぎんの言葉を聞いていた。


 齊訡せいぎんの身に何があったのかはわからぬが、心にかかるものがあるようにみえた。


「わしはあやつに捕らえられ、また、あやつに解き放たれたのだ。どうだ、面白かろうが?」


 言いつつ、齊訡せいぎんに笑みはなかった。


 言葉とは別の何かが胸の底に澱んでいるようだ。


 黄頴こうえいの髭面はあからさまに困惑したし、鳳凱ほうがいも笑っていいものやら、反応に困った。


 互いに笑えぬ冗談としか思えなかったが、鳳凱ほうがいには、齊訡せいぎんの考えがあらかた想像できた。


 岳賦がくふを幕下に加えたいとでも言うのであろう。


 永安を目指す旅の果てに、鳳凱ほうがいを口説き落とした時のように。


 この王子には、いまも変わらぬ人材蒐集癖がある。


 噂や風聞には動じぬが、自ら惚れ込んだ相手に対しては、味方にしようとひたすら情熱を傾ける。


 それも、自前の勢力を拡大するためでなく、王である父、次代の王たる兄の世を盤石なものとするため、そのことが必要だと信じているのであった。


 王族同士の覇権争いは常に熾烈を極め、このように我が身の栄華に目もくれず、無垢なる忠節を貫く一国の王子を、鳳凱ほうがいは何処の国でも見たことがなかった。


 そして、それこそが、齊訡せいぎんの余人をもって代え難き主君としての魅力であると鳳凱ほうがいは思っていた。

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