齊訡の帰還

 黄頴こうえいらが見送る中、いよいよ出発というその時であった。


 陣の外れの方でにわかに歓声があがり、最初は遠く潮騒のように聞こえていたその音が、次第に近づくにつれ、はっきりとした言葉となって本陣まで届くようになった。


「お帰りだ、御大将がお帰りになられたぞ!」


「おお、御無事であらせられたか!」


 鳳凱ほうがい黄頴こうえいらが篝火かがりびの向こうで揺らめく人影に目をこらすと、歓声にわく人垣の間を通って、まっすぐこちらへ歩いてくるのは、確かに激闘の跡も生々しい齊訡せいぎんであった。


 黄頴こうえいが我に返り、慌てて駆け寄ると肩を貸そうとするが、齊訡せいぎんはそれを振りほどき、


「やめよ、年寄りの肩を借りてどうする」


 そう言って、卓のそばの椅子へ大儀そうに腰を下ろした。


 天幕の陰に立っている黒装束の六人に初めて気づき、黄頴こうえいへ訊ねた。


「あの黒い連中は何だ?」


 黄頴こうえいが説明しようとすると、また唐突に遮った。


「いや、待て!」


 そのうちの一人が鳳凱ほうがいであることに初めて気づいたのであった。


「そなたは鳳凱ほうがいではないか。何故ここにいる?」


「ですから」と、黄頴こうえいが重ねて説明した。「王子様が捕まったりするから、都から精鋭を率いて助けにきてくださったのですよ。それにしても、お一人でよく逃げられましたな。実に嬉しい驚きです」


「おい」と、齊訡せいぎんは眉間に皺を寄せた。「いつも申しておるであろう。陣中では王子様と呼ぶな。御大将と言え。それと、わしは逃げたのではない。脱出したのだ。わしはいかなる時も、決して逃げぬ」


「なるほど、勇ましいですなあ」と、いつしかすぐそばに立っていた鳳凱ほうがいが、からかうように笑っていた。「それに、相変わらず口数が多い。黄頴こうえい殿もこの方のお相手は気が休まらぬでしょう」


「言いおるわ。はるばる都からやってきて仕事がないのでは、減らず口の一つも叩きたくなるか。しかし、その減らず口すら懐かしいから困る」


 齊訡せいぎんは相好を崩して、満面の笑みを見せた。


「久しく都へは帰っておらぬが、母さまは息災であろうな。庭の野菜は今年もよく実ったことであろう」


「母も五十の坂を越え、さすがに自ら畑仕事はきついと。しかし、家の者達が代わって続けておるそうで、都の評判は相変わらずです」


 と、鳳凱ほうがいは柔らかく答えたが、すぐ厳しい顔つきになって、


「それはともかく、王子様が一騎打ちで後れをとるとは驚きました。岳賦がくふとやらいう賊軍の頭は、それほどの使い手ですか」


「半分はわしの油断が招いた結果だが、確かに奴ほどの強者は滅多におるまいよ」


 と、齊訡せいぎんは深く肯いた。


 敗北の記憶がよぎったのか、険しい表情であった。


 鳳凱ほうがいは重ねて訊いた。


「いま一度闘えば、勝てるとお考えですか?」


「さてな、断言はできぬ」


「ともあれ、御大将が御無事でお戻りになられたのですから、もはや恐れるものはござらぬ」と、黄頴こうえいが胸を張った。「あのような寨は、正攻法でも一息に踏み潰せるでござろう。いかに岳賦がくふが強者とて、一人で何ができましょう」


「確かに、よい機会かもしれぬ。岳賦がくふほどの猛将がどこにも仕えておらぬのは、不幸中の幸い。他国が目をつけぬうち、危険の芽は摘み取るべきでしょう。我らも協力いたします。ここは一気に攻め落とすがよろしいかと」


 鳳凱ほうがい黄頴こうえいが口を揃えて進言したが、齊訡せいぎんは気乗りせぬ様子で、指先をしきりに卓に打ちつけながら、何か別のことを考えているようにみえた。


 鳳凱ほうがい黄頴こうえいも釈然とせず、互いに顔を見合わせたが、それ以上何も言わず、齊訡せいぎんの言葉を待った。

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