第2話 火事2

 僕は、弱くて、薄っぺらい。


 それはもう、たとえるのなら、すでに四回使ったティーバックで、五回目のお茶を淹れた時くらい薄い。


 断っておくけれど、四日間使用して、五日目も履こうとしてるパンツの話じゃないよ?

 お茶の話だからね。


 ま、何がともあれ、それは、僕の生来の性質で。

 意志薄弱って四字熟語があるけれど、この言葉は僕のためにあると言っても過言ではない、と思っている。



 そんな意志薄弱な男が、『おかしも』の『も』を破るという、禁忌を犯したわけだけれど、それには理由がある。


 今回の行動、どうしようもなく突拍子で無鉄砲に見える、火事場に戻るというこの行動に、踏み切ったのは、僕が、僕自身の意志薄弱な性質を信じた結果だ。


 もちろん、あずきを助けたいと思う気持ちがあって、こうやって、母の代わりに燃え盛る家に突入しようとしているわけだけれど、僕は弱いから、母とは違って、あずきが一階で見つからなかったら、尻尾を巻いて逃げ帰ってくる自信があった。

 身の危険を感じたら、脱兎の如く逃げ帰る自信があった。

 僕は、弱くて薄い自分が、可愛いから。

 

 僕の薄っぺらい決意は、無駄な犠牲者を出さないという点で、とても有効だ。


 あずきは救えないかもしれないが、母は救える。

 マザコンなわけじゃないよ。

 

 僕が失うものは、できる限り少ない方がいいって話だ。

 

 玄関のドアの取っ手は想像していたより、熱くなかった。

 実際は、熱かったのかもしれないけれど、濡れた服の袖をミトン代わりにして開けたのが、功を奏したのかもしれない。


 ドアの鍵は、開いていた。

 確信する。


 僕の妹は、あずきは、家の中にいる。


 アイツは、家を出る時こそ、仕方なさそうに鍵を閉めるけれど、家に入る時、絶対鍵を閉めない。


『家を出る時はさ、わかるよ。

 閉めなきゃ、泥棒が入ってきちゃうもんね。

 危ないよね。

 でもさ、家にいる時は別にいいじゃない。

 だって、この私が、いるんだから。

 泥棒でもなんでも、知らんやつが入ってきたら、逆に、ぶちのめしてやる」


 先々週か。

 修学旅行で、自分へのお土産と称して買ってきた、身の丈ほどの木刀を、ブンブン振りながら豪語していた。

 女の子が、そんなもん買ってくるなよな。

 君のクラスの男子はもちろん、女子もドン引きしただろうよ。

 兄ちゃんもドン引きだよ。

 

 結局、母さんに、怒られていた。

 木刀を買ってきたことじゃなくて、鍵を閉めないことに。


 母さんは、正しい。

 防犯上の点でも、我が家から、犯罪者を出さないようにする点でも、正しい。

 正当防衛にも、過剰防衛というものが存在する。

 アイツはやらかしかねない。

 兄として、「いつかやると思っていました」と発言したくはない。


 僕は、土足のまま玄関を上がる。


 母さんの言った通りだった。

 一階には、火の気配が、まったくなかった。

 いつも通りの我が家だった。

 不思議だ。

 外から見たら、あんなに燃えてるように見えたのに。


 僕は、廊下を通りながら、トイレ、脱衣所、風呂をひととおり確認して、リビング&キッチンへ向かう。

 その途中も、まったく火の気配は無かった。

 階段も通り過ぎたが、驚くほど何もない。

 それを訝しく思いながらも、僕は、リビングのドアを開けた。


「あずき!」


 名を呼ぶ。

 いた。


 ソファの上で、寝ている。

 憎たらしいくらい、気持ちよさそうに眠っている。


 僕は、近づくと、その頬を、手のひらでペシペシとはたいた。


「おい、あずき!起きろ!」


 あずきは、少しだけ目を開いたが、再び閉じた。

 もう一度、その頬を二、三叩く。


「おい、バカ!起きろよ!」


 あずきは、顔を顰めた。

 ウーンと唸って、体をねじる。

 そのまま起きるかと思って、様子を見ていたら、あずきは、僕の顎めがけて、右足を蹴り出した。


 僕は、僕の持っている限りの運動能力の全てを酷使して、それを薄皮一枚で避けた。

 理不尽な暴力に抗議する。


「おっ前、何すんだよ!」


「うるさい、麦にぃ」


 あずきは、苛立たしげに言う。


「あたし、疲れてんの。

 今日一日中、運動会練習だったの。

 炎天下の中、会閉会式の並び、ラジオ体操の陣、徒競走の順番、ダンスのポジションに、スムーズに並べるまで、繰り返されるという拷問に耐えてきたんだ。

 先生にカウントダウンされて、『何秒かかりました〜。次は、何秒目指しましょうね〜』って具合にね。

 ぐでんぐでんのくたんくたんなの」


「それは、ちょっとかわいそうだな!

 同情するよ!

 でもね、あずきちゃん、火事なんだよ!」

 

「そんなこと言ったって、起きないからね。

 あたしを、ソファからどかしたいからって、そういう縁起でもないこと言うと、本当になっちゃうんだから」


「だから、その縁起でもないことが、起こってるの!」


「しっつこいな。

 いくらあたしがバカだからって、そんな嘘通じないから。

 キッチン、なんともなってないじゃない」


 あずきは、ソファのクッションに、顔を埋めたまま、指差した。

 確かに、なんともなっていない。

 いつもの台所だ。

 我が家の対面式キッチンは、いつも通りだ。


 僕は、コンロに駆け寄って、ロックがかかっているかどうか確かめる。

 かかっている。

 母は、家を出る前に、火元は確認したと言っていた。

 それは間違いではなかった。


 ということは、二階から出火したということだろうか?

 一階からの出火ではないとすると、父母、妹、僕。

 誰かの部屋から火が出たということになる。

 みんな、出かけていたというのに。


 どういうことだ。


「もうちょっと、マシな演技したら?

 縁起だけに」


 あずきは、ソファに寝そべったまま、ケラケラと笑う。


 このバカは。

 たいして面白くねぇんだよ。


 殴りたくなった。

 右手に力が入る。

 しかし、僕は、お兄ちゃんなので、その衝動を抑える。

 冷静になる。


 確かに、あずきのいうことは一理ある。

 家の中は、まったくと言っていいほど、火の気がない。


 僕があずきの立場だったら、火事になってると言われても、やはり信じないだろう。

 信じないのももっともだ。


 でも、実際、燃えているのだ。

 嘘じゃない。

 夢でもない。

 一刻も早く、この家から脱出しなければいけない。


 考える。

 この、バカな妹を連れ出すには、どうすれば良いだろう。

 いやはや、難しい。

 バカだが、口だけはよく回る。

 口八丁なのだ。

 薄くて弱い兄は、この濃くて強い妹には、何を言っても負けるのだ。

 さぁ、どうする。


 口で勝てないのなら、実力行使しかない。

 妹が口八丁なら、兄は手八丁で対抗しようじゃないか。

 手八丁の使い方は、間違ってるけど、意味は通じるでしょ?


 僕は、あずきを抱きかかえた。

 いや、抱きかかえるという表現は正しくない。

 肩に担ぎ上げた。

 担ぎ上げて、リビングのドアに向かって走る。

 こういうのは、スピード感が重要。

 手際が大事なのだ。

 さながら、猫をケージに入れる要領で、妹を連れ出す。


「何すんのよ!」


 もちろん、妹は、暴れる。

 暴れて、僕の背を、両手でポカポカ殴る。

 いや、ポカポカという表現も正しくない。

 ドカドカ殴る。


 その上、殴るだけでなく、髪の毛まで引っ張ってくる。


「痛い!

 お前、髪はやめろ、髪は!

 ハゲたらどうしてくれる。

 責任取れるのか?

 お前には、兄ちゃんの毛根の恨みを、一生、一身に背負い続ける覚悟はあるのか!?」



「そんなの知るか!

 てか、なんでこんなに、ビショビショなんだよ!

 汗!?

 意味わかんない。

 気持ち悪っ」


「お前な。

 今に見てろよ。

 外に出て、燃え盛る我が家を見たら、咽び泣いて、兄に感謝することになるんだからな!」


 ドアを体で押し出すようにして、リビングを出た時。


 その時、背後で、天井が、落ちた。

 リビングの天井、すなわち、二階の僕の部屋の床が、落ちた。


 熱風に押し出されるようにして、僕とあずきは廊下に投げ出された。


「いたい……」


 あずきは、床にぶつけた頭をさすりながら起き上がった。

 そして、さっきまで寝ていたソファが、火だるまになっているのを見て、青ざめる。


「麦にぃ、本当だったの?」


「だから、言っただろ……」


 僕も、自分たちが置かれている危機的状況を、ようやく理解した。


 それに、一階のさっきまでの静けさを考えると、不気味で、鳥肌がたった。

 なにか、おかしい。

 

 はやく外に出なければ。


「おい、あずき。はやく出るぞ」


 僕は、立ち上がる。

 しかし、あずきは、座ったままだった。


「あずき、早くしろよ。

 いくらお前だって、火には敵わんだろ。

 妹の丸焼きなんて、俺は見たくない」


 僕の言葉を聞いているのか、いないのか、相変わらず、妹は、グズグズしている。

 思わず、強い調子で、声をかけてしまう。


「おい、あずき、いい加減に」


「麦にぃ」


 あずきは、それを遮ぎって、僕を見上げて言った。


「どうしよう、立てない……」

 

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転移、そして懺悔〜星の下で業に焼かれる〜 瓦落芥 @baku89

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