転移、そして懺悔〜星の下で業に焼かれる〜
瓦落芥
第1話 火事
僕は、唖然とする。
学校から帰ってきたら、家が燃えていた。
火は屋根まで立ち昇っていた。
僕の部屋の窓は割れていて、そこからメラメラと炎が見え隠れしている。
「母さん!」
家の前に、母を見つけて、駆け寄る。
声をかけても反応がない。
その表情は虚で、血の気が無い。
普段の貧血の時よりひどい顔色だ。
僕は、母が火事に巻き込まれて、体を悪くしたのかと思い、ギョッとする。
すぐに、頭から足先まで、確認する。
よかった。
見る限り、どこも怪我はしてない。
ただ、ショックで動けないみたいだ。
そばには、買い物袋が落ちている。
ちょうど、買い物から帰ってきたところだったのだろう。
袋の中の卵は割れて、中の黄身が飛び出ていた。
「そんな、どうして。
ちゃんと、火元は確認して、出ていったのに」
「母さん、母さん、しっかりしろよ」
僕は、母の肩を揺すった。
母は、ようやく気づいて、ゆっくりとこちらを向いた。
「あぁ、麦。おかえり」
今、おかえりと言ったか?
意外に冷静なのか。
それとも、パニックが一周半くらい回って、いつも通りなのか。
母とは、生まれてから、十八年来の付き合いだけれど、そこら辺、判断がつかなかった。
僕的には、後者であってほしい。
前者は、母の根っこの部分を見たようで頼もしい気分にもなるが、ちょっと怖い。
母は、掠れ声で言った。
「麦、どうしよう。
お家、燃えちゃった」
「どうしようもないさ。
どうしようもない。
考えても仕方ないんだ。
それより、消防には、連絡した?」
「してない……」
「そうか。
ご近所さんの誰かが通報してるといいけど」
周囲を伺う。
ワラワラと人が集まってきていた。
誰か、通報してくれただろうか。
こんなに人がいたら、誰か一人くらい通報してくれているだろうけれど。
誰かしてくれているだろう、という先入観は良くない。
学ランのポケットから、スマートフォンを取り出す。
11、と打ったところで、タップする指が止まった。
消防って、何番だっけ。
ケツの数字がわからない。
7だっけ。
それとも、9だったか。
知らないわけじゃない。
急にわからなくなってしまった。
すると、誰かが僕の肩を叩いた。
振り返ると、隣に住む山田さんが立っていた。
山田さんは、穏やかな声で言った。
「大丈夫。
連絡しといたよ。
あと十分もしないうちに、着くはずだ」
定年過ぎのおじさんだ。
白髪混じりの髪が、ふさふさしている。
お腹の肉が、少しだけズボンの上に乗っかっている。
そのアザラシのようなプルッとした体に、ピッタリとティーシャツを着ているのが、好ましい。
いつもと同じ格好だ。
僕は、ホッとして、お礼を言った。
「ありがとうございます」
その時、初めて、自分の声が震えているのに気づいた。
僕自身、相当ショックを受けているみたいだ。
消防の電話番号は117だと、咄嗟に思い出せなかったのは、自分も母と同じように、混乱しているからだろう。
自分の家が燃えている、というのは、キツイ現実だ。
そう簡単に受け止められないのだ。
「いや、いいんだ。
それより、ここは近すぎるね。
もう少し離れようか。
お母さんを連れておいで」
そう言って、山田さんは、手招きした。
その方角には、山田さんの奥さんが立っていて、花に水をやるためのホースを、庭の水道から引っ張り出して、待機していた。
万が一を考えてそうしてるんだろうけど、意味があるのだろうか。
山田さんの奥さんは、隣家である生江家が燃えているこの状況を、若干楽しんでいるように見える。
ワクワク感が隠しきれていない。
まったく、なんて
なんというか、図太い。
大抵の人は、隣家が火事になったら、自分の家に燃え移るかもしれないという不安で、いっぱいいっぱいになるだろうに。
ただ、彼女は悪い人ではない。
普段は、学校の行き帰りに気持ちよい挨拶してくれるし、野菜や料理のお裾分けもしょっちゅうしてくれる。
良い人だ。
良い人なのだ。
彼女が「あなたたちの家の火事に、私の家が巻き込まれたらどうするの」と母と僕を責め立てないのは、人ができている証拠だ。
タチが悪いのは、遠巻きにこの惨劇を眺めている野次馬たちだろう。
写真を撮り始めている。
その見物人たちの中に、自分と同じ制服を着た姿を見つけて、なんとなく気分が悪くなった。
学校で、僕の家が燃えたと噂になるのは、あまり良い気分じゃない。
僕は、母の肩を押しながら、山田さんの後についていく。
母は、家が燃えるのを見つめながらも、されるがままに、その場を離れる。
しかし、不意に立ちどまった。
「あずき」
「あずきが、家の中だ」
あずきは、小学六年生の僕の妹だ。
母は、呟いた。
「助けに行かないと」
僕の手を振り解いて、踵を返す。
「ちょっと待てよ。
確かなのか?」
「すれ違ったの。
買い物に出た時、ちょうど。
あずきと、すれ違ったのよ。
もう、学校から帰ってきてる」
「その後、遊びに行ったかもしれないじゃないか」
「わからない。
そうかもしれない。
でも、母さん、ちょっと行ってくる」
「無茶だよ!」
走り出そうとする母の腕を掴みんで、引き留める。
僕と母は、向き合った。
僕は、驚いた。
さっきまでの母の姿はなかった。
家が燃えたことに、打ちひしがれていた母はいなかった。
子どもを守ろうとする、母がいた。
「無茶だ……」
家を見る。
炎は、さっきよりも勢いが強くなっていた。
風に煽られるたびに、家を貪るように食っている。
「大丈夫。
二階は、かなり燃えてるけど、よく見ると、まだ一階には、火が回ってない。
とりあえず、見てくるだけだから。
あなたは、ここで、待ってなさい。
わかったわね?」
母は、小さい子どもに言い聞かせるように言って、僕を見つめた。
僕は、「わかった」と頷くことも、「だめだ」と首を振ることも出来ない。
その目を、見つめ返すことすらできない。
母は、見てくるだけだと言ったけれど、きっと、あずきが、一階で見つからなかったら、二階まで探しに行ってしまうだろう。
もしかしたら家にいないかもしれないあずきを、見つけるまで、あの炎の中探し回るだろう。
それは、自殺行為だ。
それは、なんとしてでも阻止しなければいけない。
僕は、母の腕を掴むのをやめて、その場から離れると、山田さんの奥さんに声をかけた。
「おばさん、借ります」
その手から、ホースのノズルをひったくるように奪った。
そして、レバーを押して、水を頭から被って、全身に浴びる。
さすが、山田さんの奥さんだ。
準備がいい。
水道の蛇口は全開のようで水力マックス、ノズルはストレートにセットしてあって威力マックスだ。
想像していたより、強い水圧が襲いかかってきて、よろけてしまった。
それに、痛い。
家庭用ホースの力、舐めてたぜ。
まったく、カッコがつかない。
しかし、目的は達した。
制服は、水を吸って、ずっしりと重くなった。
「ありがとうございます」
お礼を言って、ホースを返す。
山田さんの奥さんは、僕を怪訝そうに見た。
一方、山田さんも、僕の一連の奇行を見ていた。
彼は、奥さんとは違って、僕が何をしようとしているのか、察したのかもしれなかったけれど、眉を顰めるだけで、何も言わなかった。
それは、ありがたかった。
「母さんのこと、お願いします」
僕は、それだけ言って、燃える家に向かって走り出した。
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