第6話 脱出

 窓から差し込む日の光に照らされ、桜花は目を覚ました。


「……あれ?」


 見慣れない天井に一瞬戸惑うも、すぐに昨日のことを思い出し桜花の顔が怒りと屈辱に歪む。


「今までで一番最悪の目覚め……なにが結婚したいランキング1位だふざけんな! あ~もう!」


 日差しが燦々と降り注ぐ爽やかな朝に似合わない言葉を発しながら桜花は自分の身体を確かめる。


(確か……突っ込まれてはいない、とは思うけど……)


 とりあえずシーツに血の染みは見当たらなかったことに安堵し、桜花は部屋を見渡す。

 近くのテーブルには桜花の荷物と共に昨晩百夜に脱がされたはずの服が綺麗に畳まれていた。


「……いっそふっ散らかったままにしてくれた方がよかったな」


 微妙な心地になりながら服を着ようとベッドから降りた桜花は、少々気怠な足を引きずってどうにか人前に出られるような姿になった。バッグからスマホを取り出し時刻を確認すると6時前で、人々が本格的に動き出す時間までまだ少し時間がある。


「さて、人が来る前にさっさと逃げたいところだけど……」


 ちらりと扉に視線を向けると微かに人の気配がした。通常であれば気配は消すものだろうが、どうやら隠す気は皆無らしく、びっくりするほどダダ漏れだった。むしろわざと気配を出しているのだろう。逃げ道はないという警告のために。

 そこまで考え今度はひとつだけある小さな窓を見上げる。ベッドの上に付いている窓まではかなりの距離があり、ベッドを土台に椅子を置こうにも柔らか過ぎる上、置いたところで届かない。加えてこの部屋に窓まで届きそうな家具はもちろん、脱出に使えそうなものは何ひとつない。

 これでは脱出のしようもなく詰みだろう……通常ならば。


「この程度、普通にベッドをトランポリン代わりにすればなんの問題もないでしょ」


 思い立ったが吉日とばかりに部屋の隅に転がされていた靴を持って(何故わざわざそんなところに転がしてあったのか)ベッドの上へ登るとそのまま――


「よっ……と!」


 途中途中のわずかな窪みを足場にあっという間に窓へぶら下がる。窓枠を支えに窓を開けて窓枠を支えに体を揺らし、回転の勢いで足から窓をくぐった。


「よしっ……と、わあっ!?」


 窓から脱出は果たしたものの、あまりの高さに思わず声を上げ咄嗟の判断で屋上へと登った。


「あっぶな……一歩間違えたら死ぬところだったんですけど。ていうかあの部屋ビルの一室だったのね」


 納得すると同時に別の問題が浮上し桜花は頭を抱えた。


「降りること自体は簡単だけど……絶対監視カメラに引っかかる。……どうしよう」


 おそらく20階はあると思われるビルを見下ろしながら、桜花は周囲を観察すると隣接するビルの側面にちょうど良い足場があることに気づいた。おまけにそこまでの足場もこのビルについている上、ビル同士も近く余裕で飛び移れる距離だった。


「ラッキー! ……さて、それじゃあ……」


 桜花は屋上で軽く体操をすると、そのまま飛び降りていった。



      ♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎



 一方、百夜は社長室で仕事をしていた。あの後軽くシャワーを浴びてすぐに仕事に戻り、休む間もなく手を動かしいた百夜だが、どことなく気がそぞろで、普段よりもわずかに仕事の進みが遅い。


(……ちっ……落ち着かねえな。あの女の言葉がずっと頭の中で響いている)


 無意識で書類に皺をつくった時、やや慌てたようなノックが響いた。


「失礼します久遠です。至急のご連絡が」

「入れ」


 許可を出すとすぐに静が入ってくる。


「至急の連絡ってなんだ?」

「はい。今朝食事のため星宮桜花の監視役が部屋を開けたところ、姿がなかったそうです」

「……は?」


 百夜にしては珍しい少々間の抜けた声を上げた。見ると静もどことなく困惑したような表情になっている。


「窓が開けられていたのでおそらくそこから逃げ出したのではと思われますが……」

「どうやって登った?」

「……申し訳ありません。そこまでは……」

「……監視カメラはどうだ?」

「周辺の監視カメラを全て洗いましたが、どれも映っていたのは引く建物の屋上でして……」

「……まさか、飛び越えていったとでも?」

「はい。相当運動神経の良い人間だったらしく」


 そこまで聞いて百夜はふと桜花の調査書を思い出す。


「確かあの女の調査書に特技は運動全般とあった筈だ」

「! そう言えばそうですね」

「……まさかあの窓から逃げ出すとは思わないだろう。久遠、連れ戻してこい」

「はっ! すぐに」


 百夜の命を受けた静は即座に動き出し、室内に静寂が戻った。


(この俺の元を逃げ出すとは……)


 再び理由のわからない苛立ちを覚える百夜。昨日顔を合わせ、尋問のために一度陵辱しただけの女を何故思い出すのか。


(くそ……昨日からどうしたんだ、俺は……)


 自分も知らない感情に戸惑いと怒りを覚えながら無理やり仕事へと意識を向ける。

 しかし意識を向けようとすればするほど桜花の顔を思い出し、百夜は終始苛立ちを覚える。

 その後、理由の知らない会社の面々は静が戻ってくるまでの間、八つ当たりよろしくぶつけられる身に覚えのない怒りに顔面蒼白になるのだが、それは桜花のあずかり知らぬ話だ。



       ♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎



 百夜の元から逃げ出し、どうにか自宅へと戻ってきた桜花は靴を脱いですぐにベッドへと飛び込んだ。


「うあ~やっと帰ってきた……」


 慣れ親しんだ部屋の香りに桜花は深く息を吐き出した。どれほど強がろうが中身は普通の女子大生。無意識に気を張っていたのだろう。

 これまで裏社会と関わることなどもちろんなかった上、あれほど男性に乱暴に扱われた記憶もない。恐怖が怒りへと変換されていなければ男性に対して恐怖心を抱くだろう。……もっとも、相手が顔よし身体よしで声もいいとくればむしろ抱かれたいと思ってしまう女性も多いだろう。

 だが、桜花はそんなことを思うような可愛げ、ではなく感覚は持ち合わせていなかった。それどころか普通ならば傷つけることを躊躇うような百夜の綺麗な顔に平然と噛み、平手を食らわすのだ。百夜に恋焦がれる女性たちから思いきり殺意を抱かれそうな行いである。桜花はそんなもの知らねと返すだろうが。


(あんな形で初体験とかないわ……最後までされなかったことが救いといえば救いかな……)


 スマホをカバンから取り出し、だらしなくベッドに転がりながら画面を見る。


「えーっと……不在着信が、51件!? ぜ、全部風音からだ……あ」


 そういえば昨日風音との約束があったなと思い出し、すぐさま電話を入れた。

 しばらくしてコールがかかるとワンコールが終わる前に電話が取られ。


「おいコラ! なんで電話に出ないんだよこの馬鹿っ!!!!!」


 耳をつんざく怒りの声が聞こえてきた。


「ご、ごめん! 昨日色々あってさ」

「今どこ?」

「自宅。今帰ってきたところ」

「……は? どういうこと? ……いやそれよりも無事なんだよね?」

「一応」

「じゃあ今からそっち行くわ」

「えっ?」

「え、じゃない! 今から行くって言ってんの! 本当に無事かどうか確かめてやる!」

「ちょ、まっ――」


 桜花が何かを言う前にブツっという音が鳴り電話が切られた。


「……切った。これからって……正気?」


 そこまで考えて桜花は遠い目になる。


(無理だわ。あいつのモットーは即断即決。こうと決めたら止まらない猪だもんな……)


 乾いた笑いを浮かべながらも、桜花は心配性な親友の好物を用意しようとキッチンへ向かった。


「えーっと、あ、あった。パインのパンナコッタとゼリーボール。これはデザートにして、この時間だから食べていないことも考えて軽くサンドイッチでも作るか」


 冷蔵庫から材料を取り出し、サクッと調理をする。胡椒とバターを片面につけ、両面に程よく焼き色をつける。ひとつは生ハムとレタス、もうひとつは卵とトマトを挟んで対角線状に切って皿に盛り付ける。

 あとは軽くオニオンスープと野菜ジュースを用意して朝食は完成だ。

 一通りの準備が整ったところでチャイムが鳴った。


「え? 早くね?」


 驚いてモニタを覗き込むと腕を組んだ風音が立っている。

 桜花は急いで玄関へ向かい、扉を開けた。


「ヤッホー桜花? ご機嫌麗しく」


 腕を組んで挨拶をする風音は後ろに黒い炎を背負いながら爽やかに笑っていた。

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