第38話 ほぼ決まったかな
Team 123456789 R H E
青嵐 0000000 030
山吹 0000000 000
* * *
7回裏の山吹実業の攻撃を、慎吾が三者連続三振に抑えた後。
「スタンドが騒ついてるな」
「まあ、仕方ないだろ」
異様な雰囲気になりつつある横浜スタジアムの外野席。
松本と阿久津は、試合を見ながらそんな会話を交わした。
松本が電光掲示板のある一点を指差し、阿久津が頷く。
「ノーヒットとなると、流石にな」
試合は0対0の同点。
とはいえ、7回まで慎吾がノーヒットピッチングという展開。球場の空気は、当然ノーヒットノーランを期待するものへと、徐々に変わっていっている。
「こうなると、村雨としては逆にやりにくいかもな」
松本がぽつりと言った。阿久津は松本を見た。
「気付かないわけにはいかないからか?」
「いや、そういう意味じゃない。ピッチャーなら誰だって、言われなくても自分が打たれてないことくらい気付いてるよ。抑えた記憶より、打たれた記憶の方が普通は強く残るから」
「じゃあ、どういうことだよ」
「気付いてても、それを意識するかしないかは、ある程度自分で選択できるだろ? でも、この空気じゃ意識せざるを得ない。複数点差があるならともかく、同点や1点差でノーヒットノーランを意識するとなると……案外足元を掬われるかもな、と思って」
「……そういうこと、か」
阿久津はグラウンドに目を戻した。
甲子園まであと一歩という試合で、何より重要なのは記録ではなく勝利だ。
しかし、雰囲気に流されて記録の方に意識を取られてしまうと……というのが松本の言いたいことなのだろう。
グラウンドでは、6番の猿田が左打席に入る。
それを見ながら、松本は付け加えた。
「まあ何にせよ、味方がまず援護しないことには、な」
「そりゃそうだ」
いくらノーヒットとはいえ、同点のままではそもそも試合が終わらない。
慎吾がノーヒットノーランを達成するためには、青嵐がまず点を取らなければならないのだ。
さて、8回は青嵐に流れが来た。
まず、先頭の猿田がレフト前ヒットで出塁した。
7番の三村が右打席に入る。
1点を争う場面なので、バントで送るのが定石だ。
が、マウンドに立つのはフィールディングの上手い柳原。
4回にはバント失敗で併殺となった場面もあったから、バントのサインを出すのは少しためらうところだが——。
(バントか)
依田のサインを確認した三村は、心の中で呟いた。
自分はここまで2打数0安打。
柳原に全くタイミングがあっていなかったので、納得の采配ではある。
(俺の後ろの佐宗と中井もバッティングに関しては大概だけど、あいつら足だけは速いからなあ……内野安打で1点狙いってとこか?)
考えながらも、バットを構える。
柳原相手に最初からバントの構えをすると猛チャージをかけられるので、ギリギリまでバントとは思わせたくない。そこで、一旦は普通に構えた。
先ほどの二岡の失敗を見て、学習したのである。
もちろん、バントそのものの成功確率は下がる。
だが、さっきのようなゲッツーよりはマシ、と三村は割り切っていた。
初球、インハイへのストレートがきた。
柳原は相手がバントしそうな時、初球に決まってインハイへ速球を投げてくる。
インハイが一番バントしにくいコースと分かっているからだ。
そして、柳原がそうするだろうと、三村は山を張っていた。
(さっきの二岡は、転がし方自体は上手かったんだよな。でも、俺はインハイをあっさりバントするなんてできねえ……だからここは、ちょっと工夫して——)
柳原がボールから手を離す直前、三村は打席内で僅かに身を引いた。
こうすればインコースが体感では真ん中に近くなり、バントしやすくなる。
すっとバットを出してバントの構えをすると、ボールとバットが衝突する。
三村の狙い通り勢いの死んだ打球が、ファースト方向に転々と転がった。
今度は流石の柳原も、大人しく1塁へ投じる。
三村はアウトにこそなったものの、充足感で満たされていた。
一方の柳原は、苦虫を噛み潰したような顔でボールを受け取っている。
1アウト走者2塁と、青嵐はチャンスを迎えた。
ここで右打席に立つのは、8番の佐宗。
今大会の打率は1割代で、有り体に言えば安パイである。
ある意味そのデータが、柳原の油断を誘ったのかもしれない。
1ボール2ストライクと追い込んでからの4球目。
決め球のつもりで投じたスライダーが、彼には珍しく甘いコースへ行った。
それを佐宗が、これまた珍しいことに見逃さなかった。
佐宗のバットがボールを捉え、鋭い打球が三遊間へ飛ぶ。
2塁ランナーの猿田は、完全に打球が抜けるまでは進塁をためらっていた。
そして、その判断は間違っていなかった。洋平が打球に追いついたのだ。
洋平は一度目だけで猿田を牽制した後、三遊間からファーストへ大遠投した。
バッターランナーの佐宗との勝負になる。
しかし、佐宗は足が速いとはいえ右バッター。
彼の足がベースへ着くより、僅かに速くボールがファーストミットへ収まった。
「ヒズアウッ!」
一塁審のコールに、山吹実業側の応援席が大いに湧く。
実際、今のは大きなプレーだった。
抜けていれば1アウト1・3塁。
1点は覚悟しなければならない場面になっていたことだろう。
「洋平のやつ、やるな」
ベンチから一連のプレーを見ていた慎吾は笑った。
それから、「福尾、キャッチボールしよう」と女房役をベンチから連れ出す。
同点なら同点で、慎吾としては構わなかった。
もちろん最終的には勝ちたいが、楽しい試合が長く続く分には構わない。
2アウト走者2塁で、9番の中井が左打席に立った。
中井は1ボール1ストライクというカウントで、柳原のツーシームに手を出す。
柳原からすれば狙い通りに、セカンド正面へゴロが飛んだ。
一つだけ想定外だったのは、思いの外打球が弾んだことだ。
セカンドが慌てて前進し、中井の足との勝負となる。
そして先ほどと違い、今度こそ一塁はセーフになった。
一塁へ滑り込んだ中井がガッツポーズをし、今度は青嵐側の応援席が湧く。
2アウト1・3塁とチャンスは広がり、1番の石塚に打順が回った。
石塚は今日3打数1安打。
チーム内では比較的柳原のボールを捉えている方で、タイムリーに期待が持てる。
そしてその期待通り、石塚は初球を捉えた。
打球が今度こそ三遊間を抜け、三塁ランナーの猿田がホームインした。
外野席からその光景を見ていた阿久津が、「援護したな、味方が」と呟く。
松本がそれに応じた。
「ああ……まあ、ほぼ決まったかな」
「どうかな。野球ってのは、最後まで勝敗が分からないスポーツだぞ」
「まあ、普通はな。でも、今日の村雨相手に、この1点は重すぎる」
「……」
阿久津も内心では、同じことを思っていた。
なんせ、裏の山吹実業の攻撃は5番から。
恐らくもう洋平まで打順が回らないし、回ったところで、今日の内容を見るとあまり期待できない。
山吹実業側の応援席を見ると、落胆の色を隠せていない。
対して青嵐側の方は、勝利が決まったかのようなお祭り騒ぎ。
1点差にしては異様な雰囲気だが、今日の慎吾の出来を考えれば無理もない。
なんせ後2イニングを残して、未だノーヒットピッチングなのだから。
スタンドの様子が今日の試合を明確に表しているように、阿久津には見えた。
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