第33話 試合開始

 7月28日、決勝当日。

 横浜スタジアムには、この大舞台を見ようと超満員の大観衆が詰めかけていた。

 高校野球熱の高い神奈川とはいえ、例年以上の盛り上がりと言えよう。


 理由は明白。

 今日の試合が、青嵐高校と山吹実業の一戦だからだ。


 方や初の決勝進出を果たした県立高校、方や全国屈指の名門校。

 青嵐側のエース・村雨が、かつて山吹実業で燻っていたという因縁も曖昧れば、異様な注目度となるのは頷ける話だ。


 その決戦の試合開始時刻である、午前11時より少し前。

 海王大付属高校野球部の松本の姿が、ライトスタンドの群衆の中にあった。むすっとした顔で座る松本の横に、同じく海王大付属高校野球部元正捕手の阿久津が座る。


 彼らは先日、青嵐高校に敗れた。

 それも、9回裏2アウトまで2点差で勝っていながらである。

 二人にとって、その記憶はまだまだ新しい。


 穏やかな顔で、阿久津が口を開いた。


「正直、今日松本が来るとは思わなかったな」

「……別に俺だって見たくねえよ、こんな試合。でも、阿久津が誘うもんだから、他にやることもないし仕方なくな」


 吐き捨てるように言う松本を、阿久津はにこにこしながら見ていた。

 松本が阿久津を睨む。


「何笑ってんだよ、お前」

「いやあ、別に」


 阿久津は松本からグラウンドに目を移した。

 そこではちょうど、青嵐側が試合前ノックを行なっていた。


「松本、お前はどっちが勝つと思う?」

「百パーセント山吹……と、村雨がいないなら言えたんだろうな」


 それはそうだ、と心の中で阿久津は同意した。

 内外野どこのポジションを取っても、青嵐が山吹に勝っているポジションなど見当たらない。唯一、投手を除けば。


「で、村雨がいる場合は?」

「5分5分だな」

「……へえ。理由は?」

「山吹には、晴山がいる」


 松本は顔を歪めた。


 村雨に晴山。

 どちらも中学時代から、散々自分に苦汁を飲ませてきた選手だ。

 晴山に関して言えば、高校に入ってからも何度か対戦して打たれたことがある。


「村雨がチームを勝たせるピッチャーなら、晴山はチームを勝たせるバッターだ」

「チームを勝たせる、か」


 松本のそのの言葉は、阿久津には自戒のように聞こえた。

 自分は勝たせるピッチャーじゃなかった、というような。


「それに、山吹は紛れもない強豪だ。強豪ってのは、そんじょそこらの公立とは野球に対する覚悟が違うんだよ。追い込まれた時の強さは、山吹に分がある」

「うちは青嵐を追い込んどいて、土壇場で逆転されたけどな」

「強豪じゃなかったってことだろ、今年のうちは」

「……なるほどな」


 他人事のように松本が言うと、これまた他人事のように阿久津が相槌を打った。

 当事者中の当事者だったからこそ、彼らには他人事のようにしか、あの試合のことを語れない。


 両チームの試合前ノックが終わった。

 ファールグラウンドに両チームが並び、球審の合図を待つ。

 

 少し間を置いて、球審が右手を挙げた。

「集合!」と声を挙げると、両チームのベンチ入り選手が雄叫びを上げながらホーム前に整列する。球審の「礼!」という合図で、選手たちが互いに頭を下げた。


 スタンド全体に拍手が巻き起こった。

 釣られて阿久津も、パチパチと何度か手を叩く。

 隣を見ると、松本も意外にも真面目に拍手をしていた。

 相変わらず表情は死んでいたが。


* * *


 先攻は青嵐高校。

 守りにつく山吹実業のナインがグラウンドに散らばる。

 先発投手を任された、山吹実業エースナンバーの柳原がマウンドに向かう。

 まだ誰も足を踏み入れていない、まっさらなマウンド。

 これを味わえるのは後攻の時だけなので、柳原は後攻が好きだった。


 7球の投球練習をする間も、柳原はずっと青嵐側のベンチを意識していた。

 と言っても、相手ベンチの中で意識するのはただ一人。

 青嵐高校野球部エース・村雨慎吾だ。


(どいつもこいつも、村雨・村雨・村雨ばかり……晴山までそうだ。ちょっとは俺のことも見てくれってんだ)


 慎吾が山吹実業にいた頃から、柳原は彼のことが気に入らなかった。

 入学以降結果を出しているのは明らかに自分なのに、皆が皆怪我で碌に登板できない慎吾の方ばかり気にしているからだ。

 それが好意的であろうと、そうでなかろうと。


 柳原本人は特にいじめに関与していなかったし、そもそも知りもしなかった。

 だから、慎吾が学校を辞めると聞いた時は、これで村雨のことばかりでうるさかった連中も少しは大人しくなるだろう、くらいにしか思っていなかった。


 だが、辞めた後もなお、慎吾の存在感は強かった。

 去年の夏の大会に野球部が出場しなかったのも、間接的に慎吾が関係している。

 今年に至っては、目に見える障害として、山吹実業の甲子園出場の前に立ちはだかっている。柳原にとって慎吾とは、目の上のたんこぶも良いところだった。


(良い機会だ……どっちが上か、大観衆の前ではっきりさせてやろうじゃねえか)


 投球練習を終えると、左打席に入ってくる青嵐高校の1番バッター・石塚を柳原は睨みつけた。もちろん、石塚の名前など柳原はいちいち覚えていない。目の前の打者と対戦しているようでいて、柳原の相手は常に慎吾だった。

 

(今日は1点もやらない覚悟でいくからな)

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