第12話 入部届は夢のよう

「その……野球、またやりたいです。やらせて下さい、お願いします!」


 慎吾は父に、がばりと頭を下げた。


「……」


 沈黙が、ひんやりとしていて痛かった。

 時計の針がチッチッと進む音が、やけに際立って聞こえる。


 一体どれほどの時間が過ぎたのだろうか。

 それとも慎吾がそう感じただけで、実際には一瞬に近い短さだったのか。


 丈晴は、重い口を開いた。


「……なら、好きにしろ」

「……え?」


 慎吾は顔を上げた。父は先ほどまでと変わらない仏頂面を浮かべている。

 しかし、今の慎吾には、その口元が心なしか微笑んでいるように見えた。


「野球をしたいんだろう? やりたいからやる、筋が通ってて大いに結構」

「で、でも、僕はその、前の学校で野球部を——」

「それは野球が嫌いになったんじゃなくて、あそこで野球をするのが嫌になったんだろう?」

「……」


 図星を指され、慎吾は目を丸くした。そんな慎吾を見て、丈晴はため息をつく。


「……結局俺は何も聞いてないから、詳しいことは知らんがな。こっちに戻ってからのお前の顔を見れば、大体見当がつく」

「……」


 そんなに分かりやすく顔に出てただろうか。恥ずかしさに、顔が熱くなる。


 顔の火照りを誤魔化すように、慎吾は丈晴に言い返した。


「何も聞いてないって……だって、何も聞いてこなかったじゃないか」

「……それは、お前くらいの年じゃ、色々聞かれる方が嫌だろうって配慮だ。実際、俺が高校生の頃はそうだった」

「とか言って、ホントは話しかけるのにビビってたんでしょ」

「……」


 今度は丈晴が図星を指されたのか、睨むような目で押し黙った。

 かと思うと、心なしか目尻を緩めて口を開く。


「そう言えば、最近はちょっとだけ明るい顔になったな。何かいいことでもあったか?」

「……まあ、ね」


 なぜかパッと芽衣の顔が思い浮かび、慎吾は歯切れの悪い返事をした。


「やっぱりお前、聞かれたくないみたいじゃないか」


 丈晴はニヤリとした。


* * *


 ゴールデンウィーク明けの月曜日。

 芽衣はいつも通り野球部の朝練を手伝った後、制服に着替えて校舎へ向かった。

 教室に入り、隣の席の慎吾と「おはよう」「おはよー」と挨拶を交わしたところで、ふと違和感を覚える。


(何だろう、この感じ……?)


 違和感の原因が隣の慎吾にあるような気がして、彼をじっくりと眺めてみた。

 一方、慎吾は慎吾でなぜ自分が見つめられているのか分からないので、不思議そうに首を傾げる。


 朝から二人が不思議な空間を形成していると、新たに教室に入ってきたクラスメイトの水尾彩が、


「はよー、芽衣。って、村雨早くね? 珍しいねー」


 さらっと声をかけてきた。そこでようやく、芽衣は違和感の正体に気づく。


「あー、そういうことか!」


 確かに彩のいう通り、こちらに転校してからの慎吾は、いつも朝礼の始まる少し前にやって来ていた。

 朝礼10分前というそこそこゆとりある時間帯に、既にいるのは珍しい。

 それどころか、芽衣の記憶では初めてだった。


「ど、どしたの? 芽衣。もしかして、壊れちゃった?」

「えーっと、雪白? 大丈夫、なのかな」


 唐突に叫んだ芽衣の頭を心配する二人をよそに、彼女は慎吾の顔をじっと見た。

 その表情が昨日に比べてどことなくすっきりしているのに気付き、「よし」と一言呟く。


 置いてけぼりになった二人が困惑したように顔を見合わせる中、思い出したように芽衣が、


「……あれ? そもそも村雨って、今日はなんでこんな早いの?」


 と尋ねると、慎吾は頭を掻きながら、一枚の紙を机の中から取り出した。

 その紙を芽衣に渡しつつ、顔を逸らしてぶつぶつ呟く。


「や、昨日からなんとなくそわそわしてて、それで早く目が覚めちゃって……」

「……?」


 芽衣は渡された紙を眺めた。

 そこには一番上に「入部届」の文字がでかでかと印刷され、部活動名の欄には「野球部」という文字が、そして生徒氏名の欄には、慎吾のフルネームが踊っている。


 紙の端を両手で持ったまま、芽衣はぷるぷると震えた。


 先日慎吾から「野球部に入るよ」と聞かされた時も、正直言って、芽衣はまだ半信半疑だった。

 なにせ、彼女にとって、慎吾と同じチームで野球をするのは夢だったのだ。

 だからその時も、油断するな、ここから覆る可能性もあるぞと、ひたすら自分に言い聞かせていた。


 しかし、眼前にあるこの紙は、流石に信用していいのではなかろうか。

 それともどこかの哲学者が言っていたように、自分の五感から疑うべきか。


「……彩ちゃん。ちょっと、私の頭を叩いてくれない?」

「……いいけど、どんくらいの強さで?」

「けっこうマジなやつでお願い」

「……えー。あんまりやりたくないんだけど」


 彩は気が進まなさそうな顔をしつつも、右手を芽衣の頭の上に構えた。

 呆気にとられながら見守る慎吾をよそに、その手を素早く下へおろす。


「イッター! 良かった、ちゃんと痛い!」

「……ほんとに大丈夫かな? この子」

「……どうだろう」


 叩かれたところを押さえながら嬉しそうにぴょんぴょん跳ねる芽衣と、それを憐れむ二人。

 教室の隅で起こるカオスな光景に、他のクラスメイトたちは戦々恐々としていた。


* * *


 その日の昼休み。

 慎吾が昼食を食べ終え、入部届を出しに行こうと席を立つと、隣の席の芽衣がついて行くと言い出した。


 芽衣の机に置かれた食べかけの弁当箱を見て、慎吾は彼女の提案を一度断った。

 しかし、「そもそも村雨は、誰が監督か知ってる?」という彼女の質問に沈黙する慎吾を見て、芽衣はやっぱりついて行く、と宣言した。


 彼がこの前練習見学に行った時には、それらしい姿がなかったのだ。


 こうして慎吾は、芽衣と二人で職員室に向かった。

 職員室の戸口で芽衣が「2年B組の雪白でーす! よだっち、じゃなくて依田先生いますかー!」と大声を出すと、職員室内に失笑が漏れる。


「おい、雪白ォ。そういうあだ名はせめて生徒の間に留めておいてくれよ」


 部屋の奥から、低い声が返ってきた。

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