第4話 諒一の記憶と姉
「東京タワーって……あの赤と白のだろう?まあ、正式にはなんとかオレンジとか言うヤツだったと思うけど」
郁美は黙ったままで、俯いている。
「それがどうかしたの?」
「……ねえ、諒くん……、昔お父さんとお母さんとみんなで東京タワーに遊びに行ったこと、覚えてる……?」
郁美と諒一は歳が七つ離れている。
諒一の記憶では確か小学校低学年の頃だと思っている。今から二十年くらい前のことだ。姉は中学生になっていたはずだ。
「うん、覚えてるよ。俺、テンション高すぎてはしゃぎ回ってたら、お袋が俺を横抱きにしてさ、床が透明になってて下がぶち抜けで見通せる所まで運んでさ、『ほら、落ち着いて下でも見てなさい!』って。高さよりもお袋の方が怖かったの覚えてる」
流石、元婦警さんだ怖いな、と子供心に思った。その時父親は別な場所を見ていたそうだ。
「……赤と白、だったの……」
ため息交じりに姉が呟く。何を言わんとしているのか、諒一にはさっぱり分からない。
「だよね。違う色じゃなかったと思うけどな。まあ、塗り直しはしてるだろうけど。何でそんな事を聞くの?」
郁美は諒一の問いには応えずに、次々と奇妙な問いかけをまくし立てた。
「ねえ……諒くん、『胸骨』って覚えてる?」
「は?キョウコツ……?」
いきなりキョウコツと言われても、東京タワーの色から突然人体に跳ぶのか?と諒一は思ったが、いかんせん、姉が真剣な表情を浮かべているので冗談を挟める雰囲気ではないのだ。
(……キョウコツキョウコツ…あ、人工呼吸のか)
「うん、救急隊員に教わった。人工呼吸の時に押すやつだろう。知ってるよ」
「……肋骨って、全部完全に胸骨に付いてた?」
「はっ?」
いきなり何を言い出すのか。肋骨ってあばら骨だよな……全くこの姉はどうしたと言うのだろうか、と怪訝な顔をした諒一だった。
郁美はそんな表情を見せる弟の事など眼中にない。ハンカチを握りしめて、何かを叫びたいのを我慢しているかのようにも見える。
ここは素直に質問に答えておこう、と考えた。
「……肋骨ってあばら骨だよな……胸骨に全部完全に?付いているもんなの?ごめん。俺、そこまで覚えてないや。耐刃防護衣の弱点とかは教わったけどさ、肋骨がどーのとかは……うーん。教わったかもしれないけど、人体内部までは完璧に思い出せないよ」
それがどうかしたのか、という言葉を飲んだ。
「……そう……」
「だいたい俺よりも姉さんの方が頭も偏差値も記憶力も良かったじゃないか。自分はどうなの」
「諒くん……」
諒一はギクリとする。姉は再び両眼に涙を溜めて、溢れる寸前だった。
「ちょ、ちょい待ってよ。今日の姉さんはおかし、あ、違う、ヘンだよ。さっきから何を聞きたいの?言いたいの?」
郁美は溜まった涙をハンカチで押さえると、キッ、と弟の顔を見上げる。
こんな姉の顔は知らない。いつもふんわりしていて柔らかな表情を浮かべている姉しか諒一は見ていない。
「まだ沢山あるけど、これが最後ね。諒くん、心臓はどこにあると思う?」
「へっ?」
妙な声が出てしまった。
「本当はまだまだ他にあるの。ピカ◯ュウの尾の色とか、異体字とか二点しんにょうとか絵画や世界地図や日本史だって」
「ちょ、ちょい待ってよ!姉さん一体どうしたんだ?少し落ち着こうよ。俺も、落ち着きたいから」
スーハーハー、と意味不明な深呼吸をして、郁美をもう一度見つめる。
(心臓……?そんなの左寄りに決まってるよな?)
「心臓……は、確かこの辺だよな……?」
左胸の辺りから探って、少し中央寄りにずらした。
「そうよね!そうでしょう?」
郁美の表情がぱあっと明るく輝いた。
「何、俺、なんか試されてんの?」
郁美はふぅ、と息を吐いて、諒一を見つめた。
「……試されているのは私の方なんだから……」
「は?どうして?ちょい待ってよ。紙に書き出してみるから」
供述調書を取る場合はノートパソコンに入れているが、メモ代わりに紙を使う時もある。時系列ではないが、順序立てて話をまとめたい。姉の頭がおかしくなった、と言っていた裏を取りたい。確かにいつもの姉ではない。違いを視覚化して整理したい。職業柄、とでも言うべきか。
郁美は、再び息子の敬吾と従兄弟の彩己が敬吾の教科書を開いた所に戻って語り始めたのだった。
「……おーい?垣沼?聞こえないのか?ストレスによる突発性難聴か?病院行くか?マジか?」
「……え、病院?誰がですか!」
「聞こえてんじゃんよ。ほら、ぼーっとしてないで、現場行くぞ、何やってんだ!」
諒一は今回の事件で、春先の姉の不可解な言動を思い返していた。
あの後、全てを弟に話して少しは気が楽になったのだろうか。郁美はとあるカウンセリングを受けることになったそうだ。家族にはカルチャースクールに通うと話しているという。
「聞いたこっちが頭おかしくなりそうだよなあ……」
つい口に出してしまった。
「そうだよな。俺もアレ見て微妙な心境に陥った。あれでヤク無しとは信じがたい」
ハッ、として上司に向き直る。駄目だ、今は勤務中だ。
八木橋が「アレ」と言ったのは、午前中に行われた被疑者の現場検証でのことを指していた。
諒一も同行したが、被疑者は半狂乱になり、両脇を抱えられて救急車に乗せられて病院へ即時搬送された。
自分は騙されている、ここは違う場所だ、ここではない、正しい場所へ連れて行け、と終始喚き散らしていたのだった。
午後には目撃者である川浦早苗が現場検証を行う為に再び随行する。
彼女はどういった反応を示すことか、と考えると頭が痛くなる諒一だった。
本当に彼女はホシ繋がっていないのか……昨夜遅くまで掛かった被疑者との接点洗いはシロだった。
二人に何の接点もなかった。残るはネット媒体を専門家が被疑者側から検証することだろう。畑違いなのが諒一にはもどかしかった。
諒一は姉の一件でSNSを含むネット関連に多少なりとも関心が高まっている。
『都市伝説』『パラレルワールド』『マンデラエフェクト』『記憶違い・勘違い』『嘘松・釣り』『統合失調症』などのワードが幾重にも重なって、ずっと諒一の心にくすぶり続けているのである。
今回の事件とは無関係であるとは言え『誰も信じてくれない』といった言葉が姉、被疑者、目撃者に共通していた。
「先輩……ちょっとホシと同じで川浦さんもおかしいですよ!無理です、これ以上続けられません」
斉木がバインダーを抱えながらパトカーの近くで待機していた諒一と八木橋に駆け寄って来た。そうだろうな、と午前中に斉木と同じ任務を与えられた諒一には想像がついた。
二人が証言しているT字路などはどこにも存在しない。被害にあった店は真実、この場所である。
早苗はと言うと、行き止まりの建造物近くの道路まで行かない内に、顔色は青ざめて体中の震えが止まらなくなった。声も発せない。遠目から見ても、現場検証など不可能だと分かる。
斉木は課長に報告して指示を仰ぐと共に、川浦早苗と鑑識を連れて病院へと向かった。
「彼女も精神科行きでしょうか」
諒一は八木橋と共に覆面パトカーへと乗り込んだ。
「多分な。
諒一はやりきれない思いでハンドルを握りしめた。
被疑者は入院扱いとなったが、早苗はごく簡易な精神鑑定を受けただけで帰された。まだこれからも話を聞きたい機会があると思われる。斉木の代わりに病院まで迎えに行って、家まで送り届けるようにと八木橋に言われた諒一は、早苗の身辺調査を一旦止めて病院へ赴き、斉木とバトンタッチをした。
「先輩、どうぞ宜しくお願いします。自分はここで院長先生の説明を受けて、報告書にまとめます。詳しい鑑定書は後日担当医から頂くことになりました」
「わかった。俺も彼女を送り届けたらすぐ署に帰る。係長が待ってるからな」
心なしか、早苗はたった一日でゲッソリやつれたかのように見える。
何故、こんなに頑なに記憶違いである事を認めないのだろう。
実際自らの目で確認したにも拘わらず、肯定せずにショックを起こして震えていたなどと、どう考えても納得がいかない諒一だった。
一瞬、姉、郁美の姿と早苗が重なった。
『どうして誰も信じてくれないの……』
偶然、なんだろうか。
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