第3話 姉と記憶

 諒一の姉がいきなり訪ねて来たのは、事件が起きる約二ヶ月前の四月下旬のことであった。

 「おはよう、諒くん。……あのね、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、今いい?」

 いいも悪いも俺の休みの日と分かっていて、実家に帰って来たのではないかと問いただしたい。それよりも朝っぱらからアラサーの弟の部屋へ入ってくれるなよ、と諒一は思った。

 七つ上の姉、田中郁美たなかいくみは、童顔で小柄なせいかとてもそれだけ離れているようには見えない。華奢で簡単に折れそうな手足が恐ろしいと思うのは、男女問わずいつもガタイのいい者達に囲まれているせいだろうか。

 「……いいよ……今起きるからリビング行ってて……」

 諒一はベッドから上体を起こして伸びをすると、数秒間で本日の予定を組もうと頭を巡らせた。これは日常生活における習慣となっていて、これをするしないでは明らかに仕事やプライベートの過ごし方の進捗に差が出るのだ。

 「うん……。でも、あっちにはお母さんがいるし……」

 郁美は立ち竦んだまま、動こうとしない。

 「何。お袋に聞かれちゃマズい話?」

 俯いてしまい返事も寄越さない姉を眺めて、諒一は深刻そうな悩みでも抱え込んだか、義兄と何かあったのか?後は今年中学生になったひとり息子の問題か、くらいしか思い付きそうもない。

 話を聞くのはいいが、それより先に体をさっぱりさせて着替えたい。

 「……なんか揉め事?義兄さんと夫婦喧嘩でもしたの」

 「……そうじゃないんだけど……」

 「俺、ちょっくらシャワー浴びてくるわ。ここで待ってる?」

 郁美は黙って頷いた。

 諒一は珍しい姉の行動に、毛色の違う困りごとでも起きたのだろう、と軽く考えていた。今までならば、最初に母親に話を持ち込んでいたはずである。

 

 シャワーを軽く浴びて部屋へ戻ると、ローテーブルの上にクロワッサンとコーヒーにミニサラダ、フルーツヨーグルトが置いてあった。

 「わぉ、なんだよこれ」

 「諒くん、クロワッサンの卵サンド好きだったでしょ?それとクリームのも」

 全て諒一の好物が揃っていた。郁美の分も量は少ないが用意してある。

 「姉貴が作ってくれたの?サンキュ、好物覚えててくれたんかよ……マジクソ嬉しい。まだ朝メシ食べてないのか?」

 バスタオルで頭をガシガシ拭き取りながらトランクス姿でラグの上に座ろうとして「ちゃんと着替えて」と注意される。

 早く大好物の卵サンドを食べたい。諒一はタンスの中から適当に選んだ服を着て、朝食を貪り始めた。髪はまだ半乾きのままである。

 「今日はパパのお弁当もクロワッサンづくしにしたの。だからついでに諒くんと私の分も作っちゃった。美味しい?」

 がぶがぶコーヒーを飲んで、クロワッサンをペロリとひとつ平らげた諒一は、サラダをつつきながら「んまいよ!パン屋のよりボリュームがあって旨い!」と次のスイーツ系クロワッサンに手を伸ばそうとして、全く手を付けていない姉に目を止めた。

 「……食べないの?……つーかさ、今日はどうしたの」

 (義兄さんに弁当を作るくらいだから、原因は別にあるよな)

 郁美はポソポソと食べ始めるが、まるで心ここに非ず、と言った呈である。コーヒーを一口飲んで、ふう、とため息を漏らす。

 「……あのね、ちょっと諒くんに聞きたいことがあって……」

 (俺に?なんかご近所トラブルでも発生したのか?)

 警察官として頼られても、むやみやたらに介入出来ない相談だと困るが、一応話を聞くことは可能だ。

 二つめのクロワッサンにかぶりついて、姉が話を続けないので諒一から聞き出すことにした。

 「俺で分かることなら、答えるよ。何?」

 しかし、姉から返って来た言葉は、諒一の想像の域をあらぬ方向に越えていた。

 「諒くん……あのね、もしも、もしもなんだけど……諒くんの家族の中で精神障害の人が出たら……刑事を、ううん、警察を辞めるようになってしまうの……?」

 「は?」

 予想だにしなかった別方向からの質問に、諒一は口を閉じることを一瞬忘れてしまった。

 郁美は縋るような目で弟を見つめている。

 「……家族……?」

 (親父かお袋が認知症とかになったら?てことか?んな兆候あったか?)

 「……三親等、とかの……」

 「……三親等?なんだそれ。そんな法律は地方公務員法とかにもなかったと思うけどな……まあ、身内から法を犯した者が出たら、うーん、退職するかも、だけど……精神障害か……俺そんなに詳しくないからなあ」

 両親のどちらかが認知症になった場合、まず主治医に紹介状を書いてもらって、専門医に受診させて、自治体に相談すべきだよな……その先はその時考えれば良いと思い、それを姉に言おうとした。

 郁美は、涙ぐんでいた。

 「え、ちょい、待ってよ。姉さん?親父かお袋がなんか変だったか?」

 毎日一緒に暮らしていると、些細な変化には気付かないかもしれない。

 「……違うの……お父さんでもお母さんでもなくて……違うの……」

 郁美はぽろぽろと両目から涙をこぼしながら弟を見つめた。

 「姉さん?」

 普段諒一は郁美を『姉貴』と呼んでいるが、深刻な内容になると『姉さん』と昔ながらの呼び方に変わってしまう。無意識であった。

 郁美はバッグからハンカチを取り出して、両目から流れる涙を押さえ付けるように拭った。

 「もしも、の話なんだけど……私が頭がおかしくなってしまったみたいなの……でも、諒くんは刑事を続けられるの……?」

 「は?何を突拍子もないことをいきなり言うかと思えば。頭がおかしいって?姉さんがか?」

 諒一は鼻水をすする郁美の横に回り、ティッシュペーパーの箱ごと渡した。

 「あ、りがとう……うん。私が変なんだって」

 「誰がそんなことを言ったんだ?俺にはそうは見えないけど?」

 目の前の朝食はもはや二人とも視界には入らない。

 (頭が変?おかしい?一体誰がそんなことを?)

 諒一が隣に座ると、やっと話を切り出せたことで少しは落ち着いたせいか、郁美はぽつぽつと経緯を話し始めた。

 「あのね……一番先に聞いておきたかったの。もしも私が精神科に通院しても、諒くんは警察を辞めない?」

 「は?そんなの大丈夫だと思うよ。確認したことはないけど……てかさ、誰が姉さんがおかしいなんて言ったの?」

 ご近所トラブルでも発生したか?と諒一は考えた。

 

 初めは記憶違いだと一笑に付されたと言う。

 郁美の夫は私大で英語科の講師をしている。ひとり息子の敬吾けいごは今年中学生になった。中学受験を経て私立へ進学した。

 ある日、田中家に敬吾の二歳年上の従兄弟、彩己さいきが遊びに来た。彼が公立中学だったこともあり、敬吾の教科書が見たいと言い出して、郁美も一緒になって数冊の教科書を開いて眺めていた。

 その際に異変に気付いたと郁美は言う。

 「ねえ、諒くんが中学校に入学した時に、お父さんが地球儀を買ってくれたわよね?あれ……今どこにあるの?お願い、見たいの!地球儀なら距離と面積とかが正しいんでしょう?メルカトルとかグートや正距方位とかよりも!」

 郁美が真剣な面持ちで地球儀を見たいと話すので、何の為に、とはとても聞き返せない。

 「地球儀……か?俺には宝の持ち腐れだったんだよあれ……確か納戸行きになったかなあ?あ、いや違う押し入れだな。ちょい、待ってよ……えーと、この辺のとこに」


 しばらくゴソゴソと押し入れをかき分けて、買った当時の箱に入ったままのそれを引きずり出した。

 「おお、見事に新古品!」

 箱から出して、郁美の元へ差し出す。内部でビニールがかけてあったので、ホコリは殆ど被っていなかった。

 「有難う!諒くん!」 

 かじり付くようにクルクルと回して、ある一点で手も視線も固まった。

 「……嘘……嘘よ!有り得ない……絶対こんなんじゃなかったわ!」

 「……姉さん?何が嘘だって?」

 一点を凝視したまま、微動だにしない姉の手元を見ようと屈んで覗き込もうとすると、郁美は地球儀を持ちあげ、諒一に見ていた部位を向けながら差し出した。

 「ねえ、諒くん、ここ、おかしくない?何か変だと思わない?」

 「ん、どれ?」

 「ここよ!オーストラリアとニュージーランドよ!良く見て!」

 諒一の目の高さにその地域が良く見えるようにもう一度掲げると、郁美は再び目頭を熱くして震えた。

 「こんなの……おかしいでしょ?これじゃオセアニアじゃなくて、東南アジアじゃない!こんな上の方になんかなかったはずよ!ねえ、諒くんもそう思うでしょう?……思う、はず、よ……」

 堪えられずに地球儀を諒一に渡すと、両手を膝の上に置いてハンカチを握りしめた。震えている肩が尚一層郁美を儚げに見せている。

 地球儀を受け取った諒一は、それらの国々の位置を学んだ遠い昔の記憶を呼び覚まそうとするのだが、何しろ地理はあまり得意ではなかった為に記憶の在処が心許ない。

 「うーん……言われてみれば、そんな感じもするかな……?ちょっと東南アジアに近いような感じ?がするのかな?」

 「するのかな、じゃないでしょ、おかしいでしょ!」

 珍しい。郁美が声を張り上げている。

 「これが違うの?てかさ、それで頭が変だって言われたの?」

 諒一にとって、オーストラリアやニュージーランドの位置の記憶は不確かで、その上それが正しくても間違いであってもどうということはない。これからの昇進試験に出題されるとあらば、正確に覚えておかなければならないが。

 郁美はすっかり冷めてしまったコーヒーを一口飲むと、思い出したようにクロワッサンを食べ始めた。先ほどとは打って変わって、パクパクと食べている。

 「ああもう……頭が変になっちゃいそうなの……」

 「地理が得意じゃなかったからさ、記憶があやふやだけど。それくらいで頭が変になるわけないだろう?大丈夫だよ。きっと覚え違いをしてたんじゃない?」

 姉を安心させる為に発した言葉は、まるきり宙に浮いてしまった。

 「ほら!やっぱり諒くんもパパとおんなじこと言うのね!違うのよ、これだけじゃないの……ねえ、諒くん……東京タワーって、何色だった……?」

 「は?東京タワーの色?って……東京タワー?」


 諒一はいつもとは違う郁美の言葉に、僅かながら違和感を感じていた。

 このような感情の起伏の激しいものの言い方などはしない姉であった。

 おまけに東京タワーの色を問われるとは思いも寄らなかった。

 あの赤と白の東京タワーの色を、何故今更問われるのだろうか、と思った。

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