竜崎健一の工場

「ったく、飯はまだかよ!」


 私は、家から車で二時間の工場に放り込まれた。

 全寮制の灰色ばかりの工場の、食堂の担当として。


「せっかくそのお体を考慮して現場じゃなくこっちにしたんだからな、キビキビやれよキビキビ!」


 さっきからそう吠えるのは、竜崎健一。

 この工場から二十年出ていないと自称する生粋の作業員。酒もたばこも飲み麻雀もやる不良中年を自称するが、それでも二児の父らしい。





「しばらくは絶縁する」


 そんな言葉を雅人から突き付けられたのは、一か月前。私がほんの少しだけ小生意気な女を叩いてやるつもりだったのに、夫も雅人も無言で目を三角にしてしまった。


 あの小娘のせいで。


 そのせいで私は夫から同居を解消され、こんな工場に放り込まれた。




「二児の父……はあ……」

「何事だよババア」

「私はまだ五十代よ!」

「んなもんじゃねえよ、性根がクソババアなんだよ!ほらすぐとんかつ定食持って来い!」


 こんな見るからに学のない、声の大きさと職人の上だけが取り柄の男たちに怒鳴られ続ける。

 ああ、どうしてこんな男の妻が二人も子供がいて、私が一人しか産めなかったんだろう。万が一女児だったらと思うとかろうじて救われた気分にもなるが、それでもこの粗野っぷりを見ていると手足や腰よりも先に胃が痛くなってくる。

「あのよ、あんたんとこの息子は三十一でやっと結婚だろ?俺はサーティーになる前に二児の父なんだよ!しかも上の子はもう中学生なんだよ!っつーかアラサーにもなって結婚してねえ奴はほとんどいねえんだよ!」

 それでこんな奇妙な勝利宣言をぶつけて来る。なんでそんな簡単にって思ったらこの会社の給料は本来いいらしく、マイホームはともかく結婚して子供を養うお金ぐらいはすぐに手に入るらしい。


 バカバカしい。何のために必死に雅人をエリートに育て上げたのか。




 そんな訳で昼休み、何もすることもなくふてくされていると、あの竜崎健一とやらがやって来た。


「仕事は」

「ちょっと休憩だよ。

 あのさ、あんたここの工場の名前知ってるか?」

「宇井崎工業でしょ」

「そうよ。じゃその親会社は」

「宇井崎産業株式会社よ!」

 一応、ここに押し込まれる際にそれぐらいの事は調べさせられた。宇井崎産業とか言う中小企業そのものの下請け、つまり末端企業。それこそ社会の底辺のような会社。せっかく飯炊き女をやっているのに感謝のかの字もなくかっ食らう低変な人間性の持ち主ばっかり。

「じゃそのまた上は!」

「知らないわよ!」


 予想通りの醜態に調べる価値なしと言う思いを確信に近づかせていく。だいたいなぜわざわざサボってまで絡みに来るのか!


「浅野産業だよ」


 ……は?




 浅野産業?




 浅野産業って言えば社員数五ケタの世界的超大企業じゃない。


「だいたいよ、この工場がどんなとこか知らなかったのかよ」

「いや……」

「マジに驚いてんなこりゃ……この工場は浅野産業の根幹を支えてるんだよ。浅野産業の製品が素晴らしいのはここたちのおかげな訳。その浅野産業、っつーか浅野って聞き覚えねえのかよ」

「まさ、か……」

「あのな、あんたの嫁さんは元々大企業の社長令嬢、しかも資格なんぞ十指に余るぐらいもらってんの。そんなお嬢さんがしがないあんたの息子さんを見初めたんだよ」

「って、事は……」

「嫁さんの年収は雅人さんの三倍、旦那さんの倍近い。ほどなくして子会社を一つ任されるとも聞いてるな。まあ雅人さんを出世させる事はねえけどな、実力主義で身びいきなんかしねえ人だから。

 おいバカ、寝るな!寝るなっつってんだろ、おい……!」







 私の耳に入ったのは、そこまでだった。







 次に目が覚めた時、私は病院のベッドの上だった。




「よくショック死せずに済んだもんだな……もろすぎだよあんた……」


「あの時俺は頼まれてたんだよ、いいかげん嫁さんのそれを認めて反省する気があるか、あんたの亭主から」

「うちの人から!」

「ああ、あんたの息子からもな。これでも小学校時代はご一緒のクラスだったからな」


 信じられない。信じられない。


 あの女、いや彼女があんな大企業の社長令嬢だったなんて。


 その事実だけで死にかける事の出来た私。



「いや……」

「何だよ」

「私は、やっぱり離婚されるの?」

「俺にはわからん。わかるのはあんたが豆腐メンタルだって事だけだよ」


 そうだ。私はとても弱い。


 夫や、父や、息子に依存していかねば生きていけないほど弱い。


 それに引き換え—————




「うう、ああ、ああああああ……!」




 もうダメだぁ……おしまいだぁ…




 私はベッドの上で泣き喚いた。


 あまりにも無謀な戦いを挑み、木っ端微塵に粉砕された。


 敗者は敗者らしく、泣き喚く事しかできなかった。







 幸い、何とかうちの人と雅人にも許してもらえた私は、離婚と絶縁だけは免れた。


 でもあと九年、そう世間で言う定年退職の六十五歳まではここで住む。


「なぜまた」

「責任よ」

「最初から素直に年収二千万越えって言えって思わねえのか」

「昔はね」


 それなりに心も落ち着いたし、会社の人間からもそこそこは話してくれるようになった。

 給料の四割は夫への、四割は息子と妻への迷惑料として納める。残り二割で出来る事など自販機で何か買うことぐらいだが、一向に気にもならない。


 もう一つ、払うべきお金がないからだ。


「しかし入院費はどうして」


 あの時倒れた私は寮ではなく病院に行き、そこで一夜を過ごした。一夜でも入院は入院だからそれなりにお金は減っているはずだが、夫も息子も嫁も払っていないと言う。



「あんたのおふくろさんだよ、米寿の。あんたを古い価値観で凝り固めちまったのは自分の責任だって、最後の親としての役目とか言ってよ……」



 ————————————————————結局私は、反抗期娘だったのだ。




 男社会だった中に飛び込んで立派に仕事をこなしながら私を育てた親に逆らい、父親祖父母の言うようにわざとらしくガチンガチンの家父長制家庭に入り込んでやろうとした。貞淑な専業主婦であろうと心掛け、尽くして来た。


「なあ、世の中で一番人を殺したのは誰か知ってるか?」

「え……?」

「カインだよ、全世界の人口4分の1を殺した」

「それが…………?」

「これはジョークだけどよ、世の中で一番たくさん人を殺させたのは何か知ってるか?」

「核弾頭ミサイル?」

「正義だよ、正義。金儲けのためにやってるんなら程度もあるが、正義ってのは程度がねえからそれこそ徹底的にやるし後には何にも残らねえ」




 私はまた、この自称不良中年の胸で、泣いた。




 息子と全く違う、少し前までならばまったく軽蔑していた存在の胸で、泣いた。

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清水雅人と竜崎健一のスカッとストーリー @wizard-T

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