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 異世界で迎える幾度目かの朝は、糞尿の匂いで幕を開ける。


 陽の光も差し込まない獄中に閉じ込められては時間感覚も役に立たず、絶えず鼠や害虫といった不快生物が這い回る環境下で衛生面は劣悪を極めていた。


 申し訳程度に立てられた衝立ついたての向こうから、臭いの発生源である汲取式の便所から放たれる悪臭に無悪は二十四時間苛まれ続けていた。


 気を抜いて眠りに落ちようものなら、囚人の穴という穴を産卵場所と勘違いした虫どもが侵入を試みようとするので、おちおち仮眠も取れたものではない。


 食事は一日一食。鈍器のように固いパンは味がせず、なんの野菜クズかわからない切れ端が浮いたスープに浸しすことで、ようやく口にすることができる代物である。


 水すら満足に与えられず、勿論風呂や水浴びすら許されない。おかげで粗末な作りの囚人服からは、汗だが糞尿だがわからない臭いが染み付き、鼻はすっかりイカれていた。


 極限化に身を置いているせいか、普段より殺意が研ぎ澄まされていく。

 余計な感情が削ぎ落とされ、このような不当な扱いをする責任者の喉元に今すぐ匕首ドスを突き立ててやりたい衝動に駆られていると、自分の囚人番号を呼ぶ声に気がつく。


「囚人番号03――さっさと出てこい。どうやら〝人身売買〟の疑いは晴れたみたいだなもう少し獄中で可愛がってやりたかったが、ここでお別れだ」


 痘痕あばたが目立つ舐め腐った態度の看守は、ようやく牢獄の錠を解錠すると猿山のボスらしく、頭一つ小さな体を精一杯反らして尊大な態度で無悪を出迎えた。 

 牢屋では名を取り上げられ、数字で呼ばれる。


「これに懲りたら今後は疑われるような真似は自重するんだな。アンタ、ただでさえ悪人面してんだからよ。次捕まったら、こんなもんじゃすまないから覚悟しておけ」


 さんざん他人を見下してきた人生で、これほどまでに他人に見下されたことはかつて一度でもあっただろうか。無悪はこめかみの青筋が怒張する音をはっきりと耳にした。


 ――もう少しの辛抱だ。耐えろ、耐えるんだ。


 窮屈な扉を潜り抜け、晴れて自由の身となった無悪は凝り固まった首の関節を左右に曲げて一息吐くと、ゆっくりと看守に近付いた。


 垂れ流しの殺気に気圧された看守は、一歩二歩と後退りをしながら唾を撒き散らして護身用の刀剣を構えたが、柄を掴む手はやはり小心者らしく、滑稽なほど震えていた。


「おいおい、刃物なんて構えてどうしたんだよ。物騒じゃねえか」

「き、貴様こそ何のつもりだ! それ以上わたしに近寄るんじゃないっ! せっかく無罪が証明されたというのに反抗的な態度を取れば、もう一度牢屋にぶち込むぞ」

「もう一度だと? それは困るな。俺も自分の身を守らなくていけない」


 看守の剣技の腕前が大したことがないくらいすぐに見抜いていた。

 それどころか喧嘩一つまともにしたことがないことも。目を見れば一目瞭然だった。


 命のやり取りをした経験がない人間が、いくら殺傷能力の高い武器を構えたところで個人の戦闘力が飛躍的に増すわけもない。


 経験が豊富であれば武器エモノの選り好みなどせず、深を負わせるだけならボールペン一つあれば事足りることが殆どである。


 鬼道会に複数いた剣道の元有段者は、まるで本人が抜身の刀身だと錯覚するような妖しい雰囲気を纏っていた。だが、眼前の看守は少し凄んでやるだけで左右に眼球を泳がせ、隙を見せているにも関わらず一向に立ち向かってくる素振りすら見せない。


 所詮立場を利用した陰湿な暴力しか振るえない弱者でしかなく、そのような人間にとはいえ屈することで生き恥を晒し続ける日々は、無悪にとってある意味「死」と同義の毎日だった。


 耐え難い恥辱であり、腹の底から湧き上がる怒りを懸命に圧し殺す日が何日も続き、無事釈放を迎えるまで耐え抜いた己の自制心を褒め称えてやりたい気分だった。


「これだけ俺を長期間苛つかせたヤツは久し振りだな。さて……余計なことを喋られる前にどうやって痛めつけてやろうか」


 ――無罪放免と沙汰が下れば、もう我慢する必要はない。


 後退る看守に一歩一歩近づくと、とうとう突き当りの壁に阻まれ逃げ場を失った看守は奇声をあげながら剣をやたらめったらに振り回し、緊急時に仲間を招集する笛を吹いた――が、何度吹いても誰も姿を見せないことに異変を感じた看守の顔に、混乱と焦りの色が浮かぶ。


「な、なななぜ誰も来ないっ! 緊急事態だぞ!」

「ああ、そうだ。部下ならについて目を瞑ってくれるってよ。お前、どうやら囚人の他にも身内から相当恨みを買ってるみたいだな。別の看守に少し手土産を渡してやったら、嬉々として協力してくれたぞ。まったく、大した人望じゃないか」


 逃げ場を失った看守の脂肪に覆われた首に、真っ直ぐ腕を伸ばす。

 背後の壁に押し当てて軽く握り締めると、看守の顔はバルーンのように赤黒く膨らんでいく。この世界に訪れて身体能力が向上していた。


 シノギをまかされるようになった若かりし頃、当時兄貴分だった男のつまらない短期ションベン刑で一年半ほどを過ごした府中刑務所の雑居房以来、久方ぶりの牢獄の中にはチンピラ風情の男達が三名――無悪に絡んだ結果見事に返り討ちにあい、腰巾着の子分よろしく黄色には程遠い声援を送っていた。


「兄貴っ、もっとヤっちまってください!」

「昔っからそいつは気に食わねぇ奴だったんだッ」

「ザマァみろってんだ。俺らを散々扱き下ろしてきた天罰だ!」


 看守の両目はピンポン玉のように迫り出し、下半身から不快なアンモニア臭が立ち上る。


「がんべん……じでぐだざいッ」

「何喋ってんのか聞こえねぇよ。はっきり喋れはっきりと。いいか、ここで質問だ」

「……な、なんでふか?」


 右手の拳を固く閉じ、後ろに振りかぶりながら問いかける。


「衝撃の逃げ場のないこの位置で俺が本気で殴ると、どうなると思う」

「そ……それは……」

「いくら固い頭蓋骨が守ってくれてるとはいえ、脳挫滅は必死だ。わかるか、即死だよ、即死。お前が最後に見る景色は自分の頭を潰される光景で決まりだ。記念によーく目に焼き付けておけ」

「やめ……やめで……ぐだざい」


 口から泡を吹き出し、白目になっても手を離そうとしない姿にそれまで囃し立てていたチンピラ達は、無悪が本気で看守を手に掛けようとしていることにようやく気がつくと自然と口をつぐんで沈黙を選択した。


 体から力が抜け、弛緩して立ってられなくなった看守の体をなおも壁に押し当てながら、命の火が消えかけている実感を肌で感じる。


 あと一分――いや、数十秒もあれば確実に殺せたが、玩具に飽きたように手放すと看守は重力に従って足元に崩れ落ちた。


 肉塊にしてもこの鬱憤は晴れそうにはなかったが、元よりこの小物をバラすつもりはハナからなかった。

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