3

 灰となって燃え尽きた手紙に記されていた内容は、鬱陶しいことに現実となりつつあった。


 遠くから聴こえる草木を掻き分ける音は、何者かが必死に逃げ惑う足音。木の枝を踏み抜く音に荒い息遣い――脚をもつれさせながら必死に助けを乞う声が森全体へと響き渡り、間違いでなければ無悪の方角へ真っ直ぐ向かっていた。


 その場を離れる間もなく樹々の隙間から飛び出してきたガキは、スーツ姿の無悪を見るなり一瞬目を見開いて後退あとずさりしたものの、意を決したように唇を噛みしめて背後へと回ってきた。


「おい、何をしている。その手を離せ」


 このスーツがいくらするのかも知らないガキは、無遠慮にスーツの裾を引っ張っていた。振り払おうとしたものの、頑なに小さな手を離そうとしない。


「なんでもしますから、僕を助けてくれせんか。山賊に追われてて捕まったら何をされるかわからないんです」

「そんなもん俺が知ったことか。それよりスーツがシワになるから、その手を離せと言ってるんだ」


 いくら離せと言っても聞かないガキの手は、小動物のように震えていた。それでも頭を掴んで無理やり引き剥がすと、眉をひそめるほどのすえた臭いが鼻を突き刺す。


 男児の全身を一瞥したが、粗末な布としか言いようのないボロ衣を身にまとい、伸びる四肢は痩せこけている。


 唯一目を引くのは整った顔立ちと透き通るような金髪。きちんと手入れをすればそれなりの身形みなりになりそうなものだが、中性的な顔は絶望一色に染まり主張の強いのせいで、まともな生活を送っていないであろうことは容易に想像がついた。


 そうこうしてるうちに追手が追いつき、息を荒らげながら手にした刃物ヒカリモノをちらつかせて凄んできた。


「なにもんだテメェはッ! ここら一帯が誰の縄張りシマなのか知らねぇのかッ」


 目の前の男がたいした人間ではないとすぐに看破した。いくつもの修羅場を潜ったものが放つ独特な殺気が微塵も感じられない。


 刃物をちらつかせた程度で粋がるチンピラに舐められ、上から目線で絡まれるという事実に組長の座まで登り詰めた無悪の青筋が、音を立てて浮かび上がる。


「アンタよ、悪いことは言わねぇからさっさとそのガキをこっちに寄越しな」

「そうだそうだ。回れ右して、ママのオッパイでも吸ってろよ」


 男どもの程度の低い言葉に、くっついて離れようとしないガキの体が強張るのを感じた。


「いいかい。そいつは俺達の大事な商品なんだ。今すぐそのガキから手を引いて尻尾を巻いて立ち去るっていうなら、特別に見逃してやる」

「……おい、今なんて言った」

「は?」

「貴様らチンピラが、この無悪様に『見逃してやる』だと?」


 舐められたら終わりの極道の世界で、誰よりも軽んじられることを忌み嫌ってきた無悪は対峙していた男の発言に殺意を覚えた。


 自らの実力を過信して舐めてかかってくる輩には、理性で抑えきれない暴力でその都度血の海に沈めてきた。

 その結果従順な駒になれば良し。くたばるならゴミが減ってなおよし。腰のグロックの感触を確かめながら表情を消して男たちに訊ねた。


「そうか、貴様らが山賊というやつか」

「ああ? んなもん一目見りゃわかるだろ。ここいら一帯は俺ら〝アキツ組〟の縄張りってことくらい常識のはずだがな。それよりお前こそわかってんのか? ガキを置いて逃げるか、それともヒーローの真似事をして死ぬかの瀬戸際なんだぜ」


 刃の先端をゆらゆらと揺らしながら詰め寄る男に、殺意を込めた視線を向けた途端瞳の奥に恐怖の色を浮かべ、一歩二歩と後退った。


 とてもじゃないが、命の取り合いができるような根性は見受けられない。


「な、なんだ! その生意気な目はよ! 自分の状況がわかってんのかオラッ!」


 極道の世界でも似たような塵屑ゴミクズは掃いて捨てるほど見てきた。背負う代紋の名が、すなわち自分の力だと勘違いするおめでたい奴ほど短命なのが世の常。


「一つ聞きたいんだが、こんな貧相なガキを捕まえてどうする気なんだ」


 放っておけば、ガキはこの連中に捕らえられる。その後はどうなるかなど考えなくても想像がつく。どう転んでも、あのガキに明るい未来は待っていない。


 いずれにせよ下卑た欲望がダダ漏れているド変態どもに、あのガキは年端もいかない年齢で生き地獄を味わされることになるだろう。


「お願いします……見捨てないでください」 


 弱々しく泣くガキを慰める言葉は、あいにく持ち合わせていない。そんな言葉を無悪は一度もかけられたことがなかったから。


「泣くな。泣いたところで現実は変わりはしないんだよ」


 泣きじゃくって見上げてきた顔は、あの日の記憶を呼び起こさせる。



       

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