第一章

1

 久方ぶりに夢を見た。

 遠い昔の泥に塗れた過去の記憶。


 他人を甚振いたぶる行為に良心の呵責かしゃくを微塵も感じなかった中学生の頃、世界は白と黒の二色に区別されていた。


 無悪の基準で成功している者はすべからく「黒」一色に染まって見え、一見〝白〟を装っている者の中にも、一皮剥けば実は黒であることをひた隠しにして、姑息に息を潜めている大人がいることを周囲から見て学んで育った。


 親が金持ちという理由だけでクソ生意気な同級生は、無悪にとって財布代わりだった。脅して手に入れた金の大半は不良の溜まり場となっていた駅前のゲーセンであらかた使い果たし、残り三百円となった硬貨を握りしめてわざわざ隣町の弁当屋に向かっていた。


 小学校を卒業するまでの間、お袋アバズレに最低限の夕飯を用意してもらっていたがそれも菓子パンの類が一つのみ。


 機嫌がいい時にはおにぎりが一つ付け加えられる程度で、学校を卒業して中学生になると自分のメシくらい自分でどうにかしろなどと、一切の責任を放棄する宣言を一方的になされた。


 当時は人生で一番ひもじかった時期と言っても過言ではない。万年栄養不足に陥っていた癖に、成長期を迎えていた体は頼んでもいないのに日に日に縦横に伸びていた。


 筋トレをしてるわけでもないのに勝手に筋力が増していくのだから、常にエネルギーが枯渇していた胃袋は常に空腹を訴えていた。


 中学二年生になると竹刀を肩に担いだ強面の体育教師はもとより、近隣地域の名だたる不良という不良が慌てて道を開けるほどに成長を遂げていた。


 図体がデカくなればなるほど、燃費は加速度的に悪くなる。維持するためには人一倍飯をたいらげなくてはならず、当然食費はかさんでいく一方で、常に飢えを誤魔化す日々を送っていた。


 そんなある日、隣町の高校に通う不良どもに目をつけられ、十数人からなら集団を一人で返り討ちにした帰り道のこと。

 たまたま通りかかった道で、匂いに誘われて立ち寄った弁当屋で見つけた一つ二九〇円の弁当を目にした。


 唐揚げ、コロッケ、豚カツ、ハンバーグ――ほとんど茶色のおかずで支配されていたが、なにより量に惹かれた。


 普段からろくなモノを口にしていなかった当時の俺からすれば、質の悪い使い古された廃油で揚げたような弁当も、フルコースの御馳走に見えて仕方なかった。


 その弁当屋のメインの購買層が、独身男性であることは並ぶメニューから見て取れる。

 無料で足される特盛のご飯も嬉しい限りで、その日以来百円玉三枚を財布に忍ばせて弁当屋を訪れるのが日課となっていた。


 ゲーセンで余らせた小銭を握りしめ、その日もくだんの弁当屋に向かっている道中、新しく開店したばかりだと思われるケーキ屋に目が留まった。


 店頭に置かれた開店祝いの小振りな胡蝶蘭が、西陽に焼かれて苦しそうに花も葉も萎れさせ項垂れている。


 砂糖と小麦粉で作られた菓子など腹の足しにもならなず、本来食指が動くはずもなかった。そもそも我が家には記念日を祝うような習慣はなく、ケーキすら卓袱台の上に上がったことは人生でただの一度もない。


 ――そんなモノに使う金があるのなら、親父に真っ先に浪費されるのが関の山だ。お袋は記念日だろうが平日だろうが、他所の若い男のもとへ一日二日は平気で出掛けたっきり帰ってこない。


 飢えを満たせないものに価値が見いだせず、ショーケースの中に並ぶケーキの数々を遠くの世界のことのように眺めているうちに、いつの間にか店内に足を踏み入れていた。


「い、いらっしゃいませ……」


 顔を引き攣らせて対応をしたアルバイトに、虎の子である三百円を無言で渡して苺のショーケーキを指差す。


 顔に喧嘩でできた青痣あおあざや切り傷を作りながら、似合いもしない洒落た箱を片手にぶら下げて自宅に持ち帰った。


 到着するなり、中身が潰れてやしないか蓋を開けて確認すると、小さな苺が控えめに乗せられたショートケーキが冗談でも比喩でもなく、宝石のように光り輝いているように見えた。


 どうやって食べていいものか逡巡しゅんじゅんした後、悩むのもアホらしいと手掴みで頬張る――すると、あまりの甘さに仰け反り、眼球の中で火花が炸裂した。


 シノギの一貫でした最上級の覚醒剤シャブをもってしても、あそこまでの鮮烈な体験をした試しがない。


 今思い返してみると、あのケーキ屋は全国にチェーン展開してるなんてことはない店だった。工場のベルトコンベアの上で大量生産された粗末な味だったが、当時はこの世で一番美味い食べ物だと本気で信じていた。


 なぜそのような過去の記憶を今頃になって夢の中で見たのだろうか――。


 目を覚ますと頬がひんやりと濡れていて、指先で触れると生涯で二度目に流した涙の跡だった。

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