運命への回帰

 景色がゆっくりと揺らいで、消えていく。街を覆うはずだった緑が、まるで蜃気楼のように姿をなくしていく。嘘で出来ていたのだから、嘘をつく理由がなくなれば当然のようにそう帰結する。竜骸の一つ、屍血に溶けた心残りもこれで満足してくれたのだと思う。問うことはきっと難しいけれど。

 気がつけば、わたしは市役所裏にある中央公園の真ん中、芝生の上に立っていた。公園を囲う桜たちは皆、ほの甘い白色を夜風に晒している。書き割りめいてばかばかしい巨大さや、妖気を立ち昇らせた色もない。まばらな人影の多くはその色に見惚れていて、帷が無くたってわたしが突然ここに現出したことには気付かないだろう。嘘で作られた森はその空気の残り香すら消えてしまっている。それでも、全部夢だったとは思わない。土汚れは消えても、靴はしっかりすり減っていて、まだそんなに袖を通した覚えのない制服は、ブラウスもスカートだって一度も新調せずに迎えた卒業式なのかってくらいに痛んでいるし、擦りむいた膝、自分で切った手のひらには、そのまま血が滲んでいる。ありていに言えば、ぼろぼろだった。

「お疲れ様。ラーメンでも食べて帰るかい?」

 いつもいつも、例えば隠し味ナツメグの分量を間違えてシンプルな毒物と化したカレーを前に途方に暮れているときとか、商品カードのテキスト欄に値札シールを貼り付け終わった後とか、そういうタイミングで現れてはいらんこと言う人だけど、まさかこんなこともあるのかと恐れ入る。

「……ほんとに全部お見通しなんですか?」

「いや、まさかそれを持って帰ってくるとは思わなかったよ。多分一番正しい方法だ。僕では思いつかなかった。身体に取り込んだというのはかなり危なっかしいけど、直接的な害はまだないはずだ」

 振り向くと、統さんはわたしが店を飛び出したときと同じ格好をしていた。なんとなく高そうな革靴、くるぶし丈の黒いチノパン、洗濯の時に気が付いた、実はブランドものの白無地Tシャツ。ここまではなんとかオフィスカジュアル。そしてそれを台無しにする大量の色が撹拌されているとしか言いようのない派手っ派手な裏地を覗かせた紺のジャケット。まじめに働く人間を馬鹿にすることだけ考えて服を選んでいるようなおじさんが、なんとも覇気のない顔を貼り付けて突っ立っていた。

「サビに入ろうとしたところで電話が切れちゃうもんだから、ほんとに……心配したんだけど、九楼は九楼なりに僕の話を聞いてくれてたってことかな。解呪の方法までは説明する必要なかったというわけだ」

 ほら始まった。わたしが蹴っ飛ばさないといらんこと言うのを止められないのだろうか。

「ともあれ、よくがんばったね。そういう魔法の使い方ができる子なら、もうちょっとセンセイらしいことをしないとだ」

 背丈に比例して無駄に長い脚は歩幅を見誤らせる。あっという間に目の前に進み出た統さんは、これまた大きな手のひらをわたしの頭に乗せる。不覚を取った。

「浄化と回帰、火と水から取り出せる意味だ。かけ合わせればほら、こういうこともできちゃうんだよ。僕にはとっておきだけど、九楼なら覚えておくと時間と電気代の節約にはなるね」

「あたま、撫でられるの嫌いです」

 腹立たしいほど高いところから、ごめんごめんと声がする。泣き顔だけは絶対見せてやりたくなかったので、今はされるがままにされてやることにした。制服やローファー、手のひらと膝が、あの森に入る前に戻っていく。ものすごく悔しい。でも、こういう労いとか、誉め言葉とか、そういうものを生きている人からもらったのはこれがはじめてかもしれなくて、それはもしかしたら嬉しいのかもしれない。持て余した感情が視界をぼやけさせている。

「もうちょっとだけ時間がかかるな。その間に小咄を一つ……桜の下に死体が埋まってるってやつ、あれね、原典では罪人なんか埋まっちゃいないんだ。私の代わりに生きてくれ。そう願ったおじいさんの血と祈りによって咲く、季節違いの桜の話。それがどういうわけか変容したんだな。九楼はこっちのほうが好みだと思うけど、どうだい?」

 ……ほんとにおしゃべりが好きな人なんだなという感想しかない。それに今は恥ずかしい話に付き合うよりも、覚えたての魔法を試すのに忙しい。

「そのバカみたいな裏地、天然繊維なんですね」

「ああこれ? カッコいいでしょ。副業を始めた友達に言われるがまま買わされて……って、九楼さん!?」

 極彩色に加工された哀れなアルパカ毛の繊維から色をどこかに吹き飛ばし、元の姿に解放してあげた。なるほど、これが意味の取り出し方らしい。きっと元に戻すのは大変だ。

 慌てて修繕を試みる統さんの腕から逃げるように芝生を駆けだす。プロムナードを横切って、桜のアーチから振り返る。それを最初に言ってくれれば……なんて感想で、竜骸を溶かした桜の話を締めくくることになるらしい。ここに死体なんかが埋まっていたら、こんなに綺麗な色はつけないよ。

 調息を一つ。よし、ここからなら涙は見えないはず。

「ラーメン、食べに行くんですよね!」

 どうせ、気づいているんだろうけれど。

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