棄却判決
姫宮は竜殺しの末裔である。
こんな、普通の人にとっては記憶しているだけ恥ずかしくってはた迷惑な言い伝えを意識したのとでは、どっちが早かっただろう。わたしは姫宮紗那を好きになれない。そう予感したのも四月初頭のことだ。彼女の名前を知ったその日、無理やり入れられた学校で退屈な入学式を終え、教室での簡単な自己紹介をさせられた時間だと覚えている。
「はじめまして。
まだ新しいチョークが小気味良い音を作って、白くぼやけた黒板にハッキリとした文字を刻んでいく。わたしを含めて、今日その黒板に文字を書きつけた誰よりもきれいな字だった。自己紹介は50音順、後半部分にさしかかったあたりなので、まだ挑戦者は残っていたはずだけど、残念ながらわたしはこの後のクラスメイトのチョークの使い方をまるで覚えていない。これはわたしではなくて、彼女のせい。記憶の行き止まりまで再生する。
姫宮紗那、比較的小さく書き込まれたはずの名前はそのサイズに見合わない存在感を放っていた。文字一つ一つのとめ、はね、はらいといった基礎が忘れられず、省略されずに表れていて、カメラを引いて全体を見てみれば、文字列の正中線をまっすぐに貫く柱が見えるような、そんな美しさ。これは後で本人から聞いたことだけれど、小さいころから書道をやっているらしい。でも、たぶんそれだけじゃない。紗那は自分の名前が好きなのだ。その点についてはこの日から今日までずっと羨ましく思っている。シャナ、失礼ながら変な響き。クロウと同じくらい、変。わたしなら自分の名前をきれいに書こうとか思わない。黒髪を見つめながら、当時もそんなことを考えていた。
そう、黒だ。まだ面識のないころ、統さんのところで魔法を教えてもらうにあたってあの人の出した条件は、この県下2位の進学校に入学するというもので、そして古くからある学校のイメージに違わず、
肩甲骨よりもやや下までまっすぐに伸ばした烏羽を揺らして、姫宮の女が振り返る。うん。やっぱり嫌いだ。理屈とかを抜きにしたものなので、あんまり関わらないようにしよう。そう思っていた。立ち姿から指一つの動かし方、チョークの握り方まで厳しく躾けられているような、古い家や親の考え方の鏡のような所作と顔かたち、骨董品の日本人形めいたお嬢様を、いつの間にか敵意を含んだ視線で見つめていたらしい。もちろん、わたしだけが。罰として、その視線は絡めとられることになる。
「次は、このクラスでの目標……ですか。そうですね。では、鹿野さん、いいえ。九楼さんとお友達になってみたいと思います。よろしくお願いします」
口下手な生徒のために担任の先生が用意してくれたと思しき当たり障りのないアジェンダを、どうしてこうも刃物のように扱えるのか。要するにそれは、わたし以外の誰にも興味はないですという宣言で、あの時あの場所にいた全員が一切の齟齬なく受け取った。つまるところ、結果として、全部が全部この女、姫宮紗那のせいで、わたし、鹿野九楼はセミの声が耳をつんざくようになっても未だに他のどのクラスメイトとも会話らしい会話ができていないのである。
「ねぇ九楼。私、そろそろあなたのお家に遊びに行きたいな」
人の少なくなった教室、購買のチョココロネをカフェオレで流し込んでいると、夏休みを目前に控えてなお唯一の話し相手からこのようなことを申し渡される。机を挟んで向かいに座り、真似するみたいに同じメニューを真似できないほどお上品に口に運んでいる。コロネ、先端をちぎって……クリームをつけて……なるほど、そう食べるのが正解なのか。その様子が気に入らなかったわけではないけど、誤解を与えないようにはっきりと拒否する言葉を口にした。
「え、ぜったいやだけど」
「どうして? そろそろお友達らしいことのひとつもしておかないと、夏休み明けにはなんとなく疎遠になっているような気がして不安なのだけど」
お人形めいて整いすぎた顔は憂いを帯びても美しいこと。視線は斜め下の机の端へ、姫宮のお嬢はお願いを聞き入れられなかったことそのものが信じられなかったご様子で、趣旨の説明からはじめることにしたらしい。まったく無駄なことに。この、あなたに興味がありますよ。という態度をわたし以外との会話でも使えたら、きっと今頃クラスの中心、屋上あたりでランチでもしていただろうに、どういうわけか本人はそれを望んでいないらしい。今もってわたしだけに見せる色だ。
「疎遠になっても問題ないんじゃないでしょーか」
後ろめたいような、申し訳ないような気持ちを抑えつけてまで好意をはねのける理由は二つ。些細な一つ。わたしが紗那を、まだなんとなく好きになれない。重大な一つ。あの、リノベーションを経ても築年数はごまかせなかったカード屋さん兼下宿先を、わたしの恥ずかしい親戚を、わたしの弱みを紗那に見せるわけにはいかないという、そんな考え。
「ほんとうに? ほんとうにそう思ってる? 私と九楼、やっぱり友達になれませんでしたをするにはもう遅くないかな? 私はちょっと言い方を間違えて、九楼はそれに乗っかって……今さらほかの子は仲良くしてくれないだろうし、誰とも話さないお昼休みはきっと寂しいよ」
後ろめたいとか申し訳ないとか、そういうのを抑えつけるべきではなかった。紗那の言う通りだ。だらだらやっているうちにもう引き返せないところまで来てしまっている。わたしは紗那と違って、恥を忍んで他の子と自己紹介からやり直すにも、孤独を孤高と言い換えるにも強度が足りない。詰まされていた。ぜんぶ紗那のせいだという反論は、実のところ以前に棄却されている。白いカラスと黒い姫だとか……中学生の頃に誰しもが経験する病、それを揶揄する呼び名が、教室の端で選ばれし者を気取るわたしたちに付けられているらしい。白、見た目でかけている迷惑ということなら、比重はわたしの方にある。友達を選ぶ権利というのは、白いカラスには贅沢なものなのかもしれなかった。
「嘘……つきました」
「じゃあ、決まりってことで。ありがとう。私、今日の予定は開けておいたの。ね、アルバイト先も一緒の建物なんだよね? 見学していい?」
この女は用意周到にわたしを攻略する手を準備していたと思われる。おそらく3か月前から。紗那からすれば当然の勝利を得たはずなのに、その顔はぱっと花が咲いたようで、まるで予定外の幸せに興奮するみたいに早口になって、そして追加の要望をつらつらと……。
「せめて裏口からで……。お店は、それだけは許してください」
最後の防衛線もどうせ押し切られてしまうのだ。お昼休み後の残り3コマを、どうしたものかと思案しながら過ごすことを予期せずにはいられなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます