魔術師の塔

「ねぇ私、こっちの道の方を歩きたいな?」

「そっちはだめ。案内に従ってください」

 そっちはビルの正面があるのだ。駅から歩くこと5分弱、いつもの帰り道を紗那を連れて歩いている。いつものように裏口を目指そうと通りを逸れるそのタイミングで、まるでわたしの住所まで知っているような勘の良さを発揮されてしまった。かわいらしい不服の発露には耳を貸さずに、想定したルートを先導するべく歩調を速くする。置いていくよと言わんばかりに。

 ……距離を離したのは失敗だと、そう思い至るよりわずかに早く紗那が駆け出した。手首をひっつかんででも離さないほうがよかったのだ。とても6科目の授業を終えたとは思えない軽やかな足音に振り向くと、長い黒髪がわたしの弱みに向かって迷いなく疾走をはじめていた。

 制止を伝えるべく張り上げた声はすぐにしぼんでいった。届くよりも早く、看板が視界に入ることだろう。やがて立ち止まった紗那が振り返ることはない。やっぱり住所を調べられていたらしい。その視線の先には……。

「サウダーデ。やっぱり素敵な名前。ここでしょう? 九楼のお店」

 おじさん達があったかもわかんない感傷に浸るだけのお店にしては大層な名前ですよね。と口にしたとき、ちょっとすごい顔をして、あんまりいじめないでくれとこぼした統さんのことを思い出す。ご明察、ここがわたしの下宿先にしてバイト先です。ありふれた鉄骨造りの3階建て、その1階部分に入ってしまっているカードショップの店構えを嬉しそうに、けれど少し離れて見つめる横顔に追い付いた。

「いや、調べてたとしか思えないんだけど」

「ごめんなさい。九楼の話からあたりはつけていて、あとはストリートビューで……ね」

 地図は書籍で所持していますとかの方が似合う立ち振る舞いとその顔には、まるで悪びれているようなところがない。もう何を言ってもわたしの体力と精神とが一方的にすり減るだけだと思われる。ため息を一つ。結局無駄な抵抗か。

 なるようになれ……と、この姫さまの後に付いてお店へ入ろうと思っていたけど、本人に動きがない。ここまで傍若無人にしておいて、それでもさすがに人の家という意識があるらしい。招かれなければ暖簾をくぐるつもりはないと、そういうことのようだ。紗那の促すような視線に従う形で先導をする。今度は正面玄関へ。事ここに至っては店主に話を通しておく必要もあるわけだし……喫茶店じみたガラス扉に手をかける……なんだか、普段よりも重い気がする。なんとか押し開くと、空調の効いた部屋から心地よい冷気が漏れだした。

「あれ、今日って水曜? あ、九楼か、おかえり。こっちからとは珍しいね。裏手に死にかけのセミでもいたのかい?」

「しばらく口閉じててもらってもいいですか?」

「了解した」

 よし。話は通した。開けっ放しにした扉から振り返り、紗那に向かって首を縦に振る。恐らくこのお店始まって以来の女子高生のお客様を迎え入れた。にこやかに敷居をまたいだ紗那は、その視界に店主の存在を認めたらしい。視線をわたしに戻して口を開く。

「ありがとう。おじゃまします」

「お、おお? いらっしゃいませ……もしかして九楼のお友達かい? うわ、なんだか安心しちゃったな。九楼ってば、ちゃんとお友達とか作れたのか」

「裏口の掃除をお願いできますか? セミの、死体が、あるので」

「了解した!」

 あんまりな失言にはさすがに気が付いたらしく、わたしの命令に従うことで禊にしようと決めたらしい。けれど、カウンターの椅子からそそくさと腰をあげようとする統さんは紗那の言葉によって制止される。

「はじめまして。九楼さんの親友、姫宮紗那です。私たち、正面の通りを歩いてきたんです。それに、蝉が泣き止むにはまだ暑いですよ?」

 芝居がかっていて、かつ悪戯っぽいさま……という言葉を辞書で探しておきたい。なければ作りたい。その時にはこの子の名前を使おうと思う。どうやらいらんことしか言えない人たちに挟まれてしまったらしい。

「あーうん。そうだね。そうかも……はじめまして。九楼の叔父をやらせてもらってます。栄羽統です。姪をよろしくお願いします。で、いいのかな?」

 どうしてわたしに聞くのか。ちゃんとしてない大人ということは伝わったんじゃないでしょうか。紗那の興味の対象からすぐに外れることを祈りつつ、無視することにした。なるようになればいい。

「はい。よろしくお願いします。叔父さま」

「叔父さま……なんだろう、素敵な響きのする言葉だ。姪がいい影響を与えてくれる友人に恵まれたみたいでうれしいよ。そのうち九楼も僕をそう呼んでくれるようになるんだなぁ」

「それ以上は犯罪ですよ叔父さん」

「すみませんでした……っと、立たせっぱなしは良くないな。良かったらそこの椅子にかけておくれよ。喫茶店じゃなくて申し訳ないが、コーヒーくらいはごちそうしたい」

「いえ大丈夫です。わたしの部屋に来るついでなので」

 紗那の口が「お気遣いありがとうございます」の「お」の字に開かれたのを確認して、音が意味を結ぶ前に割り込んだ。けれど、ああやっぱり、今のところの紗那の興味は、わたしの部屋というよりもむしろこの店と、それから統さんにあるのだ。

「九楼。わたし、もしご迷惑でなければもう少しお店を見学させてほしいな?」

 わたしと彼女、互いの力関係が完璧に把握されてしまったらしい。統さんは我が意を得たりというような顔をして、そして2階のキッチンまでコーヒーを調達しに向かっていった。

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