異邦の書斎

「紗那……こんなの見て楽しいの?」

「うん。たのしいよ。書いてあることはよくわからないけど、それでも絵を見るのはおもしろいな。なんだか画廊に来たみたい。九楼はここでたくさんの絵に囲まれて働いているんだね」

「そんなたいしたところでは……」

 なんともお嬢様然とした、俗世から遠いとこからくる感想だと思う。この時代に取り残された小島のようなお店を、紗那は画廊と表現してみせた。これはもしかしたら、彼女がだめな大人になってしまう前に引き剥がした方がいいのかもしれない。

「この、枠の上に書いてあるのがタイトルなのかな。だとしたらほら、この子、ちょっと九楼に似ているかも」

 ショーケースを指さす先は見なくてもわかる。ここを画廊と呼ぶのなら、わたしにだって意識している絵の一つも出てくるものだ。

「月夜烏の白変種? アルビノと白変種というのは実は違っていて……」

「そっちじゃなくて、この子。もしかして私のこと、いじめっ子たちと同じ感性の持ち主だと思ってたの?」

 いじめっ子の感性のほうがはるかに一般的に思える。「茜纏いの孤狼」、紗那の特殊な感じ方は、脱色された動物シリーズを並べた列の一つ下、赤茶けた動物コーナーに並ぶ一枚を指していた。

 背景の夕焼け空と同じ色をした毛皮を持つ狼が一匹、岩場からこちらを見下ろしている。たぶん、こんな景色も、こんな動物も現実には存在していなくて、だからこれは空想の風景に立つ想像上の生物を、まるで記憶をたどるようにして描いたイラストだ。あまり意識していなかった一枚だけに、この絵のどこがどうわたしに繋がるのかが気になる。偉そうなところとか言われたらどうしようか。

「爪を見て? 硬い岩に食い込ませようと必死に……まるで突き立てるよう。いちばん高いところに立つ彼は間違いなくこの岩山の王様ね。でも、きっと一人が不安で、怖いんだよ。いちばん高いところから見下ろすことができてしまって、そしてとうとう自分には縋りつけるものがないということに気がついてしまった。大きな身体や立派な爪や牙も、そう見るとなんだか可哀想だね?」

「それは……いじめっ子より酷くない?」

「ごめんなさい。でも、本心。クロウって、爪っていう見方をしてもいいかもって思ったら、そんな風に考えが広がっちゃって。えっと、すごい才能とか資質のせいで望んでいない孤独になったって、そんな意味だよ」

 やっぱり不思議な感性だと思う。わたしがなにかこの子の前で才能を感じさせるようなものを披露したことがあっただろうか。基本的には狼狽えて、翻弄されるばかりである。

「あ、ちょっと不思議ちゃんすぎたかな? ほんと、ごめんなさい。なんだか舞いあがってしまっていて……」

 狼とわたしをなんとか繋げるために放たれたその音について、慌てて頭を巡らせる。調子はいつもより早口だったけれど、誤魔化すというよりは言葉を尽くしているように感じられた。だからかな、からかわれているような気はしない。

「寂しそう……っていうのは?」

「寂しそうじゃない? お昼は私が声をかけるまでずっとそうだし、それに入学式の日、九楼はあんまりわくわくしていなかったようだから。そうだ。まるで羊の群れに紛れ込んだ狼みたいな……そんな感じ?」

 狼が羊の群れに紛れ込んだのならそこは彼にとって天国じゃないだろうか。そう指摘すると紗那は間違えたと吹き出した。絵に描かれた狼と無理やり紐づけたかったのかもしれない。でもそうか、この子にはわたしはそういう風に見えていて、だからあの日、声をかけた……かけずにはいられなかったのかと、突飛な言動の裏にあるものに少しずつ近づいていく。だとしたらきっと、彼女はわたしのことを……。

「コーヒー、入ったよ」

「ありがとうございます。叔父さま」

「わっはは、まいったな。こそばゆさのほうが勝ってしまうね。普通に統さんと呼んでおくれ。九楼と同じように」

「なんか、どっちにしても犯罪っぽいですよね。あ、それ以上近づかないでください」

 わたしが作り置いたコーヒーを注いで降りてくるだけの作業になぜここまで時間がかかったのか。ストローを探していた? トレイの場所を忘れた? どれも違う。煙草休憩だ。紗那の制服にこんな臭いを付着させて家に返してしまったら大変だ。最低限の歓待に最悪のオマケつきでやってきたこのだめな感じの大人を引き剥がす。早いとこお客様を自室にお通ししなければ。

「あの……統さん。これって値札ですよね? 私がこの狼を買うことって、できますか?」

 なんてことを……と、思ったのは統さんも同じらしかった。トレイを抱えたまま信じられないことが起きたみたいに静止している。落としそうとまではいかなかったけれど、税金を燃やした臭いのほうに近づいてグラスの乗っかったトレイを受け取る。素直に受け渡した店長は、固まったまま緊急お客様対応を始めることにしたらしかった。

「ああ、全く問題ないよ。コーヒーのお代のつもりなら受け取れないけど……もしかして、現役プレイヤーの方?」

「プレイヤー? いえ、下半分ゲームについてはよくわからなくて、すみません。でも、この絵が気に入ってしまったんです……不純な動機でしょうか?」

「いやいや、とんでもない。大歓迎だよ。でもそういうことならお代はいただけないね。差し上げましょう」

 いい大人が、女子高生相手に慌てているのが透けて見える。なんだか突然カッコつけ始めた。

「あの、そういうわけには……」

「姫宮さん。僕がこの店をやっているのはね。絵でもルールでもなんでもいい。この懐かしいゲームを好きになってくれる人を増やしたいからなんだ。愛好家の一人として、プレゼントさせてほしい」

 緊張のあまり自分が何言ってるかわかってないんだと思う。問題です。たかが紙一枚とはいえ当店の大事な商品、それをタダで譲ってしまった損失を取り返すためにはあと何枚売らないといけないでしょうか?

「ありがとうございます。そういうことでしたら、喜んで頂戴します。その、ついでで恐縮なんですけど、このイラストについて教えていただくことって、できますか? 描いた人とか」

 紗那……よせばいいのに、愛好家とやらに譲ってもらうための代金を払うつもりらしい。なんだか長くなりそうな話が始まっていた。ため息をついてトレイに目線をやると、シロップを忘れている。もしかして姪っ子が友達を連れてきたというのは、叔父であるこの人にとっても緊張の走るイベントなのだろうか。部屋に上がる前にキッチンに寄っていこう。飲み物を置いて返ってくるころには紗那も飽きていると思うから、そのとき連れて上がればいい。ストローを経由してせり上がってきた冷たい苦味で唇を軽く濡らす。店舗と階段区画とを隔てるドアを蹴り開けて、木目のついた階段に足をかけた。

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