剣歯虎の白変種

 薄く大きなアルミのショーケースを蹴っ飛ばすと、ガシャンと音がしてガラス板と内容物が揺れる。想定したよりも大きな効果にびっくりしてしまう……少しだけ。

 想定外の効果、つまりは商品への被害を検分する。被害者はどれもこれも古ぼけた薄紙たちだ。不遜にも国産のステーキ用牛肉くらいの値札をひけらかして、偉そうにケースの中でふんぞり返っていた、彼ら。衝撃を受けて持ち場を離れることにしたらしい。

 ここで働かされるうちに積もり積もった言語化不能な、否、言語化を放棄した不平不満その他を閉店後の時間を活用して関係各位にぶつけてみたのだけれど、期待していたほど気持ちのいいものじゃなかった。じん、と熱を持った左のつま先が、とんでもないことをしちゃったかもねと主張している。それにどういうことだろう。苦しめられていたのはわたしであるはずなのに、ささやかな反抗の手段として暴力に手を染めたその瞬間、わたしが彼らに対して持っていた道徳的な優位性が失われたような、そんな理不尽を感じて、炎にはさらに薪が焚べられる。

 なに、同じようなショーケースはまだいくつも並んでいるわけなのだし、その全部に蹴りを入れていけばそのうちこの気分も晴れるのだ……とは、ならないのである。残念ながら。

 エプロンに噛ませたキーチェーンから鍵を取り出して、丸い鍵穴に挿し込み、しゃん、と音が鳴るまで回して解錠。先ほどのキックとは関係なく、少しばかり立て付けの悪くなったサッシにガラス板を這わせて商品に触れられるようにする。渾身のキックによって横倒しになった国産牛肉相当の紙きれや、ガラス板をスライドさせた拍子に落っこちたそれよりもっと高いやつ、しぶとくも元の位置からあんまり動かなかったそれほどでもないやつを、あるべき場所に陳列させていく。

 だいたい、顔と名前が書いてあるのが良くない。ぬいぐるみを手荒く扱うことができないのと一緒だ。あるはずのない感情をそこに見て、どうしたって慮ってしまう。落っこちた床で恨みがましくわたしを見上げる生意気な顔をした獣のブロマイドは、その正式名称を「剣歯虎の白変種」という。白変種という言葉には多少の親近感がないでもない。元の場所に戻してやろう。

 パワーは3なんだけど手札に握ってるときのテキストで5点までの地上戦力を相手ターンに処理できるからケアが難しくてそれが印刷ミスを疑うほど強い……と、いうのがこの値段の理由らしい。聞いてもないのに喋り始めた不健康なほどに痩せた眼鏡の常連さんのせいで覚えてしまった。なんでも魂のカードらしい。じゃあ買わないんですか? という質問には、もう4枚持ってるからね。という回答があった。ほんの1時間ほど前のことだ。なんで4枚なのかはわからないけど、それだけあれば確かに必要ないだろうな。だいたいの欲しい物は手に入ってしまう金額。いつもそうだ。ショーケース前でわたしを捕まえて、単語帳や公式の代わりにムダ知識をわたしの海馬にねじ込もうとする常連さんたちは、いいから黙ってレジに持ってけという意図をわたしの営業努力によって加工した、買わないんですか? に対して、必ずそう答えて返す。まったく、ちゃんとしてない大人たちばかりがお客さんなのだ。

九楼くろうは優しい子だから、物にあたるのは向いてないね」

「蹴っ飛ばされたいんですか? 叔父さん」

「50万円との2択なら、やむなしかなぁ。そのショーケース、実はけっこう高くてさ。それから九楼、僕は叔父さんではなく統さんだ。音が悪い」

 知る限りではちゃんとしてないおじさん達の代表選手、この潰れそうなカードショップの店長にしてオーナー、栄羽さこうすばるさんの御入来である。いつもいつも後からやってきては全部お見通しでしたよなんて口をきき、その度にわたしの全神経を逆撫でしてくるわたしの叔父だ。今日も今日とて派手な裏地を覗かせた紺色のジャケットを羽織ってへらへらしている。裏口から出て行ったから、てっきり自室に上がって煙草でも吸っているのだろうと思ったけれど……。

「っと、なにか言いたいことがあるんだろう? 暴力に訴えるのはまだ早い。そこに座りなさい」

 わたしの視線にたじろいだフリをする彼が指さすのは、50万円のガラス板が4つも並ぶ区画とは別の、会議用の長机が2列並んだスペース。さっき蹴りを入れた意外に高価なショーケース、そこに収められているようなカードを集めてゲームをやるための区画らしいのだけれど、このお店に椅子は16脚も必要ないと思う。働き始めてからのおおよそ一か月、机が1列以上埋まっている日はなかったと記憶している。

「……じゃあ、その前に」

「あー、はいはい。どうぞ」

 いかにもめんどくさそうに長い背丈を折り畳んで近づいてきた煙草臭い顔を目がけて、エプロンに忍ばせていた携帯用の消臭スプレーを吹きかけた。

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