オールドスクール・ウィッチクラフト

篝三幸

華燭典礼

 竜に出会ったことがある。

 天蓋のように空を覆うのは、しんと澄み渡る濃い藍色インディゴブルー。落とされた影の上、見上げて立ち尽くすわたしはぼんやりとした頭でこう考える。きっと世界は彼を真似て夜の空に色をつけたのだ、と。そんな、論理をさかしまに辿らせてしまうほどに、それほどまでに、翼は夜空よりも夜空の色をしていた。

 翼が冷たい夜を湛えるのとは対照的に、彼を包み込んだ鱗は微かにきらめく白銀色。朝の光が染み渡っていく大気や、草花を瑞々しく飾る朝露のようだと思った。夜から朝へと移り行く瞬間、黎明のグラデーションが、確かな息遣いをもってそこにあった。

 意味と機能を失った時間のなかで、視線は朝と夜の相聞歌を象ったような全身の各部位を検めていく。そうして彼という単一の生命がしかし、一つの世界そのものであることを理解した。大地を踏みしめる脚、天空を支配する翼、四海を征く鱗、顎(あぎと)から煌々と溢れる炎、すべて全き、荒ぶる自然。四大元素の表象にして、具現。ヒトが踏み入ることのできない、踏み入ってはならない、美しくも荒々しい世界。

 数多の隔絶があった。大きさ、密度、歴史や神秘、そしてそれらが齎すことのできる破壊の規模。目の当たりにしたわたしの精神が、畏怖、ないしは畏敬といったものに傾いでいくのはまったく自然なことだった。

 それでも、大きな翼の羽撃き、鋭い爪牙や尾の閃き、火炎を伴う咆哮、どれ一つをとっても致命的な、わたしをここに立っていたという痕跡もろとも消滅させられる破壊の鋒を前にしても、本能的な恐怖がこの足を支配することはない。

 瞳を、見てしまったから。

 孤独を見た。恐怖を見た。悲しみを、諦めを、優しさを見た。暴威を振り撒く権利を有した超越種に不釣り合いな、あらゆる感情をそこに見た。それはきっと朝色の鱗よりも硬く鎖のように束ねられ、夜色の翼よりも暗い影を落としながら、彼に本来与えられているはずの権利と本能をきつく縛り上げている。荒ぶる四大元素が押し固められた小世界のなかで、その統治者たる意志だけが破壊や征服を良しとせずにいる反逆者だと、深い黄金に映り込んだ者に伝えていた。

 辺り一面には人界から姿を消して久しい不凋花が咲いている。それらは歴史と呼べるほどの長い時間を、彼が一度も他者を脅かすことなく過ごしていたことの証人だった。

 歩みを進めて、彼の顎をふたつの腕で、胸のなかへと包み込む。溢れる炎が衣服を焦がしたけれど、そのことに怯えているのは彼だけだった。互いの瞳に、互いの瞳だけを映すためには、これが最も良い方法だと知っていた。

 やさしくもかなしい、岩のようなあなた。力と決意に溺れゆく、勇者のようなあなた。どうか、その孤独をわたしに預けてはくれないでしょうか。

 ここに来た目的を果たすことを忘れて、わたしはこの時こう唱えた。奪わず、侵さず、朽ちゆくことを選んだ竜に、その運命を分かち合い、その孤独を癒したいのだと伝えたかった。衝動的に過ぎる行動だったかもしれない。けれど、彼の優しさを不要と断じ、こうして刺客まで差し向けてその暴威のみを手中に収めることを欲した者たち、その輪廻サイクルに組み込まれてまで生き延びようとしたわたしが、なんだかとても愚かしく思えたのだ。それに、わたしはわたしという一つの幻想として、その頂点たる彼の在り方にどうしようもなく焦がれていた。

 やがて、提案は約束へとカタチを変える。鎖が解ける音、長い長い旅の始まりを告げる声がした。彼のなかでずっと堰き止められていた時間を焼き焦がすための炎が空へと迸った。わたしにはそれが月や星まで届かせようとしているように見えて、少しだけ切なかった。

 月や星、空のかなたの星の海。世界と生命の坩堝よ、いつか必ず、あなたをあなたのふるさとへ。

 明るい旅路を約束したくて、笑顔を持たない彼の代わりに微笑みをつくって見せる。

 今や夢のなかにしか視ることのないこの情景は、きっとわたしの一番古い記憶なのだと思う。目覚めれば泡のように消えてしまう、怒りとは無縁の穏やかな記憶。

 最後の魔女の、最初の記憶。

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