火と陽と人は、すぐに死ぬ

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火と陽と人は、すぐに死ぬ

 長めに調整されている肩ベルトが憎たらしい。歩く度にリュックが尻や太ももに当たる。ウザいウザいと思いながらもう五日が経った。もっと短くすれば歩く時に煩わしくないなんてことは分かってるし、そんなモンものの数分で終わることも分かってる。だけどやらない。それがうちという人間の全てを表しているのかもしれないと思ったのは昨日のことだったか。いや今朝かも。どうでもいいか。


 今日も今日とてバイト先から家までの道を歩く。リュックをケツに当てながら。傍から見れば、ぱこぱこと間抜けな音を立てて歩いているアホ女にしか見えないだろうけど、うちは大真面目に限界を迎えていた。肌に纏わりつく空気はリュックと同じくらいウザい。

 点滅する街灯の下、この時期足元に転がってる蝉爆弾を回避しつつ、フラつかないように歩くだけで精いっぱいだ。バイトが終わってやっと家に帰るっつーのに、明日のバイトのことを考えて既に憂鬱になっている。徐々に近付く自宅アパートには何の感慨も抱かない。なんもかんも放り出したくなるのを抑えて、ハーフパンツのポケットから家の鍵を取り出した。

 オートロックなんて気の利いた装置はないからそのままドアの前に立つ。鍵とUSBだけはいつも一発で入らないから苦手意識が拭えないが、今日はすっと入った。ここでなけなしの運を使い果たし、帰ってからクソみたいな何かが起こる予兆のように思えて少し笑った。くだらないことを考えてノブを掴んで回すと、いつもの家の匂いだけがうちを出迎えた。良くも悪くも、特別なんてそうそう起こらないんだ。たまにそれを忘れかけて平常心でいられなくなる自分を酷く幼稚だと思う。


 帰ってからやること。靴を脱ぐ、暗い玄関と廊下の中、記憶を頼りに部屋まで進む。部屋までったってたった数歩だけど。明かりがなければその数歩が果てしなく遠く感じるから帰ってくる度に嫌になる。なんとか辿り着いたら部屋の端のベッドにダイブ。寝る為に身支度を整えるような心と体の余裕なんて大体はないから、その辺のことは目覚めた時に考えるようにしてる。


「帰ったんなら何か言えば?」


 左側から同居する女の声。昨日は声を掛けたのに、作業に集中してたとかいう理由で無視されたみじめな自分のことを思い出して苛ついた。抗議する気力があるくらいならシャワーを浴びたい、だから黙ってた。

 要するにうちはこの声の主、雪乃が苦手だった。一緒に暮らしてるってのに。うちのリュックを勝手に使って、そんときにベルトいじっただろって文句くらいは言えるかと思ったけど、どうにも億劫だからやっぱ黙っといた。


「ねぇ。飯は? ……聞けって。コラ」


 雪乃は枕に顔を埋めるうちの腹を、つま先でぐりぐりと踏みつけるように突っついている。ここでやっとうちは、うるせぇとドスのきいた声を上げて、鬱陶しい足を払い退けた。

 舌打ちが聞こえたけどそれだけだった。部屋には雪乃のパソコンの明かりだけがついていて、他に光源になるようなものはほとんど無い。あるとすれば、スマホとテレビくらい。雪乃はまた機械の前に座って凝りもせず線を引き続けているのだろう。

 天井に付いてる照明とかいうやつは全く用を成さないただの飾りだ。そんなものに頼らなくても、常に点いている雪乃のパソコンの明かりで事足りる。冷蔵庫だって開けたら光るし、トイレはスマホの明かりで解決。何が言いたいって、うちらにはとにかく金が無かった。部屋を照らすことを躊躇いなく諦める程に。

 トイレを流す水道代がもったいないから家では滅多にしないし、エアコンだって極力つけないようにしている。風呂場で小便を済ませてシャワーで流したこともあるけど、節約出来ているか分からないし、僅かに残っていたらしい尊厳とやらが悲鳴を上げたので一度きりのチャレンジとなった。

 食事は大体がカップ麺。バイトの先輩がたまに飯を奢ってくれるからそのときだけ美味いもんにありつけるけど、それだってラーメン屋や激安ファミレスの類いだ。それらを心の底から喜べてしまう自分は、魂のステージが相当低いところにあるんだろうな、と思う。

 さっき雪乃が「飯は?」と聞いてきたのはこういうことだ。誰かとまともな生活を送ったことのある人間なら、おそらくは「お腹減ってない? 何か作ろうか?」の意だと解釈するだろう。でも違う。雪乃は「一人だけ美味いもん食って来たんじゃねぇだろうな。黙ってるってことはそうなのかよ、死ね」と言っている。ちなみに食ってきてる。ざまぁみろって思ってる。

 ペンが板の上を滑る音、ライターの音、息を吸い込んで煙を吐き出す音。うちらの生活音の全て。こんな極貧生活の中で煙草の匂いがするこの部屋は絶対に狂ってる。そんなことを考えながら眠りについた。


 目が覚めるとバイトまで二時間あった。三〇分も前に出りゃ余裕があるから支度に一時間半かけることができる、ということになる。そんなに時間は掛からないから舌打ちをした。

 雪乃はというと、うちがベッドにダイブしたときと同じ姿勢で作業を続けていた。優しげな目元、ここ一年くらいずっと目の下に飼ってるクマ。大きめの耳に掛けられた長い黒髪。小さな口には食べるようにして煙草が咥えられている。可愛らしいと言って差し支えない容姿に、煙草と細められた眼光だけが浮いている。そのアンバランスさがうちにとっての雪乃という女そのものだった。

 仮眠を取ったのかぶっ通しで作業しているのかは分からないけど、どうでもいい。今のうちに分かるのは、こんな夢も希望もない空間で、こいつが夢と希望に満ちた世界のことを描いてるってことだけだ。

 雪乃は漫画家兼イラストレーターの卵だけど、金になる仕事はうちが知る限り、SNSのアイコンを描いてやるという小遣い稼ぎだけだ。金銭が発生しているんだから立派な仕事と言えなくもないだろうけど、残念。そんなんじゃおまんまは食っていけない。雪乃の母親は馬鹿だからそんな娘の現状なんて知らずに、イラストで飯を食っていこうとしてる真っ当な駆け出しだと思って仕送りを続けている。うちはバイト代、雪乃は親からの仕送りを出し合って家賃やら光熱費を支払っている。残ったのはほとんどが煙草に消える。

 ベッドから起き上がると、ポケットに手を突っ込んでセブンスターを取り出した。煙草を口に咥えると、一緒に突っ込んでいたはずのスリムライターを探す。探すまでもないはずのそれが見当たらないことに小さく舌打ちをすると、昼間だというのにカーテンが閉めっぱなしになっている薄暗い部屋の中を見渡した。手を伸ばせば届くくらいのところに雪乃が居て、パソコンとにらめっこしながら、空っぽな笑みを浮かべる女を描いているところだった。


「ライター」

「自分の使えば」

「ねぇんだよ」

「あっそ」


 マルボロの上に鎮座しているライターを奪い取ってフリントを回す。指を離すと、役割を終えた手中の小さな火はすぐに消えた。深く息を吸い込んで煙を吐き出す。うちの体の中を巡った煙は部屋の中を漂ったあと、壁に染み込むようにして消えた。煙草を吸ったあとに残るのは、灰と肺へのダメージとシケモクと得体の知れない安堵感だけだ。

 目覚めたばかりだというのに無性に虚しくなって頭を掻いた。そーいや三日もシャワーを浴びてない。そろそろ銭湯に行きたいと思っていたのもあって、うちは煙草を咥えたまま腕を組んだ。時間はある、そしてこいつと極力一緒に居たくない。銭湯で消費する金とその気持ちを天秤にかけながらちらりと雪乃を見ると、艷やかな髪がそこにあった。想像していた野暮ったいボサボサの頭とは別人のような頭だ。


「なぁ。お前」

「あぁーうっさ」

「まだ何も言ってないから」

「八重の声がうっさい」

「死ねや」


 既にはみ出しそうになっている灰皿に新顔を一人突っ込んで最後の煙を吐き出す。間違いない。うちはあることを確信して、ベッドをソファ代わりに座り直す。


「雪乃。うちが寝てる間にシャワー浴びたろ」

「……」

「おい、聞けや」

「集中してんの。八重のバイトと違ってあたしの仕事は神経使うから」

「舐めてんの? 質問に答えろよ」


 沈黙を埋めるように、ペンが板の上を滑る音だけが響く。パソコンの画面を見ると、白い画面の端にうるせぇくたばれと書かれていて、そこで遂に堪忍袋の緒が切れた。


「てめぇがクソみてぇな夢追っかけてっから生活が苦しいんだろうが! 分かってんのか絵描き気取り!」

「将来性ゼロのクソフリーターが偉そうなこと言っちゃって。せめて正社員になってから偉そうな口叩けば? 気分転換にシャワーくらい浴びさせてよ。あたしは満足に外も出られないんだから」

「外くらいに勝手に出ろや! それっぽいサイクルで生きてんのはてめぇの自己満足だろうが!」


 座椅子の上でパソコンに向かう雪乃に飛び付くと、胸ぐらを掴んでそのまま押し倒す。分からせなきゃいけない。うちはそんな使命感から、右手で拳を作って自分の顔の横まで引いた。だけど、それを振り下ろすよりも先に、鳩尾に強い衝撃を受けてベッドまで吹っ飛ばされる。枠に背中をぶつけ、前も後ろも胴体が痛い。顔を向けると、脚を上げた姿勢の雪乃が居て、そこでやっと蹴り飛ばされたんだってことが分かった。


「ってぇー……」


 たった一瞬のやり取りで、うちと雪乃は肩で息をしている。お互いに運動不足なのは明白だけど、生活を改める予定なんてないからきっとうちらはババアになる前に死ぬ。



 それから支度をして一人で銭湯に向かった。平日の昼間は穴場だ。人が少ないから。デカい風呂に入れるし、気兼ねなくドライヤーを使えるし、明るい中で化粧もできる。生活を切り詰めているうちにとって五百円足らずの入浴料は決して安いとは言えないが、たまの贅沢としては手頃な額だった。

 到着すると、入ってすぐのところで食券みたいなチケットを買って、それを番台に渡す。女湯の暖簾をくぐって手早く支度を済ませると、体を洗ってとっとと湯に浸かった。そして洗顔用の石鹸を忘れて来たことを雪乃のせいにして放心する。


「はぁー……」


 うちと雪乃はおんなじ高校のクラスメートだった。必要がある時にたまに話をするような関係で、あの頃のうちはまさかあいつと一緒に暮らすことになるとは思っていなかった。絵や漫画を仕事にしたいと思っていることすら知らなかったんだ。

 転機が訪れたのは高三の冬。受験シーズンでどこかピリついた空気を纏う教室内だった。帰りのホームルームで学習計画とかいう紙を渡されて、進学の予定なんてなかったうちはため息をついて、机に置かれたその紙を見下ろしていた。そしたらすぐ後ろの席だった雪乃が言ったんだ。こんなの渡されても進学しないしな、って。うちは振り返って加々見さんも? なんて言ったと思う。当時のことを思い返すと違和感しかない。名字で呼び合わなくなって久しいから。

 そしてうちらはお互いの境遇を知った。雪乃の将来の夢も、うちには夢なんてなくて、ただクソみたいな家から出たくてそれ以外のことはどうでもいいと思ってることも。

 うちの家族を説明するよりも、手っ取り早い言い方がある。うちは典型的な搾取子だった。その言葉を初めて知ったとき、全ての点と点が線で繋がってしまって、だけど否定するシチュエーションを何一つ思い浮かべることができなくて、泣くこともできずにただ息をしていた。息を吸っているのに息苦しくて、だけど自分が何を求められていたのか理解した不思議な爽快感があった。母さんがうちを怒鳴りつけるのも、継父が嫌な目で見てくるのも、兄貴が戯れにうちの体に触れて貧相な身体だと嗤うのも、全部あいつらにとっては当たり前のことだったんだ。だって産まれた頃からそう扱われてきたのだから。何より滑稽だった。自分だけが大切にされない理由を何度も探した幼いうちが馬鹿で、可哀想だった。数年越しで、あの時のうちは自分という理解者を見つけた格好になるけど、そんなのは何の慰めにもならない。だから家を出なければいけないと思った。

 それからしばらくして、このクソみたいな生活を送るきっかけとなる言葉を吐いたのはうちの方だった。


「あーーー……クソ……マジでクソすぎる……」


 うちの小さな独り言が、床から発せられる空気でぶくぶくいってる湯の音にかき消される。誰かに聞かせたい訳じゃないからありがたい。

 あのときは何故か、雪乃と一緒なら、いや、加々見さんと一緒なら、これまでよりマシな人生が送れるって、本気で思ったんだ。あいつのことを実態よりもずっと立派な人間だと思ってたし、上京すれば何かが変わると思ってたから。

 持ち込みのことなんかも考えて、本気で活動するなら自分を追い詰めるという意味でも上京が必須だと思っていたらしい雪乃は、大して時間を掛けずに「いいの?」なんて言ってくれた。いや、言いやがった。だからこうしてうちらは一緒に暮らすことになって、それから三年目を迎えようとしている。

 どいつもこいつもたまに連絡を取ると大学の課題がヤバいとか彼氏ができたとか充実した人生を送ってるようなことしか言わないから、すぐに自分から連絡をしなくなった。それでもたまにメッセージが来るけど、その頻度も大分減っている。他は全部母さんからの金の無心だ。だけど、雪乃よりはマシらしく、たまに元クラスメートの話を振ってみると、大体知らなかったようなリアクションが返ってくる。あいつには、多分もう誰も連絡をしていないのだろう。

 雪乃に、一緒に暮らさないかって声をかけたあの日。戻れるなら、うちはどうするだろう。思い描いていたのはもっとマシで、楽しくて、実家の暴力親父とクソ兄貴とそれを可愛がるクソババアとの生活が過去になるような、特別な毎日だった。結局そんなものはなかったけど、家族と暮らすビジョンが見えないから、やっぱり雪乃を誘うかも知れない。


「……出るか」


 デカい風呂を散々独り占めして満足した。シンプルな壁掛けの時計を確認すると、立ち上がってタイルの上を歩く。スライドドアを開けて台の上に置いておいたバスタオルで体を拭いて、ロッカーの前に移動した。腕に付けていた鍵でロッカーを開けて下着を手に取る。体重計が視界に入って、乗ろうか迷ったけどやめた。どうせ太ってない。こんな生活を送っていて太れるなら、そいつは元々食事を必要としない特異体質だ。

 椅子に座ってぼーっとしている婆さんを横目に服を身に着けた後、正面が全面ガラス張りになった洗面台に腰掛けた。髪を乾かして化粧をしたけど、両方合わせて十分くらいしか掛かってない。身なりなんてどうだっていいんだ。バイトが居酒屋のホールだから最低限やってるだけ。仕事が荷物の仕分けで人前に一切出ないのが確定してるなら、多分うちはすっぴんでバイトに行く。化粧品だってタダじゃないんだ。正面を向くと、赤い髪をしたタレ目の女がこちらをつまらなさそうに睨んでいた。髪の根元が黒くなってるけど、染め直すのはまだ先になりそうだ。




 バイトを終えて、更衣室でアホみたいなバンダナを外してため息をつく。今日は五回怒られた。ホールの連中はどいつもこいつも、なんであんなに客が言ったことを覚えていられるんだよ。他の客のところに料理を運んでいる最中に「生一つ」なんて声を掛けられる度に殺したくなってるのはうちだけなのか。ここをクビにされたらいよいよ体を売るしか無い気がしてくる。うちが仕事を憂鬱に思っているのは激務だからじゃない。働く度に自分の無能さと向き合うことになるからだ。


「嫌なことばっかだ」


 身の回りで起こる全てが自分を憂鬱にさせる。ここにずっと留まっていてもしょうがないから、腹の立つ前掛けを外してロッカーにぶち込む。これでもかってくらい乱暴にロッカーを閉めようと戸に手を掛けたところで、声がした。八重ちゃんって。ビビってゆっくりと振り返ると、そこにはさやかと名札を付けた女が立っていた。最近入った女子大生だ。こいつに名前を呼ばれたことなんて、多分無い。また何か嫌なことが起こるのか。観念した気持ちで固まっていると、さやかはうちには勿体ないくらいの笑みを向けてきた。


「八重ちゃんって、音楽に興味ある?」


 昔、好きな曲があった気がする。だけど、今は曲名すら思い出せない。兄貴にクソみてぇな曲だって馬鹿にされて、こっそり一人で聴くようになって、極め付けに聴いてる最中にいきなり親父に怒鳴られて。それで好きじゃなくなった。あの曲を好きなままでいられるくらい強かったら、うちはもしかすると違う人生を歩めていたのかもしれないと思いながら、「さぁ」なんてぶっきらぼうに答えた。音楽について考えたの、一体いつぶりだろう。


「今度の金曜、路上で歌うから、良かったら来て!」

「路上で? さやか、ちゃんが?」

「うん!」


 さやかはたまに駅前で歌ってるらしい。夜に広場みたいなところで歌ってる奴は見かけたことがあるけど、足を止めたことなんて無かった。うちを誘ってこいつにどんなメリットがあるというのだろう。投げ銭なんてしないし、曲や歌の感想を伝えることだって、きっと下手だ。

 黙っていると、さやかは困った顔をして笑った。あぁこれ、多分うちが傷付けた。うちはとことん慣れてない、人を信じることも、誰かをちゃん付けで呼ぶことも。


「ごめん、興味無かった、かな」

「いつだよ」

「え?」

「金曜日、朝から棒立ちさせるつもりか?」

「あっ! えっとね、夕方! 多分五時とかかな? 準備があるから前後するかもだけど!」

「……行けたら行く」

「うん!」


 それから、着替えが終わったっていうのに、うちらは話を続けた。行けたら行くって言ってんのに、さやかはうちが来るもんだと思ってはしゃいでいる。こうやって人とまともに話すのは久々だと気付いたうちは、さやかには察知されないように密かに感動していた。自分がまともな人間でいるみたいで、誇らしかった。

 ずっと仲良くしたいと思ってた。まるで告白するようにそう言われて、どんな顔をすればいいか分からなかった。あぁそうと流すこともできたけど、礼を言った。言えた。うちができる中で、現実的な最適解を叩き出せた気がする。

 不意にスマホを見たさやかは、長居すると店長に怒られちゃう、と言って立ち上がった。そんなこと、知らなかった。きっとこの女は、前にもここでこうやって人と話し込んだことがあるのだろう。いっちょ前に感じた疎外感に嫌気が差す。

 壊れるくらい強く閉めてやろうと思ってたロッカーのドア。うちはそいつを優しく閉めて、まだ着替えていなかったさやかに手を振った。



 家に帰るまでの道で蚊に食われたらしい。ぼりぼりと腕を掻きながら暗い部屋の中を進むと、雪乃はソファでぐーすか寝ていた。ほとんど何も見えない中で雪乃が寝ていることを察知したのは、パソコンが点いていないことこそがこいつの休憩、つまりは仮眠を意味するからだ。


「おい。おーーーい」

「うるっさ……」

「おい、起きろ」

「なに……」

「ほらほら」


 うちは雪乃のペンだこのある手を掴んだ。何かあったと思ったのか、雪乃は存外素直に体を起こして、目を擦っている。表情は見えないけど、おそらくは眉間に深く皺が刻まれていることだろう。こいつは起きる時いつもそうだ。


「で、なに?」

「ただいま」

「……は?」

「てめぇが言ったんだろ。帰ってきたら声かけろって」

「あ?」

「だから言ってやったんだ。もう用は済んだから寝ていいぞ」


 うちは知ってる。雪乃は寝付きが悪く、いつも苦労してることを。寝てるところを起こされるのが人一倍嫌いなことを。でも自業自得だ。キレるなら昨晩余計なことを言った自分にキレろ。


「八重、お前……!」

「んじゃ、うちも寝るから。おやすみ」

「死ね!!」


 ブチギレてる雪乃を放置して、うちはベッドに潜る。ちなみにベッドは月替りで使っている。月が変わると、寝場所をベッドとソファで入れ替える。この狭いおんぼろ部屋にベッドを二つ置くスペースは無いし、こんなクソ女と一緒に寝る趣味もない。

 いや、二人暮らしを始めた頃は一緒に寝てた。ただ、うちの寝相がヤバいという理由で寝床をローテーションすることになったんだ。広いベッドで寝れるという環境は魅力的だったし、その時は雪乃のメッキも大分剥がれかけてたから乗らない理由がなかった。



 翌日、バイトが休みだから無限に寝ていようと思ったのに、午後二時くらいに目が覚めた。身体を起こして膝を抱える。横を見ると、雪乃はまだ眠っていた。寝る前と違うのはノートパソコンが開かれていたこと。眠れなくて作業でもしていたんだろう。

 もう一度時計を見て、今日が金曜だと知る。金曜、さやかのライブがある日。行けたら行くなんて言ったけど、うちにバイト以外の予定が入ることなんてほとんど無い。こうして告げられた時間の前に目を覚ましてしまったとなれば、あとは気分の問題だ。楽しそうなさやかの顔が脳裏に過ぎる。うちが来ると信じて疑っていない顔。あんな風に人懐っこい表情ができるさやかは、きっと愛されて育ったんだろうなって思う。

 徐に立ち上がると、数歩歩いて雪乃のパソコンの前に座った。別にそれをどうにかしようとした訳じゃない、ここが一番テレビが見やすいんだ。リモコンを取ろうとテーブルの上に手を伸ばすと、手前にあるマウスに腕が当たった。モニターが点いて、パスワードを入力するように求めてくる。

 出来心で何も入れずにエンターキーを押してみた。ズボラなこいつがまともなパスワードを設定してるとは思えなかったから。してたとしても、aとか1とかだろう。誕生日四桁を設定してたら雪乃にしては立派過ぎて、きっとうちは柄にも無く頭を撫でながら褒めると思う。


「……はぁ。死ね」


 思った通り立ち上がったパソコンが表示させたのは、エロサイトだった。人が仕事してた日に、さんざ「あたしの仕事は大変なんだ」なんて言いやがった日に、何してんだ、こいつは。同居人が居ない間に抜くのが仕事とか笑わせんなよ。うちが替わってやるからてめぇが居酒屋でクソ酔っぱらい共の相手してこいや。

 テレビを見る気なんてとっくに失せてる。うちは振り返ると、エロ女を揺すって叩き起こした。


「おい、起きろ」

「……ん」

「ん、じゃねぇ。起きろ」

「……なんだよ」

「お前、これなんだよ」

「……は? は、え、なに人のパソコンを、勝手に、は?」


 逆ギレするかと思ってたけど、羞恥心の方が勝ったらしい。雪乃は半笑いみたいな顔のまま目を泳がせている。こいつにも何かを恥じる心があったなんて驚きだ。


「エロ動画で自家発電すんのが高尚な仕事って、どんな家庭環境で育てばそう思えるんだ?」

「……や、八重があたしをあんな時間に起こしたからじゃん!? ふざっけんな! それまでは普通に作業してたよ!」

「人のせいにすんなよ、スケベ」


 呆れてパソコンに視線を戻すと、さっきは気にならなかった動画の内容が頭に入ってきた。こいつ、レズもので抜いてたのか。普通に引く。


「おいまじまじと見るな!」


 雪乃はぶっ壊れるんじゃねぇかってくらいの勢いでパソコンを閉じた。動画の内容に毒気を抜かれたうちは、雪乃をじっと見つめることしか出来なかった。何か言ってやりたい気持ちはあるけど、内容について触れるべきじゃない気がしたから、いくつもの言葉を飲み込んでリモコンに手を伸ばす。めんどくさいしお前の性的指向なんてマジでどうでもいいから黙っててくれと念じながらリモコンを掴むと、うちが電源ボタンを押す前に雪乃は言った。考えてみりゃ、こいつがうちの望み通りに動いたことなんて無い。これまでに一度も。


「八重は知らないかもしれないけど、レズものは女に人気のジャンルだから」

「知らない、聞きたくねぇよ」

「ホント、たまたまだから。あたしがああいうの観てたの」


 声を大にして「あああーーーめんどくせーーーーー」と叫び出したかった。別にいいよ、お前がレズでも。どうでもいい。頼むからこれ以上、同情させないでくれ。同居人にエロ動画でナニしたのがバレてさらに同性愛者であることまでバレたとなれば流石に可哀想にもなる。


「黙れよ、レズ」

「だから」

「違うのか?」


 言い訳できるもんならしてみやがれ。振り返って動揺している雪乃を見つめる。本当に、どこにでもいるような女だ。こいつがまさかソッチだったなんて思いもしなかった。返答に少しでも遅れれば、それが何を意味するのか、分からないわけじゃないだろう。雪乃は反論のためか、一瞬口を開こうとしたけど、結局深いため息を吐き出すだけだった。一度視線を逸らして、すぐにこっちを見たかと思ったら頭を掻いている。なんだこいつ。


「悪い?」

「人が労働で疲れて寝てる間に抜かれて、気分いい訳ねぇだろ」

「そうじゃなくて」

「うっせーな。言及しないってことはどういうことか察しろよ。頭悪過ぎ」

「あ? 犯されたいの?」

「やってみろ。ぶっ殺すからな」


 それ以上何かを言う気もしなくて、やっとテレビを点けてぼんやりと画面を眺める気分になった。斜め後ろを盗み見てみると、雪乃はまだどこか気まずそうにしている。うちは立ち上がって言った。


「端に寄れよ」

「……うん」


 二人で並んでソファに座るだけなのに、いちいちこんなやりとりをしなきゃいけないなんて難儀なものだ。こんな風にソファを共有するのは数ヶ月ぶりだった。

 テレビの内容なんて頭に入って来ない。うちが電気代を犠牲にしてでもこうしたかったのは、休みの日くらい寛いでいるポーズをしておかないと、マジで病むと思ってるから。それだけ。嫌なことしか起こらないし、つい今さっきも同居人について知りたくもなかった新事実が発覚したばかりだと言うのに、昨日眠りに就くときよりも少しだけ気持ちが穏やかだから不思議だ。


「八重は、死にたいって思ったこと……ある?」

「答えたくない」

「……やっぱ、八重って本物だわ。色々と」

「なにそれ」


 雪乃はうちの返答を聞くと、何故か満足げな表情をしていた。褒められてる気がしなくて、どこかに行ったはずの怒りがぶり返しそうになる。


「死にたいと思ったことを軽々しく人に言おうとしないとこ。マジで何か抱えてる奴って感じ」

「バカにしてんのか?」

「まさか。自分の過去を思い返してたらそんなことを思い出して、そこに八重が居たからつい訊いた。それだけ」


 雪乃はテレビを見つめたままそう言った。絶対に今はうちと目を合わせたくないという強い意志を感じるくらい、テレビをじっと見ている。動くのがダルくて、脚を伸ばして親指で扇風機のボタンを押した。温い風がうちにぶつかって部屋の別の場所に停滞している。その場しのぎの微風はまるで今のうちらみたいだと思った。


「雪乃。リスカしたことあるか?」

「……無い」

「やってみたけど、ありゃ全然だめだ。手首を切ったくらいで気が紛れるなんて、おめでたくていっそ羨ましいよ」


 煙草に火をつけて、煙と一緒に吐き出した過去。雪乃は少し驚いた顔を見せたけど、何も言わなかった。どっちが先に人生で死にたいと思ったとか、どっちの方が辛かったとか、そんなダサすぎるクソみたいな背比べをするつもりは無い。うちはただ、雪乃が提示した話題に対して応えようと思っただけだ。だと言うのに、雪乃はやっぱり雪乃だった。


「自分を傷付けるって意味が分かんないし。八重は何がしたくてそんなバカな真似をしたわけ?」


 落ち着き始めた空気を一言でここまでブチ壊しにする才能だけは評価する。要するにうちは半端なんだ。こいつみたいにとびきりのクズになれば、煩わしいと思っている全てから解放されるかもしれない。生まれて初めて、この恵まれたクソ女のことを羨ましいと思った。親と仲が良くても、夢に理解があって金銭的に援助してくれてても、まともに働いてなくても、うちが雪乃に憧れたことなんて一度だってなかったのに。


「はぁ。死ね。うちもバカだよな。お前に同情して歩み寄ろうとしたって無駄だって、過去から学ばないからこういうことになる」

「は?」


 いい加減で。人に頼って生きるのが当たり前で。約束を破っても罪悪感の一つも湧かなくて。本当に、羨ましいよ。死んでくれ。


「もううんざりだ。お前は絵だかイラストだかっつー大義名分を掲げて労働を免除された気になってるけど」


 うちがここまで言うと、絵描きだって労働だ、なんて反論が横から聞こえた。だけど無視して続ける。


「金の為に体を動かしてるうちのが、社会的によっぽどまともだ」


 雪乃はうちのただならぬ空気に気圧されたのか、まじまじとこちらを見ている。


「絵描きが労働? 絵描きは労働だろうよ、対価を払おうとする誰かがいんだから。お前がしてるのは労働じゃなくて価値のない落書き。絵描きじゃねーっつってんだ」


 ずっと思ってたこと。だけど、これを言ったら取り返しが付かなくなると思っていたことを、ついにブチ撒けた。目だけを動かしてテレビから雪乃に視線を映すと、自分が何を言われたのかをやっと理解したらしく、みるみるうちに表情に怒りが宿っていく。


「言っていいことと悪いことがあるだろ!」

「言っていいことと悪いことの分別も付かなくさせたのはてめぇだろ」

「家賃はちゃんと払ってるし、八重に文句言われる筋合いは無いから!」

「あぁそうだな! 親からもらった仕送りでな!」


 雪乃は本当に何も分かってない。分かってないから、うちの言葉を聞いて、嫉妬か、なんて言えるんだ。あぁ、こいつは本当に、誰かに愛されて育ったんだなって思った。


「嫉妬? ふざけんな。なぁ、絵描き志望の娘に援助するなんて、もっと裕福な家がやることだろ。月に二万しか送ってこないくせに。頭湧いてるんじゃねーの。そういうちぐはぐなところが腹立つっつってんだよ」

「お母さんは悪くない!」

「そりゃそうだ、善意でやってんだろうから。お前の母さんの少ない稼ぎからの二万って、とんでもない大金だろ。悪い人じゃないのは分かってる。ただ頭は悪い。それは」


 言葉が遮られた。雪乃が身体を起こして、そのままうちの顔面を殴りやがったから。頬が熱い、口の中を切ったっぽい。だけど、不思議と痛くなかった。こいつは、散々これまでうちの人生をなじってきたくせに、自分が同じことされると手を出すんだな。とことんクズだ。


「お前、ほんっとに……!」

「だからてめぇは三流以下なんだよ」


 痛みに頬を押さえることも、怒ることもせず、うちはただ淡々とそう言った。真意を問うような雪乃の目玉が、震えてるように見えた。


「うちの顔、何で殴った」

「何って、拳に決まってるじゃん。狂ったの?」

「商売道具を危険に晒したってことだよな」


 雪乃ははっとした顔をして息を飲んだ。吐き捨てるように、軽蔑しながら、うちはこれまでの鬱憤を、欠片一つすら残さないように言葉に込めた。


「結局、お前は変わらないでいる口実を探してるだけ。絵で成功したいなんて本心では思ってない。絵で成功できたらいいなぁ程度の、宝くじ買った耄碌ジジイと同じような夢を見てるだけだ。お前がよくうちらを見下すのは、そう言ってないと怖いからだろ。自分は何かを成し遂げようとしているって思い込もうとしてんだ」


 目の前の女は、どこか生気の失った目をしている。そのくせ歯を食いしばっていたのか、ぎりという音が聞こえた。明らかにいつもと様子が違う。ここまで言われると思っていなかったみたいだから、きっとよっぽど悔しかったんだろう。

 雪乃は開いた手をこちらに伸ばす。胸ぐらを掴まれそうになって、うちは脚を伸ばした。そこでこいつに鳩尾を蹴られたばかりだったことを思い出す。あのときのうちの痛みを思い知れとばかりに、手加減無く踵を立てた。


「んのやろ!」

「ってぇな!」


 うちのカウンターは外れたらしい。横っ腹を掠めた脚が、雪乃の右腕に捕まる。蹴りを封じたまま、覆い被さるように距離を詰めてきた雪乃は、空いた方の手をうちの首の上に置いて、さっきとは打って変わってギラついた目でこっちを見下ろしていた。


「おい、退けよ」


 首に体重が掛けられていて、声を出すのに苦労した。雪乃にそれを気取られるのは癪だったからなんてこと無いって顔はしてるけど、これが続くと結構ヤバいと思う。

 自分の呼吸を邪魔する腕に爪を立てた。それだけじゃ足りないから、肩にも手を伸ばして同じようにしてやった。本当は蹴り跳ばしてやりたいけど、雪乃は既にうちの股に割って入って来てる。ここから足技でどうにか挽回できればいいんだけど、その術をうちは知らない。

 視界がぼんやりして頭の一部が痺れるような錯覚に陥っていると、次いで唇に何か違和感を感じる。それが雪乃の唇だと気付いた頃には下唇の上を何かが這ってて、それが舌だと気付く頃には、そいつはうちの口の中を犯していた。

 本当に、マジで、こいつって。びっくりするくらい最低だ。実を言うと初めてだったけど、そんなことは今はどうでもいい。うちはなけなしの、最後の気力を振り絞って雪乃の胸の辺りを殴った。

 さほど痛くはなかったようで、それでもうちがマジで死にそうになってるってことは伝わったらしい。雪乃はうちの首に置いていた手を離すと、うちの右手首を掴んでソファに押し付けるように体勢を整えた。

 今されたことと、自分の利き手が改めて封じられたことがどういうことか、気付かないほどうちは鈍くない。


「はっ。ふざっけんなよ、クソレズ」


 半笑いのような表情を浮かべてうちを見下ろす雪乃の目が言ってる。止められるもんなら止めてみろ、って。


「あたしさ、八重のこと、嫌いだからこんなことするんじゃないよ」


 雪乃はうちの頬に片手を伸ばす。その手つきは異様だった。愛でるような、慈しむような、そんな優しさが指先にまでこもっていて、別人なんじゃないかってくらい温かかった。だけど、うちの股の間に割って入ってきて、身体を弄ぼうとしてるのは雪乃なんだ。いっそ、赤の他人にレイプされる方がマシだと思った。


「あんなこと言われてまで、我慢する必要がなくなった。それだけ」


 やっと呼吸が整ってきたうちは、空いた手で雪乃を退けようと動き出す。するとすぐに、優しく頬を撫でていた筈の手が首に掛かって呼吸を奪おうと責め立てた。首に体重を掛けられながら抵抗できるほど、うちは喧嘩慣れしていない。というかこんな取っ組み合いのマジモンの喧嘩なんて、一度もしたことがない。


「大口叩いてたくせに抵抗しないの?」


 出来ねぇんだよ、死ね。思いきり上体を起こしてみようか迷ったけど、自分の首がさらに締められるだけだと気付いたからやってない。こいつ、なんで家で落書き描いてるだけなのにこんなに力強いんだよ。


「弁が立つってのも考えものだよね。あたしみたいに、実力行使しちゃうバカを誘ってんのと一緒じゃん。もしかして既にめちゃくちゃ濡れてるとかある?」


 勝手なことばかり、雪乃は鋭利な言葉だけを選んで口にしているようだった。鼻息を荒くしてうちの首に顔を埋めたかと思えば、舐めたり吸ったりしていた。何が楽しいんだよ、それ。


「どうせ男とも経験ないんでしょ?」

「うるせぇー……」


 マジでうるせぇ。うちの首の辺りから顔を上げて、雪乃は真っ直ぐこっちを見下ろしていた。久々に見た気がする顔は、何が楽しいのか全然分からないけど、愉悦に歪んでいる。

 雪乃はだらしなく口を開けて、舌を出した。着色料でも使ったのかってくらい、真っ赤な舌がうちを指している。なんだよ。そう言おうとしたけど、まずは顔を背けた。嫌な予感がしたから。そしてそれは的中していたと、思わぬ形で再びテレビを見る事になってすぐに確信に変わった。耳や首筋に当たる冷たくて温くてどろりとした液体の正体は、見て確認するまでもない。自分の涎に塗れるうちを見て、雪乃は遂に声を上げて笑った。

 抗議の声を上げようとしたところで、運悪く耳の中に唾が入ってきた。マジで運が悪い。重力といううちにはどうにもできない強い力に引っ張られて、こっちの意思なんてお構い無しに、それはナメクジみたいに体内を目指してくる。それまでこいつにされてることなんて屁でもないと思ってたのに、自分の身体を汚されるような感覚に初めて鳥肌が立った。

 せっかく昨日は銭湯に行って来たってのに。いや毎日入らなきゃヤバいのは分かってるけど、こんなことさえなければ、風呂に入ってなかっただろうに。っていうかうちは普通に風呂に入れるんだろうか。風呂場で泣きたくない。余計惨めになりそうだ。


「八重、本当に可哀想。あたし、前にネットで知り合った人とシたことあってさ。そのときに言われたんだ」


 うちの上に乗ってたのは人間じゃなくてライオンだったんじゃないかって。馬鹿みたいだけど、一瞬マジでそう思った。全身の肌がビリビリいってる。


「反吐が出るほど下手クソって」


 雪乃は笑っている。下手くそだと罵られたことなんて、こいつにとってどうでもいいらしい。




 昼間でもカーテンが閉めっぱなしなのは、窓から差し込む陽のせいでモニターがよく見えないからだ。要するに雪乃の都合で、うちの拘りじゃない。薄暗い自分の部屋の中で身体を弄ばれている女は今どんくらいいるんだろう。他にもいるとしたら、きっとそいつらもうちと同じように最高に惨めな気持ちになっている筈だ。

 こいつに下手クソと言った女がどんな女なのかは知らないが、その意見には全面的に同意する。これは強引なセックスなんかじゃない、軽い拷問だ。動きやすい体勢になるためにうちの胸や首にお構いなしに手を置いて、さらには体重まで掛けてくる。こいつの指がうちの中で好き放題暴れ始めた辺りから抵抗なんてしてないのに。きっと動きを封じる為ではなく、無意識なんだろう。雪乃はこっちの具合なんて一切考慮せずに、自分がしたいことだけをしているんだ。この身勝手なセックスはこいつの生き方そのものだと思った。

 壁に沿うように置かれた安物のソファがぎしぎしと動いて、その度に壁に当たってうるさい。当然、隣の部屋からは定期的に、返事とばかりに壁を叩かれている。うちが隣人でもきっと同じことをすると思う。

 くだらない情報番組を流していたテレビは、いつの間にか夕方のニュースになっていた。このまま今度はアニメでも流れるんだろうか。子供向けのアニメが流れる中で犯されるって最高に滑稽だ。絶対にやめてほしい。マジで精神がイカれそうだ。

 そうしてうちは、たまにドアの前を人が歩いてく音とか、開けっ放しにしている窓から漂ってくる夕飯の匂いなんかに意識を集中させた。そうしないと、この痛みを伴う、いつ終わるかも分からない屈辱的な時間をやり過ごせそうにないから。

 声を押し殺しているのは壁の薄さのせいじゃない。雪乃に優越感を与えたくないからだ。気付けば裸になっている雪乃は虚ろな目をしているであろううちを見下ろして、嘲るように笑った。湿っぽい二人の息遣いが混ざって消えていく。エアコンもついていない部屋で身体を重ねて、うちらは汗だくだ。だというのに扇風機の風が当たる右肩だけがやけに冷えていて、この時間は夢じゃないって追い打ちをかけてくる。

 さやかの笑った顔をまた思い出す。うちの姿を探してきょろきょろと辺りを見回す姿を思い浮かべてみると、なんだか泣きそうになった。



 これまでの人生で、これほど惨めな休日を過ごしたのは初めてかも知れない。いいや、絶対に初めてだ。そして二度と訪れて欲しくない。ヤッてる途中でベッドに移動してたらしく、うちは雪乃に背を向ける形で目を覚ました。カーテンの隙間から真っ暗な空が見える。どうやら夜らしいけど時間は知らない。まさかあれから翌日の夜ってことはないだろうから確認する気も起きなかった。そんなことよりも、うちが枕にしている雪乃の腕がウザくてしょうがないんだ。

 おい起きろって、声を掛けそうになって止めた。こいつを起こしたところで何も変わらないから。犯されたことが記憶ごとすっ飛んでくれるならどんな手を使ってでも叩き起こしてやるけど、そんなことは考えるだけ無駄だ。

 フローリングの上でスマホが震える。雪乃はマナーモードにしないから、鳴ってるのはうちのだろう。手が届くか試してみようとしたところで、首の違和感に気付いた。指先にスマホが触れる。唾を飲むと、明確に痛みが走った。風邪を引いて喉をやったか。スマホを掴んでディスプレイを表示させてみるとメッセージが届いていて、差出人は兄貴だった。

 また唾を飲む。兄貴からのメッセージなんて絶対にろくでもないに決まってるのに、それを確認するよりも先に、同じくらいクソなこと気に付いてしまった。風邪を引いたわけじゃない。うちを抱いて呑気にすやすやと寝てるクソ女が、首を締めたせいで気道というか、そういうとこが悲鳴を上げてるんだって。

 最低な気分になりながらメッセージを開くと、そこには反吐が出る言葉が並んでいた。俺が悪かった。また一緒に暮らしたい。家族だろ。そういうの。

 こんなことを兄貴に言われたのは初めてだ。うちはずっとそのメッセージを見つめ続けた。家族からこんな風に言われてうんざりするのは、あいつらのことが嫌いだから、じゃない。今度は普通に、前よりもマシな関係を築いて、普通に暮らせるようになるんじゃないかって期待する自分がバカに思えて。それが悔しくて、恥ずかしくて、うんざりするんだ。

 点けっぱなしにしていたスマホの画面の眩しさに反応したのか、それとも元々眠りが浅かったのか、雪乃が呻き声を上げた。


「おい」

「んー……」

「触んな」

「……人の腕の中でぐーすか寝てたくせに」

「お前が勝手に抱いて寝てただけだろ。ソファ移れよ」


 そして何も言わずにうちを抱き直すと、クソ女は再び眠りに就こうとしていた。シカトする気なのは分かったし、どうせそんなことだろうと思ってた。だけど、こいつがどこまでうちという人間を踏み躙るつもりでいるかには、正直興味がある。

 反吐が出るほど気分が悪かったが、翌日は昼頃からバイトだったから目を瞑った。黙っているとじくじくと痛む腹が、ずっと「お前はルームメイトに蹂躙されたんだ。面白半分で、興味本位で」と告げているようで、それが夢への順路を複雑にした。



 好き勝手されたうちが気まずい思いをするのはおかしいと思いながらも、マジで話をする機会を見つけられないまま四日が過ぎた。さやかとは話していない。単純にシフトが被ってなかったから。行けなくてごめんと謝る機会が訪れないことに、内心じゃ安堵していた。その時のうちは、きっと雪乃に犯されたことを思い出すだろうから。

 ようやく訪れた休日は平日のド真ん中だった。平日の休みは好きだ。スーツや制服を身に纏った奴を見かける度に、労働をしていないという一種の優越感でスカッとした。人として相当品がないことを考えている自覚は一応ある。ただ、そう考えなきゃやってられなかった。自分よりも可哀想な誰かがいるってのは、うちをとにかく楽にするから。

 この四日間は特にその傾向が強かった。ふとした瞬間に、雪乃の舌が自分の身体を這う感覚が舞い戻って、何も無いのに急に鳥肌が立った。首周りが特に顕著だったせいか、うちの首はこの数日で引っ掻き傷だらけだ。あの嫌な感触は痛みとしか対等じゃない。だから継続的にこうする必要があった。放っときゃ抜ける毒よりも性質が悪い。うちは雪乃のしでかしたことをそう思っていた。

 そして今。うちは痛む首をさすりながら、飄々とパソコンに向かうクソ女の横顔に吐き捨てた。出て行け、理由は分かるな、と。


「あたしは出ていかない。八重が出ていくなら好きにすれば? ただし、家賃だけは置いてって」

「はぁ?」


 この女は、本当に頭がおかしい。どうして被害を被ったこっちが退かなきゃいけないんだ。死んでくれ。それができなきゃ消えてくれ。だけどどっちもしようとしないクソ雪乃は、つらつらと続けた。


「ちょっと前に部屋の更新手続きしたじゃん。つまりあたしは八重との生活を、あと二年は想定してたってこと。そっちのせいでその前に帰らなきゃいけなくなるなんて許せない」

「うちのせいじゃねー。お前のせいだ。お前が愚図でろくでもねーから、こっちが愛想尽かしただけ。うちにそんな義務は無い」

「大体、どうすんの。ここ出ても、八重には行くところなんて無いでしょ」


 結局こういうことだ。雪乃はこっちの足元を見て強く出てるだけ。両親を頼れない女を娶って暴力を振るうクソ野郎とマジで何も変わらない。だから言ってやった。おそらくこいつが想像だにしていなかったことを。


「家に帰る」

「家!? あのクソ家族がいる家に!?」

「……お前、自分がそのクソ家族以下として認識されてることにもっとショック受けろよ」


 あと、会ったこともない連中を知り合いみたいな口ぶりで語るな。お前を家族に紹介したことはないし、その予定も無い。雪乃と家族がグルになってうちに嫌がらせをしやがったら、マジで病んで死ぬ自信がある。


「……本気?」

「お前が出ていかないなら、明日うちが家を出る」


 うちはこの明日というのがどれほど現実味を帯びた予定なのかを語った。こっちが家族に縋るのではなく、家族から求めて来て気が変わったということ。バイトはもうばっくれるつもりでいること。うちはまだ家族に返事をしていないということだけ伏せておいた。これだけラブコールを送ってくるんだ、いきなり帰ったとしても、とりあえず無碍にされることはないだろう。

 うちの話を聞いた雪乃は、煙草を灰皿に押し付けて、おもむろにシャツを脱ぎ始めた。さらに、付けるなって言ってたエアコンを勝手に入れる。強で設定したのか、灰皿に残った灰が軽く舞って、雪乃はうざったそうに直風を避けるように灰皿を移動させた。


「じゃあ」

「服着ろよ。意味分からん。は?」


 こいつが何をしようとしているのか、分かりたくなんてないけど、分かってしまう。どんだけ最低なクソ女なのか、うちは知ってるから。自分のことしか考えてない奴だって、一緒に暮らすようになってから嫌というほど叩き込まれたから。


「八重……出てくって聞いてあたしが黙ってると思った?」

「ほんっとに死んでくれマジで」


 手当たり次第に物を投げてやろうと思ったけど、手元には吸いかけの煙草くらいしかない。咄嗟の判断で、うちは火が点いた煙草を雪乃に投げる。だけどこいつはそれを軽く避けて、煙草はソファの肘置きに隠れて見えなくなった。


「ばっ、おい、火事になるだろうが!」

「ふぅん」

「はぁ!? 頭大丈夫かお前!」

「頭がおかしいのは火事になるかもしれないのに煙草を投げた八重でしょ。気になるなら消しに行けば?」


 消しに行けなんて、絶対に本心では思ってない。思っているなら、こんな風に覆い被さって身体の自由を奪ったりしない筈だ。一度乱暴しただけのくせに、雪乃はうちの身体のことならなんでも知ってるとでも言いたげに触れてきた。こいつにされたことのほとんどはうちにとって苦痛だった。きっとこいつに恋人が居て、受け入れたいと思う気持ちがある人間が居たとしたって、同じ感想を抱くと思う。

 身体を貫く痛みと、ソファが焦げるツンと鼻を突く嫌な臭い。それが最中の記憶の全て。意識が途切れる間際、「真剣な顔して話す八重の口の奥で銀歯が光ったから、我慢できなくなった」なんて意味不明な上に何の言い訳にもなっていない犯行動機を聞かされた。真面目に話をしていたことすら意味を為さず、むしろ逆効果になっていたのかと、とんでもない無力感に見舞われて目を瞑った。




 目が覚めて体を起こそうとすると、雪乃は独り言みたいに「マジで出てくの?」と言った。うんざりしながら無視していると、さらに問いかけられる。


「なんで? 別にいいじゃん」

「死ね」

「八重、抱き心地いいね」

「死ねっつってんだよ」


 うちは雪乃に背を向けてベッドで横になっていた。当然のように雪乃はうちの身体を後ろから抱いて、人の神経を逆撫でする言葉ばかりを選んで口にしている。早く死ね。


「家族ともこういうことすんの?」


 何を言われても死ねって返そうと思った矢先にこれだ。家族とヤるなんて、マジでどんな人生を送ってたらこんなにムカつくことばかり口にできるのか訊きたくなる。殴ろうとして振り返ったところで、雪乃に手首を掴まれた。


「話を聞いてる感じだと、クソ兄貴はそういうことしそう」

「しねぇよ。有り得ねぇ。マジでブッ殺すぞ」


 うちらが睨み合っていると、スマホが鳴った。どういう訳か枕の下敷きになっている。振り解こうと腕を強く引くと、雪乃はつまらなさそうな顔をして手を離した。スマホを引っ張り出してディスプレイを見ると、知らない番号からだった。出ようか迷っていると、雪乃が起き上がって、うちに馬乗りになるとスマホを奪った。片手で頭を抑えつけられて、奪い返すこともままならない。だからこの馬鹿力なんなんだよ。本当に自分が間抜けで情けない。


「あー、もしもし?」

「八重、祐司からのメッセージ見たか?」

「え? 見てないけど」

「四国のばあちゃん達がお前に会いたいって言ってるんだ。父さんも母さんも、それに裕司も、お前には苦労をかけていたと反省している」

「ふぅん。で? あたしにどうして欲しいの?」

「なっ……帰って来いって言ってるんだ! 誰のおかげで高校卒業できたと思ってるんだ! お前には親の愛情が分からないのか!」

「お前には娘の声が分からないのか?」


 クソ親父にそう言い返した雪乃は、人の神経を逆撫でするあの腹の立つ笑い声でケラケラと笑った。あーおっかしーと呟いたあと、スマホを耳に当てたまま、うちを見た。


「八重。捨てなよ、これ。あたしじゃなくて」


 雪乃は、残酷だ。うちだって、心のどこかじゃ分かっていた。あいつらが改心するわけないって。それでも、もう少しマシな家族として、やり直せるかもしれないって思ってたのに。差し出されたスマホを受け取ると、うちは死ねとだけ言って通話を切った。今の言葉は誰に向けて言ったのか分からない。クソ親父か、雪乃か、もしかすると自分かもしれない。電話を切る直前、親父は電話で声が分からなかったとかなんとか言い訳してたけど、自分の娘の一人称が変わってたら流石に分かるだろ。うちのこれは、普通の女っぽく振る舞えというクソ親父に反発した結果なんだから。


「ま、この無能共のことは忘れなって。あたしはムカつくだろうけど一応家賃は折半できるし、たまに気持ちいいことしてくれるっていうプラスもあるじゃん」


「誰が気持ちいいだ! 死ね!」

「あんなによがった後だと照れ隠しにしか聞こえないから、言えば言うほど恥ずかしいよ?」

「死ねーーーー……死んでくれ〜〜〜〜〜〜〜……」


 気持ち良かったなんて事実は無い。唯一の利点は、嫌なことから目を背けられる、それだけだ。両手で顔を隠して、うちは呪詛を吐き出す。だけど、うちの体に乗る悪魔はさらに追い打ちをかけた。


「で? 四国のおばあさん? あのさ、八重、介護要員だと思われてない? それ」

「そう、かも……」


 うちは雪乃の指摘を、この部分だけは素直に受け止めた。親父の両親がヘルパーに頼っていたのは知ってたから。


「で、メリットは? 八重の人生そのものを食い潰してくるゴミ共は何をしてくれるの? 家族仲良しっていう近所の人間のクソの役にも立たない評価? それとも家族と折り合いを付けて生活することで八重の自尊心が向上するとか?」


 残酷な質問に、うちは何も答えられない。


「無いよね。八重だもん」


 雪乃はうちにぴったりと重なるように上体を寝かせる。猫みたいだ。そして耳元で囁く。ぞっとするくらい優しい声だった。


「……この先ずっとって言うつもりはないけど。とりあえず、今は。さ」

「なんていうか知ってるわ、そういうの。モラトリアムっての」

「じゃあ聞くけど、今すぐ定職を見つけてまともな人間として生きていけるの?」


 本当にこいつは嫌なことばかり口にする。明日のことを考えるだけで憂鬱になるうちが将来のことなんて考えたがるわけないのに。きっと分かってて訊いてる。マジで性格が悪い。


「……考えたくない」

「でしょ? で、そういうときのためにセックスがあるんじゃん?」

「ねぇよ。子作りのためだわ」

「そう思いたいなら思ってればいい」


 そうして雪乃はうちの耳に、舌を這わせた。こいつ、絶対調子に乗ってる。雪乃の体を押し返して制止すると、「何?」と不満げな声が狭い部屋に響いた。


「うち、本当に無理」

「なんで?」

「てめぇの爪でがりがり引っ掻かれて、その、痛い」


 どことは言わない。いちいち口にしなくても、こいつには嫌ってほど心当たりがあるはずだから。雪乃は手を開いて自分の爪を見ると、事も無げに呟いた。


「あぁ。爪の間に血が付いてるし、間違いないね」

「はぁ!?」


 人に怪我をさせておいて、なんでそんなに淡々としていられるんだ。頭の中の大切なところがぶっ壊れてるとしか思えない。ほら、と見せつけるように目の前に差し出された中指と薬指の爪の先、本来白である筈の部分が赤くなっていた。自分の血が他人の体に残ってるのを目の当たりにして、うちは苦々しい表情を浮かべる。


「……血もそうだけど、長ぇよ」

「そう? 普通じゃん」

「だから普通ってダメだろ。お前、その鋭利な爪ブチ込むんだぞ」

「するって思ってなかったし」


 雪乃は二本の指を咥えて、ちろちろと舐めながらそう言った。爪の汚れを気にするくらいなら舐めるんじゃなくて切れよ。っていうか人の血なんて舐めて、馬鹿じゃねぇの、こいつ。


「これからは八重とすることを想定して常に短くしとけってこと?」

「死ね」


 多分、こいつは嫌がらせに関する何かしらの資格を持っている。雪乃が口を開く度にうちが嫌な思いをするのはきっとそういうことだ。


「……じゃあ切ろうかな」

「もうしねぇっつの」


 ずっと遠くで鳴っていたらしいエアコンのごうごうという音が止む。別に意識してなかったけど。静かだと思っていた部屋が更に静まり返って、流れる沈黙を重くした。

 うちと雪乃は睨み合って動かない。もうしない、そう言われた雪乃は、眠たそうな顔をしたままやっと口を開いた。


「じゃあ本当に切らないけど、いいんだよね?」

「……念のため切っとけ、クソ」


 うちはスマホを手に取ると、さっき掛かってきた番号と、ついでに母親と兄貴の番号を着信拒否に設定して、ソファの上に放り投げた。

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火と陽と人は、すぐに死ぬ nns @cid3115

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