第3話

恋だの愛だの言う前に、あたしには基本的なことが欠如していた。

そう、自立だ。

あたしは今ではもうあまり聞かなくなってしまったので死語かもしれないが、パラサイトシングルというやつで、年金暮らしの年老いた両親に寄生して生きている未婚独身女だ。お見合いなんてしたくもないしする必要もなかった。どうせだれもあたしを必要としてくれないのはわかっていた。どうせだれも。

あたしがこの街で嫌われているのはわかっていた。この街に永住するつもりもなかった。さりとてこの街から飛び出していくすべもなければ経済力もなかった。どうしたらいい?

あたしは、この街で死ぬつもりはない。生きていくつもりもない。でも出口なんかない。ここは魔界の森の迷宮のようだった。迷子になって死ぬだけなんだろうか。それだけは御免だった。

友達はいない。だれとも心を通わせることができなかった。たぶん生涯だれとも友達になることもできずに死ぬんだろう。それはそれでしょうがなかった。



ただ、彼だけは。彼だけはあたしを愛してくれる。それが唯一の救いだった。街の人たちにも、家族にも、職場の人たちのも、友達からも愛されないけれど、彼だけはあたしを見放さないでいてくれる。それだけの小さな希望に縋って生きている。彼がいなくなったら、あたしはどうなってしまうんだろう。自暴自棄になって、死んでしまうのかもしれない。でも、それでも仕方がない。あたしには、他になにも思いつかないから。馬鹿だけど、仕方がないと繰り返して、俯くしかないんだ。

どうしたらいい? 


テレパシー、か。

そんな能力、孤独で一人ぼっちのあたしが欲しがりそうな才能だ。

すべて妄想。そう、すべてが妄想だったら。

あたしには、なんにもない。何にも残されていない。何も持っていなくなってしまう。

そう思うと、あたしは真っ暗な世界中のどんな闇よりも暗い暗がりのなかに突き落とされてしまうような気がする。

気がついたら、枕元に夕飯の載ったお盆が置いてあって――スーパーの割引シールの張られたお弁当だったが――部屋の窓の外は真っ暗なままだった。


もっと賢く小狡く生きていられたらいいのに。

あたしは不器用で、弱い生き物だ。気がついたら群れからはぐれてしまって、そのままだ。もう長くは生きていけないのかもしれない。

もう死んでもいいよね、お父さん?

お父さんのそばに行っても、いいよね?

あたし、疲れたよ。


お弁当を食べて、お風呂に入ろう思い立ち上がると、窓の外でなにかが揺れた。カーテンは風でわずかにはたはた翻っている。網戸にしてあって、初夏の涼しい夜風が入ってくる。不審者? だが、ここは一軒家の二階だ。そういう人ってきっとここには入ってこれない。瓦屋根を伝ってこの二階の子ども部屋に入って来れるような忍者のような不審者がどこの世界にいるというのだろう。

なにに怯えているというのだろう?

そっと部屋の電気をつけると、もう窓の外には異変はなかった。はじめからなにもなかったのかもしれない。気のせいとか、見間違いとかだったのかも。

なにに期待しているというのだろう?

ただ外を飛んでいた虫とかが網戸にぶつかっただけとかかもしれないのに。

馬鹿みたいだ。

本当に、あたしはいったい。

呆れながら、部屋を出て階段を下りる。だれかが下から階段を上がってきて、あたしとすれ違ってあたしの部屋に黙ってすうっと入って行った。

勝手にしたらいい。どうでもいい。

どうせ半透明だったから、死んでる人だ。暗がりでそういう霊みたいなものが見えることがたまにあるけど、あたしは別に気にしていなかった。お盆とか大量に街の隅にたむろっていたりうろうろしていたりするのを何度か見たことがあるんだった。そうか。ところで今のはだれだったのだろう。どうでもいいけど。

お風呂場の扉を開けると、また怪奇現象。黒い髪の長い着物姿の少女が怖い顔をしてこっちを睨んでいる。退いてくれますように、と願いながら、脱衣所の電気をつけると、首だけで浮いていた。怖いんだけど。

我慢して浴室に入ると、入り口に花柄の草履がそろえて置いてあった。

背後に人の気配。少女の顔が再び浴室の鏡に映る。不服そうだ。あたしにいったい何を訴えているというのか。言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいのに。

 お風呂から上がって消えない不安を洗い流したつもりで、寝間着に着替えて自室に戻る。古い日本家屋の廊下は軋んで静かに夜の気配のなかで静寂を保っていた。階段を上がって部屋の戸を開けると、ベッドに死んだお父さんが腰かけていた。さっきすれ違ったのは、お父さんだったのか。あたしと目が合うと、お父さんは溶けるように消えてしまった。

 なんでいなくなってしまったの?

意味がわからない。

《社長が反対しているよ。あの男はやめておいたほうがいい》

どこからともなく、お父さんの声が聴こえた。

声が降ってきた感じだった。

「どうして?」

《おまえが会いたいのはわかっているだろうが、会いに来ないよ》

「なんで? あたしたちはこのテレパシー能力を使って婚活して一族を繁栄させてきた人たちの末裔でしょ? お父さんあたしに昔教えてくれたじゃん。知ってるんだからね?」

《ああそうだ。恥じることも誇ることもしなくていい。遺伝だからな。別に不思議なことでもなんでもない。そういう人たちの血が入っててラッキーだったくらいでいいだろうな》

《寧々子。よく聞きなさい。お父さんは天国にいる。おまえのことをいつも見ているよ。だがな、あの男は芸能人だろう? しかもすごくモテる》

「彼はあたしのことを愛してると言ってたわ」

《可愛い娘。だれよりもおまえの幸せを願っているよ。死ぬのはまだ早いよ。じゃあな。お父さんは帰るよ》

お父さんの声がもうしなくなった。あたしは立ち尽くしたまま、今のが幻聴だったのか本当の声だったのかわからなくて、どうしたらいいのかわからなくて、困惑していた。

部屋のなかはしんと静まり返っていた。夜だからか、窓の外からは車が通る音すらしなかった。

死んでいるせいなのか、お父さんはいつもミステリアスだ。あたしはお父さんの本物の生きているときに現実世界で会ったことが一度もない。だから本当は、あの人があたしのお父さんなのか、確かめるすべがない。あの人が本当は知らない赤の他人で、お父さんのふりをしている可能性だってある。あたしを騙している可能性だってある。あたしはどうしたらいい?

《どうしたらいい、じゃない。おまえがどうしたいか? だよ。愛しているよ、おれの娘》

 お父さんの声がまた聴こえた。

 いつも見ているというのは、あながち嘘ではないのだろう。

 考えていても仕方がないので、眠ってしまうことにした。待っていれば、あたしの愛しの彼が頭のなかで会いに来てくれるかもしれないので。

 馬鹿みたい。

 あたしのどこかで、あたしかだれかが言った。

 本当に、馬鹿みたいだ。

 期待ばっかりして、自分の人生をきちんと生きていない。

 だからいつまで経っても、こんなに惨めなままなのだ。

 今夜もし彼に会っても、煮え切らない態度だったら、離れる覚悟をしたと言ってしまおう。それでもしつこく追ってくるようなら、彼を夢中にさせて、巧みに家まで来てくれるように虜にしてしまおう。あたしにできるだろうか? いや、するしかない。あたしは、崖っぷちに立たされているのだ。



 でも。

 その前に、諦めていた夢を、もう一度追いかけたい。

 結婚?

 いや違う。結婚だってもちろんほしいし、手に入れたい。あたしが欲しいものは、そんなのだけじゃない。もっと違うものが欲しい。

 アーティストの称号。そうだ。それが欲しいんだ。

「寧々子は絵も上手いし歌も上手いし小説も書けるし曲も作れるもんな」

 彼の声がした。脳内なのに、はっきりと彼だとわかる声で。

 どこにもいないのに、感覚だけでわかる。あたしの手を優しくとって、手の甲にキスをしてくる。熱い吐息がかかる感触がする。彼のつけているどこのブランドだか知らないけど、高そうな香水の香りがふわっと漂った。来てくれたんだ。あたしは嬉しくなってしまって、笑った。

「寧々子、愛しているよ」

「それだけじゃ、嫌」あたしは甘い声を出す。誘うように。

「なんで?」

「もっと欲しいものがあるの」

「言ってごらん」

「あなたが欲しい」あたしはゆっくりベッドに横たわる。

「馬鹿だな」彼は気配だけで伝わってくるので奇妙だが――あたしの上に覆いかぶさってくる。「いくらでも与えてやろう」

「そうじゃなくて」

「なんだ?」

 彼が唇にキスをしてくる。あたしの手首を掴んで、恋人繋ぎに変える。

「会いたいの」

「会おう」

「いいの?」

「ああ。会いにくればいい」

「家どこなの」

「東京」

「あたし行ったことがないんだけど」

 あたしはがっかりしてしまう。

「住所がききたいわけじゃないだろう?」

「聞いてもわからないわ」この辺りであたしは彼の存在を幻覚だと疑ってしまう。

「だろうな」

「あたしの住所を教えてあげる」

「迎えに来いと言うのか」

「そうよ」

「休みがとれたらな」

「忙しいの」

「そうだよ」

「芸能人と一般人の恋は成立しないの?」

「する。今だって、しているだろう? 信じてくれないのか?」

「だってあなたは見えないし、どこにもいないもの」

「おまえが東京にいればな」

「こんな田舎であたしたちみたいな恋愛をしている人は一人もいない」

「東京に来い」

「お金がないから無理。100万も200万も持ってないし到底稼げないしお金も借りれないわ。売春でもしない限り無理ね。こんな場所では絶対無理。この街の人はみんな貧乏なの。あなたにはわからないでしょうけど」

「売春はするなよ寧々子」

「キャバクラ嬢とか?」

「稼げるだろうがな。そういうのはよくない」

「じゃあどうすればいいと思う?」

「会おうって言ったら会うんだよ」

「どこで」

「どこって」彼は困惑している。あたしのなかに入れていた指を抜く。「そろそろいいだろう?」

「帰って」あたしははっきりと言う。「帰ってよ」

「急にどうしたんだ。おれなんか悪いこと言ったか?」

「結婚する気もないのに騙すのは辞めて」

「騙してない」

「駄目ね。帰って」

「ならば帰りたくさせてみればいい」

 彼がなかに入ってくる。あたしは目を閉じる。涙が滲んでくる。吐息をつく。

「こんな不毛な話し合いをいくらつづけたって無駄なのよ。会う気がないくせに」睨む。

「あるさ。――はあ」彼が目を閉じて息を吐く。

「おれとするのが嫌いか?」

「馬鹿」快楽で身体が緩んでしまう。

「ちゃんと受け入れろ」彼がもっと奥に入りたがっている気がする。

「詐欺師。嫌い」あたしは彼の腹を押し退けようとして何もない場所を虚しく押し返す。

「また始まった」彼がうんざりする。

「なんで信じてくれないんだ?」

「信じたいけど信じられないのよ」

「なぜ?」

「迎えに来てって言ったら迎えに来てほしいのよ」

「いいよ」

「嘘つかないで」

「嘘じゃない」

「あなたはあたしと結婚したいの?」

「したいさ。できるんならしたいよおれだって」

「あたしがいくつになったか知ってる?」

「少し静かにしてくれ」

「あなたはいつもそうやってしたがってばっかり」

「寧々子だっておれとするの好きだと思っていたよ」

「あたし困ってるの」

「お金か」

「違う」

「はっきり言わなければわからない」

「……もういい。なんでわからないの?」

 あたしはそのまま眠ってしまおうとした。彼はまだ続きをしたがっているけど、無視することにした。もう知らない。どうなったって構わない。彼のことは大切だけど、わかりあえないなら仕方がない。

「寧々子が東京に来ないなら、おれだってどうしようもないよ」

 意味がわからないし。どういうこと?

 もう嫌。

「おれのこと嫌いか」

 そうやって意地悪ばっかり。

 その日はそのままあたしは眠ってしまった。彼はどうしたか知らないけれど、テレパシーは眠ってしまうとあたしの場合は途切れてしまうのだった。

 

 なんで来てくれないの?

 朝起きると、母親がぶすっとした顔でトーストの皿の載ったお盆を持ってきた。コーヒーで目を覚まして頭を起こして仕事に行く準備をする。早く結婚して仕事辞めたい。でもいい人がいない。どうしたらいいの?

朝の習慣の瞑想をしていると、ご先祖様が来た。亡くなったひいおばあちゃんだった。

《あの男は結婚しているよ》

だれと? いつ?

《不倫っていうのかしらね? そういうのよ。あなた》

は?

《人の道に外れることはしちゃいけないわね。早く別れなさいね》

なんで今まで黙ってたの?

タイマーが鳴った。窓の外を見た。今日は雨模様で、傘が必要だとわかった。鉛色の空から、重たげな気を抱えた雨雲がうごめいているのが見えた。雨音がする。こういう日はより一層鬱が酷くなる。この街の雨の日の匂いが嫌いだ。近くの工場の廃棄煙の香りがまじって鼻につくから。一応人体には無害だと言われているが、あたしは気になった。なんだかアンモニアっぽい匂いがするし好きになれない。早くこの街からどこでもいいから出て行きたいのに。

職場に向かうため、部屋を出る。フローリングの床の上で危うく転びそうになる。階段を下りると、暗いじめじめしたキッチンで洗い物をしている年老いた母の背中が視界に入った。ずいぶん痩せたなという気がした。母は年をとってから痩せてしまった。どうしてだろう。小さくしぼんでしまった気もする。そういうあたしは一体どうなんだろう? 子どもっぽいおばさん? ただのいかず後家? ああ、頭が痛い。いやだいやだ。

家を出る。街の人たちが俯いて傘を差して歩いている姿が目に入った。あたしも俯いて背中を丸めて沈鬱そうに歩く。まるでお葬式に参列している人みたいに。あたしのなかで、なにかが葬られている。しょうがないでは済まされなかった。

横断歩道を渡る。古びた街並みに、古ぼけた家々が連なる。栄えていない小さな街。つまらない、あたしの街。でも、ここで一生を終えたいなんてやっぱりみじんも思わなかった。

《……悪魔に魂を売ってでも、あの男が欲しいか?》

だれかのつぶやきがどこからともなく低く聞こえてきた。すれ違った人が言ったのかも知れなかった。立ちどまり振り返ると、だれもいなかった。自転車が近づいてきたので、慌てて前を向く。傘を差して自転車を漕いでいる学生服の男子が邪魔くさそうにあたしを一瞥して去って行った。

おまえは悪魔だ。

昔よく言われていた言葉ではなかったか。

悪魔だったら、なんだっていうの?

他のだれが困るっていうの?

別にあたしが悪魔だろうが阿修羅だろうがなんだろうが、困る人なんて、別にいないでしょ? 人の勝手って奴よね?

ブラフマン、ブラフマン、ブラフマン。

すぐに口から出る言葉。絶対善の存在。なんなら、その上のアートマン。アートマンにだって、助けてもらいたい。今だけでもいいから。生き延びたい。あたしは、悪いことしたくないんだ。人の道に外れることはしちゃ駄目って、死んだひいおばあちゃんが朝の瞑想のとき確か言ってたし。

職場に着いた。陰気くさい仕事場で朝の挨拶をすると、だれかがくすくすと笑っていた。そちらに目をやると椅子が空だった。だれもいないところから聞こえた。気のせいだと思うことにした。もしくはなんらかの。もういい。怖いから。


職場にいる人たちは、つくづく生のエネルギーの低い人たちだなという気がした。まるで植物のようだった。寡黙で、大人しくて、控えめで、なにごとにも、消極的な感じだ。がつがつしていて、野心に燃え、向上心のある熱血的な思いに満ちた人は一人もいなかった。人々の目は暗く淀み濁っていた。屠殺前の家畜みたいなやつら。あたしはひとりで毒づいた。あたしもそんな奴らの仲間なのか。いやだな。気づいたら、隣に悪魔が立っていた。

真黒な影みたいな悪魔はぞっとするほど吐き気を催すような毒の気がした。近寄ってはいけないものたちなんだろう。そういう警告は鳴っていた。立ち去れ。だれかが高らかにどこか遠い場所でそう言っている。無駄だ。今はもうそんな言葉は聞こえない。

悪魔は笑っていた。

《……なあ、おまえって弱そうだよな? なんか、いつもなにか不安そうでさ、不満ばっかりでさ、なにが嫌なのか、おれにはよくわかってるけど、まあ、いいや。あの男が、欲しくはないかい? 喉から手が出るほど、欲しいんじゃないの? ねえ。あんないい男が、もう他にこの先の人生でおまえの前に出てくることって、おれはないと断言できるね。逃していいの?》

 だって、彼には奥さんがいるんでしょ?

《いるよ。それに子どもも。でもさ、奪っちゃえば、そんなの関係ないじゃん? そう思わない? 欲しいものはさ、奪ってでも手に入れないと、宝物みたいに貴重なものってさ、簡単には手に入らないからさ、しょうがないじゃん? そう思わない? おれなら、欲しいものなら無理やりにでも奪って自分のものにするね。だって欲しいものは欲しいんだもの。人生は一度きりなんだよ。ぐだぐだしていたら、終わっちゃうよ? 今おまえがいくつか知ってるよ。もうすぐ40歳近くになるんだろ? なあ。やばくね? それって、かなりやばいとおもうんだけど。未婚ですって言って笑っていられる年齢じゃないと思うよ。マジで。結婚したーいっていつも言ってるじゃん? しちゃえば、彼と? ねえ? 結婚おめでとーって、言われたいでしょ? ほら、したいって顔に書いてあるよ》

 だって。でも――

 あたしは首を横に小さく振るって左隣で聞こえる悪魔の声を追い出そうとした。聞かないふりをした。でも、悪魔は出て行かないし、しゃべり続ける。

《シール貼りだっけ? 梱包作業だっけ? 裏方だっけ? そんな超単純作業なんて、結婚してやめちゃえば? そんなに死ぬほど嫌いなら、やめればいいよ。おれならやめるね。つまんないんでしょ? 嫌々ながら仕事してたら、寿命縮んじゃうらしいよ。いやだねえ。ホント心底嫌だねえ。そんな人生、送りたくないわあ。そんなクソみたいな人生、おれが変えてやるよ》

 悪魔は片手を差し出して、こう言った。《おれと握手してよ。そしたら、おまえの願いを叶えてやるよ。なんだって叶うよ。あの男が欲しければ手に入るし、結婚だってできるし、それ以上のことも、簡単にね。悪魔の力って、本当にすごいの。おまえは知らないだろうけど、そのうち思い知ることになるよ。おれの言ってたことが本当だったんだって、感謝するようになるよ。ね、おれと手を繋ご?》

 気がついたら、あたしは、悪魔と手を繋いでいた。うっかり片手を差し出して、その強そうな魅力に富んだ黒い手を、しっかりと握っていた。身体が震えて、涙が不意にこぼれ落ちてきた。あたしのなかのだれかが泣いてる。知らないけど。でも、不思議と栄養ドリンクを飲んだ後みたいに、身体中に力がみなぎっていて、なんでもできるような気がした。まだ体が震えて、膝が笑っていて、まともに座っていられなかった。もう家に帰らなきゃ。すること山ほどあるんだから。

《はい引っかかったー。お馬鹿さん。悪魔と契約したものは、地獄に落ちるんだよ。それでもいいんだろうね。って、聞いてねーや。おれ、もう知らねえ。じゃあね》

 悪魔はぱっとあたしから手を離して、身を翻して、どこかに消えてしまった。それでもよかった。地獄に落ちるとかなんとか言ってたけど、そんな死んだ後のことなんて、あたしはどうでもよかった。死んだら死んだ後でごめんなさいって反省してさっさと地獄なり何なりと向かってお仕置きされるなり罰されるなりされとけばよくないですかあぁ? などとあたしは笑い出しそうなほど愉快な気分で強くなった気持ちでいた。あたしは自由だった。あたしはなんでもできる気がした。そう、悪魔の力さえあれば。あたしの左手は、黒くなっていた。手首から先が、真黒になっていた。そうか。これが、悪魔と契約して得た悪魔の手なんだ。この手で、欲しいものをなんでも手に入れることができるんだ。すごい。

「ねえ、大丈夫? 具合悪いの?」

 上司が話しかけてきた。心配してくれてるのかな。

「手がとまってるじゃない。早くしてよ」

 そう言ってあたしを睨んでくる。ああ、そういうことね。

 作戦を立てなきゃ。あたしは、頭をフル回転させて、どうやって彼を手に入れようか、そればっかり考えはじめた。姿をさっさとくらませた悪魔もとっ掴まえて、もっとこき使ってやるんだから。そう、欲しいものが全部手に入るまでね。あたしは、欲しいものを全部手に入れる。絶対。悪魔の力がどんなものかよくわからないけれど、きっとこの力を使いこなしてみせる。

「佐野寧々子さん? 聞いてる? 早くしてよ。え、もしかして帰りたいの?」


 さぁね?


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悪魔と手を繋いだら、きっとあたしは不幸になる。 寅田大愛(とらただいあ) @punyumayo

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