第2話

 

 ねえ。あたしたちは愛し合っているのかな? そう問えば、おれは愛しているよと彼は必ず答えてくれるだろう。あたしは一人ぼっちだよ? あたしがそう言えば、彼は悲しそうな顔をして、おれがいるじゃないか、と言ってくれるだろう。それらすべてがもうわかりきっているのに、あたしはどうして、こんな狭い部屋にいつまでも囚人のように閉じこもっているのだろう。どこにも行くことのできない鳥かごのなかの小鳥のように。

――苦しいの。

そう言えば、そうだろうな、わかるよ、と心底同情したように彼は言ってくれるだろう。彼があたしの妄想の産物だからじゃない。決して。あたしたちは二人で確かに7年もの間くっついたり離れたりを繰り返しながら、つきあってきた。愛し合うだけだったらただの恋愛どまりだといわれるのだったとしても、ひどく不器用なあたしは、それ以外に、人間関係の築き方を知らないから、仕方がないと俯くしかないのだった。馬鹿な女、と嗤われても、あたしはコミュニケーションの方法がよくわからないときがあるから、そうするしかなかったのだった。



昨日の夜はそうやって彼と脳内で一緒に過ごしていた。今日の夜はどうなるかわからない。とりあえず、朝が来たから、あたしは自室のベッドで目を覚ました。飾り気のない女ものの私物に囲まれた個人的な六畳一間のフローリングの部屋。ベッドと本棚と机と箪笥と衣装ケースを置いたら窮屈になってしまうような狭い部屋。あたしだけの、檻。嫌な気持ちで軋むベッドから身を起こし、うるさく鳴り響くスマホのアラームを止める。仕事に行かなきゃ。あたしは自室で着替えてBluetoothスピーカーで音楽をかけた。母親が無表情で部屋にお盆を持って朝食を運んでくる。なにも言わずに机の上に朝食をどんっと置いて去って行く。氷のような冷たい表情からは、なにも読みとれない。たぶんなにも考えていないんだろう。挨拶すらしない。あたしからもしない。終始無言だ。氷の魔女、とあたしは内心で嘲笑った。機能不全家庭。冷たい母親である氷の魔女は、娘を牢獄に閉じ込めそこから生涯自由にすることもなく、愛さないという呪いで娘を苦しめつづけました。生活のため世間体のため仕事を嫌々与える事にした氷の魔女は娘に不幸になればいいのにという最大の呪いとともに茨の道を歩ませることにしました。娘がだれよりも困っていても谷底に突き落とし自力で這いあがってくることを命令しました。娘は氷の魔女によく似た、冷たい凍りついた心を持ち、だれの愛し方もだれからの愛され方もわからない奇妙に歪んだ女に成長しましたとさ。こんな物語、だれが望んでいたというのか。あたしはこんなくだらないもの、欲しくはなかったよ、ママ。ねえ、だれもがあたしたちのことを虐待だよって噂してるよ? 恥ずかしくないの? 何か言ってよ。ママは狡いね。あたしのテレパシーを拾いたくないから、あたしのいないどこか遠い遠い場所に逃げてしまっているんだね? たった一人、自分だけでさ。彼とは脳内でお話しできるのに、ママとは決して脳内でお話しできないのだった。したいとも思わないけど。

彼はまだ寝ている。あたしの脳内で、遠く離れた東京のどこかの家の柔らかなベッドで眠っている彼の姿がぼんやりと映る。テレビを見ているほど鮮明には映らない。イメージよりも、映像よりも、声とか、熱とか、感触とかの方がよく伝わってくる。あたしの、特殊な才能。ここにはいない人と、脳内だけで繋がることができる。テレパシーと、千里眼と、透視と、後の他の能力はなんと呼べばよいのだろう? 体感幻覚だ、幻聴だ、妄想だ、と呼んでひとくくりにすることもできるし、狂人もしくは天才もしくは特殊能力者のなせる業だと神からの奇跡をギフトと呼んでありがたがることもできる。どっちにしても、恵まれた、幸せな能力であることには違いなかった。

これが現実だと、だれかがうまいこと証明してくれたらいいのに。

たまたまとか、思い込み、とかじゃなくて、確かにある、と証明してくれたら、どんなに気持ちが楽になるだろう。彼をもっと信じることができるというのに、どうしてこんなことがこんなにも困難なんだろう。

あたしはベッドに横たわったまま、目を瞑って深呼吸をした。

今日は五分だけ。

そう決めて、タイマーをセットする。

あたしは瞑想をはじめた。全身の七つのチャクラを開け、眉間の間に集中力を集めてフロー状態に入り、祈りにも似た神への想いを精神から天国へ上昇させる。その時点ですでに目の瞼の裏にひかりが見えてくる。そう、いい兆候だ。そのまま瞑想していると、ご先祖様が出てきた。今日もしっかり頑張りなさいよ。そう言われた。あたしは笑ってお礼を言い、タイマーを見た。あと二分残っていた。あたしはスピリチュアリストでもある。毎朝こうやって瞑想して、ありがたい存在からたくさんのありがたいお言葉をいただくのだ。瞑想は、脳にいい。瞑想を続けると、脳が進化すると聞いた。だから積極的にやっている。ちょっと気持ちが落ち着いた。

朝食のバタートーストを食べ終えコーヒーを飲み干し、洗面所で歯を磨く。鏡の前で髪の毛をとかして一つに束ねる。アイブロウで眉毛を描く。前髪を整える。黒目がちのつぶらな眼と目が合う。すっと小さな線みたいな鼻筋の細い鼻。ぽってりとしたかすかな血色の唇。小さい顎。グレーのパーカーに、スキニーパンツを履いている。母親のような派手で目立つ美貌の外見ではないが、綺麗と言われても別におかしくはない女だと自負している。が、年齢が気になってはいた。瞼をそっと閉じると、不安そうな顔をした大人の女が見えなくなる。

鞄を持って日よけ帽子をかぶって玄関でスニーカーを履いて扉を開ける。鍵を閉める。夏の朝の日差しが眩しかった。きらきらと白く輝きながらあたしの眼球や肌や髪を焦がそうとする日光。思わず目を細める。手の甲がすでに光に照らされて熱を持っている。焼けるな。夏が楽しみなどと、だれが言ったのだろう。あたしは、この陽気さのなかで鬱病みたいな気分で暗くなりながら――また日に焼けてしまう――気乗りのしない足どりのまま職場に向かった。楽しい気分で、楽しい仕事がしたい。そんなことができる人は、ほんの一握りだとしても。

アーティストになりたかった。でも、なれない。作品を作って芸術家として生きていけたらいいのに。でも、できない。あたしに与えられたのは、ただの超単純作業だけだった。あたしはオンリーワンの仕事がしたかったのに、こんな仕事、だれでもできる仕事だ。不服でならない。でも、あたしに選ぶことのできる仕事は、こういう超単純作業しかないのだった。ごく普通の仕事は、できない。死んだ父王の呪いによって、あたしはこの街で就職できない。ことごとく面接で落とされるという悪意にも似た嫌がらせじみた呪いを好みに受けている。ただ、こういうパートアルバイトとか派遣社員とか短期のお仕事だったら、かつかつできるみたいだった。ノー面接ノー試験で入れるお仕事。生きていくためには、お金が必要なのは、だれだってわかる人生の真理のうちの一つのはずだが父王はわかっているのかいないのか。

ただ普通の人になりたかった。なれなかった。普通、の世界は、あたしという外国の混血児の精神異常者みたいな異端児を受け入れてはくれなかった。本当は、普通なんて、欲しくはなかった。普通ラインは越えたいという意味だった。それでもどうしても最低にはなりたくなかったから、最高を目指した。なれなかった。普通にはなれなくて、普通以下でも普通以上でもないあたし。普通以下は嫌だから、普通以上になりたい。生まれついたときから、あたしは普通の人間ではなかったんだ。あたしは、決して普通なんかじゃない。普通になりたいと願った時点で、あたしは普通ではない。あたしは普通から逸脱してしまった人間だ。普通じゃないなら、どうすればいい? 

普通以下になれば、みんなから踏みつけられて虐げられて辛い思いをして死にたくなる。

だから普通以上になりたかった。

できれば、最高になりたかった。そう、最高の存在に。ナンバーワンにして、オンリーワンになりたかった。世界でたった一つの、あたしだけの、特別な存在になりたかった。

あたしは頂点を目指して飛んでいったイカロスで、野望で作った翼は太陽ではなく世間や家庭や学校や他人からの冷たい仕打ちによって溶けてしまい、あたしは、最底辺にまで墜落してしまった。見事に普通以下にまで落ちぶれてしまった。最底辺だなんて、あたしはもう、死んでしまいたい。

こんなこと、あたしは望んでいなかったのに。

今は亡き父王がこの街で就職させないと呪ったのは、あたしを東京に行かせるためなのだろうと今では解釈している。

お父さん。

東京は遠いよ。

あたし一人ではとてもじゃないけど、そんなところに乗り込んでいって就職して住むなんて絶対に無理だよ。いったいなにを考えてあたしにそんな過酷な試練を与えたの? ねえ、返事してよ。お父さんってば。

あたしは太陽を目を細めながら見上げた。お父さんの象徴は、あの眩い太陽だろうという気がしていた。死んだお父さんは、太陽の一部になって、あたしを今もきっとどこかで見守ってくれているのだ。お父さん。どこにいるの? 会いたいよ。あたしの名前を呼んでよ。あたしの頭をなでて偉いと言って褒めてよ。あの偽物の家族なんて、あたしは本当は欲しくないんだよ。お父さん。

重たい戸を開け辛気臭い白い廊下を歩きながら「おはようございます」と淡々と挨拶を投げかける。まだだれも来ていないようだ。

埃のあまり落ちていないつるんとした白い暗い床には、攻撃されたらどうしようと言ってびくびく怯える鼠のように弱々しいあたしの気持ちが落ちて散らばっていて、歩くたびにふわりと浮かぶ埃たちは死んだあたしの鼠たちの空気のように軽い死骸のような気がした。全部、妄想だ。あたしの、くだらない幻覚。おっかなびっくり鼠が部屋の隅に落ちて散らばって沈んでいるだなんて、変な妄想だ。あたしは頭がどうかしている。

またひそひそと影口が聴こえた。職場に着くと、だれもいないのに、話し声が聞こえる。だれもいないとわかっているのに。これは幻聴と言うのだろうか。それともなにか別のものなのだろうか。スピリチュアル的な観点からしても、どちらにしても、いい気分にはなれない。

この職場に、なにかよくないものが棲んでいるような気がする。それは、前々から思っていたことだった。陰の気が強すぎるのも。

どうでもいい。頭痛がしてきた。それに耳鳴りも。よくないものがいるのなら、あたしの方から離れていけばいい。いずれあたしはこの職場を離れるだろう。そのときまでの辛抱だ。

 人が集まってきて、超単純作業が始まった。どうでもいいほどの超単純作業。頭を一切使わず、だれでもできるといっても過言ではない仕事をしているとつい眠くなってしまう。なんでこんな仕事などしなければならないのだろう。お金がなければ生きていけないからだと言われても、あたしがしたい仕事はこんなに眠くなる仕事じゃない。やっていてワクワクして楽しくなってしまって時間を忘れて没頭できる仕事だ。そんな仕事がしたいのに、父王は、この街で就職することを望まなかった。それが苦しくて、辛い。逃げ出したいのに、逃げ出せない。

 街の人は、あたしのことを知的障碍者だと呼ぶ。道を歩くとひそひそとそう悪口を言っているのを何度も聞く。あたしは大卒だ。国公立とか有名大学卒者ではないけれど、決して知的障碍者ではない。でも街の人はにやにや笑いながら汚い言葉であたしの顔に泥を塗って喜ぶ。死ねばいいのにあんな奴らなんて。あいつらも、あたしに死ねばいいと思っているのだろうけど。あたしは意地でも死んでやらない。悔しいから。ここで死んでしまったら、すべての努力が水の泡になって消えてしまうから。生きていくのが、苦しいなら、死ねばいいのに、あたしはどうしても、死ぬことはできない。

ああ。ここは地獄なのだろうか? 生きても地獄、死んでも地獄なら、拷問を受けているのと変わらないではないか。死ぬことも、生きることも赦されないなら、生きていること、死んでいることも望めないなら、あたしは拷問を受け続けているのと変わらないんだよ。

 超単純作業を続けていると、自分が可哀想になってくる。惨めな気持ちでいっぱいになってくる。あたしはどうしてこんな場所にいなければならないのだろう? 哀れな気持ちで満ち溢れて思わず泣きそうになってしまう。 

 あたしは。あたしは。

 こんなことをするために生まれてきたわけじゃないのに。

 酷い。

 酷すぎる。

 叫んでしまいそうだった。あたしはこんな仕事なんてしたくない! だって馬鹿みたいなんだもの! 馬鹿にするな! このあたしを馬鹿にするな! あたしの自尊心を踏みにじるな!

 あたしは立派で優秀で賢い人物なんだぞ! こんなクソみたいな仕事をあたしに任せるな! ふざけてる! 死ね! こんな仕事をあたしにさせてるやつらなんて全員死んでしまえばいいのに!

 一緒に仕事をしている数人の従業員や上司たちを床に引きずり倒して顔を踏みつけて、刃物で切り裂いてズタズタにして殺してやりたい。不意にあたしに舞い降りた狂気や殺意は、あたしの心のなかで真っ黒に煮えたぎって暴れ出した。殺してやりたい。本当に。

 あたしはこれを阿修羅モードと呼んでいる。仏教圏で言う阿修羅が、あたしの心のなかで、ときどき気性の荒さとともに現れて悪さをするのだった。

 ブラフマン、ブラフマン、ブラフマン。

 そう心を落ち着けて静かに胸中で唱えていると、阿修羅は消えるような気がするので、いつもやっている。

 絶対善のブラフマンと、《名前を呼んではならない者》である絶対悪のそいつは、表裏一体なので、大丈夫なんだ。いつもこうやって抑えている。もちろんこの方法は、最近知ったのだが。

あたしは若いころ、よくこの仏教圏で言う阿修羅の激しい凶暴性に苦しめられていた。あたしのなかで暴れまわる悪鬼。人を傷つけたいだの人を殺したいだのといって激しくのたうちまわるあたしの悪。人からも指摘を何度も受けた。おまえは悪魔だ。悪魔にとり憑かれている。そうとしか思えない。

あたしは吼えた。うるせえ! あたしは異常なんかじゃない、決して! あたしを異常だと思うおまえの方が異常なんだよ! と猛り続けた。そうするしかなかったんだ。

あたしが異常なのか、それともまわりが異常なのか。

それは二元論で一撃で解決できるような、そんなに単純な話ではなかった。

もっと入り組んだ複雑な話だったので、もうあたしはここでは思い出さないことにした。もう思い出したくもない。世界の構造がわかったからといって、物事が解決するとは限らないのだし。

あたしはなんとか労働を終え「お疲れさまでした」と言って、またひそひそと影口を叩かれながら職場を後にした。うるさいゴミども。ゴミはゴミ箱へ行けばいいのに、そこらへんで散らかっているから、職場が汚くなるんだよ。

あたしは空を見上げた。とっくに夜になっていた。お父さんが見えない。真っ暗な夜の闇の雲の向こうに、隠れてしまったんだ。寂しいよ。

 コンビニに寄って缶チューハイとおつまみのチーズを買った。夕食は母が用意してくれるから、あたしはなにも心配はいらない。たぶんいつものスーパーの安いお弁当だろうけど。

部屋に引きこもって布団のなかにもぐる。もう何もかも忘れて眠ってしまいたかった。真夜中になってしまえばあの愛おしいあの人に出会えることは知っていたが、今はそんなことを忘れてただ眠っていたかった。眠りたい。疲れた。弱音を吐きたい。癒されるとか癒されないとかそういう前にもう、泥のようになって静かに横たわって目を閉じて体を休めて死んだように動かないで休息していたい。ただ、いまだけでいいから。



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