第1話
――あぁ。どうして彼の小麦色の太い腕のなかは南国の野生の獣にも似た太陽の香りと猥雑な明るい異国の街の匂いがするのだろう。陽だまりのなかの若い雄の獣と、陽気な人込みでにぎわう異国の店の立ち並ぶ街並み。そこに行ったこともないのに、それらをまったく知りもしないのに、どうしてあたしにはそれが脳内にありありと浮かび上がりそこにいるかのように錯覚してしまうほどわかってしまうんだろう。まったくを以って不思議だ。
彼の体臭に包まれながら、安心してしまって――この男は危険でもないが別にいい男というわけでもない、ごく普通の男の香りがした――あたしは彼の胸に頬をすり寄せた。
「おれのこと、そんなに好きか」
不愛想にも聞こえるそんなぶつ切りの言葉で、彼が問うてくる。あたしのしぐさが可愛いとでも思ってくれたので聞いてきたのだろう。
「好き、という感情が、あたしにはよくわからないの。でも、愛してる」
「変な奴」
そう言って彼はふっと笑った。
「それでいいんだよ。おまえは、それで、」
彼は太い指のついた厚い掌であたしの頭をそっとなでた。あたしは小さくはぁ、と吐息を漏らす。
まだしたい、と言うと彼はまだいくらでもしてくれるんだろうなということがわかっていた。それが彼の不器用なまでの真っすぐな愛情表現だから。あたしの望みをすべて、そう、ほとんどすべて、を、可能な限り叶えてくれようとする愛の形だから。だから、あたしは黙っていた。彼の穏やかな優しい黒い瞳が、熱っぽくあたしを見つめる。あたしの唇に、彼のうすい綺麗な形の唇がそっと触れる。微かなキス。彼の整った鼻筋に、あたしは鼻先をすり寄せていわゆる鼻キス、を返す。彼は笑っている。あたしもふふ、と笑う。
青いベッドシーツにくるまれて、あたしたちはいつまでもそうして寄り添っていた。
すべて、あたしの妄想だ。単なる妄想の域を出ない。でも、たしかに、あたしたちは身体を重ねて二人だけの時間を過ごしたことには違いはなかった。たとえそれが現実ではなかったとしても。現実世界では全く別の空間に二人が存在し、この出来事が二人の脳内にしか存在しなかったとしても。
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