薄紫戦記の葉緑

 今日も空は青かった。そんな空をいくつかの白い雲が流れていく。その様子を見上げながら、僕は呟いた。

「なんでなんだろうなぁ」

 それはこっちに来てから幾度となくくり返された問いかけだった。

「ホント、なんでかな」

 そう言ってワイシャツの胸ポケットのタバコに手を伸ばそうとしたら、背後の扉が開く音がした。

「あ、いたいた。葉緑(はみどり)さーん!休憩時間終わってますよー!」

 後輩の元気な声が届いた。

「あーい。今行きまーす」

 僕はそう答えて屋上を後にした。


 この世界には、ごくまれに別世界の住人が迷い込むらしい。その人たちは稀人と呼ばれている。そしてその別世界とは、小説やマンガといった創作物の世界である。。

 僕も最初は信じられなかったけど、実際に自分が登場する作品を読んだらまぁ、納得せざるを得ないよね。

 そう、何を隠そう僕も稀人だ。名は葉緑。登場作品は『薄紫(うすむらさき)戦記』だ。


「休憩時間過ぎても葉緑さん戻ってこないから、部長カンカンでしたよ」

「そっかぁ。でもあの人、なんだかんだでいつも怒ってない?」

「あー、それあるかも。何かあって怒ってるというより、怒るネタ探してる感はありますね」

「ありゃ長生きできないよ」

 僕と後輩の女の子、長田ちゃんはそんな会話をしながら階段を下りていった。

 オフィスに戻って自分の席に座ると、すぐに件の部長が近付いてきた。

「葉緑くん。休憩時間、何時までか把握してる?」

 落ち着いている風を装っている声音で部長が言う。

「はい、今日の休憩時間は13時30分まででした」

 こちらも落ち着いた口調で答える。それが引き金になったのだろう。部長の目が一気につり上がった。

「じゃあどうしてその時間に席に座ってないの!今もう2時じゃない!時間の管理もできないようじゃ、やってけないわよ!」

 その後もしばらくガミガミと説教をくらう。僕はいつも通り適当に聞き流していた、のだけど、

「稀人だからって特別扱いされると思ったら大間違いよ。あんたがそんなだから、薄紫も守れなかったんでしょ」

 それを聞いた瞬間、頭に一気に血が上るのが自分でも分かった。僕が立ち上がった勢いで座っていた椅子が大きな音を立てて倒れた。さっきまで見下ろされていた部長を、今度は見下ろす形になる。

「な、何よ……。何か言いたいことでもあるの……?」

 僕の身長はこちらの単位で言うと2mほどある。体つきこそひょろひょろでも、これだけ身長があると迫力はあるようで、

「と、とにかく!今後は気を付けるように!」

 そう吐き捨てて部長はそそくさと自分の席に戻っていった。


 薄紫。その名を忘れることはできない。彼女は僕の憧れだった。僕が仕えることになった時、既に彼女は淡(たん)の国の女王であり、僕は彼女の槍兵の一人だった。


その日、退社しようとしているところに長田ちゃんと先輩の河野さんに飲みに誘われた。

「あの時の部長の目、傑作だったよ。明らかに怯え入ってたねあれは」

「いや、あれは脅すつもりはなかったんですけど、ちょっと聞き捨てならなくて……」

 僕の言葉に長田ちゃんがうんうんと頷きながら、

「でも分かりますよ。誰だってあんな言われ方したらカチンと来ちゃいますもん」

 とジョッキ片手に言う。彼女は居酒屋に来るとだいたいずっとジョッキから手を離さない。ジョッキの中が空になっても次が来るまで握ったままだ。そういう誓約でもあるのだろうか。

「俺も学生時代に薄紫戦記読んでたけどさ。確かに薄紫は魅力的だよね、女性としても上司としても」

 河野さんがそう言っている間に居酒屋の店員がお酒とツマミを運んできた。真っ先に長田ちゃんが手を伸ばす。

「へ~。葉緑さんから見た薄紫さんはどんなだったんですか?」

 僕は手元にある日本酒のお猪口を見つめながら答えた。

「薄紫様は、知略に長けた人だったよ。どんな戦でも負けなしだった。それでいてみんなから尊敬されて、女王のためなら喜んで命を賭して戦えると兵士たちは言っていたな」

 そこまで言葉にして、不意に部長の言葉が思い出された。

「あんたがそんなだから、薄紫も守れなかったんでしょ」

 残念なことに部長の言ったとおりだ。僕は一番大事な時に彼女のそばにいなかった。敬愛する女王が息を引き取るのを見ていることしかできなかった。

 表情が暗くなっていたのだろう、長田ちゃんが急に明るい声で、

「でもでも!薄紫さんはもういないけど、葉緑さんは今ここにいるんですからせっかくだから楽しみましょうよ!」

 と大きめな声で言った。

「そうだね。ありがとね、長田ちゃん」

 そして僕らはその日何度目かの乾杯をした。


 薄紫の一番槍、葉緑。そう言われるようになったのは隣国から侵入してきた部隊を何度か退けた頃だった。薄紫は陣地から、僕は戦場で自軍の兵士たちを鼓舞していた。多くの敵兵を貫き、多くの味方を守った。でも、一番守りたかった女性は守れなかった。


 飲み会はお開きになり、僕は長田ちゃんを送っていっていた。

「長田ちゃん、大丈夫?ちょっと今日は飲み過ぎたでしょ」

「だいじょぶです……。これでも学生時代はお酒強いキャラでしたんで……」

 そう言いつつその場にうずくまる長田ちゃん。

「あー、もう。ちょっと待ってて。そこのコンビニで水買ってくるから。いい?動いちゃダメだよ」

 長田ちゃんを残して目の前のコンビニに入る。手早く水を買って戻ったけど、そこに長田ちゃんの姿はない。

「あれ?長田ちゃん?」

 周りをキョロキョロと見渡す。するとビルの陰に人影が入っていくのが一瞬見えた。嫌な予感がした。走ってその後を追う。

 そこには二人の男と、長田ちゃんがいた。三人の目がこちらを向く。

「おい。今取り込み中だ。失せろ」

 男の片方が低い声で脅すように言う。

「長田ちゃん、ちょっと待っててね。こいつらすぐ片付けるから」

 僕は男の声を無視して長田ちゃんに声をかける。努めて優しげに聞こえるように。

「なんだぁテメェ。失せろっつってんのが分かんねぇのか!」

「ごめんね。こっちも酒入ってるし、手加減あんまできないかも」

 拳を振りかぶりこちらに向かってくる男との距離をこちらからもさっと詰める。タイミングをずらされて男が戸惑いを見せたその一瞬、みぞおちに掌底を打ち込む。男の身体がくの字に曲がったところで今度は顎を狙って拳を叩きつけた。それだけで男は倒れこんだ。あっという間だったこともあり、もう一人の男は何が起きたのか分かっていないようだった。

「え?あ、アニキ?」

「おい」

「あっ!はいぃ!」

「見逃してやるからさ、そいつ連れて帰れ」

「はい!すんませんした!」

 慌てて倒れている男を引きずって視界から消えていった。

「大丈夫?長田ちゃん。ごめんね、怖い思いさせたね」

 へたりこんでいる長田ちゃんの身体を起こそうとすると、彼女はこっちに抱き着いてきた。

「葉緑先輩ぃぃ」

 どうやら泣いているらしい。僕はしばらくそのままで泣き止むのを待った。


「そしたらね!葉緑先輩が現れて、悪いヤツをバババーッてやっつけちゃって……」

 翌日、長田ちゃんが同僚に昨晩の話を若干誇張しながら話しているのを横目に、

「休憩入りまーす」

 僕はビルの屋上に上がっていった。

 今日の空は少し曇っていた。一雨来そうな感じがする。

「今度は、守れたか」

 昨晩のことを思い出して一人呟く。守ることができた長田ちゃん、守れなかった薄紫。二人の顔が脳裏をよぎる。

「この時のためって言うのは、ちょっと違うかな」

 そして大きく伸びをして再び呟いた。

「なんでここに来たのが薄紫じゃなくて僕だったのかな」


薄紫の一番槍、葉緑。薄紫戦記において薄紫の理解者の一人として描写され、薄紫への忠義を胸に常に戦場の最前線で戦う姿は多くの読者に感銘を与えた。薄紫とはお互いに恋慕の情はあったものの、最後までそれを伝え合うことはなかった。

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