春に咲いたある一輪の白百合

鍋谷葵

春に咲いたある一輪の白百合

 朝、目を覚ますと部屋には一輪の瑞々しい百合の花が活けられていた。

 ベットから起き上がって、小さな白い花瓶が置かれたローテーブルに近寄ると僕は百合の花の匂いを、どうしてか分からないけれど本能的に嗅ぐ。

 僕はその匂いに昔を思い出す。……


 ◇◇◇


 その日、僕は旧校舎の二階の空き教室で、学校で唯一嫌いな女教師の授業をサボっていた。

 二時間目という午前の中で一番心地いい時間を堕落に費やして、背徳感を感じることは十六歳の僕からしたら何よりも喜ばしいことだ。

 何より学校なんていう拘束の権化のような空間の中で、しかもその中でも最も拘束力の強い授業という時間を潰しているという事実は、口でも暴力でも反抗できない僕にとって一等賞のような達成感を感じられる。

 最もやっていたことと言えば、そして今でもやっていることと言えば、高校の旧校舎の旧音楽準備室に置かれたぐらつく丸椅子に腰かけて、古ぼけた教師用の木製デスクに突っ伏しているということくらいだ。

 けれど、そうしてスマホをいじってソシャゲをするわけでもなく、本を読んで物語の中にダイブすることでもなく、悪い遊びをするわけでもなく、何もしないで木枠の窓から鉄筋コンクリート造りの刑務所の様な現校舎を見ることが、僕にとって心を安らげる良い時間となっている。

 ただ、その日は、今から二か月前のカラッと心地よく晴れ、青空が永遠と続くように見えたあの日は違った。僕だけの旧音楽準備室じゃなかった。

 いつも通り机に伏しながら、顔を横にして窓を眺めていると靴音が聞こえた。先生の巡回が来たと僕は不幸を感じた。今更、怒られることに緊張はしなかったけれど、のどかなで滅多に見ることの出来ない雄大な青空を奪われることが酷く残念に思えた。

 心に厭わしい靄を抱いた僕は、デスクから体を起こして、音楽準備室の入り口を前に姿勢を正して立った。目上の人が来て怒られる時、それもこちらに十割非があるときは、変な反抗心を見せることなく、素直に謝ることが一番ことを荒立てずに済む。これをわきまえているから、手は制服ズボンの折り目に指を合わせて、普段は猫背な姿勢を正して、ビシッと立った。

 木製校舎の乾いた木の床をゴム底が打つ音が近づいてくると、心に生じた靄はより濃くなった。そして、僕の中に燦然と輝く無抵抗による抵抗の勲章の色が褪せてゆくようにも感じられた。

 いよいよ靴音は、古ぼけた音楽準備室の扉の前で止まった。

 ただし、靴音の主はすぐに準備室に入ってこなかった。扉の前でカツカツとゴム底を鳴らしながら、まるでこちらから出てきて謝れと言わんばかりの立ち振る舞いで、僕の心を煽ってきた。

 これに僕は苛立った。

 確かに僕に全面的な非があるし、自分から出頭して謝って来いっていう態度はもっともだと思った。けれど、それをこちらに強制しようとする態度は気に食わなかった。

 ことを荒立てない方法をわきまえていながらも、当時の僕は苛立ちに屈して、決してその場から動かなかった。動いて堪るかという世にも迷惑な頑固な考え方が、僕の思考を固定した。


「おーい。誰か居るんでしょ?」


 凝り固まった僕の思考だったけれど、扉の先より聞こえてきた若い女性の間延びした声によって解れた。この時、僕は僕と同じようなことを考える奴が居ることに喜びを感じた。

 同時に僕は僕だけの勲章だと思っていたものが、僕だけのものじゃないことに気付いて虚しさを感じた。


「入るよー」


 相反する感情に得も言えぬ不快感を感じて、凛とした姿勢を崩した僕はもう一度聞こえてきた間延びした声と、ギイギイと金属音を立てながら開く扉に取り乱した。その結果、どういうわけか僕は椅子に座っていた。

 なぜか、その理由は僕にも分からなかった。今でも分からない。

 けれど事実として僕は、開く扉と間延びした声を前に、ボロボロの椅子に慌てて座り込んだ。結果として、狭い音楽準備室の滅多に掃除されない床にうっすらと積もっていた埃が舞って、心地よかった部屋は一気に埃臭くなった。

 入ってくる人よりも、僕は音楽準備室が埃臭くなる方が嫌だった。だから僕は、扉の前に立っていた人が部屋に入ってくることが分かっていながらも、椅子から立ち上がって、金具が錆びて開けづらくなった木枠の窓を開けて、外の新鮮な空気を吸った。吹き込んだ風は部屋をぐるりと回って、部屋に舞った埃を含んで窓から出て行ったように感じられた。

 埃が消えたように思えた僕は、ここで初めて後ろを振り返った。

 そこにはショートヘアーで、制服姿の、しかもネクタイの色から察するに同級生の女子が後ろで手を組んで、驚きを顔に映して佇んでいた。


「誰?」


「酷いなあ……」


 ぶっきら棒な僕の口から放たれた言葉は、その同級生の表情を驚きから呆れに変えた。間延びした彼女の声も、どこか僕を残念に思う声に聞こえた。


「知らない? 私だよ、私」


「詐欺?」


「酷いなあ。これでもクラスメイトなんだけどな」


「それは、ごめんなさい」


「良いよ別に。そういえば、先生怒ってたよ。『また、サボりか!』って」


 似ても似つかない間延びした声で、彼女は怒る英語教師のものまねをした。どこも英語教師を掠ってない下手くそすぎるものまねを前に、僕は呆れた笑い声を漏らした。どういうわけだか、当時の僕には彼女の下手くそなものまねがウケた。

 彼女は自分でも、自分のものまねが下手くそだということに気付いていたらしく、笑う僕を見ると、恥ずかしさからくる熱で顔を赤らめた。


「それで、君はどうしてこんな古ぼけた旧校舎に来たの?」


 恥じらう彼女を前にして、僕は新しい背徳感を得た。

 けれど、僕はその背徳感が気持ち悪くて仕方が無かった。無性に、その感覚を抱いた僕自身を鞭で打ちたくなったし、彼女とは別の恥ずかしさを覚えた。そして僕は、自分に対する嫌悪感と羞恥心から逃れるために、口早に、恥じらう彼女に悟られないように質問をぶつけた。


「君と同じだよ。サボり。学校の授業つまらないから抜け出してきたんだ」


「真面目そうな君がかい?」


「君に言われたくないな。英語の授業以外、みんなが寝る古典の授業ですらぱっちり目を開けて起きている君にだけは言われたくなかったよ」


 間延びした声で、恥からすっかり抜け出した声で、彼女は普段の僕を指摘した。ありのままの僕を、つまりそれは小さな誇りとして抱いていた勲章が紙同然であることだ。僕は、勲章の価値の暴落に苛立ちを覚えた。

 女々しかった当時の僕は、生じた苛立ちを態度に表してしまった。

 やってしまったと思った。

 しかし、時間は取り戻せなかった。


「なんでそんなに怒ってるの?」


「怒ってるわけじゃないよ。僕は、ただ、そう、ほら……」


「ほら、やっぱり怒ってる」


 言い淀む僕は、そのまま何も言い返せず、彼女の穏やかにからかう言葉に飲まれた。ここで僕の感じた苛立ちは恥となった。

 体中が熱くなるのを僕は感じた。足の先から、指の先から、耳の先まで全身が燃え尽きそうなほど熱くなった。結局、僕は彼女と原因は異なるけど、見てくれだけは同じように恥じらった。


「まあ、うん、もう良い」


 そして僕は彼女と違って柔らかい人間じゃなかった。だから、僕の口は軽やかに動かなかったし、彼女との会話から途中で逃げた。


「良くないよ」


 けれど、彼女は僕を会話から逃がしてくれなかった。

 拗ねてもう一度椅子に座ったあまりにも子供っぽい僕をたしなめるように、彼女は僕の傍らに足を運んだ。

 彼女は僕が開けた木枠の窓に腰を掛けた。古ぼけた木枠に身を預けるだなんて、酷く危ないことだと思った。ただ、当時の僕はそのことを指摘することは出来なかった。下らない自尊心が、僕の注意を僕にだけ向けていたからだ。


「分かったよ」


 投げやりな口調で僕は、彼女をわざと遠ざけようとした。


「そっか。なら良いんだよ」


 棘の様な僕に、彼女は穏やかな口調で微笑んだ。


「それでどうして君はこんな場所に来たの?」


「さっきも言った通りサボりだよ。私だって、あの先生のこと嫌いだし。ただ今日は特にあの人が嫌いになったんだ」


「あのヒステリーさん、また変なことでキレたの?」


「そうそう。毎日毎日ご苦労様だよねえ。本当は自分が悪いのに……」


 伏し目がちに、表情を隠して語る彼女の言葉に僕は違和感を覚えた。

 僕はあの教師のことをそこまで言っていない。僕はただ、授業のたびに、理不尽な理由で怒ってくるあのおばさんを愚痴ったまでだ。

 けれど、彼女はさも毎日顔を合わせて、毎日あの発作に付き合わされているようだった。


「どういうこと?」


「うんうん、なんでもないよ。ただ、ほら、人を突然ビックリするくらい嫌いになることってあるでしょ? 私の場合、それが今日だったていう話」


「変だな。あんな奴、嫌いにならない人間なんていないと思うんだけど。自分の非を認めないで、教師という職にあぐらをかいて僕らを見下してくるような人間を今日まで嫌いになれなかったなんて君はよっぽどお人好しだな」


「そう? そうだよねえ……」


 彼女は腰を上げると、今度は外を向いた。

 それはまるで僕から表情を隠すために、仕方が無くやっているように見えた。

 上手く僕の質問と噛み合っていない言動に、僕の感じた違和感はますます大きくなった。風になびく彼女の短い髪より、普段かかわりのない女子の良い匂いより、何より僕は彼女が僕に隠そうとする何かが気になった。


「お人好しっていうか、なんていうかねえ」


「いや、君はお人好しだよ。あんな奴、家族でも軽蔑するよ。人に優しくすることが出来ない奴は、どんな人間にも優しくすることは出来ないからね」


「そうなの?」


 振り返った彼女の表情と声には、小さな驚きが含まれていた。


「そうだよ。いや、そうに違いない。確証はないよ。でも、僕は人を傷つけて自分を守ろうとする奴が嫌いなんだ。そして、きっと、誰もがそうだ。だから、あんな奴は家族に嫌われても仕方がない。いや、嫌われるべきなんだ。嫌われて、好きだった人から突き放されて、誰からも見放されて、そこで自分のしてきたことを反省するべきだ。それから自分のやってきたことと同じことを二度としないように、行動を改めるべきなんだ」


 彼女の素っ頓狂な驚きの表情は、どうしてか僕の頑固な口をほぐした。当時の僕は、僕の言葉が彼女の浮かない雰囲気を解決するなんていう馬鹿らしい自尊心を抱いていた。だから、僕は普段は恥ずかしくて言えないことをべらべらとしゃべった。

 柄でもない正義感に気付いた時、僕はもう一度羞恥心に襲われ、反射的に目を閉じた。また、全身がくまなく焼かれるような熱を体に帯びた。


「本当に? それじゃあ、その人をたった一人にしても、その人が最も愛する人が傍からいなくなっても、その人は大丈夫なの?」


 臆病にも目を閉じた僕は、恥を忍びながら彼女の声に導かれて目を開けた。

 そこには薄っすらと涙を浮かべて、僕の言葉を祈るように待つ彼女が居た。

 救いを求めるような彼女の表情に、僕は彼女の名前を思い出した。そして、彼女が抱える事情を彼女の今にも壊れそうなガラスの言葉から察した。

 僕は、咄嗟に「それでも大丈夫」だと言いかけた。でも、僕はその言葉を口にする前に口を閉ざした。臆病な僕に、人一人の運命を変えることはすぐに出来なかった。

 けれど、体の前で手を祈るように組んで、僕をあたかも救世主のように見つめる彼女を見ると、僕はそれを言わなければいけないという義務感に襲われた。

 その時、強い風が吹いた。

 風は音楽準備室に吹き込んで、春の陽気の心地よさを充満させた。同時に力強い意思を与えてくれた。


「うん、大丈夫だよ。それがその人の罪と罰なんだから」


 無責任な言葉を、彼女が求めた解呪の言葉を、春風にほぐされた穏やかな表情のまま紡いだ。


「それじゃあ、君はその責任を取ってくれる?」


 薄っすらと涙を浮かべ、今にも壊れそうな彼女の言葉に僕は窮した。

 けれど、当時の僕はどうにかしていた。言葉に窮したのにもかかわらず、次の瞬間には無責任な自信がついてきた。

 僕はこくりと彼女にうなずいた。

 すると彼女は、顔色をパッと明るくさせた。そして、彼女はしゃがみこんで僕の手を力強く両手で握った。僕の手に温もりが伝わる。同時に、柔らかい笑みが僕の視線に入った。


「ありがとう。これで決心がついたよ。ありがとう、ありがとう……」


「いや、うん、そうだね」


 身勝手で傲慢な救世主になった僕は、窓の外を眺めた。

 部を弁えない自分が、当時は恥ずかしくなかった。

 だから、あんな言葉が言えたんだと思う。彼女の名前に意味を紐づけた恥ずかしいことを。


「いつか、勇気を持った時で良いから、その時は白い百合の花を僕の家まで持ってきてくれよ。僕は一人だからさ」


 ◇◇◇


 僕はそう言って彼女の手に、アパートのスペアキーと住所の控えを渡した。


「そういうことか……」


 朝一番に近い過去の羞恥心に身もだえる。

 体が熱くて仕方が無いし、今すぐにでも穴の中に入って過去の事実を消してやりたい。

 ただ、そう、これは身勝手な、かつての僕が言ったことと同じことだ。


「おはよう、約束通り白い百合の花を持ってきたよ」


 だから、僕は一時の傲慢による過ちを受け入れながら今日という日常を過ごそう。


「おはよう。百合」


 

 



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