Scar

水野匡

1.

 傷のないものが好きだ。

 痕のついていないぴかぴかのものが好きだ。

 折り目がついて歪んでしまってひしゃげてしまったものは、嫌いだ。

 その女は名前を水多あしろといった。

 口に三つ、右の耳に四つ、左の耳に二つ穴を開けて金属製の輪を通している女だった。

 髪の色はいつ見ても変わっていたが、毎回毒々しい色合いであることには変わりなかった。

 私はこの女が嫌いで、目も合わせたくなかった。

 だから、出会うはずはなかった。

 そのはず、だった。

 呼んだデリヘルは見ず知らずの人間のはずだった。

 ここにいるのはまったく面識のない相手でなければならないはずだった。

「あれ、切間ちゃんじゃん。どったの」

 部屋を間違えていないか確認する水多の所作はどこかなまめかしく見えた。そして、そう思ったことをすぐに後悔した。

「名前、なんで」

「最初に訊くことがそれ? だっていっつもぼくのこと見てるでしょ、切間新ちゃん。すぐに目を逸らすけど」

 気づかれていた。同時に恐怖がわきあがる。こいつは私のことを知っている。

「それで、しないの?」

「……え」

 するって、何を。

「変な顔するなあ。呼んだんだから、するんでしょ。セックス」

「は」

 危うく叫びそうになる。いや、叫んでいいのだろうか? ここはラブホテルだ。

 私の顔を不思議そうな顔をしながら見ている水多の唇には、金と銀と黒の金属が照明の照り返しによって光っている。

「せっかくお金払ってぼくと会って、何もしないでさよならなんて寂しいじゃん? それに最初からそのつもりだったんでしょ? なら素直になりなよ」

 水多の細い指がバスローブの下をはい上がってくる。背中を通って、肩をなぞり、胸へ届いたところで私の身体はようやく制御を取り戻した。

「やめて……っ」

 無理に払い除けたせいでバスローブの紐がほどけ、胸がはだける。

 ベッドに倒れる水多の姿は、まるで私が押し倒したかのようだ。

「……どうしてそん何ぼくを拒むの? そん何されると、少しは傷つくんだけどなあ」

「だったら帰ればいいじゃない。お金は払うから」

「そうもいかないよ」

 水多は倒れたまま私を見つめている。その黄金色の瞳に見られていると思うと、背筋の中まで見透かされているのではないかと思うぞっとした美しさを感じる。

 その指先は整えられた丸い爪が自然な光を放っていて、細く長い手は生まれたばかりのようにきれいだ。大きく破綻していない胸ときつい傾斜を描く腰の曲線の対比は女性的なものを感じさせる。長いというわけではない脚は、しかし完全な比率のもとに生々しい魅力を語っている。

 水多に対して劣情を抱くということを許せない。こいつは私の嫌いなものなのに。傷痕だらけの顔だってそうだ。見えていない身体だってどんな痕がついているかわからないのに。

 こいつは“きれい”なものじゃないのに。

「切間ちゃんはさ」

 水多ははにかみながらいった。

「ピアス、嫌いなの?」

 私の考えていることを見透かしたかのような問いかけをされ、少し動揺してしまう。

 表情に出ていないかを考えながら答える。

「ピアスというか……傷痕が嫌いなだけ」

「痕? そこなんだ。面白いね」

「何が面白いというのよ」

 私が訊くと、水多は笑いながらいう。

「別に切間ちゃんのことを笑っているわけじゃないよ。ピアスの有無とか、デザインとか、ものに文句をいう人はいたけど、穴に文句をつけてくる人に初めて会ったから。珍しくて」

 物珍しさで面白くなっているだけだろう、といいたくなったが、いわなかった。

 水多は起き上がると髪をかきあげ、耳についているピアスを露出させる。

 どきりとする動きに、目が離せなくなる。

「ずっとこれを見ていたんだね。そりゃあ目も合わせてくれないわけだ。人の顔を凝視するなんて恥ずかしいもんね」

 耳のピアスをもてあそびながら私のほうへと来ると、顔の近くで囁いた。

「そん何見たいなら、もっと近くで見ればいいのに。今なら好きなだけ触っていいんだよ?」

 言葉が聞こえた瞬間、私の中で何かが切れた。

 ベッドから立ち上がり、水多と相対するとそのまま両腕をつかんで力を込めて押し倒した。

 腕を握る力は無意識で強くなっていき、身体に熱がこもるのを感じる。

「ふざけないで……」

 私はそう口走っていた。

「そんな傷痕だらけの顔で、私を誘惑しないで。あんたを遠くから眺めているだけでよかったのに。こんな近くで汚れていることを知りたくなかったのに。歪んでいるとわかるくらいなら何も知らなくて良かったのに。私は、私はあんたみたいなきれいじゃないものが一番嫌いなの。だから、だから……」

 何がいいたいのか、何をいっているのかぐちゃぐちゃで、わからなかった。

 感情が溢れてきて、今までにないほど自分が捉えられなかった。

「……ねえ、切間ちゃん」

 水多は笑わずにいった。

「ぼくはものじゃなくて人間だよ」

 腕を握る手の力が抜ける。ずっと力を込めていたから、放すと痛みが走る。

「切間ちゃんがきれいなものを好きなことはよくわかったよ。きっとものを大切にしてきたんだろうね。大切なものも、それを抱える思い出も、みんな。だけど、ぼくは切間ちゃんのおもちゃじゃないし、君の思い出でもない。今ここにいる、ひとりの人間だよ」

 黄金色の虹彩は私の像を映して逃さない。細められた目の中に、余裕のない私がいる。

「切間ちゃんはきっといい人なんだろうね。他人の傷痕を否定できるいい人だ。だけどそれは自分が傷つきたくないだけの身勝手ないい人だよ」

 水多は再び、笑いながらいった。

 私はその笑みに、反射的に叫んでいた。

「そうだよ、エゴだよ。身勝手で幼稚なわがままで自分が大事な最低の良識だよ。誰かの傷痕を見ることで自分の傷痕を見たくないだけだ。傷ついてきれいじゃないものを見て自分の中のきれいな思い出に傷がついていることを確かめたくないだけだ」

 相手の顔も見ずに、一方的にまくし立てる。それでも金属の輝きは私の視界を覆って離れない。

 水多の腕が私の腕に絡みつく。肘をかすめて、肩甲骨を撫でる。腕全体を使って、私の手を自分の顔に当てた。

 ぐっと私の手を頬にめり込ませながら、水多の瞳は笑いかける。

「傷が怖いなら自分で作ればいい。傷ができて表面が変わっても、本質は何も変わらないよ。ぼくの顔は傷痕だらけになっても、ぼくは傷の有無で何も変わることはない。ただ、傷という変化が見えるところに生まれるだけだよ」

「何を……いっているの」

「もっと自分に正直になればいいの。何が怖いのか、何を持っていないのか、何をしたいのか。自分で見えないなら鏡を見ればいい」

「抽象的な話は好きじゃない」

「それならもっとわかりやすくしてあげる」

 水多は身体を起こすと、私の首に腕を回して支える。そして、耳元で囁いた。

「ぼくのことを好きになったんでしょ?」

 私は反射的に水多をベッドに叩きつけると、顔へ向かって拳を振り下ろしていた。

 何度も何度も殴り、息が上がるまでそれを続ける。

 怒りに身を任せ、私は好きになった人を自分でもとに戻せなくなるまで壊した。

 水多が動かなくなり、私が血で汚れ歪んだ顔を眺めていると、彼女はいった。

「ようこそ」

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Scar 水野匡 @VUE-001

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