第4話 過去の幻影


「――」


 母さんが必死な顔で何か言っている。

 しかし、耳鳴りが酷すぎて何も聞こえない。


「俺のせいだ……! 俺が……!」

「っ!」


 うるさいほどの耳鳴りの中、パン、という乾いた音で我に返る。

 それが頬を叩かれた音だと気づいたのは、こちらを真剣な顔で覗き込む母さんの両手が頬に添えられていたからだ。


「大丈夫? 聞こえてる? あんたのせいじゃないから、まずは落ち着きなさいって」

「はぁ……お、俺……」

「あのゲーム機を捨てなかったのは環が欲しがったからでしょ? 環が倒れて以来、あんた一度もゲームやってなかったじゃない」


 そう、あれは今から1年前。

 環が居間で倒れていたにも関わらず、学校にも行かず朝から晩までゲーム漬けだった俺は気づくことができなかった。

 幸いちょうど家に帰ってきた母さんが見つけ、すぐに救急車を呼んで事なきを得たが、俺はその時もこうして酷く取り乱したことをよく覚えている。

 心配しすぎだ、と目覚めた環は笑っていたが、俺はゲームのせいで危うく妹を死なせかけたことがたまらなく怖かった。

 そして、今までVRMMOの世界で積み上げてきた全てを捨てて、環に二度とゲームをしないと誓いを立てたんだ。


「そうじゃない、そうじゃないんだよ……!」

「え……?」


 あいつが憧れたというプレイヤー、ラインとはきっと『Rain』のことに違いない。

 もちろんそいつは偽物だが、それを生み出したのは他でもない過去の俺だ。

 過去は全部清算したはずだった。

 それなのに、それなのに――


「……結局、俺はいつまで経ってもあいつに迷惑をかけ続けるのかよ……」


 吐きそうなほどの嫌悪感に顔を歪める。

 どうして環ばかりがこんな目に遭うのだろうか。

 もし何らかの理由で罰を受ける必要があるなら、それは俺の方であるべきなんだ。

 ――代わってやれるなら、代わってやりたい。


「代わり……ああ、そうか」


 それに気づいたとき、今までの動揺が全部ウソだったように気持ちが落ち着いた。

 自分が何をするべきか、何をしなければならないか、それが具体的なイメージとなって頭に浮かび、膨大なチェックリストが眼前に現れたような心地だった。


「やらなきゃ、俺が――」


 ふらりと立ち上がった俺の腕を母さんが掴む。

 すごい力だ。


「玲、あんたもしかして……バカなことしようとしてるんじゃないでしょうね……!?」

「でも俺が……そうだ、俺が行かないと……」


 そして俺の尋常でない様子に気づいたのか、一瞬たじろいだ後に苦し気に目を伏せた。


「……それは、あんたがやらなきゃいけないの……?」

「ああ、そうだよ。あいつがゲームを始めた原因は、最終的には俺にあるから」

「そう……そっか……」


 はあ、と溜息を吐くと、今度は母さんが床に座り込む。

 ものすごい力で掴まれていた腕は、いつの間にか解放されていた。


「はぁ……帰ってこないかもしれないことに息子を送り出すなんて、完全に母親失格かな。本当は叩いてでも止めるべきなんでしょうけど……」


 そう言って、伸ばした腕で俺を抱き寄せると、そのままこちらの肩口に顔を埋めた。


「でもあんた、昔からこうと決めたらどんな手段を使ってでも、何を捨ててでも実現してきたもんね。学校行かないでやってたゲームも、環のためにって綺麗さっぱり断ち切って、また学校通って……ちゃんと高校にも入れるくらい勉強して……。だから、どんなに止めても意味がないって分かってるのかも……」


 ごめん、と短く答えると、母さんは力なく首を振る。


「謝るのは私の方……。私もお父さんもいつも仕事仕事で、あんたたちの面倒なんてほったらかしで……だから、本当は引き留める資格も無いのよ……」

「そんなことない。今日だってすぐ病院来たじゃん。仕事全部放り出したんでしょ?」

「でも……」

「俺も環も、別に気にしてないよ。ただ、帰ってきたら全員で飯にでも行った方がいいと思うけどな」

「あははっ、そうね。そうしましょう」


 努めて明るく振る舞った声。

 表情は見えないが、それがどんな感情から出た言葉なのかは考えなくても分かる。


「いってらっしゃい。ただし、必ず環を連れて、無事に帰ってくるって私に宣言して」

「絶対に環を連れて帰るよ。もちろん俺も一緒に」


 高校生にもなって母親と抱き合うなんて、気恥ずかしいなんてもんじゃない。

 それでも、今の俺がするべきことと思って抱き返す。


「……お父さんの部屋、クローゼットの右上の棚に環のつけてるゲーム機と同じものがあるわ。それでいいんでしょ?」

「うん。ありがとう、母さん」


 ぽんぽん、と背中を叩いて離れる。

 ぐっしょりと濡れた肩口を見て、振り返るのはやめた。


「行ってくるよ」


 それだけ告げて病院を出ると、俺はクリスマスイブの夜の街に駆け出す。

 もしかしたらこれが現実世界で走る最後の瞬間になるかも……なんて、そんなことは微塵も考えていなかった。

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