3-3 下町の陛下、民を安んじる
後日、昼。
俺は取り決めたとおりに、住宅街を重点的に巡回していた。
このときは人員の組み合わせの都合で一人である。
「なんかうるせえな……?」
相談を受けたイノさんが住んでいる公営住宅に差し掛かると、騒ぎが聞こえる。
声のする方へ慌てて走ると、数十人のおそらくここの住人たちが、住宅地の中央広場で言い合っていた。
「ここは俺たちが場所を取ってたんだぞ! 目印の石が置いてあっただろ!」
「知らねえよそんなもん! 場所を取りたかったら人を置いとけよ!」
「俺らはお前らみてえに暇じゃねえんだよ!」
「暇人だあ!? 俺をバカにしてんのか!?」
「だったらどうすんだコラ!」
「やんのかオラァ!?」
どうやら、花見の場所取りで揉めているようだった。
二組の集団が、ここは自分たちの縄張りだ、いいや俺たちのだ、という衝突を繰り広げているのだ。
くだらない、あまりにくだらない……。
こんなことで、いい歳をした大人が、数十人も寄ってたかって……。
「あ、あー。もしもし、みなさんの良き隣人、衛士隊です。騒ぎを収めて、仲良くやりましょう。立派に咲いた庭の桜も泣いています」
俺は争っている群衆に向けて、力なく言った。
広場に堂々と咲いた見事な桜。
その樹が花をつける今この時期だからこそ、それを存分に眺められる良い場所で酒を飲みたいという気持ちは、よくわかる。
だからと言って、白昼堂々、こんな恥かしい喧嘩をしないでもらいたい。
これを隊の報告書に書かねばならないことを今から想像して、早くも憂鬱すぎる。
「うっせえよ新米のガキが! テメーの出る幕じゃねえ!」
「いや、俺は新米じゃなくてですね。ここに配属されたのが最近なだけで、衛士は3年目で」
俺が新顔だからなめられていると思うので、律義に訂正しておく。
「訳のわからねーことをごちゃごちゃ言ってんじゃねえよバーカ!」
「衛士だったらなんだ!? お前がなにか偉いのか!?」
「俺たちの税金で生きてるくせに、デカいツラしてんじゃねえぞ!!」
心無い罵声を集中砲火で浴びて、もう挫けそう。
家訓なので涙は見せないけど、心の中は滂沱の滝のようだった。
「いつの間にか、二組とも俺を非難する方向に変わってるし……」
小声でこの哀れな状況を愚痴る。
怒りをぶつけられればどこでもいいのか。
しかし、まずい雰囲気だな。
この連中、酒も入ってるし、すっかり熱くなっちまってるし、言葉も通じない。
衛士の俺が見ている前で暴力沙汰は、ないと信じたいんだけど。
誰か一人でも手を出したら、勢いが止まらないということになるかもしれん。
笛を鳴らして、応援を呼ぶしかないかなあ、と苦い思いをしていた、そのとき。
「おお、なんと嘆かわしいことか。これも余の不徳の致すところ」
杖をついた初老の男が、群衆をかき分けて中央に進み出た。
我らが陛下のおなりである。
「あ、アンタにゃ関係ないだろ……」
「そうだ! 前からこの連中には言ってやらなきゃ気が済まなかったんだ!」
「怪我しねえうちに帰って茶でも飲んでな!」
「足元ふらついてんじゃねえか。石があるから気を付けろよ」
騒いでた連中は、陛下が現れたからと言って争いを終わらせるつもりはないようだ。
ただ、やはりというか、それなりに気を遣われている雰囲気は見受けられる。
「い、今は騒ぎになりそうだから、来ちゃ危ないですよ」
そう心配して俺は陛下を押しとどめ、その場から離れさせようとする。
しかし陛下は優雅な所作でそれを制し、次のようにお言葉を賜れた。
「ああ、天地に満ちる我らが父なる精霊たちよ。この者らの罪をお許しください。彼らは、自分がなにをしているのか、わかっておらぬのです」
そう言って天を仰ぎ、そして広場の土地に伏して、重ねてこうおっしゃられた。
「あまねく四方世界に満つる貴き神々よ、どうか我が力なきをお許しください。彼ら臣民が飢え、怒り、狭き地をめぐって争い合うは、これすべて我が力の足りなきがゆえ……」
陛下は精霊神に祈りと謝罪を繰り返しながら、何度も何度も地面に平伏した。
しばらくそうしていると、集団の中でも一番うるさく騒いでいた男が、陛下に駆け寄ってその身を抱き起した。
「も、もうやめてくれ陛下。俺が、俺たちが悪かったよ。アンタはなにも悪くない」
それにつられて、他の兄ちゃんたちオッサンたちも、口ぐちに陛下を讃えて、人の輪を作り始めた。
「そうだよ。アンタはいつも俺たちのことを考えてくれてるじゃないか」
「陛下、アンタは立派な人だあ。こんな、汚れた地面に這いつくばったりしちゃダメだあ」
「うち、もうすぐ子どもが生まれそうなんだ。なあ陛下、いい名前ないかな」
人の輪はどんどん重なる。
結局はそこにいた数十人が全員、陛下を中心に寄り集まった。
懺悔をしたり、他愛ない世間話を陛下に振ったりしている。
「どうなってんだい、こりゃあ……」
俺は信じられない気持ちで、グチャッと集まった人の塊を眺める。
陛下を取り巻く人々は、つい先ほどとは打って変わって険の取れた、優しい顔をしている。
短時間でこんなに人が変わるもんなのかな、と思うほどに。
なにより、俺自身も。
「なんか、わけもなく無性にいい気分だ……」
男たちから罵詈雑言を浴びせられて荒みきっていた心。
暴動が起きるのではないかと恐れて、不安になっていた気持ち。
それらの好ましくない感情が、温かく、軽くなってほどけていくような、不思議な感覚に襲われたのだ。
「こんな天気のいい日に仕事なんかバカバカしいな……俺も混じって酒でも飲むかなあ」
なんて、不埒なことを考えてしまうまでに。
いや、これはいつも考えてることだったわ。
しかし、それにしても、だ。
陛下が、なぜ陛下であらせられるのか、詳しいことはまだわからない。
けれど、なにかただ者ではないという予感だけは、強くハッキリと持てるのだった。
「と、と言うわけで、みなさん、陛下に免じて、この場は収めていただく、と言うことで、よろしいですね?」
俺の声に、一同全員、オウ、と肯定の返事をくれた。
なにごともなく事件は未然に防がれた。
こればかりは、陛下に深く感謝せねばなるまい。
「衛士の兄ちゃんも悪かったな。言いすぎたわ」
「最後まで応援を呼ばなかった度胸は褒めてやるよ」
などと、優しい? 言葉をかけられる。
「ところでお前、良い指輪があるんだ。公爵さま御用達の職人の弟子の従弟が作ったって由緒正しい品で……」
こいつは、詐欺師。
なので、放置。
「おーい、そっち、酒まだあるかー?」
「たっぷりあるぞー。みんなどんどん飲めよー」
男たちはその後、二組あった集団もどっちがどっちということはなくなり、全員混じって楽しく酒を飲み始めた。
座るところもめいめい勝手に探し、他人と重なってたら仲良く隣り合って酒を酌み交わす。
最初からこうしてりゃよかったんだよ、まったく。
「陛下、こちらをどうぞ。春蜜柑の絞り酒です」
「うむ、くるしゅうない」
陛下が臣下? の住民から酒を献上されてる。
しかし、香りをわずかに楽しんで杯を掲げただけで、飲みはしない。
その酒は近くにいた別のやつに与えられた。
酒は苦手なのか、飲まないと決めているのかな。
代わりにお茶をちびちびやりながら、陛下は楽しく飲んでいる周りの連中を見て、満足そうに頬を緩めるのであった。
「陛下が慕われる理由がわかった気がするな……」
なんとなく、だけど。
俺が今感じている、穏やかな心持ち。
これをあの場にいる全員が共有しているのではないかと思うのだ。
「じゃ、みなさん、このまま仲良くお花見を楽しんでくださいね。なにかあったら飛んできますからね」
問題なしと判断して、俺はその場を離れることにした。
「おう! 兄ちゃんも馬車に轢かれないように気を付けろ!」
「なんだ、飲んで行かねえのかよ」
「レーグの旦那にゃ内緒にしておくぜ」
魅力的な誘いを受けたが、遠慮した。
陛下がいれば、なんだか心が安らぐ。
陛下の顔を見たら、争いなんてばかばかしく、恥かしくなってくる。
陛下と話していると、特になんでもない、他愛のないことでも、すごく楽しく感じる。
「苦労して生きて培った、人生の年輪ってもんかねえ」
そういうことで納得しかけた俺だけど、ふと、別の考えが頭をよぎった。
「いや、もしかして……」
あまり考えたくはない可能性も付いて回る、ある一つの憶測。
しかし、衛士と言う仕事上、そういう可能性も一つ一つ、潰していくのが務めでもあるのだ。
「人の心に作用する、魔法……?」
誰も由緒を知らない、謎の陛下。
彼が暮らす心地よい街、いや彼の「王国」は、ひょっとすると。
周囲にいる人々の心を魔法で操って、陛下自らが作り上げたものではないのだろうか?
「考えすぎかな。そうだといいんだけどな……」
自分の疑念が杞憂であることを祈りたい。
そう思いながら、俺が公営住宅のある区域全体を、念入りに巡回していると。
「カニングさんこんにちは。お疲れさまです」
「おお、イノさん。今日はもう上がりですか?」
相変わらずよくわからない本を何冊も胸に抱えたイノさんが、自宅に帰ってきたところだった。
日ごろの行いがいいので、こういう偶然を天は俺に与えてくれるのだろう。
しかし俺は、この優しく笑う娘さんに対して、次のような疑問を、どうしても言い出せなかった。
あなたのお父さんは、魔法で人の心を操っているんですか?
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