第四杳『九十九、百』









 降臨、後輪、更新世。背の高い木、まだまだ登って間も無く居眠り、そんな私は寝不足寝言。天井近くの細い足場は軽いタップで無情にいきたい。シャンデリアの上、シャンゼリゼ。

 生きてきた数だけ、忘れないでいたい。両の中指、ハートの融点、左心房の弁は止まってしまった。朝焼け、ここに来る為だけに砂を噛み岩にぶつかり爪染しながら転がってきた。いわば君達に会う為だけに私はここに落ちてきたのだ。決して君達を追い越さぬように久遠の石畳みを歩いてきた。そういう心積りでいる。この瞬間、今も。

 いつかのあの時は、このままトンネルを抜けないかと思ったこともあった。隣から微かに溢れる音漏れが心地良かっただけ。海の近くの大きめの河川、岸近くが透明になっているところが好き。見下ろすままに足元、誰かが置いた白い布の上にひしゃげた蝉の脱殻。

 ピアスは排水溝に流してしまった。左耳だけになってしまった。頬の黒子はふたつ左右に並んでいるし右耳の形は少し変だし、このまま隠していたかったのになんだかなあ。

 左腕の裏側に万年筆を突き刺すと黒い墨が溢れてくるので、それをそのまま吸わせるやる。腹を空かせた蚊のようで面白いから私はそれをじっと眺めている。草も虫も獣も夢も女の方が働き者だ。その代わり男は喰われることもあるようだけれど。蟷螂に生まれた時は酷く痛い思いをしたものだ。さすがに生きたまま腹を喰い破られたのは初めてだったし、お相手の牙のあまりの勢いに腹に飼っていた針金もバネのように飛び出すほどだった。次の機会が巡ってきたら一目散に逃げてやろうと目論んでいたのだけれどそれが最後、もう蟷螂になることはなかった。

 図書宮殿の誰も入れぬ最奥の部屋で、私はひとりこの世界のことを書き記している。それが私の唯一の仕事。私の仕事なんてただの子供の積み木遊び、本当はしなくても良いことばかりで、だけどそんな風に世界は回っているのだ。だからあとはぼんやりと半分目蓋を閉じながらそこに在るだけ。私は居ない、在るだけ。つまりは幽霊のようなもの、もしくは氷魚のようなもの。半透明で冷たい湖の底に沈んでいる。えら呼吸を忘れてぶ厚い氷層の下でチアノーゼ。

 一度はこの世界の一番底まで沈んでいこうとしたのに今ではこの世界の一番高い所に居るのだから不思議だ。浮こうとすれば沈む、沈もうとすれば浮く。爪の先と心の奥とを繋いでよ、手を取り踊れよランゲとバード。

 駅前大通りレンガの時計はいつもいつも止まってた。大きめれんげでワンタンすくった、浅いタールを選んでた。君に会えて良かった。君と居られて良かった。ずっとこのままが良いな。ずっとこのままで居たいな。

 乗せて行ってよ、上海からヴァルヴルガまで。怖い思いはさせないでよ、マリアナ海溝。










 天井から下がる、回る香水瓶。蒸せ返る色彩。あらゆる本から草木が芽吹くこの区で妖精の女王についてこっそりこっそり唱えよう。カラスアゲハが数羽、蟲の区から抜け出してきたらしい。どうも親和性が高いのでどうせならと隣にしてある。一羽捕まえて口に放り込む、蝶はがさがさと粉っぽくかさばるばかりで美味しくない。息を吐くと黒い鱗粉が四方に散らばる。

 あの庭に行くにはここからじゃあ少し遠いのだ。私は幽かなものなので注いだばかりの紅茶を通って近道をしたりもするが(つまりは無精をするわけなので)、ごく稀に誤って蹄や片目を置き忘れて来てしまう。だからたびたびあの庭では浮いてしまってその度私は消耗する。

「欠けているわね」

 目尻を下げて鞘翅の女王が言う。この庭に欠けているものなどひとつもない。

「なるべく嘘にしないで教えてくれる?」

 女王アンプロンプチュ・プルメリーは感情と理の狭間で生きる、惰性を生命で割るようなひとだ。そんな恐ろしいことをさっくりとやってのける、ちょうど真ん中を選べないひと。永遠に赤にはなれない化学備品のリトマス紙。そのせいであの子との関わりにさまたげが生じても構いやしない。さまたげを消すとき、言わばそれは女王が自死するとき。花の棺桶で鼓動になった女王にあの子が火傷を遺すとき。

 そんな恐ろしいひとと夢の中において、雲海の沖を訪れたことがあった。彼女の庭には塩の湖はないものだから仕方なく少し遠くまで出向いてやったのだ。共に夢現、オオルリの背に乗って荒れ果てる白波を見に赴いたのだった。

「潮風が痛いわ」

 曇天。その下の広大な潮を見下ろし彼女は言った。

「頬が焼けつく」

 翼が空を切るたびに彼女の耳飾りが靡いた。確か青いレディバグ、恐れ多くも自ら耳飾りにと名乗り出た森林の化身。上空には海鳥が往々に飛んでいる。私は振り落とされないよう小鳥の油臭い絨毯を掴む。それを見て彼女がくすくすと顎に手をやる。

「あなたは軽いものね」

 あなたは軽い小さな獏だものね。そう仰るあなたはどうなのと聞き返すと、

「ええ。なんせ私は女王様ですもの」

 あの庭、そしてこの夢に君臨する女王様よ。私の代わりなんて何処の世を探しても見つかりっこない。だからどんな我儘も罷り通るの。

 真下には渦潮、急に翼が左に大きく倒れる。唐突な滑空と下降。あくまで彼女の夢だから私じゃあ全てを制御しきれない。目を瞑る、高い所は好きじゃない。

「怖いのね」

「怖いよ」

 怖いものは沢山ある、嫌いなものも沢山。どうか早く不時着してくれ。深い海の表面に。

「私は怖くないわ」

 だから。

「添えていてあげましょう」

 そう言って彼女の手が肩に触れる。重み、蝶の匂い、青い黒い青い。慈悲深いねと私は答える。ええ。

「あなたが居なくなると困るもの」

「どうして」

 戻れなくなるから。

「あの子に会えなくなるからよ」

 海面が刹那、近づいた途端ぱしゃん。着水。私達は沖に放り出されて、幸せの青い鳥は波に攫われて瞬く間に見えなくなった。最初から片道切符だったのだ。女王がきゃははと少女にように笑って舞い上がる。曇っているのに楽しそうだ、荒れ狂う海の真ん中で彼女の魔法により片脚を引き摺り上げられた私は見世物のように宙吊り。ここは屠殺場か何か?

「私、ここではなんでもできるのね」と辺りを見渡し嬉しそう。

「あなただけの夢だからね」と私はひとり逆さま世界。

「そう。私だけの夢だものね」

 詰まるところあなたはおまけ。お菓子についてるちっちゃな玩具。どうしてあの可愛い天使はこんな九十九番目なんか選んだのかしら?腕を広げると鈴蘭が鳴る、彼女は言う。

「ああそうだった!忘れていたわ。あなたには何も無いのよね」

「そうさ、私には何も無い」

「だから私にとってはつまんないのよね」

 歩くインク壺の幽霊さん。

 その通りだろうね、あなたにとっては。

「私は嘘はつかないから」

「少し言葉が足りないのじゃない?」

 ああ、そうだな。両手を上げて、白旗降伏。

「私はもう、嘘はつかない」

 それを聞いた女王は満足げに両の腕を広げてくるくる回る。ガーベラを縫い合わせたドレス。真っ赤なあの子を思い出す。ダンスに伴い大きくなる女王の破壊的怠惰。

 遠い陸は蒼い世界できっと町が見えるだろう。目を凝らさないと見えない。彼女の上目遣い。膝を折って私と視線を合わせて、その長い深緑の髪は遠く遠く広がっていった。

「死んでいるくせして、よくあの光の中にのうのうと腰を据えて居られるわよね」

 はあと私は唇だけで笑う。分からないの女王様、死んでいるからこそだよ。

「私は何処にでも行けるということ。夢の中でさえもね」

 女王の眉根がほんの少し歪んで、

「食えない獏ね、相も変わらず」

「美味しくないよ、残念でした」

 天のことを私に語らせようとするなど当然怖いもの無しなのだ、この女王は。意味ありげにふうと顎に人差し指。辺りを見下して潮風、高波、ここが死に場所か?沖を荒削り。

「ここは怖いわね」

 唐突に彼女はそう言った。

「垂れ下がるウィステリアも根付く球根も扇のケイトウも、レリスも羽兎も飛び蜘蛛も、光年樹海の四季さえも無い。本当に、何も無いのね」

 何も無いのは怖いわね。

「だから私、時折あなたのことが怖いのだわ」

 私は高い所が怖い、翼のあの子が居ないところは何処でだって怖い。一方女王は何も無いのが怖い。私は何も無くたって平気。私自身が無いものだから仕方ない。だから女王は私が怖い。

「あの庭も随分と変わったわ。私が生まれた頃と比べたら」

 真下に広がっていた海が消え私達は深い植物相に包まれた。シダ、ツタ、ソテツ。秋のブタクサ。様相は徐々に変わっていく、フタバ、ミズクサ、ハスノハナ。

 ぴしゃんぴしゃんと何処からか湧水の音が聞こえた。赤いあの子の宮でも同じ音を聞いたことがあるなと私は思い出した。

「一度はね、全部燃やしてしまおうかと思ったこともあったのよ」

 でもやめたの。だってほら、火ってあの子のものだから。

 気儘な陛下。恣意的な女王。それにより植物達は変身変化し続けいつのまにか湧水は水溜りになり、水溜りは流水になり、気付けば頭上には池があった。その池で赤い魚がひらひらと尾を泳がせていた。

「私が一人ぼっちで居たあの頃、空からあの子が降ってきたの。流れ星だと思ったわ。赤く燃える流星だと。けれど本当はそれ以上のものだった」

 私にとって、

「それ以上のものになった」

 紛れもない愛情だ。血の繋がりのないものをこれほどまでに愛することができるひとなど彼女以外に居ないだろう。そしてそんな彼女がこれほどまでに恋焦がれるなど、あの火龍以外にないだろう。

「あの子が望むなら私、種子のひとつやふたつ、いくらだって残したいと本当はそう思っているのよ」

「残してやっても良い、の間違いだろう」

 笑う。ええ、そうね。紛れもない生命をいくつかね。

「私とあの子の愛の種子よ」

 パーシモンの花を摘み取り彼女はその蜜を吸い上げた。投げ捨てられたそれは火花になって薄く消えた。夢の中の更なる夢に入ってしまった。海の音に耳をすませたけれど何一つとして聞こえなくて、もう二度と戻れないかもしれないという焦燥がちらついてすぐに消えた。

「作ればいい。きっとこの上なく愛おしいよ」

 女王と火龍の子だもの。億年最大の大博打。水が凪ぐか、炎が尽きるか。

「ええ、酷く可愛いでしょうね。綺麗で強か。それこそ夢のような子でしょうね」

「ならば尚更どうして躊躇うことがあるの」

「私じゃあ、駄目だからよ」

 三つ目のパーシモンを菫の絨毯に投げ捨てた。じゅうと燃え尽きたその瞬間、彼女がざあざあと泣き出した。顔を覆ってにわか雨のような慈雨。

「愛は余りあるけれど、だからこそ私じゃいけないの」

 手に負えない。もう、すぐに泣くんだから。泣き虫なところは昔とちっとも変わらないな。こういうのは苦手なんだ、昔から彼女任せだったから。でもこれはにわか雨だから、きっと今にすぐに止む。

 アンプル。

「いくらでも与えたらいい。求められるままに。あなたの一番、得意科目でしょう」

「科目ですって」

 さすが図書館長さんね。

「いいのよ、私はそれでも」

 涙を拭いながらしとしとと女王は言う。別に私はそれで構わないの。そう泣き続ける。

「でもね、さすれば私その子のことをいずれこの手で殺してしまうわ」

 ぽたりぽたり、拭う間もなく次が溢れる。絶望の花がほろほろと緑地に落ちる。私の瞳と同じ色の花。名前はできれば思い出したくない。

「際限なく愛を注いで頰に手をやり慈しみ、その額に小さなキスを落として、私はその子をきっといずれ愛したこの手で絞め殺すのだわ」

 命の欠片が最後の一滴まで滴り落ちるのを見つめながら、私はその首を銀の蛇のように締め上げる。そしてまだ見ぬその子が死んだ時、

「それに耐えられない彼女に、きっと私が耐えられない」

 何処からか潮の強い風が吹いた。世界が揺らいでいる、鏡の世界が割れ始める。女王の瞬きで庭の崖が崩落する。涙は急に止んだ。

 だってね、だってね、だってね聞いて。

「その子供は彼女の中で眠り育ち、あまつさえ彼女の道を通ってくる。私は決して見ることのできない景色をその瞳の奥に宿してその命は私の居るこの大地に息吹く。それはそれは酷く美しい旅路に違いない」

 だけどね、私は旅なんてしないのよ。だって私は女王だもの。女王は何処にも行かない、何処にも行けない。あの庭でいつもひとり彼女の訪れを待つばかり。

「だから殺すの」私は問う。

「ええ」彼女は頷く。

「だって私達の愛の子は、私の愛するあの火龍と生き血を分けているんですもの」

 両手を広げて低い声、ヒビが深くなる。荒んでいる。これを人はアラガミと呼ぶ。

「きっとその子はすぐに大きくなりいずれその薄桃色の唇で美しい旅路を語り始める」

 どうしたらいいの。

「私はきっと許せない。きっとその喉に口付けてすぐさま呼吸を塞いでしまって、怖くなった私はその幼い口に黒揚羽蝶を何羽も何羽も詰めこむのだわ」

 本当はそんなことしたくないのに。

「本当は優しくしたいの。私、愛しているのに」

 またしくしく、しくしくと泣く。こちらまでしっとり悲しくなってくる、巻き込み愛され波乱の予感。あまりに女王がしとしと泣くものだから真上の池で泳いでいた赤い魚がとうとうぼとりと落ちてきた。ひれも尾も溶けたその姿を私は両袖で受け止めた。重くじとりと髪まで濡れた。

「焼き焦がれて死にそうよ」

 どうにかしてよ、

「夢喰いの死人」

 ひっくひっく、ちゃっぷちゃっぷ、らんらんらん。私は時計仕掛けのように彼女の目線に立った。どうしたものかな。海原、わたつみ。どうか私の味方をしておくれ。

「あなたが生き血なんぞを気にするとは」

 思いもしなかった、あなたほどの器が。

「五月蝿いわ、煩わしい!また女王、女王とでも言うつもりね」

 またそうやって私をみんなのように丸め込もうとするつもりね。

「あなたは誇り高い生命だよ、女王なんて関係ない」

「五月蝿い!五月蝿い!」

 両の拳で力一杯、涙の水溜りを叩く。ばりん、ばりん、花が砕ける。こちらの奇蹄まで散らばり、私の呪いを受けてすぐに黒く風と消えた。

「愛しているもの、当然よ!」

 私達は種、そして土、水脈。共に流れる血など無いんだもの。あなたには一生、いいえ、死んでも分からないでしょうけど。

「ないものねだりってわけだ」

「私の世界もあの子の世界も似ているの。私とあの子は似たもの同士。けれどあの子は私に無いものをひとつだけ持っている」

 植物達が轟々と燃え尽きた。一瞬にして立ち込める、白い獣の匂い。私と似た匂いがするが、確かに生きているものの香りがする。ははあ、笑う。なるほどね。

「…親か」

 瞬間、ごぼり。墨の塊を吐いていた。私は体を折り曲げ袖口で口を押さえて彼女を下から睨め付ける。

 にやりと、いいわね。そう一言。

「その目が好きだわ。けれどね夢喰い、言葉には充分気を付けることね」

 あなたの本能剥き出しの、なまのあなたの目が好きなの。ねえ、どう?私を殺したくなったでしょう?

「今のあなた様、鶉の雛みたいだよ」

 ぎゃあぎゃあ喚いて随分余裕が無いんだね。

「そうよ。彼女のことになると私余裕なんて無くなるの。だから駄目なの。一番、私じゃあ、駄目なのよ」

 ざざん、ざざん、海の中央に私は黒をぷっと吐き捨てた。長い袖で拭う。この袖でこの腕を隠しておかねば全ての悪夢を吸い取ってしまうから。赤い魚はそっとポケットへ入れた。赤い魚を守ってやらねば私はあちらへ帰れなくなる。理性の欠落した女王の夢に囚われて戻れなくなる。それだけは勘弁。

「あなたとはね、一度二人きりで話がしたかったの」

 確かめてみたかったのよ。

「その腕に流れているものは、本当にこの世のものかしらって」

 強い風が吹き荒ぶ、私の袖を持って逝く、弱ったな。容赦がないところが彼女の良いところ。宙吊り、ぶつんと左腕が千切れて全てが露わになる。死んだ呪いの左腕が空で気ままにタップダンス、墨が滴る。オペラグローブみたいだねと、君が褒めてくれた私の腕だ。痛みなどは感じない、なんせ私は死んでいるから。

「随分なやり口だね」

「利き手じゃないだけ優しいでしょう」

「泣き叫ぼうか?」

 それとももう、今更かな。

「むしろあなたにとっては快感かと」

「切り刻んだりはしないでね」

 意外と修復が大変なんだ。

「生憎そんな趣味は持ち合わせていないの。あなたと違ってね」

「であればとっとと返して欲しい」

 ご機嫌麗しゅう、陽だまりの暴君女王様。

「私の腕を返せ」

 皮肉増し笑顔、せっかくだ。熱烈ホットな姿勢でいこう。

「…錆び欠けた銀食器のくせに」

 これで欠落はひとつめよ。

 泣いたり怒ったり笑ったり、今日の女王はえらく昂っている。それが夢。理も秩序も無くなる、激昂した感情が剥き出しになる。ただそれだけがこの世界を作りあげるから私はそのイドに振り回される。痛いけれど仕方ない。今の私は煙突掃除係、だから私にはどうすることもできない。

 何処にも行けない彼女を私がここへ連れて来た。だからある程度責任は取ってやらないと。それなりに見届けて、目を覚まさせてやらないと。

「いつだったかあなたの絵本を読んだことがあったわね」

「へえ、どんなもの?」

「お姫様が硝子の靴を落とす話よ。そんな冷ややかなもの、私は決して履きたくないと思ったけれど」

 そんなことを言って、どんなに冷たくたって火龍の為なら履くくせになあ。可愛げのない、夢の中でも素直になれない暴虐の限りを尽くすひとだ。

 またしても潮の香りが消えた。ああ、また遠のいたのか、嫌になる。目を開けると赤々としたかぼちゃ畑の真ん中にいた。青い葉、ミミズ、石の気配。私は土は好きでない。

「私はかぼちゃよ、醜いかぼちゃ。私はねえ、あの子の馬車にすらなれないの」

 見向きもされないノロマなかぼちゃ、甘みもないからスープにすらされない。

「彼女が悪い魔女に誑かされるのを私は黙って見てるしかないの。本当は灰色の鼠になりたかったの。御者が振るう鞭でも良かった。でも駄目だった、駄目だったの。私は彼女のなにものにもなれないのよ」

 私は彼女しかいらないのに!ドレスもティアラもブーケもいらない!私はこの翅でお城まで飛んでいって、重なりの十二時を前に王子を殺して彼女を連れ去る。例え硝子の靴が落っこちて粉々になって、その細かな破片が胸に突き刺さって抜けなくなってもいいの。

「誰かのものになるくらいなら、全て殺して私達ふたりだけで逃げていきたいのよ」

 そう思うくらい、

「私はあの子ともう一度たりとも離れるのが怖いのよ」

 静かに女王が言った。掌に爪の食い込む音。

「一度離れ離れになった」

 いいえ、

「…私があの子から離れたと言うべきね」

「魔界の点しか」

 彼女は白銀の偉大な獣が去ってから自らが一級品の点しにならねばと自身の肺臓を追い込んだ。それはそれは危うくて見ていられなかった。彼女が落ち着くまで、三百年と少し、かかった。女王にとって彼女から離れるということは無論苦渋の決断であり、そして同時に自身の庭を守る為に優先せざるを得なかったことでもあった。それはそれは永い時間であったと思う、私達にとっては三拍子くらいのものだったけれど。

「アンプル」

 幼い子。花と蝶の女の子。

「ごめんね、私が良い大人じゃないばかりに」

 あちらでなにかひとつでも、嫌いになれないということはさぞかし痛く辛いでしょう。全てを愛さねばならないのは、酷く。

「…その分こちらでは私のことを幾らでも嫌ってくれていいから」

 だからどうか許してくれるかな、ねえ。

 泣き崩した彼女が顔を上げた。思い出した、この顔だ。翼のあの子が焼いたクッキーを口いっぽいに頬張ってにこにこと笑っていた面影だ。

「許すも何も、怒ってなんかいないよ」

 眉を下げて彼女は微笑んだ。

「だってあなたは私の大好きな、白鳥のおねえさんのとっても大切なひとだもんね」

 白鳥のお姉さんね。大いに賛同。

「私達、また同じように戻れるかしら」

 彼女は言った。

「一緒に育てていけるかしら」

 彼女と共に、あの小さなあたあめちゃんを。

「ねえ、アンプル」

 そう名前を呼ぶと、

「なあに、小伽」

 初めて私の目の奥を見て、私の名をするりと呼んだ。少しだけ、いつもの優しい穏やかな女王だと思った。

「帰ろう」

 すんなりそう言うと、彼女は控えめに、

「…ええ」

「私達の場所へ。金木犀の下へ」

「菫香る、お茶会のテーブルへ」

 もう十分。あなたも、夢も、あなたの中の彼女も。歪み、壁が崩れ落ちる。幾重にも強固に作り上げた夢の壁が崩れ始める。

「彼女に会いに行きなよ」私は言った。

「きっと喜ぶ」

 そしてこの夢路のことを耳にたこができるまで聞かしてやったら良い。なんだかんだと言いながらあなたの話は最後まで聞いてくれると思うなあ。

「でも水の夢の話なんて聞きたくないって言われちゃうかも」

 そうかな。

「今まで一度だって、あなたの話を彼女が遮ったことがあった?」

 いいえ。笑う女王。確かにないわね。

「聞いたことはない?ふたりとも何も怖がる必要は無いのにって」

 ええ?

「一体誰が?」

 彼女が私の目を見る。私は告げる。

「白鳥のお姉さん」

 結局の所、あなたはそう。火龍に受け入れてもらいたくて、でも拒絶されるのが怖くて、もうとっくの昔からあなた達はずっと隣に居るのにそれに気付いていないだけのほんの少しだけ心が臆病なひと。怖がりなひと達なだけ。

「帰ったらあの子、私のことをちゃんと覚えていてくれるかしら」

 おやすみと手にキスをしたあの時からを、また私とあの子で始められるかしら。

「勿論だよ、妖精の女王様」

 私は宙に浮かぶ腕を差し出した。

「さあ、私の欠け落ちた手を取って。戻ろう、あなたと彼女の世界へ」

 女王だからだとか点しだからだとか関係のない世界へ。どうかふたりの愛はふたりの愛の中でだけで収めていて欲しいなあ。そして彼女に尋ねたらいい。煌びやかなパーティーと出来の悪いでこぼこかぼちゃ、どちらを選ぶか聞いてみたらいい。

「あの子、かぼちゃなんて知ってるかしら」

「何も言わずリヒにスープだけ作らせる?」

 あの子のスープはなかなかの一品だよ。私が山羊の肉でも捌いて細かに落としておくからさ。その間くらい小狐の面倒は私達で見ておくから。

「…それに彼女、ギラギラしたのは嫌いだろう」

 纏わりつくボルドーのドレス、きらきら、赤の絨毯と目を奪われる宝石の数々、裾踏む冷たいガラスのハイヒール、そんな場には勿論──、

『絶対に行かない』

 尾を振って、眩しいしぎゃあぎゃあ煩いし。

『それにどうせ、酒が出んだろ?』

 そんな声が聞こえた気がして私達は笑った。

「うん。かぼちゃに一票」

「同感」

 それにさ、

「私もそろそろ起きないと翼のあの子に叱られる」

「あらあら、やきもち?」

「そんな可愛いもんで済むんだったら良いんだけどね」

 私の千切れた手を握って女王と海の上を歩き始めた。少しだけ、淡い何かが流れ込んできた。愛情には変わりない、けれど私では形容し得ない。これが、慈雨というもの?

「小伽、また連れてきてくれる?」

 後ろから女王がぽつりと言った。

「たまにね」

 答えると、

「気が向いたら?」

 そう。

「錆び付いた私の中にある、物語達の気が向いたらね」

 女王は小さく笑って、物語さんの気が向いたら。うん、分かったわ。

「楽しかったわ、小伽」

 サファイアの燃える瞳、私を見つめて。

「ありがとう。私の我儘に付き合ってくれて」

 不覚にもびっくり。まさかあの庭の女王からこんな光栄あるお言葉をいただけるとは。

「どういたしまして、アンプル」

 私の手は冷たくない?

 いいえ、冷たくないわ。縫い直す時は庭に来て。得意な子達に手伝わせるわ。

 それは助かる。一流の子で頼むよ。

 ええ、勿論。なんせ私は女王様ですからね。

「私達、友達で良かったね」

 色んな意味で。

「ええ。ずっとお友達でいましょうね」

 色んな意味で。

 そう言ってふたり笑い合った。さあ、おいでおいで、渡鳥。私達を贈り届けて。

 海の上、ポケットに仕舞っておいた赤い魚を空高く放り投げた。血に染まったゆりかもめが魚を咥えて私達を背に乗せてくれた。

 なにごとにも備えは大事、供えは大事、でしょう。まだ見ぬ君達の愛が楽しみだ、種子が芽吹くのが待ち遠しい。だからもう少し見守って、私と天使でふたり待っていても良いかな。青い水脈を流れる、赤い花のような子を。












 背伸び、ショーウィンドウ、指差し確認。白い帽子のコックさん、コンプレックスはここからここまで。三段ケーキスタンドで運んで来て欲しいの、此処まで。ジュークボックスの血が滾ったら渡していたアレ流してね。金のコインで掻き鳴らすから丑の刻まで賭け事しましょ。フロント、リバース、ミラー・ミラー。

 テンプラでもいい、どうせならもうこちらで履き替えて逝くわ。切れた鼻緒は捨ててくださる?脱出マジシャンと仮面パーティ。軟水、ショットで喉とイク?ワイングラスで硬水キドる?生臭いのはもう勘弁。デュースで勝ったらアディオスよ。ランプを擦ればウォーアイニー。あの人よしなにドキュメンタリー。

 あのね、そのね、アドベンチャー。アップダウンな尺骨で、スポットライトなデートをしよう。水蒸気上げて両手を離そう。懐古主義者は髄まで溶かして。

 ああ、ほらこれこれ喉仏。きちんと見せてよ、なんて小さな頭蓋だろう!頭は持ったよ、脚持った?はいじゃあいくよ、炎の中へ。せーのじゃないよ、目を見て逝くの。さあ、声帯揃えて。

 さん、のー、がー、はい!

 白いベタを引き取って幾許。真っ白な髭のスプレンデンス。体の弱い個体だった、生き餌だけはよく食べた。すぐに息を引き取った、一週間とほんの少しのことだった。土に還れよサラマンダー、もう水のものに生まれては駄目だよ。

「こんにちは。小さな魔界の超新星」

 海。魔界の広がる真っ赤な海。ごぼりごぼりと泡が立つ、底はおそらくきっと魔都。

 そのほとりで煌く地上の星めがけて、私は彗星を踏み台に降りていく。暗い世界は落ち着くけれど踏み入れた途端にもう帰りたくなる。どっちつかずな私、雲のロッジで居眠り私。的が上手に張れたならそこに脚できりきり矢を射りたい、だって背中には大きなお土産担いでいるから。利き目は右目、ぼやけて見えない。半月、離して、不恰好な弓返り。

蹄を打ち鳴らして燐。ひらり、少し格好付けて、隣、降り立つ。

「やあ、魔界のスーパーノヴァ」

「…あ」

 何の感情もこもっていない、あかさたなの『あ』。その音と共にちびの火龍に指を差された。

「こさびだ」

「小錆びだよ」

 しゃがんで彼女の目線に立つと、その人差し指を容赦なく私の額にぐりっと押し付ける。いたた。うん、どうやら腹ぺこのようだ、ちょうどいい。まだ少しだけ舌足らず、大きい血のような吊り目。本日は珍しく本来の姿ではない。一体何処で覚えてきたのかヒトガタの様相を呈している。崩れた浴衣から覗く窪んだ胸骨、歪んだ右側弯。

「元気にしてたかな、ノヴァ」

「ふつう」

 なによりだよ。

「この姿は何処で?」

「昨日みかけた」

 ぐうぜん迷い込んできて。その時マネっこしてみようかなって思いついたの。

「勉強熱心だね」

「肉も筋もぜんぶ硬くてまずかった。でも残さず骨までぜんぶたべたよ!」

「なんて偉いんだろう超新星」

 本当に、良い教材になってくれる上に育ち盛りの腹もちゃんと満たしてくれるなんて人類様には足を向けて寝られないな。

「ありがたい限りだ」

 ただまあ狩りの練習にはならないか。そこだけは全くもって残念でならない。

「いっかいでマネできたんだよ」

「そりゃ凄い。さすが魔界の才色兼備だな」

 その日暮らしの幼き子が自らお勉強に勤しむだなんて珍しいこともあったものだ。こりゃ何か変化が生じたようであると老いぼれは邪推する。

「ねえこさび、おみゃげは?」

「ああ、はいこれお土産だよ」

 まだ幾分か幼い彼女はお土産のことをおみゃげと発音する。ヒトガタの舌であることも関係しているかもしれない。目を輝かせて、

「おみゃげだ」

「そう、お土産」

 肩紐を解き白黒の子山羊を彼女の隣へどさりと落とした。彼女への土産にと先ほど絞めたばかり。彼女は育ち盛りなので特別大きいものを選び抜いた。子山羊はまさか絞められるなんて思ってもみなかったみたいな瞳で固まっている。ぱちぱちぱち、と瞬きで火花が散る。

「ありがとうこさび」

「どういたしまして」

「たべていい」

「どうぞ」

 彼女は器用に右手だけ龍に戻って硬い鉤爪でそれの腹を丁寧に裂いた。ずぶ濡れになりながら両手を突っ込んで優しく青い肝を取り出す。慎重に長い舌でれろれろりと探った後、牙を剥いてがぶり。

「ここ好き」

 口元をべたべたに汚しながら「おいしい」と喰らう。

「そりゃあ良かった」

 ねぶりねぶりとしゃぶりながら一言、

「ねえね、こさび」

「うん」

「こさびってさあ」

「うん」

 ごっくんしてから言ったら。急かさないから。

 ごっくんしてから言う。急いでないから。

 喉が鳴る、さよなら、そして散らばれ、彼女の血肉へ。

 それでさ。

 うん。

 こさびって。

 うん。

「ひまなの?」

 ぐさりと肋の割れる音がしなかったかと問われると、まあ嘘になる。

「…うん、まあ…。どちらかと問われるなら、暇だろうね」

 いいなあ。そのまま顎に手を置くから、あーあ顔中血塗れだ。

「うらやましい」と悩ましげな赤目。

「羨ましいと来たか」

 溜息、臓物を両手に百足の丘に座り込む。私も隣に腰を下ろす。百足達はそぞろに私達を避けて蠢く。

 これは私が彼女へ贈った彼女だけの五臓六腑だから羽虫一匹さえ近寄らない。この終わらない夜に教範が一つあったとするならばきっとそれはすかすかの一頁で終わりだ。そこにはたった一行、『ひとの獲物には手を出さぬこと』。それ以外に書くことなどない。

「なんだかさ」

「うん」

「ちりちりするんだ」

「ちりちり」

「このあたりが」

「この辺りねえ」

 肺のあく抜きするようにふうふうと火を吹く。足元の百足があっという間に焼け焦げてその死体にその他大勢が群がりぺろりと食い尽くされてしまう。甲の欠片すら残らない。

「きく?」

「勿論」

「いわない?」

「誰に」

「くそじじい」

 口の悪くなる時期。いわば早めの反抗期。つまり彼女はお年頃、口約束も意外とナイーブ。

「言わないよ」

 本当?

 本当。

 こういう時の努力は逆効果、必死さなどはもってのほか。なるべくあっさり、ポーカーフェースに。さすればほら、あちらから。

「…あそこに行った」

 おお、なんと素直なシャイガールよ。ナイーブな反面、とてもシンプルで非常に助かる。

 龍の尾が刺す先は西の空、貝の卵が降ると噂の分厚い雲。雷神に挨拶をしつつそろりそろりと通り過ぎてやっとお目に掛かれるのは彩りと魔法の息づく世界。またまたこれは、あんな所へ。

「どうだった?」

「どおって?」

「何か目ぼしいものはあったかい」

 例えばほら、花蜂熊の鼻腔の蜜とか水馬のたてがみに住んでる薬指海老の体液とか。いっぱいあるだろう、でもあそこはどうもガードが硬い。まるで処女なんだから、はーあ。

「あー、あるよ」

「ええ、あるの」

 うん、とびっきりのがあるよ。そんな満面の笑顔に抗えない好奇心。私もつくつぐ馬鹿な奇蹄目だ。

「私ね」

「うん」

「こい」

「こい?」

「そう!」

 火の粉が舞って。

「私、こいしたんだ!」

 こい。

「…ああ、こいね」

 こいってアレね、お口ぱくぱくお池に住んでる、鱗びっしり悪食のあれ?彼女が言ってた、泥抜きするのが大変なんだってね。無論雲の泉に泥などない、私が魔界の池で釣ってきたものだ。

「そいつならうちにも沢山いるよ。尾長のが幾らでも。白梟が特にお気に入りなのは銀鱗の黄色の目の奴でね…ああ良かったら今度見に来るかい」

 何尾か気に入ったのを分けてあげよう。そう言うと、ちーがーう!と一刀両断。扇形の尾っぽで叩かれるものだから痛い、痛い。

「恋!うろこもひれもえらも無いの!あと上はまぶしすぎるから行かない」

 ぷいとそっぽを向かれてしまった。私は覗き込む。やはり旬な女の子は難しい。

「ノヴァ」

「…なに」

「…一応聞くけど本当に恋?」

「恋だってば!」

「恋か、そりゃあ…」

 まいったな。頭を抱える。

「そう、恋。これは恋なの!」

 ふふんとでも言いたげに胸を張る。何を威張ることがあるのだろうか。私にはよく分からない、宮殿には性愛に関する区はあっても恋の区画は未だに無い。どうやら今後の為に作ったほうが良さそうだ。

「まあ…どちらにせよ小骨は多かろう」

 そう笑って告げると、

「それはノヴァもそう思う…」としょんと沈んだ。

「でもね」

「うん」

「これでもちゃんとべんきょうしたんだよ。ほんをよんだり、隠してあったえまきも見たりして。変なふうに股の所がひらいていたりしてたの。だから烏達にも色々きいたりしたんだ」

 あーあー、あーあー。ほら、

「鳴きマネがうまくなったと思わない?」

「勿論世界一上手だよ。それで何か収穫はあったかな。ああ、えー…鳴き真似以外で」

「交尾するんでしょ、ようするに」

 あの小賢しい灰色烏共。次会ったら風切羽を根本から切り落としてオーブンでぱりぱりに焼き上げてやる。

「…ノヴァよ。それは違うんだ」

「なにがちがうの」

「合っているけど違うんだ」

「じゃあどこがちがうっていうの」

 つまりね、つまりさ。

「恋も魚も同じようなものなんだよ」

 おなじ。

 そう。

「良いものってこと?」

 だって鯉は色もきれいだしかわいいし、とってもおいしいしお腹も膨れる。鱗は飾りや魔除けになるし骨は釣り針にもなるよ。

「良いことづくめ」

「無論、良いもの。料理の際の泥抜きが少しだけ面倒らしいけど」

 それに何かを好きになることはとても良いことだよ、それが例え凶暴な人喰いディオネアでもね。

「あの子は私を喰ったりしないよ」

 あの子。

「そうか、それなら良かった」

「それに牙も鋭い爪もないの」

 おお、それも非常に素晴らしい。

「ひとまずこちらが咬まれる心配はなさそうだね」

「うん、でもね、そうなんだけど」

 膝を抱えて両手に顎を乗せる。悩ましげな幼な子。責、咳、寂寥感。

「何か喉に引っかかってるみたいだね」

 魚の骨かな。

「うん。あのね、だいぶ前に聞いたことがあるの」

「何を聞いたの」

 指遊び、曲がる体が倒れるのを支える。ぽつり、ぽつり、弱火の加減。

「…はつこいは実らないんだって」

 えいっと裸足で百足を蹴っ飛ばす。弧を描いたそれは真っ赤の海に落っこちて、みるみる沈んでごぼごぼ溶ける。なんとまあ。

「紫の宮が言ったのかな」

「むらさきのみやって、だれ?」

「あー…つまりくそじじい。君が言うところの」

 へえ。あっと思った時には悪い顔。

「あのくそじじい、みんなからそんなふうによばれてるんだ。くそじじいのくせにかっこつけてる、くそじじいのくせして」

 これでもかと連呼。溜息、全くこんな時に親子喧嘩か。それにまさかそんなことで弱みを握ったつもりでいるのだろうか、この子は。

「紫の宮、ね。まあ少なくともそのくそじじい呼びよりは呼ばれ慣れてると思うよ」

「くそじじいをからかいに今すぐおみやに帰りたい」

「うんうん、まあ一旦そのくそじじいは置いといてさ。それで一体そんなこと誰が言ったのか教えておくれよ」

 全く、くそじじいに代わって懲らしめてやらなくてはね。初恋は実らないなんてそんな非道なこと、一体何処のどいつが。

 うん!とにっこり笑顔で私を指差し、

「こさび!」

 こさび。反芻する。私の名前は何だったかな。こさび、小錆び、錆び小伽。

「…なるほどなあ」

 思わず眉間を抑え天を仰ぐ。これはまずい流れ。最悪今ここで強制連行なんてこともあり得る。

「まあ、あれだ。スーパーノヴァ」

「なあに?」

「手拍子だよ。知ってるかい?」

「んーんしらない」

 よしでは景気づけにいっちょやろうか。

「ほら、世のものはみんな歌を歌うだろう。烏も小鬼も天狗だってそうさ。その拍子でぽんぽんと手を打ってみたりもするだろう、そんな感じさ、やってみよう」

 私が打つ手にひょいとつられて彼女が目一杯歌い出す。

 じっごくのさたもーぜにしだいー、

 めつぶしはらきり、ちょいときめて、

 はいさ、よいよい、かけちゃわん。

 舌を巻くたび火花が散る。うんうん、ぎいぎい弦楽器。

 その時はなんの気無しに飴玉のように言ったのだろう。そういう気分であったのだろう。きっと宮殿の娯楽の区からくだらない娯楽がくだらない娯楽を求めて抜け出したんだな。まあそんな些細なことはこの際もうどうでもいいことだ。そんなことより空から見下ろしているであろうあの子に知られでもしたら腰に手を当て叱られる。

『小伽!どうしてそんなこと言ったの!』

 ああ、頭が痛くなってきた。

「いいかい宵闇のスーパーノヴァ、よく聞いて」

「うん!歌にはじしんがあるよ!」

「えー、素晴らしかったがそちらではなくて。いや肯定していいのか悩みどころだが…」

 ひとまず今はその話じゃない。

「恋の話の方をしている」

「ああ、こいのほう!うん、なんでも聞いて」

 そう、そっち。いいかい、ノヴァ。

「初恋だって実る。いやまあ実る…」

「うん」

「…かもしれない」

 黙ってまじまじと私の顔を覗いた後、

「獏って、みんなそうなの?」

 くりくりお目目で問われるから私も思わずぱちくり聞き返す。

「みんなそう、とは?」

「嘘もつけないの」

 ずごんと先ほどより強く射抜かれた、無垢な言葉の槍。これはしてやられた。

 うん。他の獏がどうかは知らないが、

「…そうだね、私はつけない。それだけは今はっきりしたな」

「こさびはどこまでもこさびってことかあ」

 幼龍に悟られた。こんなはずではなかったのだよ私の最愛。仕方がない、ここは身を切るしかないようだ。こういう時の為に色んなものを蓄えてあるんだよ、ソナエアレバなんとやらだ。

「すまなかった、ノヴァ」

「どうしてあやまるの?」

「嘘はつけなくとも罪悪感くらいはあるさ。だからここらで手打ちにしてくれないか」

「もしかして…なにかくれるの?」

 聡い子だ。嫌いじゃない。むしろ好きさ。そっと耳に袖を充てがって囁く。

「お腹にまだすきまはあるかな」

 少しやりすぎではと訝しがられるくらいのプレゼント。まあつまるところの賄賂。ぎらぎらと彼女の口元が黒い血で光った。

「一番大きいのにしてねって、私のおなかが」

 なかなか抜け目ないな。貪欲な育ち盛りさん。私は懐の手帳を取り出して指先でページに直筆サイン。ほどなくして魔界の暗雲に一筋の光の穴が開いた。紙の子山羊が一頭、ひらひらひらと落ちてくる。ぼんっと膨れて死肉の匂い。

「わあ!死にたてほやほや、おいしそう」

 早速彼女はゆらゆら曲がったその体で器用に溶岩の原っぱを駆けて行って龍の鉤爪で山羊の首根っこを捕まえた。私はただそれをゆったり座って眺めていた。鉤爪は釣り針、軽く片手でぶんぶん振り回してあっという間に山羊の内臓スープの出来上がり。

 残忍で欲深い将来有望な超新星よ。その牙が倍の長さになる頃君は口下手な不器用さんになっているんだろうな。けれどこんな老いぼれの戯言、百足と一緒に燃やしておくれよ。

「つがおうかなって思ってるの」

「そのお相手さんと?」

 戻ってくるや否や二頭目の腹を裂いて血のスープを啜りながら頷く。顎に滴る体液を袖で拭ってやる。これじゃあ誇り高い火龍かその辺の野犬か分からないな。

「甘くっておいしい」

 そうごくごくと飲み干していく。

 そう。

「それは良かった」

 私はそれを横目にそう答えた。食欲旺盛、顔中血だらけ。腹に潜り込んで骨の隙間までむしゃぶりつくす。多少は大丈夫なのかな、生まれたばかりの頃よりは少しばかり無理できる命になったのかな。

「ごちそうさま」

 にっこり笑って顔を上げた真っ赤な頬を私は何度でも袖で拭ってやった。あの真っ白なお方に拾われたが最後、この幼い火龍の舌はすっかり肥えた。太った肝とデザートしか食わないのだから。

「番になって、どうするの」

 せかいせいふく?わくせいはかい?どれも君が好きそうで企てていそうなことばかりだ。

「ばかだなあ、こさびは」そうぷっと小骨を吐き捨てる。

「きまってるよ。子をうむんだ」

「子を、ねえ」

 至極当然だと言わんばかりにノヴァは牙と爪を念入りにお手入れ。

「でもだめだったの」

「一体何が駄目だったの」

「きゅうあいしたけどだめだった」

「求愛」

 まさかノヴァ、

「尾を掴んで引き摺り倒して下敷きにしたんじゃああるまいね」

 いいかい。乱暴は駄目だよ、私欲に負けては駄目。いつだって理性と論理に基づき私はこの世界のことを書き起こしていかねばならないのだから。そう言うと、

 ああもうわかってる、わかってるって。そんなことしないってばと、むうとむくれる。

「おっぽは思わず突き立てちゃったけど」

「……微妙な所だな」

「でもその子におっぽは生えてないから」

 ああ、なら安心。

「こちらの攻勢には気が付いていないかもしれないね」

 飾り毛が可愛いだとか鱗が揃ってて綺麗だとか、そのくらいに思われていることを願おうじゃないか。

「角も鱗も爪もない。牙も嘴もないんだよ。私とは随分ちがうみたい。私とちがって、とてもきれい」

 綺麗と宣うその端正で綺麗な横顔を眺めた。固い頬、笑わない唇。彼女はじきに、龍に返る。

「その子の爪はさくらいろなの」

 こさび。さくらってみたことある?私はね、みたことないの。空からあの子の爪が降ってくるんだって。風に吹かれて雨みたいに。そして小川を流れる花弁達。

 だからね、私とはちがうんだって。

 ぎらつく爪がにゅうと伸びた。浴衣の袖から覗く五本指の鉤爪。

「荊のゆりかごでゆらゆらねむってるの」

 蛇よりも硬く虎よりもしなやかに彼女はうねる。尾は太くしなり、黒い鱗と赤い飾り羽根が着物の裾から捻り振るう。

「蝶みたいな子。ここにはいない、春の青い蝶みたいな子」

 額が山なりに隆起して枝のような紅色の角が生える。闇を突き刺さんとばかりに尖る。赤い嘴ががりがりと骨を砕く。龍に返る超新星を私はただ眺めている。

「ちがう。私とはちがう」

 種々の呪々を繰り返す、尾っぽは百足を巻き殺す。腹の赤みがかった鱗がぬらぬらと光る、大きな瞳から血の泪がひたひた落ちる。

最後に艶やかな飛膜が背中を突き破った。彼女は隅々まで龍に返った。もうヒトガタの匂いはしない。立ち込めるのは獣の気配ばかり。ごうごうと火を吐く肺臓、小さな火龍。

「もう百日もすれば、私だって嗣ぎを遺せるようになるのに」

 なのに、なのにどうして。

 私は思う。何故そこまでするの、ノヴァ。何がそこまで君をそうさせるの。その問いが喉から出かかり舌の上で時が止まる。

「でももうきっと会いには行けない。もう今日はあの日の続きでないから、あの子は私のことなんて忘れてしまっているにちがいないから」

 寂しさともつかない、感情の無い孤独の亜種。

 ね、こさび。どうしたらいいんだろう。あの子に会いにいく口実は。建前は。約束は。私は何も持っていない。この飛膜、羽ばたきだけが私達を繋ぐ唯一の灯火。

「捨てられた、でも拾われた。私は最後の火龍なんだ。火も吹ける、飛べるようにもなった。待たずともすぐに、私は今にもじゅくしてしまうよ」

 私は確かに弱い火龍、でもあの子となら。庭を統べる器の持ち主であるあの子なら。私を歓迎してくれた、鱗に挟まっていた真珠をあげたら急に抱きついてきて嬉しいなんて言って笑顔だった。

「だから、おかしいんだ。ずっと嗣ぎのことを考えてきたのに、なのに私、おかしいんだよ」

 この魔界の為に、嗣ぎを遺さねばと思って生きてきたのに。

「彼女が少しでもいやがるなら、私、何もいらないってそんなふうに思ってしまうんだ」

 より強いものと番い、より強いものを遺す、それが宿命だと信じてやまない私の世界でこんな馬鹿げたことを願うのはいけないことだろうか。伝えたいことはいくつもあるのに言葉達はこの体から浮かんだ瞬間に燃えて灰になってしまう。

「あの子より綺麗なものが今のこの世にみあたらないの」

 どこを飛んでも見つけられない。だから、

「私はやっぱりあの子に会いにいこうと思うんだ。何度だって。何度でも」

 約束なんてなくとも。だって、どうしてあの子があんなにもきらきらして見えて、それがどうしてか私ずっと気付けないままで、鱗や角は爆風に吹き飛ばされたままで、弱い龍のまま死んでいくのは嫌だ。何も知らないまま、伝え合えないまま、時が過ぎてしまうのは嫌だ。

「だから、少しでも同じ姿で居たいんだ」

 愛しい君と同じ姿で居たい。手を繋いで森の上を飛んでみたい、君から溢れたバンクシアを部屋に飾ってみたい。上手く仕舞えない飛膜もぐにゃり歪んだ側弯も好きになってくれないか。きっと今に、もっと上手に、君の好きな私になってみせるから。すぐに。

 ごぼごぼ、泡立つ岩漿の海を見ている。ちゃぷん波打ち際、死んだ何かを拐っていく。さらさらと融ける。私は龍の背を袖で撫ぜた。

「ノヴァ。君の望むようにしたらいい」

 君は暴発もしない、捨てられた可哀想な龍でもない、誇り高き天に登る火龍。魔界を照らすかがりび。

 黒い、その小さな頭に、その目元にそっと袖を掛けた。龍がうつら、うつら、赤い目が閉じるのを感じた。捨てられたあの日の絶望、孤独、呻き、痛み、血肉として狙われる恐怖が流れ込んできた。厄介な墨の腕。そして最後にまだ見ぬ蝶の子の香りがしたけれど私は決してそれだけは吸わなかった。

「かがり」

 安心してお眠りよ、そのまま空っぽ山羊の腹の中でお眠り。君が丸く収まったら私がその腹を縫いあげて目の前の燃える海に流してあげる。

「眠いよ、こさび」

「うん、安心してお眠り」

 そう言うと彼女は小さく頷いた。おやすみ。

「…おやすみなさい、おねえちゃん」

ええ。

「おやすみなさい、黒点の燎火」

 私は深く眠ってしまった彼女を空っぽになった山羊の腹に詰め込んだ。尖った角も長い尾っぽも丸めてくるりと包み納めた。暖かい、それはそれは母の羊水に似た心地だろう。そして今日から百日後にお目覚め。もう少しだけ、あと少しだけ、十三週間と少しだけ。その腹からきっと君の角が、君の爪が、君の飛膜が、空高く突き破って闇夜に飛び立つ。

 安心して。君は綺麗だから。どうにもキュートアグレッション、私の手には負えないから。窮鼠は猫に媚を売る。荼毘に付したら開けゴマ。

「髪が伸びたね、かがり」

 どぽん。

「大きくなったね、かがり」

 ちゃぽん。

「もっともっと、大きくおなり」

 超新星、スーパーノヴァ、この魔界の唯一の火龍、燎火。

 湯浴みも梳くのも君自身。前髪はずっと切り揃えている。視界良好、あなたは灯火。この世界を照らす太陽となるべき存在。

「変化の時はいつだって美しいね」

 灯りを求めて這いずる奴等を、君は決して見逃したりしない。

 そしていつかプルメリアの彼女と手を取り合える日が来るさ、すぐにでも。きっと。

 野焼き、咳、山間の月。私は静かに彼女の目覚めの時を待つ。












 指輪でなく、フォークでなく、かといってレースをあしらったテーブルクロスでもなく、封筒に入れて蝋で固めて私から君へそっと手渡しできるような言葉をずっとずっと探し続けているのだ。けれど私は怖がりだから今も見つけられていないけれど。私のバイカラーよ、ずっと傍に居ようよ。喧嘩もせず、口約束もせず、私達本当にずっとここに居ようよ。過去も今も未来もずっと君と私でここに居ようよ。永劫、永遠、常永久に。

 夜に洗濯物を取り込むのが好きだ。夕刻ではいけない、もっと後。それはそれは深く染み込んだ夜の匂いがする。夜の匂いのする洗濯物を部屋に招くと隅々まで夜が充満する。昼はあんなに子供のようだったのにこんなにも虚ろになってしまって、まるで窓辺の鄙びた老いぼれ。

 洗濯物はいつも彼女の塔の最上階と宮殿の二階を繋げるリボンに掛けておく。飛べない私は袖を伸ばして一番大きなシーツを引き摺り込むので精一杯。細かなものは彼女が器用に攫うのだが、その翼が起こす静かな風で靴下なんぞは軽く吹き飛んでしまう。それを宙返りして容易く拾い上げるその姿を私は飽きずに何千年も眺めている。

 あの頃はどんなに願っても叶わなかったから今の君が今の君になれて本当に良かったと心の底からそう思っているのだ。願いが叶って良かったと心の底からそう思う。私はそんな彼女のことが何より大事で大切で、だからこそ今の彼女についてのお喋りをここに遺しておきたいと思う。ご存知の通り私は元よりお喋りはあまり得意ではないのだけれど、私の中で錆び付いてしまうくらいなら今ここで彼女のことをなるだけ紬いでおきたいと思う。勿論上手ではないと思う、いつもの緩い口元で私を巧くやり過ごしながらカブのシチューでも作っていてくれるとありがたいと思う。

 まず最初に、君はお話するのが好きで、つまるところ御伽噺が好きで、それを自分で歌うように音読することも私に読み聞かせをねだることも好きで、そして勿論料理をすることが好き。それに加えて欠けた鉱石が好きで月の下で眠ることが好きで、そして最後に古く寂れたものが好き。つまり私のことが好き。翼を持つ君はこの世の狂気をお砂糖で塗り固めたような女の子なのだ。

「小伽」

「うん」

「眠るね」

「うん」

 そう寝台に横たわる。私があの日目を覚ました、レースのかけられた広い窓の見えるベッド。

「今夜も一緒に居てくれる?」

 もちろん。

「明日も一緒に居てくれる?」

 もちろん。

「おやすみ」

「うん」

 おやすみなさい。

「またあした」

 そう言って眠った彼女の横顔を私はしばらく眺めている。あの日からここはとても静かになった。君は眠りにつくのが明らかに早くなったし、眠りの途中で息絶え絶えに目を覚ますこともなくなった。茫然と足の爪先を見つめることもなくなり、その代わり私が塗ったアメジストの爪染を緩んだ目元で見つめるようになった。彼女が何も映っていない窓ガラスに触れることもなくなって、だから私はその度に背伸びしてガラスを割ることもしないで良くなったから、その代わりよくふたりして麻布を手にあちこち拭き掃除をすることが増えた。

 すう、すうと聞こえてくる微かな寝息。生きている証。

 窓から夜空を見届けて私は彼女の隣で目を閉じる。シーツを被って彼女は仰向けで眠る。繭のように翼に包まり一度眠ると朝まで起きない、だからこうして隣で添っていられる。私は眠らない。眠れない。そう設計されているようだ。

「どうか優しい夢を見て」

 眠る君にそっと囁く。例えば空飛ぶ鯨に跨って何処までも旅をする夢だとか、何でもない森をその大きな翼を引き摺って歩いて湖のほとりでひとり、櫛で手入れをする夢だとか。まじないでなく言霊でもなく、ただの心の深海からただの生き物のように願う。幽霊だとしても少しくらいなら届くかもしれないと。どうかその夢の中に、私の欠片ひとつでも存在しないでおくれと深く願う。

 なし崩し的に寝転がるのが好き。例えばお化けに足首を掴まれないように毛布に足先まですっぽりと包まってなんて、今までしっかりと練習してきたことを実践するのでは駄目なのだ。図鑑の臓物に埋もれ、書物のはらわたに呑まれ、なし崩されてぐらぐらと不安定な位置で全てなにものも気にしないで居たい。本棚の隙間でうすぼんやりと中途半端な夢現、そういうことがしたいの。性欲とか情欲とか愛欲とか全て超えて区画に差し込む光のもとでクッションをひとつ打ち捨てておくような感じ、埃立つ、目に見える愛のような感じ。そこにランプを持った君が私という不恰好な小石を掘り起こしに来てくれるの。

「小伽」

 そう、名前を呼びながら。

「小伽。起きて、小伽」

 こんな幸福、もう一生訪れはしないだろうな。だって遠い昔は私が君を起こそうと躍起になっていたんだよ、何度も。君は覚えていないだろうけど。そして君は終ぞ目を覚まさなかったけれど。

 ああ、そういえば一億年ほど前に君とカーテンを取り払った古い暗室に毛布を持ち込んで共に眠りについたことがあったね。永らく使っていないそこは未だ薄青い酢酸の匂いが漂っていて、私達はきいきいと鳴く床にふたり寝転がった。月明かりのもとで君はいつもよりゆったりとしたブラウスを着ていた。

「小伽、見て」

 窓を指差して、月が綺麗。

「肩があったかいね」

 君もあったかいよと私は答えた。

「生きているね」

 誰が。一体誰が?

「君は、生きてるよ」

 そう言って、

「死んでなんかいない」

 だってこうして私のもとへ、また来てくれたんだもの。そうでしょ?月を眺める彼女に私は何も答えられなかった。否定もせず肯定もせず、その愛おしい横顔をただずっと眺めていた。

 糸のような月のちょうど十cm真上、指で測る一等星だ。私は目を閉じて君の手を袖越しに握った。触れるのがただただ怖かった。君から与えられる全てが私にとってどんなカタストロフィになるのか分からなくて身がすくむほどに怖かった。そして君が紫のべにを薬指で差すとき世界は瞬く間におかしくなる。やっちゃって、おもいきり。

「小伽の腕は綺麗だね」

 オペラグローブに繊細な光沢のない真白の爪。午下り、塔の丸テーブルに向かい合わせ。こんな腕に彼女は時折クリームを塗り込む。知ってる?

「乾燥は乙女の大敵なんだって」

 カンソウハオトメノタイテキ。また変な絵本でも読んだかなと思いつつ私がそのままに復唱すると彼女は見透かしたように笑う。

「また気のない返事。ささくれちゃっても知らないよ」

「でも私もう血なんて出ないし」

 そもそも私、死んじゃってるし。そう答えると、あ!と驚いた目で口元を抑えるから何かと思えば。

「そういえば、私も血液って出たことない!」

「忘れていたの」

 思わず呆れて笑う。血液、だなんて。君にとってはあまりにも遠い事象なんだね。すると彼女もつられて大きな声で笑う。タンザナイトの欠片が散らばる。

「そう!私も出たことないの!だってそうだよね、私に敵なんていないんだもんね」

 そうだよ、この世に君を傷付けられるものなんてありやしないのだから。ただひとつあるとするならば、私の手こそ君の唯一のタイテキになりかねない。だから私の手は有ってはならない手。本当は切り落としてしまったほうがいい。あの時女王に両腕とも千切ってもらってアラガミの夢に封印してもらった方が良かったかもしれない。なぜなら写真立ての悪夢もバスローブの悪夢も全て私の手で口吸い。

 でも君がこんなものも綺麗だと言うから、私はこの両腕をここにぶら下げたままでいる。けれど油断とは影のように付き纏う本能。だからこうしてたまにぎらり光る万年筆を腕の中央に突き刺して、じわり流させてやらねばならぬのだ。溜まった悪夢は流すに限る。そのインクで悪夢を書き起こして、ぱたんと本を閉じてしまえばその怖い夢も二度と見ることはないでしょう。ねえ悪夢の本達、私が大切に大切に守ってあげるからね。さすればもう勝手に逃げ出して何処かでまた暴れ回ることもない。私が何よりも何よりも大切にしてあげるから、その代わりたまに力を貸して欲しいんだ。だからそもそもそんな呪いの両腕で、彼女に触れられるはずもないのだ。

 彼女の隣でベッドに頬杖をついて、窓から覗く月と目が合う。彼女の隣でベッドに横たわり、いつか見た夢をもう一度見ることにする。再生すればするだけその分覚えていられるから。それだけ多く書き起こせるから。みんなが悪夢で魘されなくて済むから。

 スイカの種を飲み込んだら体の至る所から芽がにょきにょき生えてくるよと言ったね。そうしたら君は本気で怖がって「飲み込んじゃった!どうしよう!」なんて答えた。嘘をついてごめんね、私は嘘つきで酷い奴なんだ。

「でもさ小伽!」

 さっきまでの怯えは何処に置いて来てしまったかなあ。瞬く間に輝く笑顔で彼女は言う。君はひらめきの天才だから。

「そしたら私の体中からたっくさんのスイカが実るってことだよね!」

 身体中に蔦が張って夏には小ぶりのスイカがなるの。そしたら小伽、私味のスイカを食べてくれる?きっとぎゅっと美味しいよ。たくさんたくさん実らせてあげるよ。小伽のだけは種は少なめにしておいてあげるからね。

 私は思わず吹き出して、

「うん。リヒ味のスイカ、食べてみたいよ」

 種も多くたって良いよ。隣に座って一緒に何処まで飛ばせたか競争しよう、何も無い下界まで見に降りてみようよ。そして喉が乾けば瓜の白い所まで全部齧ってみせるよ。私の牙はその為にあったんだってその時私は知るんだろうな。

 どうか愛想を尽かさないで、今まで通りぶかついた服を着させて。私の体に蜜蜂達が巣を作ったらどうかそのままにしておいて。そうして出来上がった蜂蜜はお好きな放題紅茶に溶かして。そんな彼等も主の亡骸を遺していずれは去り、そして最期私の中身が空洞になったらグレイの海に捨ててくれ。風早に浮かぶ小舟、見慣れぬ牡蠣の養殖。パールのような君を閉じ込めておけやしない。誰にも聞こえないよう口ずさむ。君に聞こえないようそっと歌う。

 あかさたなつかしい心地。

 らりるれ路面でゆゆしき事態。

 いろはに惚けて止まる和音。

「みいみいだよ。みいみい」

 ナイショ。君を探しにここに来た。だからどうか秘密にしておいて。薄切りにした私の心臓をフォークで一刺し、咀嚼する君の歯軋りを追ってここまで来たの。おとなになっても一緒に居てくれるかい。おとなになったらこんな戦争も終わっているかな。

「リヒエナ。君をこんなところで終わらせやしない」

 おとなになって目と目が離れて頭の後ろでくっついちゃったとしても。そうしたら君の背中を守ってあげるよ。分厚い翼を掻き分けて寝息を立ててる君の額を目指す。私が名付けた、私だけの翼持つ者、リヒエナ・アメリア。

「君に酔っているんだよ」

 君に心酔しているんだよ。蜂蜜酒、浸水、溺水。私は入水。この世に残された最期のダイヤモンド原石よ。

 君を喪わせない。私という意識のあるうちは決して。君は替えが効く、だから喪わせない。他のものは替えが効かない、だから放っておく。放っておいたほうが長持ちするよう、この世界はそういう風にできている。でも君だけは替えが効いてしまう、だから嫌だ、喪わせやしない。土人形で君を創り直すことなど、決して、二度と、許しやしない。だってそこに私はもう二度と居ないのだから。私は嘘つきなわがまま獏、覚えていることはひとつだけ。

「小伽」

 ざざん、ざざん。

 ざざん、ざざん。

「綺麗なものはね、遺さなければならないの」

 例えばその、君の、その。

「いつも隠してる腕とかね」

 だからだ。月のもと、もう決めたのだ、入水した時から既に。君を喪わせない為なら私は、この世から消え去ることだって厭わない。だって君に会う為に私、ここまで死に直してきたのだから。








 ある時私達は何処かの国の学生だったね。レンガだたみに三角屋根、風見鶏。坂の多い街だったね、川がたくさん流れていた。比較的色んな自由が許された国であったように私は思っていたんだけれど君にはやっぱり窮屈だったんだろう。私はそれに気付けなかった。それがその時の私の唯一にして最大の失態。

 欄干。アーチ橋、黒い小さな車が煙を蒸して追い越していった。遠く時計塔が鐘を鳴らして四時を知らせた。秋の日だった。私は滑りゆく窓越しに君の背中を見つけたのだった。霹靂。大声をあげてダブルデッカーの階段を飛び降りた。肩掛けバッグも片っぽ靴も何もかも外れるもの全て置き去りにした。突然の急ブレーキに頬を強か銀の手すりに打ち付けて、それでも構わずがなる車掌にコインを投げ付け駆け抜けた。私は、ハッピーエンドであって欲しかった。

 私の膝丈のスカートがはためく。赤子の泣く声、クラクション、遠く。橋の欄干の上に立つ君は踵の少し高いブラウンのローファーがよく似合っていた。白の薄手のコートに真鍮のネックレス、爪はグレイピンクでまるで何処かへお出掛けするようないで立ちだった。綺麗だったよ。だから。

「何処ゆくの」

 そう下から問う私に見向きもしないで、

「何処にもゆかないよ」

 銀杏がぱらりぱらり、バレイダンサー。まるで君は休日にひとり美味しいパンケーキでも食べにゆくみたいな、まるでそんな佇まいだった。

「私は飛ぶの」

 そう彼女は信じていた。飛べると信じていた。私も確かに彼女は飛べたと思うのだ、今も。ただ、飛ぶ為の翼が無かった。それだけ。

「ばいばいなの?」

「うん」

「どうしても?」

 縋り付く私に、

「うん」

 名前なんて知らなかった。少し薄手のコートの価値も、その右手の中指の細さも、どうして私達こんな出会い方をしたのかも。知る由もなかった、知らなくても良かったのだ。たかが私如きに止められる権利など無かった。

「ねえ、また会える?」そう尋ねると、

「さあ、どうかな」

 でも、

「またね」

 その言葉を私は信じた。飛べると信じた君と同じくらいに私は信じた。君を追いかけ続けて私はもう数え切れないくらいの星を渡ってきたのだった。どうして君を追っているのか、そんな理由も遠に忘れてしまった。

 君が君である内に私は君を見つけ出す。そして今度こそ君を救う。何からかなんて分からない。けれど私は君を必ず大空へと飛ばせてみせる。

 柘榴だ。干涸びた石の上に投げ出された肢体を見た。広がってゆく赤い翼を見た。そして私は初めて涙を流した。君を喪ったことが悲しかった。私は私の為に泣いた、私は酷く馬鹿な命だった。

 これで何度目。これで何度目。はじめましての君とお別れするのは何度目だろうか。何度だっていいさ、構いやしない。君と私のブランニュウデイ。私はまたその翼を追いかけられなかった。それだけが事実。

 一緒に飛ぶ勇気もなかった。私は最低で最悪の、この世の言葉ではとても言い表せられないくらいに非道く愚かな人間だった。それだけが真実。

 私は爪先まで黒く汚れていた。それ以上に語ることなどあるだろうか。幸いにもその街には冷たい川や高い灯台が幾つもあった、ありがたいことに。それだけを、今でも私だけが覚えている。








 シャーデンフロイデ。ぼんやりとした幽霊のまま、ゆっくりと思い出してきたようだ。

 その時私達は飛行機乗りだったんだ。いくつもの言語を覚え、いくつもの命令の下にいくつもの命を奪っていた。轟音、唸るエンジンスターター。私の機体は酷く軽くて上昇が得意な奴だった。君のは特別翼が大きくて特注品のエンジンを積んだ、みなが羨む憧れの新型エース。誰よりも速く高く飛べた。私達はバディでもなんでもなかった。でも目を見た瞬間分かった。君だと。私は幸福だった、君と同じ空間に居られることが。なんて私は幸運なんだろうと思った。私はあの時世界一幸運な飛行機乗りだった。

 天地創造のあの日、星々はごうごうと燃えていたのだと同室の誰かが話していた。この世界は、ごうごうと青く燃えるこの星にごうごうと赤く燃える星がぶつかって出来上がったのだと得意げに語っていた。それでこの星は回っているから、たまにしか現れない紫雲と出会うことのできた女の子はラッキーメイデンと呼ばれるのだと。それはきっと君のことに違いないと私は確信していた。ごうごうと燃えたぎる紫雲を纏って空に上がる君を思い描きながら私はその日空に上がった。オーデコロンを飲み干したかのように浮かれていた。シャボンのように浮ついていた。実弾のダンスパーティー。オイルと煙草、狙いを定め撃墜、火花、堕落のドッグファイト。そして訪れる勝利、耳元で流れる帰還のメロディ。単調。そしてそれを掻き消したノイズ、無線から流れた君からのSOS。

「メーデー、メーデー」

 旋回、燃料はわずか。迷いはなかった。

「メーデー、メーデー」

 今行くよ。待っててよ。

「プリンシパルは迷子」

 被弾したのか?よりにもよって彼女が?まさか。名ばかりの本部への通信、途絶、くそったれ。ざーざー、ざーざー、聞こえる?オーバー。ねえ。

「聞こえてるよ」

 ちゃんと。ぞっとするほどに冷たい声。

「早まらないで。話を聞いて」

 大丈夫。

「ここからは君と私だけね」

 我儘を許して。私とだけ、通わせてね。

「今、行く。すぐ行くから」

「もう遅いよ」

 ごめんね。

「やめて」

 それだけは。

「こんなのはね、もう嫌なの」

 こんな、地面に縛り付けられたような飛び方は。飛ぶ為に生まれた、私も、この愛しい子も。君のだってそうだよ、なんならエンジン音に聞いてごらんよ。さすればきっと分かるはず。なのにどうやったってあの濁った地面に戻らなきゃならない。そんなことはもう耐えられない。

「私、翼が欲しいの」

「私が、あげるから」

「本物の、翼よ」

「本物の、翼を」

 必ず。

「無理だよ」

 だからお願い。

「あきらめて」

 つんざく爆音。視界いっぱいに広がるオレンジ、炎炎。破片達の海面散歩。コクピットに響く私の絶叫。

 君の最期の言葉はいつも私の欠けた心を埋めるのに酷く適切なものだった。けれど君を喪ったが最期、埋まった傷跡だけを遺して私の心は塵となり消え失せるのだ。

 別れは突然で私は油断気味でそして束の間の幸福に身を委ねていた。君が居るだけで全てのことがまあいいかとさえ思えていた。だから君は、私が君を助けられないことを知って、そして初めて君は私に救難信号を出した。私が君を救いたがっていることに君は気が付いていたから。そして私にわざと凄惨な死に様を見せつけたのだ。私に君自身のことを諦めさせる為に。未来永劫、来世までずっと。

「また会える?」

 答えは返ってこなかった。

「また会いたいよ」

 死ぬなんて思わなかった。嘘だ、慢心していたのだ。どうして私は。どうして私は!また死なせた。また死なせたのだ!

 ドレッサー、モノリス。太陽の子よ、アイシャドウよ、きらきら。

『今から飛ぶっていうのに、変みたいって思うでしょ?』

 みんなはそう言うの。彼女の部屋の前で立ち尽くす私へ鏡ごしに笑ってみせた。

『金色のシャドウとラベンダーのリップよ。お気に入りなの。私だけの、秘密のお守り』

 馬鹿にする?今から死ぬかもしれないのに、こんなことして馬鹿にする?

『しないよ』

 私は答えた。

『馬鹿になんて、しない』

 ああ、止めれば良かった。今日は空に上がらないでと、白くて細いその手を握って。ああ、誉めれば良かった。よく似合っていると、とても綺麗だと言えば良かった。君が墜ちると知っていたなら。君がゴールドの影をその目蓋に落とした時、君がラベンダーの香りでその唇を濡らした時、私は君が望んだ私になるとそう決まっていたのに。馬鹿な私、馬鹿な私。彼女のお守りにすらなれない。

 そしてそれを悟った時、私は飛行機の一部となった。オイルメーターは振り切れていた。ヒーターはとっくに止まっていた。軽い、軽いよ、何処までも飛べそうだ。私の頭を抑えられるものなんてもう何処にも居ないのだ。自由。ノイジィ。マイクを放って。可燃性の実弾は充分、それだけがとても嬉しい。

 彼女の居ない世界など、人として存在する意味が無いじゃないか。粗末にする命なんて、見渡してみろ。何処にだって無いじゃないか。私は深く座席に沈み込みベルトを外して上昇、そして滑降。宙返り、ターン。轟音。

 速度を上げて急降下。

 真っ逆さまに、目指すは墜落。

 私はひしゃげたネジ、最高の気分。

 待ってて、ラッキーメイデン。

「すぐに追いつくから」

 見渡す限りの海、紫雲。重力がこんなにも愛しい。視界いっぱいに広がる、オレンジのその先へ、ゆく。


 それ以来、空は嫌いだ。











 そのまたある日、私達は何でもない小さな命だった。彼女は世界一美しい白鳥で、私は彼女の住む湖のほとりに投げ捨てられた一冊の古い本だった。とうとう私は生き物の姿で居ることさえ許されなくなってしまった。おそらく度重なる星間往来により穢れが溜まりすぎてしまったのだと思う。今まで色んな生き物になり、そして色んな生き物の悪夢を食べた。時には命でないものの悪夢も私は知識としてこの身とこの意識に刻みつけた。それが今の私を練り上げ形成しているのだと私は妙に納得していた。

「ダイヤモンドスワン」

 私は翼をたたんで隣に鎮座する君に語りかけた。語り口調もお硬い本そのもので彼女が口をきいてくれなかったらと少し不安に思った(幸いにも僅かながらの情動の動きは残っていたのだ)。しかし彼女はあっさりと、

「私のこと?」

 そう言って真っ白な羽を震わせた。

 私は跳び上がるほど嬉しかった。やっと翼が手に入ったのだね。君は空を飛べるのだね、それはもう自由に。私は口笛を吹かしたいほど陽気になって、

「その翼、よく似合っているよ」

「そう。それはありがとう」

 彼女は伏し目がちで、白鳥とはそんなものなのだろうかと思った。ああ、ペンと指があったなら自身にそう書き込めるのにと私は悶えた。

「君は本なんだね」

「どうやらね」

「どんなお話なの?」

「分からないんだ」

 自分では読めないからね。

「そう、そうよね」

 くすくすと彼女は笑った。

「おそろいね」

「お揃い?」

「私も読めないから。翼ではページをめくれないでしょ?」

 だから、おそろい。

 ふたりして、彼女は薄汚れた本を目の前にして、くすくすと笑い合った。読めなくたっていいさ、理由はすぐに分かるよ。

 ああ、大丈夫。私は何もいらないから。私には目もない、腕もない、湖を泳げるひれもない、けれど彼女には翼がある。それで充分。万々歳、ありがとう憂き世、彼女に翼を授けてくれて。

 小さな風が吹いた。冬が静かに近づいていた。

「ゆくのかい」

 私は尋ねた。遠くで数羽の白鳥達が群れを成していた。彼女が彼らと戯れて水音を立てる様が見てみたかった。けれどこうしてたったひとり、私の傍に居てくれることがこの上なく最上の喜びでもあった。私はなんと貪欲な本であろうか。

「遠くへ、ゆくのかい」

 もう一度問うと彼女は白鳥達を見やった。そしてゆっくりと答えた。

「ゆかないよ」

「ゆかない?」

 私は聞き返して、彼女は私を見て、

「ゆけないの」

 そう、静かに告げた。何も言えないでいる私に、「ほら」。彼女は左の翼を大きく広げた。羽根の一枚一枚が光に反射しきらきら輝いていた。淡く透けるヴェールにダイヤモンドを幾重も散りばめたようだった。私はその美しさを前に息を呑み言葉を失い、そして、深く深く、静かに絶望した。いや、絶望という言葉では到底満たし切れない感情だった。

 翼は、深部からひずんでいた。

 彼女の翼は繊細に、けれど残酷なほど徹底的に、美しさと共存してひずんでいた。上向きに捻り上がった骨は風など決して掴めないだろうと思った。根本から歪曲したそれはおそらく先天性で、ひとたび飛ぼうなどとすれば酷く痛みを伴うだろうと思った。私は発狂しそうになった。だが叫びを上げる口が無かった。顔を覆う両手が無かった。

「どうして」

 私は荒ぶった。

「どうしてなの」

 どうして君ばかり。

「ね。どうしてかな」

 せっかくね、飛ぶ為の命に生まれてきたのにね。飛んで、何処までも飛び続けて、空で力尽きそのまま空に身を任せる。空の青さの中で雲海に包まれて私は息絶えるの。それが私、私である所以なのに、どうしたってこの世界では叶わない。

「ダイヤモンドスワン、君は美しいよ。世界で一番美しい。飛べなくたって、君はそれで充分だよ」

 私は必死だった。無様だったと思う。

「ありがとう、煤けた本さん」

 彼女は笑った。優しく笑って、そして、

 でもね。

「飛べない私は私じゃないの。なのに自力で死ぬことさえできない」

 彼女は穏やかで綺麗でこの世の宝石で、私はただの無力で愚鈍な紙切れだった。私はこの世で最も低俗な御伽噺、今すぐ誰か私に火をつけてくれ!底無し沼に沈めてくれ!誰か応えてくれ、誰か居ないのか。かみさま、御伽のかみさま。私は誰も、隣に居る大切なひとりでさえも幸せにできない出来損ないの御伽噺なんだ。どうか、どうかお願いです。どうか私を散り散りに、破り捨ててくれやしないか。

「ダイヤモンドスワン」

 私は彼女を呼んだ。何度だって呼び続けた。

「ダイヤモンドスワン」

 彼女は決して返事をしなかった。

 そしてその冬、彼女は私の隣で死んだ。私が彼女を温めることができなかったから。それでも彼女は私の隣を動かなかった。凍った湖を眺めながら、ダイヤモンドダストが降り注ぐ中、彼女は氷の彫刻のように私の隣で息を引き取った。

「ダイヤモンドスワン」

 私は何度も何度も彼女を呼んだ。声が嗄れ、表紙が煤け、山火事がすぐそこまで迫って来ようとも。けれど最期まで返事は返ってこなかった。春になり雪が溶けまた白鳥達が舞い戻ってきていくつもの命を育んだ。その間にも彼女の肉は腐り落ち羽根は風に晒されてその体は空洞になっていった。やがて彼女は真っ白な骨だけになりほろりほろりと崩れ落ちた。

 彼女は、死んだ。死んだのだ。

 私は恨んだ。全て、なにものをも深く恨んだ。生憎そのなにものを表す言葉は私の中に無かった。けれど私はそれら全てを深く呪った。そして私の中の奥深くが、黒く錆び付いてゆくのが分かった。









 そしてこれが最後。やっと最後だ。待ち草臥れたと思う、ごめんなさい。私もほとほとに疲れ果ててしまった。なぜかと言うと私はとうとう彼女に二度と会えなくなっていたからだ。私は荒廃した砂漠で生まれた薄汚い白黒の獏で、彼女を探し求めては様々な場所を旅し続けていた。しかし彼女は見つからなかった。私はもう彼女と出会うことはできないのだろうということにうすうす気が付いていた。

 最初はそれに激しく動揺し、盾突き、じたばたと惨めに抵抗した。私は今まで喰らってきた様々な生き物達の悪夢という名の知識を頼りに彼女を求め続けた。私はもはやこの陸上に住まう生き物全て、時には生と呼べないものでさえもそれらの悪夢を食べ尽くしていた。だから私のこの知識を持ってすればきっと何処かで見つけられるはずだと、今までもそうだった、今回もそうに違いないと方々に向かって叫んだ(今回は発狂できる口があったのだ、ありがたいことに)。

 けれども出会えなかった。その事実を私は私自身の手により突きつけられ、その事実は重い鎖となって私の背を幾度となく打ち付け、その傷からは錆び付いた黒い毒が滲んだ。そして私は途方も無い疲弊を味わい、立つことすらままならなくなっていった。ひとり永く砂を噛んで暮らし私の牙はひび割れ汚れた水しか飲めない体になっていった。痩せ細り肋骨が浮き出て、常に種々の獰猛なものから付け狙われるようになった。

 彼女は生まれていないのかもしれないと思った。生まれていないのであればどんなに探した所でこの世界では決して巡り会えない。その可能性に私が辿り着いたのは決して遅くはなかった。寧ろ私が一番最初に導き出した結論と言っても過言ではない。だが私は足掻いた。私と君、なにか薄く脆くいとも簡単に解けそうだけれどふたりともが決して解かない夕暮れのリボンでこの黒い耳とあの白い翼が淡く結ばれているのだと信じていたから。

『私達、まるでそうみたいだよね』

 ずっと一緒に居て、きっともうずっと私達離れられない。

 遥か遠いその昔、そう君が言っていたから。そう、の中身を私は永遠知る由もないだろう。知らなくとも良いのだ。君がそう、ならば、そうなのだから。だから最期まで抗っていたかったのだ。

 だが私にもとうとう限界が来た。あらゆる事象の限界だ。例えば滲んだ毒は私の背や頸を広がり、私の三つに割れた蹄を痛ぶり尽くした。もう、遠くまで歩けなくなっていたのだ。私の腕は今まで吸った悪夢により黒く侵されもう何処にもゆけなくなっていたのだ。

「…もう、ここまで」

 呟いた。もうこれ以上は進めない。であればやるべきことはただひとつ。私は決めた。まだ生まれたことのない場所へゆくのだ。そう、決めた。

 夕暮れ、朝焼け、シトリンとアメジスト、私達のアメトリンの海へ。

「君を見つける」

 君を見つけて、それから、許されるならば名前を付けたい。私が一番その名を呼ぶ存在になるのだから。私はまだ成熟する前だった。それでも良かった。急がなくちゃ、急がなくちゃ。君を追いかけて私、深海へダイブする。

 私はその日、世界一大きなダイヤモンド原石を一口で飲み下した。それは酷く重くて私は全てを引き摺りながら歩いた。けれど不思議と暖かいような心持ちだった。腹の中に君を抱えて、私は陸にさよならを告げた。

「さようなら」

 さようなら、世界。

「すぐ会いにゆくよ」

 ざざん、ざざん。

 ざざん、ざざん。

 波の音が聞こえる。

 ざざん、ざざん。

 ざざん、ざざん。

 青い、ゆらめき。

「待っていてね。私だけの白き翼」

 水面。崖を蹴って、どぼん。入水。

 冷たい、海の心地。遠く、君の声がする。永らく、忘れていた声だ。ねえ、と明るく私を呼んでいるかのような声。

『ねえ、君はさ…』

 何処から来たの?何処で生まれたの?

 優しい歌声、きらきらした笑顔。そんなに矢継ぎ早に聞かれても答え切れないったら。

『…君は、なんなの?』

 そのラベンダーの瞳に見据えられながら私、きっと何も答えられないのだろうな。そんなことを溺れながら思った。私も分からないんだ、ごめんねダイヤモンドスワン。だからどうか怒らないでおくれ。空気を求める、苦しい。でも君に会えないよりずっとずっと良いや。ダイヤモンド原石が私を深海へと引っ張ってくれる。

 ごぼごぼ、ごぼり。

 遠く、つんと、耳鳴り。肺に水が入ってゆく。耳にも、目にも。心地が良い。

 ああ、君に会ったらなんて挨拶しようかな。勿論礼儀正しく、けれど少しくらい格好つけてみたいな。ドレスの裾を少しだけ上げて小さくお辞儀でもしてみようか。

 はじめまして、天駆ける君。

 そうだ、これでいこう。だって私にとって君は。私にとって、君は…。

 涙は海に溶けてしまった。目を開けるときらきら光が差し込んで君の姿が見えたような気がした。美しかった。やっぱり君は美しかった。どんな姿でも君は世界で一番綺麗。

 やっと死ねるのだ。やっと、やっと、君のところへ目掛けて私は走ってゆけるのだ。待ってて。待ってて、私の愛しいひと。

「必ず、ゆくから」

 約束、するから。

 手を伸ばす。届かない。それでもいい。

 君に見守られながら死ねるなんて私はなんて幸福な命なんだろう。

 こんな馬鹿な命がそんな馬鹿みたいなことを最期の最期まで考えていた。そしてそんな馬鹿な私はやっとそっと目を閉じた。

 こうして一匹の憐れな獏が世界の果てでようように死んだ。

 誰にも見留められず、ひとりぽっち、静かに私は息絶えた。


 今でもそこに私の朽ち果てた亡骸と世界一美しいダイヤモンド原石が寄り添い遺っているのだろうかと、未だに少しだけ思うのだ。

 見つけになど、決してゆかないけれど。









 天界、雲の原、遊泳鯨に見下ろされながら私達はしとりとくっついている。くっついている場所からじわりじわりと侵食し合い、私達は同じ生き物になったかのよう。私は空を見上げたまま。君にはパロディもオマージュも通用しないから、いつだって私達はエチュードなのだから。

「リヒ」

「なあに」

「私達」

「うん」

「いつか死ぬのかな」

 珍しい。

「小伽がそんなこと言うなんて」

 熱でもあるの?そう丸いおでこを差し出してくる。

「熱なんてないよ、死なないんだから」

「死なないのに、いつか死ぬ話してる」

 分かんないひと。そう楽しげに笑う。

「だって分かんないよ」

「分かんないの?」

「分かんないなと思って」

「分かんなくなっちゃったんだ」

 そう。私は観念して頷いた。私は元より君に逆らうことなどできっこない。ホレタヨワミ、というやつ。

 だって、と私は空よりも青い向こうを指差す。

「だってもしあの空の上からぼうぼう燃える火球が落ちてきたら?」

 どうする?私達消えちゃうかもよ?

 うーん、そうなったら。

「私の翼で逃げたらいいよ。何処までも連れていってあげる」

 それに地上にはもう誰も居ないしね。海に落っこちるところを一緒に見に行ってもいいね。

 私は彼女の頬に顔を寄せる。彼女はころりころりと笑っている。じゃあ、と次に私は遥か下の眼下を指差す。

「じゃあ百日間雨が降り続いて私達何処にもゆけなくなってしまって、この雲海も地に落ちてしまったら?」

 アクアマリンを含んだ雲はきっと酷く重たいよ。もう私達を乗せてはくれないかも。

 うーん、じゃあその時は。

「アクアマリンはネックレスにしてしまって、それから雲にアパタイトをたくさん食べさせて、もう一度私達だけの空に上がるっていうのはどう?」

 大丈夫。

「私の翼と小伽の叡智があれば、何が起こっても大丈夫だよ」

 そう笑う彼女が細い指を胸の前で組み合わせた。何かに祈っているように見えた。それに合わせてちかちか光るガラクタ紫黄水晶。彼女は前ほど髪の毛を編まなくなった。私はそれが少し嬉しくて少し寂しい。だから雲の原に寝っ転がり仕方なく私は目を閉じた。

「それにしても珍しいね」

「何が?」

「小伽が宮殿や子山羊の心配をしないなんて」

「何の話」

 えー?

「もしもの話を始めたのは小伽のほうでしょ?」

 そうだった。

「…子山羊達は別に」

 庭でも魔界でも何処でだって彼等は生きてゆける。どちらにでもなれるよう設計してあるし私の育てた個体なら尚のことだし。

「一級品、ってやつ?」

 言葉を奪われた。私は一瞬黙ってから、

「…そういうこと」と頷いた。

「小伽がよく喋る時は余裕のない時の証拠」

 空に向かって笑う彼女と追いかけるように聞き返す私の、「そうなの?」

「昔からそうだよ」

「どうしてもっと早くに言ってくれなかったの」

 にっこり笑って、

「髪を編む時は迷ってる時の証拠って。あれの…ちょっとしたしかえし?」

 ごめんね、怒った?

 別に。でも、

「…やられたなと、思っただけ」

 私は袖を振って溜息。悪いことはするもんじゃないなあ。

「じゃあヤギちゃん達はいいとして宮殿は?」

「宮殿って図書宮殿?」聞き返すと、そう。

「もし崩れちゃったら小伽はどうなの?」

 そう問われた。ああ、それは…。逡巡。

「…少し、悲しい、かもしれない」

 何度も、何度も、何度も、君を追いかけ巡ってきた。だからそんなこと、正直考えたこともなかったのだ。本達だって結局は全て私の頭の中。子山羊達だってそう。君は私をのんびりやだと思っているね、でも本当は少し違うんだ。君が私の隣にいるから私はのんびり、この世の全てを書き連ねてゆけるのだから。だからそれら全てが崩れてしまうのだとしたら。

「…それは少し、寂しい」

 目を閉じて、暗いところは袖で隠して、明るすぎるこの世界の頂上で息をする。色んなことを伝えるにはもう時間が経ち過ぎてしまった。けれど、これからもずっと一緒に居てくれるそうだから。君がそう言うから。少しだけ、聞いて。

 もしいつか死んじゃうとしたら、もしいつかいなくなっちゃうとしたら、ああなんて短い一生だったろうと思うよ。あの頃の君は短い一生を君自身によってより短くしていた。よりよく手短かに穏やかにしようとしていたんだよね。美人薄命、美人薄明だよ、全く本当に心臓に悪かった。幽霊には脈打つ臓器なんて無いけれど、まあでもそう何度も繰り返されれば私だって泣き言を言いたくもなるものなんだ。だからさ、こんなたった短い命だもの。だから私はここに提案したいの。君に向けて提案したい。

 誰かと居ても良いんじゃないかと。一緒に居たら良いんじゃないかと。

 ねえ、リヒエナ。

「私と一緒に居てくれない?」

 きっと、良いことがあるよ、ラッキーメイデン。ガラクタの発明品も役に立つか分からないけど。それでも。

「小伽と?」

 そう。

「私と」

 駄目かな。

 朝に採った眠気を君は引き出しに入れておく。引き出しに入れておいた眠気は昼の合間に四角い形に延びてしまう。君は眠る前にそれをそっと取り出して閉じた目蓋の上に乗せるのだ。薄いヴェールの眠気が君を夢へと誘うのだ。

「リヒ」

 私は彼女の答えを待たずしてその頬にそっと口付けを落とした。ラベンダーのリップが驚く。もう二度と星間往来なんてしないから、ねえ。どうしたらいいのか分からない。けれど見て、この私の錆付きを。包み隠さず私は全てを君の瞳に晒すから。

「珍しい。小伽からの素敵な提案に、小伽からの素敵なキス!」

 今日は珍しいことばかりだね。そうだ、今日は小伽の珍しい記念日にしようか!

 リヒが嬉しそうに笑う。私達頬をぴったりと合わせたままくるくると柔らかな雲の絨毯を転げ回った。夕暮れが迫っていた、雲下から照らされるシトリン、空にはアメジスト、私達ひとつでアメトリンなのだ。君が言っていた。ようやく分かった。

「リヒ」

「なあに」

 私を見上げる君の頬に私の涙が落ちた。私の涙は透明だった。墨なんかじゃなかった。私は幽霊なのに涙なんてものを流せるのだ、なんて厄介な幽霊だろうか。

「ごめんね、リヒ」

 ごめんなさい。

「私のせいで、君の翼を喪わせて」

 君は歌うことが好き、料理をすることが好き、そして何より飛ぶことが好き。それを私は全て奪った。あの日君は自身の翼が根本まで焼き切れるほどに飛び尽くしたのだ、空を。君に翼を授けることが私の使命だと思ってここまで死に続けてきたのに私自身がそれを奪った。君から空を奪ったのだ。

「ごめん、ごめんなさい。リヒエナ・アメリア」

 彼女は私の涙に濡れながら雨のように笑った。

「いいんだよ。錆び小伽」

 そして背中の小さな翼のかけらを揺らして見せた。

「なんて言ったって私は無敵なんだから。翼くらい何度だって甦るよ、君と一緒!」

 それにね。そう言って私の手を取った。

「小伽の為なら翼くらい、何度だって喪ったっていいって、私そう思ってるの」

 だってまた拾いにゆけばいいでしょ?小伽が真っ白なシーツを手繰り寄せるなら、落ちた靴下は私が宙返りすればいいでしょう。そう思わない?そう、思わない?

 私の指先で彼女の頬に落ちた涙を拭い取った。私はそれを静かに口に入れた。しょっぱい、あの日の海の味がした。彼女からは何の悪夢も吸い取れなかった。君は悪夢なんて見ないのだ。だってこの空そのものだものね。

「やっと私を口にしてくれたね」

 首を傾げて彼女は聞く。

「ダイヤモンドは重かったでしょう」

 私は思わず笑う。酷いな、知っていただなんて。

「うん。リヒのほうがずっといいや」

 どこまで覚えてるの?どこまで憶えてるの?私は全部全部おぼえているよ。君がおぼえていなくとも君は私の全てだよ、リヒ。

 リヒエナ。あのね、私ね。

「私は、私だよ」

 私以外の、なにものでもないの。だからお願い。

「信じてくれる?」

 そう言うと、

「もちろん」とそう頷いて、

「小伽が小伽じゃなかったことなんて、今まで一度だってあったかな?」

 はたはたと私の涙が君に落ちた。際限なく落ち続けた。

「だって小伽は私のこと、ずっと見守っていてくれたんでしょう」

 そう、そうだよ。声にならない。

 私、海より生まれて海に還り、そして海で死んだんだ。そうしたら君と出会えたの。ずっとずっと探していたの。もう離したくないの。私より先に居なくならないで。

「ねえ」

 私達は横に倒れたまま、そのまま顔を見合わせたまま、ぎゅうと彼女を抱きしめて私は言った。

「君に触れても良いの」

 ぎゅうと私を抱きしめて彼女は言った。

「もちろん。たくさん触って」

 たくさん触って確かめよう。ここに居る証を。君と居る証を、遺して。

「ねえ、リヒ」

「なあに、小伽」

 君の瞳に私が映る。私の瞳に君が映る。これは恋ではなく、愛でもなく、それは、何か酷く薄くて脆い夕暮れの蝶々結びのような、繋がり。

「ずっと一緒に居て」

 うん。うん。

「ずっと一緒に居る」

 黒い腕も獏の耳も醜い奇蹄も、中途半端な私の姿が私の全て。私そのもの。そんな私を愛してくれ。君に愛してもらいたいのだ。君じゃなきゃ駄目なのだ。この世界が滅びようとも、私は君の翼を追い続ける。

「愛してるよ。リヒエナ・アメリア」

 私だけの、

「リヒエナ・アメリア」

 陽が沈んでいく。夜が訪れる。私達は家に帰り温かいスープを飲む。眠る前はハーブティーを飲んで、爪先に化粧を施して、明日の朝一番に君はその目蓋に金色のシャドウを落とす。ラベンダーのリップはどうか私に施させて。

「私も、愛してるよ」

 手を握って、私達、本当にふたりきり。

「私だけの、錆び小伽」

 だからね、今も私から君に手渡したい言葉をずっと探し続けていて、それを白い箱に入れたら良いのか不器用なリボンをかけたら良いのかまるで分からないけれど、君の両手に収まる範囲で少しずつ贈り物をしたいと思っているよ。

 スープが冷めないうちに?

 夕暮れのワルツの最後で?

 旭、虹の峰を探しながら?

 星の行先に願い事をして、塔と宮殿をリボンで繋いで、毛布と絵本、クッションを敷き詰めて、噛み合わないお喋りをしながら。

 私達、深い眠りにつこう。

 ふたりで明日を迎える為に。










 最期に、私のことについて少しだけ。彼女と、彼女らが関わる世界についてほんの少しだけ話そうと思う。

 私という性質は特定のものに永くかかずらうことが極めて稀な質なのだけれど、彼女は私の翼であり、そしてまた同時に夢であり、全て私が彼女に溺れる理由。私だけの、最愛の過ち。最愛の御伽噺であるのだ。

 そして私達は黄金比。

 世界はみっつでできている。

 そんな私は四番目。終々、切りよく百頁。

 青い蝶の女王と、点しとなった紅い火龍と、ようやく翼を手に入れた天の化身の、そんなさんにんの物語。私はおまけ、玩具の夢好き本食い獏。

 銀で叩いて吟を唱えて、最期に竪琴奏でたら、錆び付きブリキはこれにてお終い。

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颭の箱庭 小富 百(コトミ モモ) @cotomi_momo

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