第三杳『Honey shabby sick』










 此処は私と君だけの楽園だよ。

 腐敗した甘い死の匂い、私と君の病という名の愛情だよ。

 今すぐに飛んで迎えに行くから、ほんの少しだけ待っていて。


 みなさん、ご機嫌よう。

 私は眠ったままの彼女を抱えて、雲海の淵、銀色の雲間から遥か地上を見下ろしています。

 私はこの世のなにものよりも勝る。白い翼の金獅子。磨かれた金の裁ち鋏。ぼろぼろに崩れた翼で私は決する。眠る彼女を抱いて、もたれかかる彼女の軽い魂を握り締めながら、飽きるくらいその横顔を見つめていた。それはそれは悪夢のように綺麗でした。

 彼女が私を見つけてから億年と月半分。どんなに私が生きた所で、どんなに彼女が喰らった所で、何も、なにものを変わらなかった。変わったことはただひとつ、君が突然居なくなってしまったこと。

 それ以外の全てのもの、死も愛も命も人も、私の前ではみんな同じで等しいもの。

「小伽。少しだけ待っててね」

 愛しい、大切な、私の夢見るお気に入り。

「すぐに終わらせるから」

 眼下に見えるは肉塊の群れ。

 血に濡れた大地を慈しもう。

 閃光、霹靂、翼を広げて、さようならを言おう。










 私と彼女が出会ったのはまだ空で魚が跳ねていて、雹の渓谷で花が溺れていた頃だった。空、この世界で初めて創られた場所。この世界の全てのくにの天井。私は創造物として二番目。

 私は彼の方に手によって地上の土で創られ、ラベンダーの眼を埋め込まれ、歌声によって呼吸を始めた。私は永いこと、丸い煌煌とした空気の中で過ごしていて自転する光輪にその身を委ねていた。そうやって地上で大地の子等がひとり、またひとりと増殖するのを眺めていた。一組が子を作り、二対一で仲違い、三番目が世界で初めての嘘を吐き、それによって四人が死んだ。そんな歯車みたいな終わらない喧騒、鈍く続く頭痛のような争い、彼等は昼夜構わず血を流し続けるようになった。

 私は大きくなったことはない、そして小さくなったこともない、老いることも若返ることもない。私は私のまま、永遠にこのまま。彼等が天に救いを求め、空仰ぎ地に平伏す姿を見守ることが私の務め。慈悲をと跪き、そして和解し、握手を交わしたその日のうちに燃え上がる火種。その繰り返し。私は何もしていない。手を差し伸べることはしない約束。

 私を創った彼の方は遠に八百万のもの達へ姿を変えられその破片は地上に散らばり、私の四枚羽でも届かないものになっていた。ある時は犬になり彼等の友人、ある時はくわになり畑を耕し、ある時は風になり高波が彼等を攫った。それを天からただ見ていた。笑うことも泣くこともなかった。命の揺らめきの一つもなかった。そんな何も無い、群青だけが広がる世界へ彼女は唐突にやって来た。遮るもの何ひとつない雲の原に彼女の蹄の音が響き渡った。彼等の奏でる悲鳴、鉄のぶつかる音、つんざく動脈、生まれて初めてそれ以外の音を聞いた。

「だれ?」

 私が初めて口にした言葉、私は初めて自分の声を聞いた。翼も無しにこんな所まで上がって来られるのだもの。もう既に地上の命ではない、けれど遠い昔にそうであったものだと分かった。

 霞の中で彼女は膝丈の白黒ドレスを袖越しに摘んで、

「はじめまして、天駆ける君」

 軽くお辞儀してそう言った。

「つばさ?」

 聞き返すと、

「そう。別の言い方をするなら…天使様?」

 私は下界で天使と呼ばれているものらしいと、その時私は初めて知った。

「どうして天使なの」

「どうしてって、」

 彼女は雲を蹴って私の側へ。

「君ほど美しい翼を持つ者を私は見たことがないから」

 逆光。蜂蜜の瞳、銀色の髪に黒い耳、膝下から覗く獏の脚と三つに割れた蹄。口元がひやりと笑って、「こんな空でひとり、何してるの」とそう問われてた。

「見ているの」

 私は足下の澱んだエメラルドの泉を指差した。その泉に映る大地の子等を見守っている。短いその生涯を闘争に捧げるその姿、声を。浮かんできた血と祈りを掬いこそすれ、救いはしない。

「どうして?」

「任されたから」

「誰に」

「彼の方に」

「つまり神に?」

「カミって、何?」

ふうん、と彼女も泉を覗き込む。私の問いには答えずに、「退屈じゃない?」

 退屈?分からない。

「退屈って何?」

「この世で最も恐ろしいもののひとつ」

 へえ、退屈は怖いんだ。でも私は怖いもよく分からないんだからどうしようもない。

「随分穢れているね」

 永いこと彼等の喧騒を映してきたから、きっと泉も疲れてしまったのだ。血が滲み出て黒く濁って汚れてしまって。宝石の見る影もない。

「いつの時代も好きだねえ」

 殺し合いに奪い合い。

「彼等のこと?」

 そうだよと獏は答える。そうなんだ、初めて知った。彼等は好き好んで互いを傷付け合っているらしい。

「どうして知ってるの?」

「うんと下から来たからね」

 地上のことだろうか。私はまだ行ったことのない場所だ。ねえ、教えて。

「本物はどう?」

「本物?」

「そう、本物」

 ここの泉に映し出されている彼等と、自分自身の眼に焼き付ける彼等、何処か違う?何か違う?全部教えて。

「同じだよ。よく飽きないものだと感心する」

「…そう」

 獏のその言葉に私はゆっくりと腰を据えた。もしかしたらこれが、がっかりというものなのかもしれないと私は思った。獏は続けた。

「ずっとここで奴等を見てるの」

「うん、そうだよ。生まれた時から」

「どちらも終わらないんだね」

 そう。

「どちらも終われないの」

 どちらかが終わるまで終わらない。

 髪をくるくる指に巻いて、中指と人差し指で編み込む。そうやって過ごしてきた、ずっとずっと永いこと、ひとりきりで。そうして少し考えて、ふわりと浮かんできた言葉。

「ひどいね」

 こんなのって、ひどいね。酷く非道いね。折角生まれてきたっていうのに。心の底から思い至る。

 ああこれが、嫌になるということか。左胸を抉りたくなる。早く知りたい、何か食べたい、私の中を満たしたい。だって空っぽなんだもの。空っぽだということに私、とうとう気が付いてしまったんだもの。

「確かになあ」

 彼女が答えて、ふいと泉の上にぱしゃんと着地。その蹄で降り立った。すると瞬く間に泉の穢れが消え去って、孔雀の尾羽のようにきらきらと澄み渡った。私は思わず、わあっと声を上げた。

「凄い!何をしたの?」

「食べたの。ちょっとだけね」

 彼女は細い身体でこちらに向き直った。波紋が広がっていく。

「奴等を映さなきゃならないなんて、とんだ悪夢だろうからね」

 へらりと口元だけで笑った。

「じゃあその悪夢は一体何処へ行ってしまうの?」

「私の中だよ、井戸のように永遠に私の知識となってくれるんだ」

 そう言って彼女は伸び、大欠伸。ではその悪夢は、根源の呪いは、彼女の中へ溜まって何処にもゆけないというのか。塩の土のように、私のように。私の足取りが少し軽くなって彼女に、君の隣に行っても良い?と問うた。すると即座に、もちろんと返ってくる。自然と声が弾んで、君ってもう死んでいるの?と聞くと、よく分かったねと頷く。

 ねえ。

「悪夢を食べ過ぎるとどうなるの?」

 さあ。

「それも知りたいことのひとつ」

 一緒においでよ、翼を持つ美しいひと。

 彼女から差し出された袖の解けたリボンを思わず掴んだ。彼女の手は長い袖に隠れて見えなかった。裸足のまま泉へと踏み出す、だから私は翼を広げる。すると彼女が私のその翼を見て目を丸くした。

「本当に綺麗な翼だね。とても大きくて真っ白で、何処までも飛べそうな羽根。本当に、世界で一番…」

 翼を誉められてなんだか私はふわふわ暖かくなった。

「うん、何処まででも飛べるの」

 自慢の翼。

「何処まででも?例えば…星の上まで?」

「うん、月のかけらも拾いにゆけるよ」

 私は彼女と違って生きているから、大きく広げて羽ばたいていないと泉に沈んでしまうんだ。ばさりばさりと羽ばたいていないと。

「名前を、教えてくれる」

 彼女が問う。私達の歩幅でさめざめと水面が揺らぐ。

「知らないの」

 名前なんて知らないんだよ、持ってないんだ。私、彼等を見守るばかりで、私のことは誰も見つけてくれなかったから。

「私、知らないことばっかりなの」

 なんだ、そんなこと。

「同じだよ。私もここのことは何も知らない」

 地上のことはあらかた知ってしまったから新しい場所に来れて本当に嬉しいんだ。

「嬉しいの?」

「これからまた沢山のことを知れるんだよ、それ以上の喜びなど無い」

「でも、ここには何も無いよ」

 青と雲と、彼等が血を流す姿くらい。

「そんなことない」

 泉の底にはエメラルド、私のたてる波で霞んで隠れてあやふやな濃淡。

「君が居る」

 その中心へ、真ん中へ、私達は歩く。

「どうか君の悪夢も食べさせて」

 私の手を引く夢喰いの獏、白黒の獣。何処へゆこうか。そんなことを言う彼女と、私何処までゆけるだろうか。

 私の中にあるこの塩の土が、地上の苦しみを映し出す。鏡のようにちかちか、投影。鬱屈したぐちゃぐちゃのものは自分とは別の何かへ押し付けないと息してゆけないんだよね、それが私だっただけ。その為に創られただけ。

 私は鳥よりも高く、誰よりも軽く飛べるのに。叶わないことは口にしては駄目なのかな、もっと知りたい、もっと笑いたい、もっと泣いてもっと叫んで、もっと幸せなことを。永遠に。

「ねえ、お願い。私に名前を付けて」

 それが最初の私のお願い。夢喰い獏へのはじめてのお願い。どうか個として私をあらせて。

「それは光栄だね。責任重大」

「そうなの?」

 そうだよ。またしてもひやりと笑って、

「だってこれから永い間、私が最も呼ぶことになる」

 そう告げた彼女は金色の光と共に小さな本を空中から取り出した。袖の長い両腕で受け止めて、深い紅藤色の革の表紙を開く。私は高鳴り呟く。

「奇跡みたい」

 奇跡か。

「近いけれど少し違う」

「ううん、奇跡だよ」

 君を含めてそう呼びたいの。

 だって私、そんなことできっこない。名前すら持ってない。こんな光だって見たことない。そんな分厚い本も加工されていない蹄も初めて見たの。だから奇跡に違いない。私宛の私だけの贈り物に違いない。

 彼女が袖をめくってその左手が露わになった。墨色、爪は反射しない白、黒い手袋をしてるみたい。

「気味が悪い?」そう仄かな笑みで言うので、

「そんなことない。綺麗だよ、すごく」

 一瞬、獏の金色の瞳が私を捉えた。

 あのね聞いて、麗しいひと。

「綺麗なものは、遺しておかなくちゃならないの」

 彼女のその墨色の手が鈍く光って空中に金色の文字を描き出した。

「私の名前?」

「そうだよ、ペンがあればもっと良かったんだけど」

 羽ペンでも何でも。

「私の羽根を使う?」

 そう尋ねると、

「また、いつかね」

 そう笑ってみせた。

「君は白鳥みたいに光っている。純真無垢で愛されるもの。そのようにつくられた、愛の矛先となりうる為に」

 おまじないみたいな言葉。痛いのが遠く遠く飛んでゆく。

「そして君は、なにものよりも強い」

 違う?そう問う瞳。

「分からない、そうなのかな、私」

「さあ、私にも分からない」

 でもね、

「君とこの名前が溶け合ってゆくんだ」

 言葉を紡ぐたびに脈拍、光っては消えて。そっと、私は私だけの本を開いた。

「リヒエナ・アメリア」

 どうかな。虹の峰に棲む君にぴったり。私は笑顔で何度も頷き何度も繰り返しその名を唱えた。

「…リヒエナ・アメリア」

 私だけの名前、私だけの響き。その時初めて、宝石は空に散りばめるものではなく、自分で持っておくものなんだと知った。本当に大切な宝石は、ポケットに入れていつも持ち歩いておくの。

「じゃあ今度は私の番だね?」

 夢喰い獏が泉の上で踊る。軽いのだ、空気よりも軽い魂。

「うん。私に呼び名をくれるかな、リヒエナ」

 獏としてでなく、君と同じ個としての。

「いつまでも獏のままじゃあつまらないからね」

「本当に私で良いの?」

 もちろん。

「せっかく新しい世界を知るんだよ、私達、ふたりきりで」

 綺麗なものを身に纏ってゆこうじゃないか。

 私はうーんうーんと頭を悩ませた。そうすること一瞬のまたたき、気付けば三月と二十日を経た。時間は腐敗するほどあったから。彼女の中にはそれはそれは沢山のお伽話が詰まっていて、泉のほとりでそれをひとつずつ私に語って聴かせた。

 そう、まだ覚えている。確か、親指くらいのお姫様が毒林檎を食べて荊の城で千年の眠りに。ガラスの靴を割られたお姫様は海の泡になって夜空の草臥れた星座になるの。

 生まれて初めて退屈しなかった。いつもは眠りを妨げる彼等の喧騒も忘れられた。語り、眠り、彼女は私の悪夢を食べ、二十日目の午後、月笑う頃、私は生まれて初めての、たったひとつの始まりを生んだ。奇跡に似た、けれど決して同じでないもの。私が私自身の手で創り上げたもの。

「錆び小伽」

 どう?

「錆び小伽!」

 だって君は死んで新しくなった夢喰いの獏。彼女の中に滞留する血は墨色で、お伽話がおもちゃのように詰まっているから。

 私が彼等の為に歌うように、彼等が彼等の腐敗を私に託すように、彼女の中の知識は内側の扉をノックしてまで外に出たがっていた。出してあげないといずれ彼女の中でブリキのように錆び付いてしまうだろう。

 それに。

「君は随分小さいみたいだから」

 背も、肩も、尾も。だからどうかな。

「小伽」

 彼女を呼ぶとやっと彼女は私の瞳の奥を見た。意外と私ってシャイなんだな、とかなんとか呟いていた。しゃいって何?と聞き返すと、そのうちねと返ってきた。

「良い呼び名をありがとう、リヒエナ」

 世界の終わりまで、一生私をその名で呼んで。

 蜂蜜色のとろけそうな瞳でそう言った。私達には何も無い、泉の淵に座って言葉も交わさずに居られた。遥か遠い地平線を見ていた。

 私が眼にするもの、耳にするもの全てに大地の子等は映るけれど、彼女が居る限り私は安心してここに居られる。

 だってね、決して君の瞳には彼等の姿は映らないんだもの。君の瞳にはちゃんと私が映っているの。だから安心して君の瞳を見つめられる。悪夢も見ずに、私は眠れる。

 ひとりぽっちで死ねない私と、ひとりぽっちの死なない彼女。金と紫の瞳、輝く調和。ふたつでひとつ、歌う宝石と夢喰い獏。私達は大きくならない、これまでも、これからも、時計は止まったままだ。

 そうして数千年が経ち、彼女と出会って億年が経ち、雲の原にも多くの建造物が生まれ数多の命が棲まうようになった。ゆるやかに、おだやかに、それは流動的に変化し続け、それでも私達ふたりはそこに在るまま。

 今では私、雲と雪を織り込んだ背の高い塔に棲んでいます。壁には大きな金色真鍮の裁ち鋏を飾っています。図書宮殿で見つけたものを私が彼女から貰い受けたのです。彼女の頭の中にあるものはごく稀に形を成して現れる。地上の洋に沈んでいた鋏だ。私は古く寂れたものが好き。

 彼女は、彼女の頭の中の知識より建てた、広い広い図書宮殿で暮らしています。深い蔵書の海に溺れながら。悠久の時間を噛み潰す為に裏庭で数え切れない子山羊を飼いながら。

 塔は宮殿と隣り合わせになるよう建てました。西か東かで悩みました。彼女はふいと、

「どちらでも変わらないんじゃあない」なんて言ったけれど私、君と夕日が見たかったの。だから二階の窓だけは大きく創ったの。一日のあるひとときだけ、部屋中がオレンジで満ちるように。

 塔の最上階から渡鳥のように飛び立っては、君の居る宮殿へ遊びにゆく。窓から入るのを許してね、わざと少し悪いことをしてみたくなるの。正面からなんてつまんないでしょう。

 空には魚の代わりに鯨が泳ぐようになりました。雲海は上手に波打つようになった。たまに彼等の血を吸って動けなくなったゆりかもめが迷い込んで来る。けれどその度に私が拾い上げ、彼女が悪夢を食べてあげて、ふたりで空に帰してあげるのです。

「リヒ、小伽、遊びに来たわ」

「相変わらず上は眩しいな」

 妖精の女王と魔界の火龍も相まって、私達は永遠にこのまま。

「また二階の窓から入っているのね、リヒエナ」

 呆れる女王の笑い声。

「小伽もなんとか言ってやれよ、玄関はあっちだって」

 火龍は尾を左右に振る。

 幼かったふたりもいつしか私達の背丈を超えた。あの頃は私達の腰くらい、あんなにこまごましかったのにどうしちゃったのかな。クッキーを一枚あげるだけで喜んでくれていたのに。

 口調も務めも随分大人びたけれどなんにも変わらない。ずっと同じまま流れてゆく。そういった事象、対象。こういった、一欠片のラピスラズリのような幸せがずっと続くと思っていました。けれどそうはなりませんでした。始まってしまったが最期、いつか何処かで終わりが来ること。そのひと自身の手で簡単に終わらせてしまうことを、私は身を持って知ったのですから。









「どうしても私に触れてくれなかったね」

 最期まで。

 雲の端っこに腰掛けて、私の膝で眠る彼女の頭を撫でます。一心に翼で撫でます、そのたびに私の羽はひとひら、ひとひらと散り落ちてゆきます。白い羽が君の白い髪の上に落ちて、それはそれは死に近い様。

 君のこの姿も彼の方のご意志なのでしょうかと考えます。獏と人を半分こずつ。人でもなく獣でもない、どっちつかずな君だけという存在。

 どうして君がここに来たのか、どうして君がここに居るのか、私は未だに知りません。君は何も言いません。君自身も知らないのかもしれない。けれど私は、それでも良いと思うようにしているの。

 風に乗って彼等の叫声が流れてきました。私はそれを琴線へと落とし込んで弾く。音となれ、割れやすい瑪瑙へと。私の喉は蓄音器、歌うオニキス。何も変えられないのなら、子守唄のひとつでも歌って少しでも君が心地良く眠れるようにしたいの。そう努めていたいの。甘い宝石を彼女の口に含ませて、詰まった喉にキスをしたい。なんなら私の羽を全部使って、君だけの毛布とクッションを創ってもいい。金色の鋏で裁ち切って、君の皮膚にちくりちくりと縫い込みたい。そしてボロ絹のようになった翼で君を何処までも運んでゆきたい。だって守るべき形など無い。ねえ、そうでしょう。

 お葬式に赴く前に、彼女が眠る前のことをお聞かせしたいのです。昔のことを順番にお話ししたいのです。そうでないと翼が重すぎて、私きっと途中で堕ちてしまうから。









 億年と少し前の冬のことです。図書宮殿はとても広くて寒いのだけれど、彼女は蔵書に何かあってはと宮殿内に暖炉を置くのを嫌がります。そもそも彼女は獣ですので火の扱いは元々得意でないのです。そんな彼女が執筆した本達もまた火花は苦手なようでした、そんな空気が天井の隅に座礁していた。長く寒い冬が続いていました。

 私達は奥の部屋に引き篭って毛布を被ってなるだけくっついて過ごしていた。彼女はきのこの専門書を、私は兎の絵本を読んでいた。妖精の庭に棲むとゆわれる羽兎、大きな耳でぱたりぱたりと飛ぶらしい。私はまだ見たことがない。

「それ、面白い?」そう問われたので、

「すごく可愛いよ」そんな風に答えた。

「黒い羽兎が白い羽兎に花の指輪でプロポーズするんだって」

「はあ、指輪か」

 興味など無い。嘘が無い。そもそもこれは彼女の蔵書から引っ張り出してきたものだから内容なんてとっくにもう頭に入っているのかもしれない。

「小伽はどうしてきのこ図鑑なんか読んでるの」

「少し菌類のことが気になって」

「形も柄も可愛いらしい子が多いよね」

「結構面白いよ。毒きのこの生態とか」

 可愛いくって面白い。面白くって可愛らしい。噛み合わない私達で奏でる歯軋り。ぎこぎこ、ぎいぎい。

「美味しいしね、きのこ」

 横向きで笑いかけるとそうだねと肘をついて目が合う。君はあんまり笑わない。探られているみたいだ、君に探られるのは好き。だから私も見つめ返す。

 ねえ、リヒエナ。

 なあに?小伽。

「どうしてわざわざ毒なんだと思う」

「毒?」私は聞き返す。どういうこと?

「きのこの中には毒をもった種類が大勢あるだろう」

 彼女は続ける。

「考えるにね、屍を作ろうとしてるんじゃないかって思うんだ」

 しかばね。想像したけれど上手く思い描けなかった。私は最も死から遠い存在、この空の国に死というものは存在しない。

「毒殺した死体の肉をそのまま土壌の肥やしにしようとしているんじゃないかっていう仮説なんだけど…」

「うーん、そうなの?よく分かんない」

 うん、うんとゆったり頷く。

「だよねえ、私も」

 なんだ君も分かんないのか。だったら好きに言っちゃおう。

「でもさ、そんなことしたらその土地も毒まみれになっちゃわない?毒で穢れた血がその土に深く染み込むの!」

「ああ…それは確かに」

「毒の土で育った毒きのこ、毒がぎゅーっと詰まってて美味しそうじゃない?ね、食べてみたいなあ」

「リヒらしい最もな意見」

「毒も死体も丸ごと全部食べちゃうなんて、その土は食いしん坊なんだね、きっと。私と一緒だ」

 お腹いっぱい食べたいんだ。ぜんぶぜーんぶ食べちゃいたいんだ。だって空腹は寂しいから。争うより暖かい場所でぬくぬくしていたいから。さあ、そうと決まれば。

「今日の晩ご飯はきのこに決定だね!」

「ええ、きのこ?」

「だって話してたら食べたくなったの」

 秋から干していたのが残っているでしょ?私は君より君のキッチンに詳しいんだ。

「シチューにしようよ、ブラウンシチュー」

「熱いのは苦手」

「ええー、いや?」

「嫌、ではないけど…」

 たじ、たじ。

「ありのままでない感じが、苦手」

「そっかあ、残念。寒いから温まりたいと思ったんだけど」

「でも、まあ…」

「うん」

「リヒの作る料理は好き」

「本当!」

「本当」

「じゃあ張り切っちゃおうかな!」

 すぐに嬉しくなる私の胸。容易なの。御し易いでしょ?

「冷ましてあげるから安心してよ」

 うん、と彼女が目を閉じる。

「嬉しい」

 くっついている私達、離れがたくて。寒くて一緒に居るしかないの。私、君の傍から小爪程も離れたくないもの。大きな白い羽毛の毛布に一緒に埋まるの、隠れ家みたいだよ、私達だけの秘密の場所。

「リヒ、もっとちゃんとこっちに来て」

 小伽が腕を広げて空間を作る。私は絵本を床に放って彼女の言う通りにする。膨らんだ毛布の中でもっとちゃんと隙間も無いほどに私はすんなりと収まる。

「翼は?」

「大丈夫、畳んでるよ」

「じゃあ晩ご飯の前にやってみたいことがあるんだけど、いいかな」

「何を?」

「化粧」

「お化粧?」

「ただの化粧じゃないよ」

 そう言って私の足の甲を袖の先で、つい。

「爪へのね」

くすぐったくて足を引っ込めると小伽が仄かに笑った。珍しいからよくよく見ようと身を乗り出すのにすいと空間から抜け出されてしまう。君がおいでって言ったのに。温い膨らんだ空気。

「小伽」

「うん」

「早く戻ってきて」

「うん」

 空返事。

 カチ、コチ、カチ、コチ、チク、タク、チク、タク…。頭の中の時計。ああ、もう。やだな。

「はい、これ」

 戻ってきた彼女が目の前に掲げる、三つの小さなガラス瓶。わあ!寒さも忘れて私はぱっと起き上がる。

「綺麗!」

 例えるならそう、とろけるローズクォーツ、シトリン、アパタイト。

「美味しいの?」

「残念ながら今回は。今度口に入れても良いものも作るよ」

 さ、どれがいい?

 問われて迷う指、私に飲み干されたいのはどなた。

「ただの塗り絵みたいなものだよ」

「そんなこと言われても悩んじゃうよ。どうしたの?こんな綺麗なもの」

「良い染料と樹脂がたまたま手に入ったからね、いわゆる試作品というやつ。ただ…」

「ただ?」

「作ってから先のことは考えていなくて」

「だから私にお化粧?」

 まあね。私の膝にたゆんと小伽が被さってくる。上目遣いの金色の瞳。だってさ、聞いて。

「美しいものを更に美しく飾り付けるのは、言わば世界の約束でしょう」

「世界の約束」

 摩訶不思議な言葉。世界ってどの世界?さっきまでの暖かい空気は消えてしまった。君がいつもより小さく見えてまるで雪の精みたい。

「そんなの私、初めて聞いたよ」

 そりゃそうだ、

「私だけの決まりだからね」

 投げやりな答えに「なにそれ」と笑った。

 でもここには私達しかいないから私達の約束は世界の約束たりえる。

 君の中では私は美しいもので、その美しいものを更に美しくするのは当たり前のことなんだそうだ。だったら私の中で君はなんだろうな。革紐の靴は脱いでしまう。硬く結んでいたのに少しも擦れてなんていない。君がそこにそっと触れる。袖越しに柔らかく撫ぜる。

「決めた」

 はじめての爪へのお化粧は、君の瞳の色にする。どれも素敵だけれど、今回だけじゃないんでしょう?だから今日は君の瞳の色にしたい。シトリンをふんだんに使ったやつでお願い。ねえねえ凄いね、どうやって作ったの?材料は何処から?時間はどのくらいかかる?ぜんぶぜんぶ教えてよ。

 材料は雲海の砂、貝殻、欠けた小石に浜木綿の花弁。集めて混ぜて温めて。くるくる、くるくるかき回すの?料理と似てるね!楽しそうだな、やってみたい。私もそんな風に創られたのかな、そうだったらいいな。どうせなら優しく創られていたい、両手で包まれるように形を成していたいの。

 お化粧は冬のように冷たかった。筆先は黒く艶めいていて、それがガラスの蜜壺に浸った。ひたり、ひたり、私は身震いして、施す彼女の指先は隠れて見えない。きっと墨色の指先、乳白石のような爪は震えている。私に向けられる真摯な緊張を愛おしく思った。一途過ぎる洗練を一心に爪で受け止めた。

 輝く黄色、毒々しい黄色、君の瞳と同じ色。

 きっと死をもたらす毒きのこもこんな色をしているんだろう。きっとそれはそれは美味しいんだろう、ほっぺたが落っこちちゃうくらいに。

 そう思うと笑えて、ああそういえば死ぬまで笑いが止まらなくなるきのこもあるんだったっけ。いいなあ、笑いながら死ねるなんてそれ以上の幸せ思い付かない。けらけらかたかた笑って絶頂の中ぱたんと死んじゃう、終わっちゃう。

「リヒ、」

 責めるように私を見る。

「くすぐったくても我慢して」

 私の透明な爪がくすんでゆく。くすくす、くすくす、陶器のように息をしなくなる。待つのは好きだよ。どうしてもって時は少しだけちょっかいを出しちゃうかもしれないけれど。彼女の下向く耳をつつく、艶艶、ビロードみたいな黒の被毛。

「リヒ、くすぐったい」

 ぴくりともしないの、ちょっとくらい動揺して欲しいからちょっとくらいいじわるさせてよ。

「くすぐったくても、我慢するんでしょ?」

 ね、そうでしょ?だって君が言ったんだよ。

 耳を撫でる、毛並みを揃えては逆立てて、指の腹で私の名前を書いてゆく。彼女は芯から私の爪をくすませてゆく。鏡みたいだった私の爪がこんな薄い膜で閉ざされてゆく。

「渇くまで、動かないで」

 見下ろす私の黄色いじゅっぽん、毒毒、くちなし。笑ったからかあったかい。暖炉は無くても暖かくして居られる。

 見下ろす君のつむじが好き。頭皮の薄いピンクが好き。誰にも見せたがらない、その長い袖の下に隠された、オニキスのような腕が大好き。獏の耳にピアスを開けたのは私であること、この世の誰も知らないの。そして君のその真剣な頸に黒子があること、きっとこの世で私しか知らない。君さえも知らない。

「ね、小伽」

「何」

 どうしてこれを創ろうなんて思ったの。どうして私に施そうなんて思ったの。地上の彼等の骨が、臓物が、開く瞳孔が、この爪先に映ることを知っているから?殺害に明け暮れる彼等の姿が、毎夜この爪に映ること。それを私が膝を抱えて見ていること。君は全部知っているから?

 毛布を被ったまま、私は。

「んーん。なんでもないよ」

 私、夕暮れを背にこの爪先で宮殿の屋根を踊るんだよ。ワルツが好きなの、知っているでしょ。それで太陽が雲の下に沈んだら、オレンジ色に染まった雲間で踊るの。それはそれは綺麗、橙の絨毯。それを見下ろす塔には細い月が差し込み始める。

 君は高い所は苦手だから、君は寒いのは苦手だから、なのに暖かな火も苦手だから、いつだって私の翼で包んであげるの。君が高い所にゆく時は私の翼でのみ。君は意外と怖がりだから。

 君にとって私は飾り付けるもの。私にとって君は私に訪れた初めての雪。何も無いこの場所で目印となる。

 死から最も遠い場所で死について考えます。それは冬のようなものであると思いました。くすむ私の爪先にこんこんと死が降り積もる。死にゆく私の爪先が、心底幸せなどと言う。











 一千年と少しのある春の日のことでした。雪と桜が舞っている夕暮れ時だったように記憶しています。私は塔の自室で彼女に借りた童話を読んでいた。確かもう三百年も前に借りたもの。

 あの日彼女に貰った名前の本は花瓶の隣に立て掛けてあります。もうあんな風には光らなくなってしまったけれど今でもずっと大切にしているの。たまに開いて私の名前を指でなぞる、ざらりとした羊皮紙には名前以外何も書かれていないけれどそれだけがとても嬉しく思うのです。

 窓の外を遠く漂う鯨達の影を眺めていた。木の揺り椅子に座って童話の挿絵をひらりとめくったその瞬間、煙突ががたがたがた。私は驚いてひゅんと飛び上がる。塔ぜんぶがぐらぐら揺れたかと思うと、ころころころん。びっくりしながら翼から顔を出すと寂れた暖炉に煤だらけの君が転がっていた。

「小伽!」

「いたい」

 飛んでいって急いで彼女を抱え起こす。軽い。何が起こっても平坦な、常にぼんやりとしている瞳。

「大丈夫?何してるの?」

「少し驚かせようかと思って」

「驚いたよ!充分!」

 いったいぜんたい、どうしちゃったの。とうとう頭でも打って変なきのこでも食べちゃったの。君なら本当にやりかねないからなあ。

 私の腕にぶらんと垂れ下がって、いやはや。

「煙突からひとんちに侵入するじいさんについての文献を読んでね、そいつの真似でもしてみようかと」

 君を驚かせたくって。

「そんなことするおじいさんがいるの?本当の本当にきのこは食べてない?」

 ひとり抜け駆けはだめだからね。

「ああ、食べてない」

 蹄に誓って。

「でもそんな危ないことするおじいさんって…きっとすごく面白いひとだろうね」

「随分足腰が強いんだろうな」

「妖精?それとも魔物の類かな?」

「今度ふたりにも聞いてみようか」

 タンッと高らかに蹄を鳴らして降り立つ。私はこの音が大好き。本当は目覚ましにしたいくらいなんだけど彼女は私より先に起きてはくれないから。

「煙突、高くなかった?」

 怖かったでしょう。

「そりゃあね」

 でもさぁ。ふるふる揺すって煤を飛ばす。灰色の粉が花弁みたいに床に舞い落ちてゆく。

「やるときは徹底してやらなきゃ」

「徹底かぁ」

 私を驚かせる為の?よく分かんないけれど。濡れタオルで彼女の黒くなった鼻先を拭いてあげる。すると分かっていたみたいにぐーんと心地良さげに首を伸ばす。

「ちゃっかりさんだなあ」

 思わず笑う。

「既に学習済みだから」

「一体何を?」

「煙突で煤まみれになればリヒが世話してくれるってこと」

 ええ!声を上げつつ、ごしごし擦る。

「じゃあ小伽、もう私無しじゃ生きてけないじゃない」

「端的に言うとそういうことになる」

「私が居なくなったらどうするの」

「私が居る限り、君を居なくならせたりなんかしないよ」

 強く握ると水が滴る。何処まで本気か分かんないなぁ、もう。

「でも私も小伽無しじゃ生きてけないなあ」

 そう呟く私に彼女はさらりと、「そんなことはないさ」

「本当だって!」

 ひどいなあ。本気だよ、本当にそう思うのに。君の居ない世界なんて考えられないのに。だから擦るの、軽い君を湿らせてあげるの。少しでも重たくなるように。

 彼女の袖が私の顎をふいとなぞって、

「ではそういうことにしておこうか」

 今だけは。

 私、本当は少し願うだけで彼女の煤など無かったことにしてしまえるのだけれど決してそうはしないの。私は必要以上に奇跡は使わない。穏やかで慎ましい暮らし、そちらの方が私らしいと感じるから。そうありたいと思うから。

 大地の子等の苦しみは理解できても手を差し伸べることはできない。どうとでもできる力があるのに、行使することを許されていないから。だから無闇に使いたくない。

「これ、まだ読んでるの」

 え?とタオルを絞りながら振り返ると、彼女がテーブルに放られた童話をめくっていた。

「ああ、うん。ごめんね」

「どうして謝るの」

「宮殿って返却期限とかあったっけ?」

「ないよ、そんなものはない」

 結局は全部私の中に入っているからね。

 そう少し自慢げに答える彼女に、だったらどうして書き起こしてわざわざ本なんかにするんだろうなんて問いが浮かぶ。それを言葉にすれば彼女はきっと、仕事だから、なんて答えるんだろうな。

「読み終わったら次を貸してあげるのに」

「でも読んだら終わっちゃうんでしょ?」

 そう答えると彼女は珍しく目を丸くして、

「そりゃあ…そりゃあね。なんでも終わりはくるものだから」

 私はどうしてか、それがどうにも寂しくて、めでたしめでたしは淋しいんだ。彼女は静かに本を閉じながら、

「変わるのが嫌なの」

 相変わらず鋭いなあ。

「うん、多分そう」

 変わらないのが一番。

「リヒエナ」

「なあに」

 彼女は音も無く私の側へ。静かな獏、三つの蹄、彼女はいつも裸足だ。見てるだけで寒くなっちゃう。

「これを、君に」

 おもむろに袖の中をがさごそ。あれ、何処にやったかな。ちょっと待ってね。紙切れ、羽ペン、割れたボタン、素敵なガラクタ、財宝ざくざく。しばらく探して、

「ああ、あったあった」

 ひょいと私へ差し出されるそれ。目に飛び込んでくる小さな白い箱、揺れるリボン。

「わあ!」

 私はぴゅんと飛び踊る。これは、まさしく、あれだ、風達の噂で聞いた、プレゼントというものだ!

「どうしたの?何これ?開けても良い?」

「見つけた。贈り物。開けても良い」

 贈り物!なんて素敵な響き。四角の箱に、上手に掛けられたピンクのリボン。底が少し捻れているけれどそんなのはご愛敬。嬉しさで思わず羽ばたきそうになる、羽根が舞っちゃうからだめだめ。ぐっと堪えて、そっとプレゼントを受け取ったら、

「開けても良いの?」

 本当に?

「良いよ」

 本当に。

 はらりと解いてぱかりと開けて中から顔を出したそれは、雲のクッションに埋められたキラキラ輝くアメトリン。霞がかった真鍮の古い指輪。心のままに声を上げて思わずくるりと回ってしまう。

「すごく綺麗!」

 指が狼狽える、触れられない。このままレースの掛かった本棚の上にそっと飾ろうか、埃が被らないように注意して。それとも銀のチェーンを通してみようか、ドライフラワーと一緒に揺らしたらきっと夢のようだろう。

「着けたら良い」

「ええっ!いや、でも…」

「良いさ、私からリヒへの贈り物だ」

 着けてみたい、着けてみたいよ。でもきっとすごく私にはもったいない。でもそんなこと言えない。

「迷ってるね」

「え?…うん、そうかもしれない…」

「リヒは迷う時必ず髪を弄る」

「ええ!そうなの?」

 気付けば私の右手は遊ぶように三つ編みを巻きつけていた。

「全然知らなかった」

 どうして教えてくれなかったの。

「昔からそうだよ」

 教えなかった理由は、ナイショ。

 何も言えないでいる私を差し置いて彼女はさっと指輪を箱から摘み上げた。そして何処でそんなの覚えたのか私の右手を優しく取った。袖越しに。まるでさっきまで読んでいた童話のお姫様になったみたいだ。

 けれどやはり彼女の頭の辞書にロマンチックなどという言葉は無くて、「うーん、ちょっと大きさ間違えたかな」。真鍮の指輪は私の中指にぐいぐいと押し込まれた。お姫様とは余りに遠いそれに私は思わず笑ってしまった。それでも充分、素敵だと思えた。

「少しきついかな、どう?」

「ううん、きついくらいが丁度良いの」

 窓から差し込む夕日に指を透かすと金と紫があわあわと瞬いて綺麗だった。私のものとは思えないくらいに。

「小伽がこんなものくれるなんて」

 彼女はもう目もくれずくたりとソファに寝転がる。膝丈のドレス、紺色のベビーベルベット。

「鉱石の区を整理してたら見つけたんだ」

「リボンも箱も?」

それは…。眉根を寄せて、言い淀んで、

「…女王に絶対用意すべきと言われて」

 後にも先にも庭の女王にあれほど感謝したことはないかもしれない。私はまだ右手をひらひら、指輪に見惚れてくるくる踊る、彼女はもうソファで上でくたくた。

「ありがとう小伽!」

 歌うように言うと床に沢山の宝石がパッと散らばった。嬉しい、楽しい、そういった気持ちはガーネットとトパーズがよく弾ける。

「やっぱり今更宝石なんていらなかったかな」

彼女が床に散らばった石を見ながら言う。

「全然違うよ!」

 私は大きな声で言う。これでもかってくらいに。

「どうだかなあ」

「小伽から貰ったから、私こんなに嬉しいんだよ」

 そう言うと彼女は少し驚いた瞳で私を見返し、「…そう。そういうものか」と小さく答えた。けれどすぐに彼女の表情は元通り。むしろ普段以上に冴えない様子。

「ねえ小伽、どうしたの?」

 私はドレスの裾を舞い上がらせて、フリルをふんだんに床とキスさせながら彼女の瞳を覗き込んだ。

「ねえ、こっちを向いてよ。なんでそんなにしかめっ面なの。」

 うん、と答えつつ彼女は私の視線から巧みに逃げる。

「まあ、あまり期待しないで」

「期待って?」

「ただの…装飾品のひとつだとでも思って」

「ただのって、どういうこと?」

 私の問いかけに彼女は袖をゆらゆら、まさか私を眠らそうとしているのだろうか。その手には乗らない、君は何かを隠している。

「小伽、お願い。全部教えて。つつみかくさず」

 乾いた笑い。観念した、分かったよ。全部話すよ。つつみかくさず、ね。

「その指輪には一応…もちろんお試しでね、悪夢除けのまじないを施してるんだ。専門書を何冊か読みながら試してみたから目立ったミスは無いと思う」

 目をぱちくり、一体何の話だろう。けれどひとまず、

「うん」

「効能は主に心身向上とか色々胡散臭いことが書いてあったかな。まあ私らみたいなのには到底全く関係の無い話だけれどね」

「うん、」

 寝返りを打って背を向けてしまう。彼女の顔が見えなくなる。何か言いたいことがあるみたい、一番大切なこと。私は待つ、静かに。

 静かな獏の静かな言葉を、私は静かに待ち続ける。

「…どうにか」

 やっと、ぽつりと、雨漏りのような言葉が聞こえた。

「遮断できるものがつくりたかったんだ」

「遮断?」

「そう」

 君の世界を私は知らない。君の呪いを私はこの身に受けられない。けれど奴等の声や姿を少しでも君から遠ざけられるようなもの。君を包んで守ってくれる、やわくたゆむ繭のようなものを。

「小伽、」

「もちろん完全にじゃなくていい、微々たるものだとしても。奴等の存在を少しでも、君が感じなくて済むようなものを」

 つくれたら良かったんだけど。長い袖を三度振ってみせた。

「でも、ごめん。やっぱり私には無理だった」

 私は彼女が転がるソファの傍らに膝をつき、なるべく優しくその袖を握った。いつも隠れて見えないその手の代わりに。

「ありがとう、小伽」

「何の足しにもならないよ、そんなガラクタ」

「でも嬉しいよ、すごく可愛くてとても綺麗」

「そう、…そうか」

「うん」

 そして突然ソファから起き上がり雄弁に袖を振い出した。何が始まるのかと思ったら。

 …まあね。

「リヒは宝石も骨董品も飽きるほど持っているし今更そんなもの何の面白味もないと思うけれど。なんなら雲の原に放ってしまった方が建設的かもしれないね、しばらくしたら紫黄水晶がわんさか実る木が生えてくるだろうから──」

 早口言葉でうんぬんかんぬん、本当に君という獏は照れ隠しがおざなりだ。

「ねえ小伽」

「うん?」

「プレゼント、後悔してる?」

 私の持ち得る全ての優しさを掻き集めた声でそう問うと、

「…いや、」

 彼女が少し顔を上げた。透き通る睫毛はやっぱり雪が降り積もっているみたいだった。

「リヒが喜んでくれて良かった」

 何処にいても何をしていても大地の子等の影が付き纏う、そんな私の世界。それをどうにか、私にとって少しでも心地良い暮らしへと変えようとする彼女の存在。

 小伽は黙ったまま私の右手を取った。目を伏せて自身の額へ近付けて、触れる少し前で止める。長い前髪が私の手にかかる。蛍のような蜂蜜色の発光、私の悪夢が指輪を通じて彼女の身体に向かって泳いでゆくのを感じた。

 決して、彼女は私に、直接触れない。

「どう?」

「美味しいよ」

「世界で一番?」

「世界で一番」

 絶対嘘だよ!本当だって。私特製ぶあつめベリーパンケーキより?君特製ぶあつめベリーアンドハニーパンケーキより。

 私達は笑い合う。今夜はきっとソファで、薄手の毛布と眠ることになるのでしょう。ベッドまではほんの少し遠くて寒いから。ハーブのお酒を飲みながら、お伽話を抱きながら、私達は優しい夢を見るのでしょう。

「ねえ、リヒ」

 彼女は彼女が付けた私の名を呼ぶ。

「なあに」

 私はそれに何度だって返事をしたい。

「リヒの世界、変えちゃったらごめんね」

 そう言って悪戯っぽく口角をあげてくしゃくしゃの髪を指で捻って弄ってみせた。肩までの短い銀髪、迷っているふり、まねっこだ。私は可笑しくなってそのまねっこのまねっこをする。毛布もお酒も、もう少し後。もう少しだけこうしていよう。ふたりもたれて迷っていよう。部屋にオレンジが満ちる。螺旋階段で埃達の遊泳飛行。

 あのね、小伽、私ね。その日から一度たりとも、この指輪を外したことはないの。私だけの名前、私だけの指輪、私と彼女だけの時間。ぜんぶ、ぜんぶが宝物だ。

 きっと、そう、贅沢過ぎた。私の身には有り余るものだった。けれどもう忘れられない。蜜の味は忘れられない。例えそれが毒だと知っていても。











 もう、あの日のことは覚えていません。

 私達並んで、知らない浜辺に座っていたの。ここが世界の果て、帰りの船は出てない海辺。ざざん、ざざんと波打って、静かな遠い沖の音がしていた。

 白くたゆむ曲線、追いかける間もなく帰ってゆく。波は一度だけ陸にご挨拶して、もう二度と会いに来ることはない。深く触れ合うと離れ難くなってしまうから、足の甲に落とす軽いキスだけなのだ。後ろに咲くのは浜木綿。陽は靄に霞んで、眼を凝らしても酷くぼやけた。やどかりが私達の前を通り過ぎてゆく、砂を割いてゆっくりゆっくりとゆく。私の爪先は何色にも染まっていない。

「小伽」

 彼女の曖昧な横顔を見つめる。眠たそうな目蓋、さんぱくがん気味の君。小さな巻貝がゆく、その間に話してしまわねばもうきっと顔を合わせることすらできなくなる。誰にも邪魔されない、誰も映らない聞こえない、今しかないこの時に彼女の中枢を問わなければ。

 きっとそう、悪夢だったのね。

「ここは何処?」

 さあ、

「何処だろうね」

 意味のない問いと意味のない答えに、砂三つ分を費やす。うかつと無味が背中を伝う。

 夢だから君の袖をひらりめくって墨色の君の手の甲を中指でなぞった。夢なのにそれは酷く冷たかった。時間が無いなら少しだけ触れていたい、離れ難くならないくらいに。秋口の気配、私は指輪をしていない。

「冷たいね」

 私の独言。

「海が綺麗」

 彼女に向けて。

「お腹が空いたよ」

 真ん中から発せられる無作為な言葉。私は落ち着かない。私は空の生き物、ここはあまりに低すぎる、世界の底に近すぎる。

「そうだね」

 君の茫とした返事に私は我慢できなくなる。たまらなくなって落ちていた平たい青い貝殻を掴み私はそれを喰らい尽くす。小さな空、紛い物で良い。ばり、ばり、と歯を立てて喰らう。

「美味しい?」

 美味しい?リヒ。

 美味しくなんかない。そうに決まってる、どうしてこんな時ばかりまっとうなことを聞くの。別にどっちでも良いの、今だけ満たしてくれればそれで良い。

「美味しいよ」

 ばりばり、ばりばり、ごくん。貝殻で唇の内側を切った。何かが流れている。生暖かいものが口から零れる。指輪のしていない中指で、私は溢れる蜜を拭う。

「馬鹿みたい」

 私。馬鹿みたい。どうしてこんな、必死になって。真っ赤なものと一緒に流れ出た言葉は同じように真っ赤に滾っていた。私は怒っている。理由なんて無い。怒りたいから怒っている、夢だから仕方が無い。

「君は馬鹿じゃないよ」

「どうして分かるの」

「君は世界一綺麗だから」

 だからなんだって言うんだろう。綺麗な私、翼を持つ私、醜い彼等と同じものが流れているとでも言うのだろうか。私が私で良かったことなんてこれまで一度だって無いというのに。どうにかしたいのにどうにもならない、満たしたいのに満たすすべも知らない。あの頃と何も変わっていない。ああ、空が恋しい。

「これは夢?」

「さあ、どうだろうね」

 だとしたら酷い夢だ。私は泣き出す。

「早く醒めてしまいたい。早く空に還りたいの」

 早く起こして。誰か肩を揺さぶってよ。

「夢であれば良いと私も思うよ」

「どうして」

「ただ、君に泣いて欲しくないんだ」

 なんにも知らないくせに。今日の君はなんにも分かっていない。いつもはなんでも知っているのに。なんでも知ってるみたいな顔して私の傍に居るのに。憎い。

 巻貝がゆく、甲羅の脚。ああ、もう時間が無いの。

「小伽」

「なあに」

「私のことが好き?」

「好きだよ」

「ずっと好き?」

「ずっと好きだよ」

 ならば教えて、本当のことを。

「君は何なの?」

 答えて。全て教えてよ君のこと。こんな果てまで私を連れて来て。このままじゃあ私、永遠に満たされないまま。

「私は私だよ」

 君は答える。私の求める答えと違うから、私はまた尖りそうになる。君は構わず続ける。

「私はいつだって私」

 いつのときだって、それは変わらない。

 くすくすと君が笑う。銀色の風で何も見えない。

「またそうやって、怒るの?」

 蜜色の瞳。君は私が怒っても構やしないのね。そうやってぼやかされる、だから離れない、離さない。

「怒らない」

 殺さないよ、

「決して」

 私だけの意志で生かしておくの。

「私の知らない、君が知りたい」

「君の知る私で、私は全てだよ」

 私が照らす君の裏側まで私は知らないと気が済まない。だって私は私が知らない砂粒ひとつの君でさえ切り捨てることができないから。それすらも全て私は飲み込んでしまいたいの。ねえ、君は。

「何処から来たの?何処で生まれたの?

今まで、私に会うまで何処に居たの」

 ここまで海にかかずらう理由を教えて。この海底に何を遺してきたのかを教えて。なのにどうして、私の居る高い空までわざわざ昇ってきた理由を、どうか教えて。

 ねえ。

「君は何なの?」

 ふたりの髪が絡まる、波の音が消える。無機質な唇、つくりものみたいな鼻、金色の瞳を覗いたけれどそこに、私の姿は映っていなかった。

「海から」

 ぽっかりと告げる君。海、地上の海。翼持つ者は知ることのできない場所。見たことのない、私の中の塩、疼痛。どんな風にしたって、私の指に君からの指輪は無いんだもの。亡くしちゃったのかな。大切にしているものを私はいつだって亡くしてしまう。

「私は私」

 君は立ち上がる。

 時代も、肉体も、名前も変わって、命そのものが変わっても、私は私。

「私はいつも私だけだよ」

 いつの時もね。

 なんて、見下ろしながら言う。前髪が長いね、もう切らないとね。私が切ってあげるからね。ああ嫌だ、鋏は何処に仕舞ったんだっけ。見つからないの、見つからない。

 時間が通り過ぎてゆく。かたかたと、私達の前を通り過ぎてゆく。私の前から消えてしまう。ざざん、ざざん。波の音が近い。

「帰るね」

 君の一歩を沈ませない砂。翼の無い空っぽな背中。飛べない。

「何処へ」

「海へ」

 うまれた場所へ。

「地上のものはみな、海からうまれたんだよ」

 私は立ち上がれない、翼が無ければ重力に逆らうこともできない。

「私も連れていって」

 この手を取ってよ、もがれたって良い。全部あげるから。

「君は連れてゆけない」

 どうして。

「君は天のものだから」

 私は天のもの、じゃあ君は地上のもの?土塊の塩は地上の海で生まれたのに、私はどっちつかず、君もどっちつかずなのに。

「君が居なくなったら私、きっと変わってしまう」

 掠れた声、私は泣けない。君は振り向かない。怒ることもできない。君は振り向かない。

「変わったって良いんだよ。この世の全て、変わり続けるんだから」

 だから君だって変わって良いんだ。

 ざざん、ざざん、

 海が君の蹄に纏わりつく。軽いキスでは済まない、攫って奪って喰われてしまう。

 ざざん、ざざん、

 ざざん、ざざん、

「ねえ、私達」

 ざざん、ざざん、

 ざざん、ざざん、

 波の音が五月蝿い。

「一緒には変われないの、小伽」

 ざぶん。

 白黒が海にまみれてゆくのを見てる。追えない、私の翼では沈んでしまう。私の世界が終幕を迎える。化粧も指輪もピアスの留め具の一片さえも、君は何も遺してはくれない。空が、海が、砂が、死んでゆく。かつてここにはたくさんのものが生きていた。住民はもう居ない、青い貝の欠片だけを残して。ここが私のすみか。ひとりぽっちはもう嫌だ、もう戻りたくないのに。

 夢が醒めてゆく、優しい悪夢を削り取る。変わるのは痛い、どうか変わらないで居たい。何も見えない、影もない、息もない。深海に繋がれた君、何の夢を見ているの。

 手を繋いで居たくても、居られない、そんな私の隣人達。君もそうなの?君もそうなの?

 波、波、溟、溟。おなかがすいた。

 いらないならぜんぶちょうだいよ、

 ぜんぶ、ぜんぶ、たべたげるから。

 ぜんぶ、ぜんぶ、のんだげるから。

 あくた、あくた、海がしじま。












 その日はある夏の快晴でした、覚えていますか?図書宮殿の二階の窓は私専用の出入り口。塔の最上階から飛び立ってちょうど四回羽ばたくの、五回目でぴったりブーツの先が届くから。いつだって鍵は開いている。

 踏み入れたそこはちょうど音の区。軋む音、三回ノック、手拍子、夜鳴り、囀り、色んな音が聴こえてくる。明日は何の区になっているかな、たったの五分で入れ替わってしまうこともままある宮殿。

「小伽」

 ハープの音色に掻き消されて返事なんて聞こえないけれど、真っ先に私は君のことを見つけられます。

 図書宮殿は彼女だけの都。迷路のように入り組んでいて何千何万と明確な区分があり、しかもその区画達はそれぞれ明確な意思を持って動き回っている。主の介入が無い場合に限り、基本的に区画達は自由気ままな優しい小箱達なのだ。だから万が一にでも誰かが不用意に迷い込んだら最期。腹ペコ区画に喰われるか、メイデン区画で針の筵か、運が良くともぐるぐるぐるぐる彷徨って干からびるまで百年ずっとそのままなのだ。遺ったその骨と皮はきっときっちり丁寧に彼女の手で剥製にされてしまうでしょう。

 私はシャンデリアの横を飛びながら目下に過ぎ去る本棚の森を見下ろす。ああ、あれが鉱石の区、あそこで指輪を見つけたのかな。鉱石と言いつつも酷く綺麗に磨かれカットされてあった。それ以上考えるとなんだか嬉しさと共に恥ずかしさを覚えた。そのまま滑空と宙返り、隣には桑にかぶりつく蚕の群れ、単眼の犬、足の無い白い馬。ああ、向こうには銀細工の万年筆が散らばっている。あの辺りで鋏を見つけて譲ってもらったんだった。そうしている内に濃い彼女の存在を感じる、柔らかい毛並みの仄かな暗闇を感じる。

 二階奥は彩雲の区。空と雲の専門書が並ぶその区画に私は降り立つ。足の踏み場も無いとはこのこと。嵐の後みたいな蔵書達。ゴロゴロピカリ。かすかな雷の音と稲光り、見上げると天井には虹の架かった秋の鱗雲が滞留していた。テーブルに見開きで放られた天候の図鑑から逃げ出したらしい。

「小伽」

 部屋の隅のこんもりした本の山を掘り進めると死んだように動かない獏の白い顔が現れた。

「小伽」

 小さな唇が動いて。

「…リヒ」

「おはよう」

「うん、…おはよう」

 私は茫とした小伽を抱え上げた。彼女はくるんと私の首に腕を回して、眩しいなんて言って頭を押し付けてくる。青白い、埃の香り。

「私、…また?」

「そうみたいだね」

「何日?」

「姿を見なかったのは六日かな」

 きゅうと一声喉を鳴らして、

「そりゃあ大変だね」

 まるでひとごと。彼女が長い袖を力なく左右に振ると、見開きのページにすんなり鱗雲が帰って行って本がぱたんと閉じられた。ここの蔵書達はみんな彼女の言うことをよく聞く子ばかり。

「みんな本当に良い子ばっかりだよね」

「なんだか含みがあるな」

「ご主人はこんなにぐうたらさんなのに」

「ハートにぐっさり刺さったよ」

 ふわりと飛び立つ。彼女は続ける。

「あれは放っとくと雷雨になるんだ」

「周りの子まで台無しになっちゃう?」

 そう、と頷いて欠伸。あまざらし。

「湿度、温度、光、全てを徹底してここまで書き増やしてきた。こんな所で水浸しにされちゃあ私は…」ごにょごにょ。

 そうだね、花瓶すら置きたがらないものね。私だけはよく知っているよ。

 彼女の興味は移りが早い。この間は毒きのこ、その前は珊瑚、百年前は鞘翅、多種多様。今回はどうやら虹と雲について。そういう時彼女は決まって無我夢中になり、大概今日のように本の森に埋もれてしまう。だからこうして、姿を見なくなって幾らか経つなあなんて思ったら早めに捜索するようにしている。埃まみれは良くないし、なにより私が彼女と一緒に眠りたい。

 そんな彼女を抱えて階段をすいすい上がり、三階南、チューリップの衣装部屋に押し込んだ。ちなみに共用だがほとんどが私のドレスと装飾品。ごちゃまぜに入り乱れるパッチワークの中で彼女はぺたりと座り込む。

「はい、ばんざーい」

「ばんざい」

 薄い胸、生白い肌、黒い垂れた耳と小さな尾。滅多に見れないその腕は細い二の腕から 爪の先まで墨色で、まるで彼女専用のオペラグローブ。その見た目を大地の彼等で例えるなら十六ほど歳を重ねたくらい。

「痩せ過ぎじゃない?」

 浮いた肋はアコーディオン、少し心配。

「元からだよ」

 もう死んでるし。

 そうだけど。

 そうでしょう。

 そうなのかな。

 そうなんだよ。

 彼女を温かなローブでくるんだ。彼女は腕を見せたがらないからちゃんと指先まで隠れる温かなものを用意する。三本の黒い蹄にも羽毛の靴下を履かせた。

「ベーコンエッグでもどう?」

 彼女が私の指を食もうと口を開けるのでするりと逃げて、逆にその頬に指を沈ませる。

「ガチョウの?」

「金の卵が一つあったでしょ?」

 キッチンに。

 よく知ってるねえ。

「熱いのは苦手」

「知ってるよ」

「冷ましてくれる?」

「もちろん」

 金のフォークのすべり台で一階のキッチンまで一直線。アンティークの金食器が好きだけれど、これは私の四回りくらい大きくてさすがに塔には入らなかった。残念。

 中庭が見える、青いタイルのビオトープ。弾ける寸前の落花生。白い石と丸窯のキッチン。褐色のテーブルに彼女を座らせるとぷかぷか足が浮いてしまう。私が彼女用に誂えたものだが、どうにも私が用意するもの全て彼女には少し大き過ぎる。

「さぁて」

 私は棚を開けて材料を見渡す。うーん、卵が一つに瓶詰めの林檎のクリームが半分くらい。パンケーキでも良いかなあ。

「ひとついい、リヒ」

「なあに」

「どうしても食べるの」

「お腹空いてないの?」

「うん」

 そう頷いて、

「それに君は、死なないのに」

 少し違う、死ねないのだ。君こそ、と私は言いかける。君こそもう、死んでいるのに。

「だからこそだよ」

「食事も暇つぶしってこと」

「さすが小伽、話が早い!」

 林檎ソースのパンケーキ、特別ぶあついの。どう?ブラックベリーも惜しみなく。

「ね、いいでしょ」

 私が振り返ると小伽がすぐ真横に立っていて思わずわっと声を上げる。

「びっくりした!」

 へへ、と悪戯っぽく舌を出して、

「紅茶淹れるよ」

 珍しくそんなことを言う。

「火、やじゃない?」

「大丈夫」

「なんの気まぐれ?」

「生き返らせてくれたので」

 私は吹き出す。あんなの、なんてことないのに。

「ありがとう小伽」

「こちらこそリヒ」

 小さな頭にもたれた。猫っ毛が柔らかい。本当は猫なんて触ったことない。小狐ちゃんよりももう少し柔らかい感じ?でも本当に彼女の髪のような生き物ならぜひ顔を埋ずめてみたいけれど、でもまあ今で充分間に合っているかと静かに頬擦りしながら思う。マッチを擦る音、幼い火、両手ほどの暖炉と透き通ったガラスのティーポット。

 キッチンの窓、風がかたかた揺らすピン留めされた空だ。何処までも羽ばたいて口ずさみたくなる。奏でた歌の宝石を雨のように降らせたなら彼等は傷付け合わなくなるだろうか。ガラスに映る地上の光景、大地の子等。可愛そうなくらい、今日も飽きずに争っている。それをただぼんやりと眺める。

「どんな風景?」

 彼女が茶葉に息を吹きかける。

「良かったら、教えて」

 私には見えないから。

 彼女には見えない、私にしか見えない。私しか知らないものを誰かに伝えるのは難しい。でも私はこの光景を、彼女だけには見せたくない。

 うーん、そうだなぁ。

「ずっと戦ってる」

 肉と砂利を踏む音が鮮明に聞こえた。

「悲鳴と泣き声と、そしたら急に静かになって…火の臭いと、噴水みたいな血と…多分、怒ってる。物凄く怒ってるの。私はこれを知っているからよく分かるの」

 翼に染み込んで肌を侵食して、もう二度と落とせなくなる赤い呪い。そんな悪夢を私も見たことがあるじゃないか。もう忘れたのか、そうだ、あれは。あの感情の名前は。

「怖い?」

「怖くないよ」

「悲しい?」

「そんなこと、ないよ」

 大丈夫。

「…ただ、憎いだけだから」

 そう笑って木のへらを動かす。無言で指輪が光る。粉と卵を水で捏ねて。粘性のヘドロ。彼の方が私を創った時もきっとこんな風だったんだろう。笑顔も泣き声も産声もなく、ただ無機質に心臓を埋め込んだんだろう。

「心なんて要らなかったのにって顔してる」

 水が沸騰する音。ストレートの紅茶にはとびきり甘い角砂糖を溶かしたいんだ。それと一摘みのミントを小舟のように。

 そうだね、と私は笑ってみせる。

「それは少し、思っているかも」

 そう答えた瞬間、君はとんと爪先立ち。音も無く袖から露わになるインク壺のような左手。今日は二回も見られた、私だけのラッキーネイビィ。

 その左手は私の目前、青い窓に押し当てられて、息を呑む、一瞬の閃光。炸裂。ガラスは散り散りになって外界へ弾け飛んだ。映っていた彼等の姿はばらばらになって瞬く間に風が攫っていった。びゅう、びゅう。

「…小伽」

 私は追いつけない、彼女は微かに息をつく。墨色の左手が呪いで脈打つのを私は確かに見たのだ。光沢の無い白い爪が左右に裂けて真っ黒な墨が滴り落ちた。夜空の肌には鏡のようなひびが入った。けれど彼女はすぐに隠してしまった。顔に出さない、仕草にも。心なんて無いみたいに。彼女は静かな獏だから、隠れるのも酷く上手なの。

「やめて、小伽、」

 そんなこと、しないで。

「私の為に、そんなこと」

「そんなことって、どんなこと?」

 彼女は私を見つめない。私は君だけを見つめているのに君は君がたった今壊した窓の方ばかり。窓の外、遥か虚空ばかり。

「私はただ、リヒにそんな顔をして欲しくないんだ。ただそれだけだよ」

 君の為にしたわけじゃない。

「だから君が気にする必要は何処にもないんだ」

 でも!私はあの日の夢のように荒ぶる。

「その左手はどうなるの!」

 黒く膿んで呪いが滲んで。捕まえようとしたその左手、するりと魚のように逃げられてしまった。酷い、空振り。

「なんてことない」

 やっぱり、

「指輪はガラクタだな」

 眉を下げて少しだけ笑んだ。やっと私の顔を見てくれた。そして彼女はなんにも無かったみたいに棚から金平糖を取り出す。それと今朝方、私が庭で摘んだベリー。グリフィンの夫妻から貰ったティーカップを持ってテーブルへ。どんどん、どんどん離れてゆく。ぽっかり空いた窓、風で髪が揺蕩う。

 そんなことないのに。

 指輪を持っているだけで私、これからも生きていられると思うのに。君が居るだけで良いの、心を持ち続けようと思える。傷付くのも、誰かが傷付くのを見るのも嫌い。彼女が傷付くのは一番怖い。なのに私は彼女のなにものにもなれないというの。

 私は怖がりで泣き虫で全てが憎くて、でも今更心臓を手放すこともできない。眩暈。キッチンの淵に手を掛けて私は彼女を振り返る。

「小伽」

 飛んでいないと堕ちてしまう、遊泳はできない。

「なあに」

 テーブル越しの視線。伸びた前髪。このキッチンに鋏は無い。

「その呪いは、どうなるの」

 その問いに、さあ。するりと静かに躱して、

「それすらも私は知りたいの」

 そう、出会った時にも言ったでしょう。

 パンケーキが焼き上がる。ダージリンの香り。君からの答えは聞けないまま。











 それから月がはしゃぎ太陽が砕けて私はそれを指折り数えて、けれど結局途中で分からなくなってしまった。ただひとつ、彼女とふたり図書宮殿の裏庭へ出掛けたことを覚えています。彼女が囲っている子山羊達の世話をしに出掛けたのです。

「良質なのは魔界へ送る」そう呟く彼女に、

「また魔界のみんなが喜ぶね」と、そんな会話をしたのを記憶しています。

 山羊は彼女が唯一好きな生き物。実際に好きかと尋ねたら無言で首を横に振られるだろうけれど、本当は好ましいくらいには思っているだろうことを私は知っているの。

「体は丈夫だし角は薬、蹄や革は加工品になる。環境と適応力次第では魔界で優秀な化物に育つかもしれない」

 そんな風なことを理屈っぽく言うので、

「やぎちゃん大好きだよね」

 明らかな、む。

「別に好きではない」

 やっぱり大当たり!思わず笑っちゃいそうになるけれどなんとか胸の内に留める。

「リヒ」

「なあに?」

「なぜそんなに笑顔なのかな」

 じとり、じとり。私はからり笑って、

「小伽は可愛いなあと思って!」

「…かわいい?」

 彼女が、可愛いについてぽくぽくと考えている間に、

「あ、そういえばさぁ」

「うん?」

「怪物になった後ってどうしたいとかあるの?」

 私だけにしか分からない、む、という顔も可愛い。でもそれもすぐに解けてしまって、うーんそうだなぁと思考の渦に呑み込まれる。

「目玉の大きさとか肋の向きとか心臓の重さとか…色々データは欲しいかな。一般的な子山羊だった頃との比較はやっぱり外せないからね。それと体毛や鱗で新しい薬が作れないか試したいのと…あとは折角だから味見とか」

 味見!

「つまり料理ってことだね!?」

 私は嬉しくなる。俄然やる気が満ち満ちる。

「そうとは言ってないけど…まあ、毒の有無、味、肉の色、食感…色々確かめて書き起こしたいというのはあるかな」

「その時は飛び切り美味しいミートパイ作ってあげるね」

 みんなにもお裾分けしなくっちゃ!庭の女王と龍のお嬢さん、妖精達や魔界のかわい子ちゃん達にも!

「リヒ、それじゃあ共食いになる」

 どっぐいーとどっぐ、というやつ。

「えー、でもお腹空いたままより良いでしょ?」

 ねえ。彼女の腰を掴んで羽ばたいてスキップ。なされるがままの君と好き勝手にやりたい私。屋根の一番細い峰を私はくるくる行ったり来たり。彼女はもうきっと方角さえ分からなくなってる。見渡す限りの雲の原。その日もよく晴れていて、空には鯨が数頭泳いでいた。彼女の話だと鯨は沈没する悪夢を見るそうだ。それはそれは塩っぱくてお酒のお供にもならないんだって。

 フィナーレは優雅に。音もなく白の絨毯に降り立つと、彼女が静かに「目が回った」。

 柔らかな雲に三つ爪の跡がぽつぽつ、ゆらゆら残っては消えてゆく。私はそれを雲ごと掬って何処かの戸棚に隠しておきたいくらいなの。きらきらと鯨の潮が降ってきた。私達は虹の峰に棲んでいる。

「今日も全く、どれがどれやら」

 図書宮殿の裏庭、少し陰る、乾いた干し草の香り。世話をしているあるじさまはいつまで経っても子山羊達を見分ける気などさらさらなく、あまつさえ数すら把握していないご様子。毎度毎度そのようなことをぼやきながら黄緑の柵を跨ぐ。子山羊達を囲っている柵は魔界の竹林から採ってきたもので全て小伽のお手製だ。一時期『動物の飼い方全集哺乳類編』とかいう本を片手に躍起になって作っていた。所々釘が飛び出しているおかげで幾度かワンピースを引っ掛けては破いた。

「おいでー!」

 そう私が着地と共に声をかけると草を食んでいた子山羊達が一斉に顔を上げて波のように押し寄せてくる。もうめちゃくちゃ、翼で暖かい無数の命を受け止める。

「愛されてるねえ」

「だってこんなに可愛いよ」

 愛せばその分愛してくれるの。柔らかい毛が擽ったくて笑っちゃう。白黒、ふわふわ。まだまだ優しい色の偶蹄達。

「ねえ、金平糖あげていい?」

「ん、ああ」

 もう上の空の返し。どれがいいかな、なんて選別してる。私はワンピースのポケットから沢山の金平糖を取り出して両手で空に放った。子山羊達は雲の岩肌を駆け上がってそれを頬張る。がり、がり、がり。色とりどりの星を咀嚼する。それを幾度となく繰り返す。無くなってしまわなければ良い。両手いっぱいに、ふんだんに、全身全霊、私は一生懸命空に放る。奥歯で粉微塵、擦り潰される。

 こな、ごな、がり、がり。

 帰れ、帰れ、空にお帰り、食べられてしまわないうちに。

「これ、どう思う?」

 程なくして彼女がある一匹を抱えて戻って来た。

「なかなかのものだと思うんだけど」

 彼女の腕から不安定にはみ出す子山羊を抱き取った。角は生えかけ、蹄は白い、少し甘いミルクの匂い。

「可愛いね、良い匂い」そう答えながらその耳元に鼻をうずめる。

「小伽みたい」

「まあ、分類としては仲間だからね」

 蹄を持つ仲間。まるで的外れな君。

 子山羊のその透き通った瞳を見つめただけで彼等の争いが映り始めた。そういう務め、私の呪いなのだ、仕方ない。けれどお腹が空いて堪らない。

「眼を潰そうか」

 彼女が冷ややかな声で言う。

「大丈夫」

「どうせ魔界は真っ暗だ」

 今に必要無くなるよ。

「駄目だよ、持って生まれたものは大切にしないと」

 私が瞳を閉じれば済むことだ。そうやって強く固く瞑っても、彼等の悲鳴は聞こえてしまう。耳を塞いでもつんざく音楽。

 彼の方はもう地上のカミサマ。私のような土塊をひとり天に残し、知らぬ間に地上へと降りてゆかれた。自身を八百万の魂に分化させ、大地の子等の隣人となった。もうそれには一片の意識すら無いのだろう。

「リヒ」

 呼び掛けられ、私は子山羊を取り落とした。その子は利口できちんと自分の足で着地した。

「奴等のことでまた苦しんでる」

「彼等はいつだって迷子だからね」

「理由にならない」

 彼女の金色の眼に射抜かれて私は動けなくなる。広大な天界、風が吹いた。

「奴等は醜い愚かな生き物だ、そんな奴等の為にリヒが揺らぐのはおかしい」

 そんなこと無い、そんなこと言わないで。そう答えながら私は彼女の頬を撫でる。

「仕方ないんだよ、そういう務め。運命なんだから」

 務め?運命?

「奴等ほど汚い生き物を居ないよ。ずっと見てきた。ずっと、私は」

「ずっとって?」

 ずっとだよ。

「私を、含めて」

 陽が陰った。彼女が昂っている、夜の生き物の眼だ。呪いの匂い、子山羊達が逃げ惑う。

 小伽。

「もう良いんだよ、大丈夫。大丈夫だから」

 私は彼女の硬く握られた手を袖越しに握った。いつもそう。本当は生身で触りたい。けれど私は彼女がなにものよりも大切だから。そのままふたり雲間に腰を落として小さな彼女を胸に仕舞い込んだ。

「ずっと前からそう決まってるんだよ」

 私は文字通り永遠に、彼等が彼等自身により滅亡するその時まで、見守り続ける運命なんだ。

「誰が決めたの」

 彼女が私の胸に耳を押し当てて、私の心臓の音を聴いている。

「この世界のカミサマ」

 ただ見守ること、それだけが私の役目、創られた理由、私の生きる意味。

 彼女は怒っていた、そして暖かかった。死んでいるのに暖かかった。私の為に怒っていることが分かった。それがただ嬉しく充分だった。

 もう良いんだ、全て、諦めている。どうせ死ぬこともできない、逃げられなどしないし立ち向かう気もはなからない。君さえ居てくれれば、もう私、別に良いんだ。君が隣で私の手料理を食べて、クッションを敷き詰めた暗室で共に眠り、春の歌、散歩、お茶会をして、和やかに伸びやかに慎ましくその日その日を暮らしてゆけたら、それで。

「リヒエナ」

「なあに」

 彼女の金に光る眼を覗き込んだ。ああ、まだ怒っているの。さあ、そろそろ立って子山羊を選ぼう。帰りながら夕飯について話そう。そして今日はどちらで眠りにつくか雪の占いで決めようよ。

 けれど、その時にはもう全てが遅かった。爛々。闇夜で金色が光っていた。

「私が、全て塗り変える」

「え?」

 意味も分からぬまま、小伽が私の胸に強く額を押し当てた。きつくきつく抱き締められて、金色の光、黄昏のような。深い海の匂いがした。泡のように溢れて私達を包み、彼女の全身を墨色が纏った。

「小伽っ!何してるの、」

「全部、食べてあげるから」

 奥から発せられる藍色の愛情。

 私が捻じ曲げよう。君の務め、運命を、全部、君の呪い、全て。

 私の心に億年分の大地の子等の苦悩が映った。壊れた古いフィルムのように、去り際の走馬灯のように過ぎ去る、感情さえ追いつけない。彼女の身体へと全てが流れ込んでゆく。まるで群魚、潮の流れ、巻き込んでゆく。止めることができない。

 全身で、蜂蜜色の瞳を煌々と開き、彼女の虹彩は金の竜巻。吸い込む、私の運命ごと。彼等の苦悩を見守ることだけが役目、その為に私は創られた。私の心はそれを憂う為にあり、それ以外に用途などない。それはもはや一種の病、それが世界の約束事、私が私である所以。それすらも彼女はいともたやすく覆そうとする。運命など受け容れない、それが当然であるかのように。

 彼女との境界が酷く曖昧に黒くぼやけて、

──悪夢を食べ過ぎるとどうなるの。

──さあ。

 舌を出して笑っていた、初めて出会ったあの日のこと。

──それも知りたいことのひとつ。

 呪いの臨界点、振り切る、共鳴、

「小伽!」

 ばつん、と光が途切れた。死体のように雲間に投げ出された彼女。駆けて、一瞬。ああ、嫌だ、吐きそう、どうして。

 彼等の存在が津波のように引いてゆく。こんな形で知りたくなかった、彼等の居ない世界がこうも静かで身軽だなんて。

 君でだけは知りたくなかった、死とはこういうものなのか。

 彼女を抱き起こす、膝に抱え込んで。絶え絶え、薄く眼を開けた。瞳が黒く淀んでいた。全身に墨色の斑が金魚のように泳ぐ、これが呪いの正体。

「小伽」

 もはや悲鳴だった。焦点の定まらない真っ黒な眼を細める。なるほど、と彼女は呟く。

「こうなるらしい」

 ひとつ、また知れた。

「小伽、駄目だよ、そんな」

「リヒのおかげ」

 私は涙で何も見えない。細い肩を揺すって喰い込む、翼ごと彼女に覆い被さる。

「小伽、ねえ嫌だ、起きて」

「リヒエナ・アメリア」

 あの日のことを思い出した。本に刻まれた名前を思った。そして彼女の墨色の手の甲が私の翼をするりと撫ぜた。

「ね、おねがい」

 呪いも私も居なくなるんだから。だからね、

「もっともっと自由に、何処まででも飛んで」

 おねがい。最期のおねがい。そう言い残したまま、彼女は深い眠りについた。表裏の狭間で彼女は死んだ。

 そう、君の言う通りだよ。君という呪縛を失って私はより飛べるようになるの。でもそれだけは駄目なの、絶対に嫌なの。君という呪縛だけは私、肌身離さず持っておくの。

 私は飛ぶ。音よりも速く、夏よりも軽く。彼女を連れてエメラルドの泉へと。あの日、君が食べた呪いの分、泉が溶かしてくれるかもしれないなんてそんな世迷言を思ったから。抱えた彼女の体はいつもより軽いのに重く感じて、いつも甘えたように回してくる腕の感触がどうしても思い出せなかった。私はただひたすらに矢のように飛んだ。私はその日猛禽だった。速度は増し降下。頭から彼女ごとつっこんでゆく。水なんて怖くない。

 ざぶん、どぼん、

 散らばった水しぶきで虹が架かる。

 ここに海は無い。

「起きて」

 びしょ濡れ。彼女は眼を開けない。君は空気よりも軽いから、手を離せばすぐに浮いてしまうから、もう二度と離れないようにきつく抱き締めた。

「起きて小伽、起きて、ねえ」

 嘘つかないで、嘘つかないで。君が言ったのに。あの時君が名付けた私の名前を君が最も呼ぶことになるって君が言ったんだよ。

 どうか小伽に溜まった呪いが泉に染み出しますように。あの時彼女がやってみせたみたいに。それでどうか小伽が目を覚ましますように。ふたりで笑い合っていた頃みたいに。ほんのついさっきに戻れますように。

 泉のより深い場所へ、足に纏わり付く、彼女の身体を引き摺る。ざぶざぶと沈んでいく。

 息もできない、私は泳げない。翼で彼女を覆うと、ゆっくり水が染み込む。ああ、飛べなくなる。乾くのにどれくらいかかるだろう。

 空よ、見下ろしてばかりいないで。

 冷たい結晶よ、私の喉を潰していいから。

「ねえ、おねがい」

 カミサマ、おねがい。おねがいです。折れてしまいそうな胴、ふらふらと揺蕩う海月みたい。

 何も要りません、何も要りません。名前も指輪も塔も翼も要りません。全部、全部、お返しします。土塊の塩に戻ります。だからお願い、一生のお願い。小伽を取り戻させて。

「神様」

 晴天が、夕が、夜空が、暁が、私を見下ろしてばかり。私の涙は宝石にならなくて、泉に融けてゆくばかり。こんこんと願いました。ふい、ふいと雲は通り過ぎてゆくばかり。幾分か空が変わりました。からり、からりと飢えるばかり。舟のように私達は浮いていた。

 永いこと彼女を抱き締めていた。呆れるほどにその横顔を眺めていた。

 それでも彼女は目を開けませんでした。神など居なかった、何処にも。季節風が吹いて瞬きをした。私達ふたりを中心として地上の彼等が津波のように戻ってきた。

 彼等か私か、どちらかが生きている限り終われない短篇のお伽話。絶望の物語、君だけが返ってこない。私が望んだ終わり、永遠に終わらない終わり。

 ちゃぷん。

 幾星霜、水中、引き摺り込まれ、私は彼女を胸に溺れました。


 甘い死臭。

 血と鉄と肉の焼ける臭い、蛆と叫声と虫の息。鉄塊から覗く臓物、水を求めた子供の亡骸。煙と火の海、薬品。赦しを乞う手を踏み躙る足を切断する刃。はらわたで首吊り、手を繋いだままさよなら。おはようを言う隣人は息をしていなくて、その凍った腿に齧り付く。ドッグイートドッグ。こんにちは、インパクト。

 腐敗した死体の重なりを誰も弔わない。天魁、屋根の上の空虚。星の音色に誰も耳を傾けない。こんなにも世界は光っているのに誰もそれに気が付かない。

 冬だ、死だ、彼等が選びゆく末だ。どんなに恵まれ美しくあれど、命の削り合い、争い、奪い合い、ただそれだけ。たったひとつそれだけは、目に見え手で触れる形にしておかねば、生きてはおれぬ生き物なのだ。それだけには嘘をつけない、偽物であってはならぬのだ。

 永遠に繰り返す、終わらない、変わらない。国の為、家族の為、命の為、神の為。誰の為に何の為に、私の為に。

 息が持たない、ごぼ、ごぼ、血反吐、酸素、空気よ、私をもっと欲して。

 天使様と私を呼ぶ。

 きちんと見ていますよ、あなた方の行い、全て。なぜなら私は彼の方の傀儡なのですから。

 剣を取り血に塗れ勝利の旗を死体の山に突き刺す。咆哮、天への憧れ。この命尽き果てた時、どうかそこへ連れて行ってくださいなどと宣う。

 何処を見ている、お前達の頭上にあるのは空だけ、神などもう何処にも居ないというのに。落ち窪んだ眼孔、もうそこに目玉は入っていない。母の胎に堕としてきたのか。一体何が映っていると言うのか。どんなに平伏したとて、恩恵も祝福も赦しのひとつさえ無いのですから。剣を突き立てろ、殺せ、奪い尽くせ。死に様を神に見せつけ、脈打つ鮮血をあげろ。

 許さない、許さない、許さない。

 かえせ。

 無益で無価値な徒労の産物、それを創ったのはその手であると訓えてやる。

 そうだ、見ろ、復讐の時。

 此処がお前達の断首台だ。

 終わらせてやる、私自らの手で。










 みなさん、ご機嫌よう。

 手を繋げない私の愛する隣人達よ。地に縛られた愚鈍な私の人形達よ。

 私は眠ったままの彼女を抱えて、血で赤く染まった遥か地上を見下ろしています。厚い空気の層を踵の高い靴で踏んでいる。編み上げのブーツ、革紐は硬く結んで来たの。

 右手には磨かれた金の裁ち鋏。見て見て、この子に貰ったの。お気に入りのアンティークなの。ドレスはね、一番のよそゆきを衣装部屋から引っ張り出してきたの。リボンまで真っ白で、わるい虫に喰われてなくて良かった。それでも私はゆるしてあげるけれどね。

 彼女に貰った指輪を左手の親指に付け替える。いつもは右手の中指にはめているの、君が選んでくれた場所に。けれど、今日だけは少し変えさせてね。汚してしまってはいけないでしょう。この指輪をしている方の手で君のことを抱いていたいの。君が目を覚ましたらすぐに元に戻すから。だから今だけは。

「小伽。少しだけ待っててね」

 愛しい、大切な、私の夢見る獏。

「すぐに終わらせるから」

 私、雲間で踊る、実現させる、大好きなワルツを君ともう一度踊る為に。大丈夫だよ、私が連れ立ってあげるから。君はなんにもしなくて良いの。

 分かったの。君の居ない世界なんて、存在させる意味など無いんだって。私にとっては無価値なんだって。君の居ない世界で、私、ひとりで生きてゆきたくないの。君はどちらもを大切にしたい私を、大切にしてくれていたというのに。君を取り戻す為なら私、なんだってやり遂げてみせるの。私の力の使い道が、今やっと分かったから。

 もう一度その瞳が見たいな、そのちかちか光る蜂蜜色の瞳が。君という秤に彼等の存在と自分の心臓を乗せていた。ハープを弾きながら測っていた。その天秤が無くなった今、どちらもは大切にできない。

 高い所が苦手な君、空を舞う時はいつも私と一緒だった。でもね、堕ちる時も一緒よ。心臓も翼も君の蹄も、私達何処までも。

「ゆこう」

 崩れた翼、急降下、飛び込む。退屈な地上へ、さよなら。初めての本物の大地、熱を感じて!頰を切る雹、雷雨の層を抜けて宙へ。

鋏で空のカーテンを切り裂いてゆく。

 四枚羽は使わない。重力にただ任せるだけ。どうやったって死ねないのだから、どうせならとただ速度増す午後。私は金獅子、銀の鷹。

 翼が焼け落ちてゆく、それでいい、黒く焦げ落ちたって、私構わないの。君の前でだけ、ありのままでいられたらそれでいい。

 声も、色も、肌も、何も感じない。自由な空で彼女と踊る。蜂蜜色の眼、彼女の空気より軽い重みを感じて。広い塩の湖が見える。

あれが地上の海、君が生まれた場所。空の色が映っているんだってね。いつか君が教えてくれた。

 彼等の悲鳴が、臓物の裂ける音が、鼓動のように鳴り響く。痛い、私のものであるかのように痛い、五月蝿い、血色が眩しい、言葉にしようが無い。落ちていく、堕ちていく、何処までも。

 永久に死んだ子供と永遠を生きる子供。

 明けない夜と終わらない春。

 落下する自死。

 砂時計、砂塵一粒分の時間の共有。

 霧のベールを君とくぐって、丸い水平の陸が近付く。アパタイトブルー。

 終着だ。

 その青い硬い広大な涙に、私達、叩きつけられるその一瞬前に、翼を広げて毒の爪先で触れるだけのキス。

 飲まれないように、喰われないように、君を攫われてしまわないように。

 切り裂いたカーテン、幕が開ける。終わりのショーのはじまりだ。私は降り立つ、この大地へと帰ってきた。私の中の塩、彼女の魂、はじめまして、生まれ故郷。裁ち鋏が太陽にぎらりと光り、彼女を強く引き寄せて。

 蠢く数え切らない視線、声、命の輝き。嘔吐物がこんなに広がって、どうりでこんなに汚いはず。うじゃうじゃと蟻のように増え過ぎだ、どうりでこんなに五月蝿いはず。

 彼等に私はどう見えているかしら。

 光か、女神か、それとも厄災か。

「はじめまして、みなさん」

 左手には愛を、右手にはさよならを。人間達はただの血袋でした。映しでないその姿はあまりにも愚かでした。天から見下ろすよりも非道く酷かった。そこに希望はありませんでした。陸という名の公園、箱庭の中の人形達、そこに神の姿はありませんでした。

 ただ少し寂しかったのです、最期までお会いすることは叶わなかった。

 それでもひとつ分かったの、あなた方の姿の理由、翼の無い私によく似ている。翼があれば空で暮らせていたかもね、そうしたらお友達になれていたかもね。でも駄目なの、あなた方は駄目。彼等の世界に滅びのおまじない。どんなに血を流そうと私という天秤では皆一様に等しい重さ。だから私の前では仲良くしてね。

 仲間外れは許さない、誰一人として残さないから。みんなほら手を取り合って、横に並んで踊ってみせて。そしたらさあ、首を差し出して。大きく鋏を開いたら、さくりと落とし易いでしょう?

 彼等の首に照準を合わせる。

 私みたいなのけものは決して創らないから。信じて。

 天使様。天使様。天使様。赦しを、慈悲を、無償の愛を、どうかわたくしどもにくださりませ。そして悪魔よ、永遠に立ち去れ。

 ブランニューデイ。

「さようなら」

 ちょきん。

 あなた方は呪い。

 そして私はこの世で最も清廉な悪夢。

 運命の糸を、歴史の根を、種族の源を、始まりの海よ、神の子等よ、

 来世など無い。

 死と滅亡、浄化。

 喧騒と、さらば!
















 すうすうと空気が撫ぜる音。さらさらと擦れるカーテンの凪。少し顔を寄せるとほんのりと夢路の香り。無防備な鼻先に触れるとほんの少しの甘い唸り。

 振れる雪の睫毛、もうそろそろ。私の睫毛がうっすら触れるところまで寄り添って君の頰の上でぱちぱちまばたき。朝焼けの月みたいに淡い彼女のその薄い目蓋が揺れた。だから私は待つ、驚かさないように静かに待つ。

 小鳥さえ居ない静かな旭。デザートローズがとろけるほどのこの上ない静寂。白い塔、毛布とビロードのソファ、ベッドサイドの暖かな紅茶の香り。私のベッドに寝かされた君、それを見下ろす私、ふたりを包む雫のレース。柔らかな白い光、グレイのアンティーククッションとくすんだピンクのイヤリング。

 風は止んでいて、窓から覗く大きな空、反射する指輪と爪先。

深くシーツに沈み込む彼女、数回の瞬き。まだまだ眠そう。黒い耳を震わせる、星のピアス。ゆっくりと開かれるコーラルの唇と、その蜂蜜色の瞳に映るのは、

「…おはよう、リヒ」

 私だけ。

 ちかちか、光る、私の宝石。

「おはよう。…小伽」

 嗄れた冬のような声で、一体どうしたの。

「起きるの、待っててくれるなんて」

 どういう風の吹き回し?

 そう悪戯っぽく頬を緩ませるから、

「いいの」

 私はクッションにもたれかかる。君と鼻先をくっつける。

「いいの、待っていたかったの」

 寝顔を見ているのがただ嬉しかったの。

「だってね、もうすぐ起きるって分かっていたから」

 目が覚めたら私を真っ先に見てくれること、そしてゆっくりと私に笑いかけてくれることを私は知っていたから。だったら無闇に急かすことないでしょ?

「私、ちゃんと待ってたんだよ。君の耳をくすぐったりなんかしないで」

 ずっと待っていたの。上手に待てるの。貝殻も食べないで。本当だよ。

「そう」

 彼女は薄く笑って、私の髪を袖で撫ぜる。そのまま器用に左耳に掛ける。くすぐる、くすぐる、流れる退紅にひらり風を送る。

「待たせてごめんね」

 待ち草臥れた?

「ううん、そんなことない」

 私の髪で遊ぶ彼女の指が見たい。くるくる、くるくる弄るから、

「迷ってるの?」

「少しだけ」

「お揃いだね」

「本当にね」

 困ったように下がる眉、ふうと吐息で前髪を払って。

「切らなきゃね」

 切ってあげるね、私が。私だけが。夢みたいな時間、でも夢ではないの、亡くなったりしない。大切なものはもう亡くさない。彼女が窓の外を見やった。砕けてない窓、切り抜かれた空。

「私、長いこと寝ていたんだね」

「そう、そうだね」

「何日?」

 思わず笑った、相変わらず冗談が好きだね。

「さあ…もう覚えてないなぁ」

「そりゃあ大変」

 くすくす、笑う。埃が戦ぐ。

「長く夢を見ていた」

 本当に、久しぶりに。

「良い夢だった?」

 久しぶりの、夢は。

 うん、そうだね。

「良い夢だったよ、久しぶりの夢は」

 そう、と答える。海の香り、雲海が近い。私は目を閉じて静かに問う。

「…もしかして、ずっと眠っていたかった?」

 大丈夫。離さない、殺さない、離さない。大丈夫、だから。

「…ううん」

 私はその優しい否定にゆっくりと目を開けた。

「リヒの居る、今の方が良いな」

 そう。笑顔で言える、

「…良かった」

 ふわり、砂糖菓子のような時間。彼女の耳が私のおでこと触れ合って。指輪も塔も雲間のワルツも、ぜんぶぜんぶもらったのに私まだ足りないみたいだ。その命ごと、ぜんぶ欲しいの。君の時間も肉体も名前も命も、ぜんぶ噛み砕いて吞み下したい。そうしたら私達ぐずぐずに溶け合ったまんま、爪先まで君の蜂蜜色に染まる。

 ずっとね、これから先もずっとね。静か、一片の狂いも無い楽園。この世界で一番天国に近い場所、眼で見ることができる幸せ、手に取ることのできる天命。

 君のことだよ。

 誰も知らない、私達、本当にふたりきり。

「リヒ、私だけの翼」

 袖からふいに現れた、その細い墨色の指が私の頬へと伸びてくる。爪、きら、きら、光って見える真白。蜜蜂、針、ラベンダー。肉欲、両翼、膿む。ずぶすぶに、私達、海になる。

「なあに」

 頬杖。目を細めて、どうしたの?なんでも聞いてよ。

 私、こんなに軽いの。もっともっと飛んでって君が言ったんだよ。だから私達、君が言った通り何処までも飛んだんだよ。

 ああ、もう。その手にすり寄りたい。私、もう焦れったい。我慢は苦手、知っているでしょう。でももうすこし、もうすこしなの。待ちに待ったこの刹那を。絶望から一番遠い場所で待ち草臥れた、君から触れられるのをこの世の果てで待っていた。

 そして、この、瞬間。

 ふわり、淡く、甘く。

 冷たい夢喰いのその指が、仄かで幽かな君の指が、優しく私の頬を撫ぜたのだ。

 私に触れたのだ。君から、やっと、触れてくれた。

 永かった、本当に永かった。億年、私はこの時だけを待ち続けていたのだ。

「リヒエナ」

 そして、名前を呼ばれたが最期全てが崩れた。ぐしゃりと熟れた果実のように潰れた。

腐った背中。血生臭い、大地の匂い、呪い。君の凍りつく笑み。いけない、せっかく隠していたのに。くすり。

「ばれちゃった?」

 震える唇、かたかた鳴る牙、瞳が魚のように泳いで。笑顔の私に彼女はか細い声で問う。

 リヒ、リヒエナ。

「…翼を、どうしたの」

 君の翼を、世界一美しいあの翼を、何処へ。

 怯えて私から離れかけたその墨色の指を私は指輪の手で捕まえる。甘く腐っても逃がさない。思い切り掴んで柘榴のように潰してしまうの。言ったでしょう、離さないって。赫いルビーが滴って、誰も居ない地上に降り注ぐ。何も無い空っぽの地上、その代わり私は満たされているの。

 地上の海で生まれたからなんだと言うの。君は天のもの、離さない。君がどうしようとも、君は永遠に私のもの。空に棲まう私だけのもの。私を私たらしめる、ただひとつの異物よ。

 愛しているわ。愛しているわ。

 だから仕方がないから、君は教えてくれないから、私は、教えてあげるわ。私が、教えてあげるわ。とびっきりの笑顔で。

「翼は地獄に堕としてやったの」

 オパールが一粒君の胸元に沈む。

 焦がしたのか、切り取ったのか、たべちゃったのか、のんじゃったのか、もう覚えて、ないなあ。君はなんでも知りたがるから、私は困ってしまうなあ。

 私のすべてのさいしょのひと。

 私のすべてのさいしょのおと。

 だから一生はなさないわ。

 だから一生ころさないわ。

 ふたり、深く蜜月へ攫われよう。

 一緒に星の逝く先を眺めながら。

 ねえ、錆び小伽。

「何処までも、私達一緒だよ」

 雪原で見つけたシトリンに、私はにっこりと微笑んでいる。

 君の滅びたインクの指に、私はしっとりと愛を浴びさせる。

 静かなしゅうまつ、ふたりきり。

 君以外には溺れない。




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