第ニ杳『太陽黒点』







拝啓、野晒し。

眷属、変わり無く。

徒然、黒点の数だけ。

貴方の喉仏は相も変わらず、

私の肺臓で鳴りに鳴り。

溶けず融けず、増して命を、

膨らませているばかりです。











「はい、どいたどいた」

 きゃらきゃら騒ぐ小鬼共の間に割って入る。私の声が反響して蹴鞠のように奥まで跳ね返っていった。狭い尖った岩ばかりの横長い洞窟。ここが奴等の住処でありそして同時に仕事場だ。今しがた、洞窟内を照らしていた火が消えてしまったと二本角の青が宮まで走って来て外壁をどんどこ叩くので眠い目を擦りながら仕方なくここまで出向いてきてやった。採掘していた最奥から滅多に採れない宝の山が見つかってお祭り騒ぎになった挙句、小鬼共の共鳴した宴の振動で松明の火を消してしまったらしい。そこからは想像もしたくない、阿鼻叫喚だったことは確かだろう。

 涙目で奴等が指差す洞窟の奥。真っ暗なその先には輝く色取り取りの宝石の原石。あーこりゃあ天使が見たらえらく喜ぶだろうな、なんて考えていると小鬼達が早く早くと催促する。どんなに夜目が効くといっても星明かりすら入らないこんな場所じゃあ何事にも限界があるというものだ。それに奴等は奴等が価値あると認めた宝玉には誤っても傷一つ付けたくない主義。何処かの本喰い獏にそっくりだ、きっとうまが合うに違いない。

「はいはい、今点したげるから」

 肺を膨らませると、私の体の一番底から一番外側の鱗まで灼熱の空気が立ち昇る。髪が逆立ち爪が一瞬で伸びるような感覚。何かを燃やせると聞いただけで皮膚の全てが粟立つのだから、私は本当に根の深くまで火龍なのだろう。けれど残念なことに本能の赴くまま全てを焼き払うわけにもいかない。頬を膨らませそっと静かに息を吹くと洞窟内の松明全てに火が点った。小鬼共が可愛い歓声を上げる。彼等もまた鉱物には目が無い小鬼の中の小鬼というわけだ。

「はしゃぎすぎてまた消さないように」

 笑みを残しながらくるりと踵を返す。ここは木質のもの、特に松なんかは手に入りにくい土地だからまたすぐにでも消えてしまうかもしれないなと思った。しかしまあ仕事の早い奴等のことだ、すぐにでも掘り進めてお宝をざくざく巣に持ち帰ることだろう。

「それじゃあ、私は帰ってまた寝るわ」

 そう言うとまたきゃらきゃら騒いで頭を下げたり手を振ってきたりなんかする。なかなか誠実で義理堅い連中である。後ろ手でひらひら応えて出口に向かって歩いた。こうやって、太陽の無い魔界に点々と灯りを点すようになってから久しい。基本的に闇を好む者達が多く暮らす世ではあるが、光が無ければ闇も無い。そう考えるとこの役目もそんなに悪くないと思える。

 頼ることも頼られることも少ない、魔界は基本的に冷淡な世だ。一瞬でも腹を見せれば内臓を食い破られてしまうような世界である。そんな中でも私の焔に助けられる者もいる、私の焔に助けられた者が廻り廻って私の腹の足しになることだってある。それくらいの距離が我々にとっては居心地が良いのだ。

からんころんと下駄を鳴らして洞窟を歩く。

私が奴の後、点しの後を継いだのは果たしていつの頃だったか、そんなことにも思いを馳せた。珍しいことだ、奴のことを思い出すなんて。

 あの朝、本当に突然だった。もう遠に数千年、尻尾の影すら見ていない。匂いも、気配も、焔の感触も、擦れ違ったとて気付けないくらいに忘れてしまっているやもしれない。

一体全体何処で何をしているのやらと呆れる一方で、まあもう大方死んでいるだろうと飲み込んでいる。奴はもとより放浪好きな野火、北の果てで野垂れ死んだのだろうと思っている。そんな最期であったのだろうと。それももう随分と昔のことだ。からんと乾いた洞窟の外に出た。今日も紛れもない暗黒天、息を潜めるがらんどう、これぞ魔界の空。着物を手繰り寄せる、今日は少しばかり冷える。私達に太陽は無い。あるのは薄い月明かりのみ。あのぼんやりとした淡い光じゃ、この世界全ては照らせない。だから私のような存在が必要なのだ。

 では、さて、朝一の仕事も終えて丁度腹も減ったきたことだし朝飯でも探しに行こうか。飯の後は二度寝、三度寝、どこまでも惰眠を貪りたい。赤い飛膜を背中から突き立たせ足を踏み出した途端、ころんと骨の柔らかい何かを蹴飛ばした。きゃんと哀れっぽい仔犬のような鳴き声。

「ん?」

 星が足下の小さなそれを照らす。犬でも無く猫でも無い、白。尖った鼻先と豊かな尾、真っ黒な瞳。考える前に手が動いてその首根っこを持ち上げた。

 暖かい、目が合う、小さな獣。

 白い体毛に鮮やかな朱の紋様、細い四肢。微かに懐かしい焔の香り。その姿や、その匂いが、あまりにもよく似ていて。身震い。轟々と焔、唸る肺臓と震える逆鱗。

 まさか。

「……野晒し?」

 きゃんと毛玉が一声鳴いた。











「燎火!」

「おはようかがり」

「かがりちゃん来たよー!」

 三人(正しくは一人と一組)が宮に着いたのはほぼ同時だった。朋友達は上空から私の宮へと訪れる。この宮に門戸と名の付くものは一切存在しない為、翼を持つものしかこの宮の敷地に入ることはできない。そしてある程度、私の宮の上空を丸く覆う薄い透明な炎幕を通り抜けられる力を持つものに限られる。つまりこの宮に入れるのはこの世でこの三人とよく遊びに訪れる翼竜くらいということだ。

「おお、おお。えらくばたばたしてんね」

 アンプルがもう!と腕組み。その勢いで鳳仙花が辺りに舞い散る。赤色は好きだから私は特に文句は無い。

「呼んだのは燎火でしょう、一体何があったの?」

「はは、まあ一応。一応ね」

 どうしたもんかと思ってさ。

「一応って。急用なんじゃないの?」

 そう眉を顰める彼女の後ろから天界組がゆったりのんびり歩いてくる。だから私は少し逡巡する時間が取れる。

「急用、…急用なのかね」

 まあ多分、おそらくは。一応念には念を、と思い妖精の庭には白雉を、天界には朱雀をすぐに飛ばした。そしたら一刻も経たず飛んできてくれた。まあ実のところ念には念をなんてのは嘘で、本当は心底困っていたのだ。色々なものの扱い方に。そしてまあ実のところ、彼女等には深く感謝している。こんな闇夜の深い世界まで私の為だけに理由も問わぬまま駆け付けてくれた。

 とりあえずそんな三人を居間に通した。艶やかな濡羽色の柱、紫水晶の天窓が光っている。宮の奥へと続く全ての廻廊の下にはわざと井戸水を張り巡らせている。もし万が一私が暴発した時に被害が最小限で済むようにだ。

「それでその可愛い子ちゃんは一体何処に隠れてるのかな?」

「少なくとも決して可愛くはない」

 にこにこのリヒが音も無く私の横を並行して飛ぶ。まるで梟だ。こんな白くて明るい梟、魔界じゃ目立って仕様が無いだろうが。

「全くかがりは。相変わらずお楽しみは焦らしたいタイプなんだな」

 小錆びが珍しくスキップしてもう片方の脇を埋められた。彼女は水より軽いからか蹄で私達の横を静かに弾んでいく。

 うーん、困った。そんなに可愛くもお楽しみでもないのだが。仕方が無いので、

「両手に華〜」

 おどけてみせたは良いものの、アンプルが唇をすぼめてどーんと背中に突っ込んできた。

「うっ」

「百花繚乱とはこのことね?燎火」

 どうやら少しばかり調子に乗ったようだ。気品とほんの少しの気怠さを携えた女王は何処へやら。これでは焼餅焼きの我儘少女だ。到底庭の奴等には見せられない姿だろう。

「将来は完全に尻に敷かれるなかがり。ああもう敷かれてるか」

「敷かれるって?かがりちゃん絨毯にでもなっちゃうの?」

「天界組は少し黙るってことを覚えてくれ」

「良いじゃない、折角だしみんなでもっとお喋りしましょうよ」

 アンプルの笑顔に対して小錆びはさっきから片眉を上げて意味ありげにこちらを見てくる。リヒはまだ核心には気付いていないようだけれど知られれば最後喜びのままに舞い続けることだろう。ああ、全く持って参った。話題が沸騰する寸前になんとか居間に到着し降り立つことができた。敷かれた麻織物、死んだ火鉢、私の宮は物が少ない。地下から湧き出る水と浸食する紫水晶と、あとは古くからここにある物だけ。

「とりあえずまあ、あまり驚かないで欲しいんだけど」

 言いつつ部屋の隅に置かれた大きな重い鉄の茶釜を指差した。

「なあに?これ」

「燎火がこんなの出してるなんて珍しいわね」

 小鬼の頭ほどもある、所々錆び付いた赤褐色の茶釜である。私は茶などはいちいち注がない質なので滅多に使うこともない。この為だけに滅多なことでは開けない蔵から埃を被ったままのを引っ張り出してきたのだ。そんなずしりと重い蓋をよっと持ち上げる。

「これ」

 指差す先と、覗き込む六つの眼と、暗い釜の底から私達を見上げる白い毛玉の不安そうな瞳。耳と手脚の先は朱に染まった、両手に収まるくらいの毛玉である。

「まあ!」

 アンプルが笑顔で躊躇いなく手を出すので、「火傷するぞ」と瞬時に止める。

「このくらい平気よ」と軽く答えられてしまうので何も言えなくなる。彼女の強い所だ。

「こんにちは、初めましてね」

 彼女はするりと釜の中に手を入れて小さな小狐を抱き上げた。熱かっただろうに。

 わ〜ちっちゃいね!と天使が声を上げる。

「私、狐の子供って初めて見たよ!私の翼とどっちが白い?おんなじくらい?」

 私達おそろいだねえ。リヒがそう言って花火のようにはしゃぐ。

「よしよし、暗くて狭くて怖かったでしょう。あなたをこんな所に閉じ込めたのは一体何処のいじわる火龍さんかしらね」

 アンプルは眉を下げて毛玉を撫でる。その手に擦り寄って欠伸をする毛玉。考え深げに小錆びが長い袖で茶釜を弄り回す。

「大きさに重さに暗さ、抜け目ないほぼ完璧な幽閉及び監禁と言えるな」

「はあ?」

「看守の思いが嫌というほど伝わってくるようだよ」等とにやりと笑うから、相変わらず食えない奴だなと思う。顎に手をやり「それにしても珍しいね、白い毛に赤い模様の小狐か。妖?魔物?まだあんまり煤臭くはないようだけど…」と軽く匂いを嗅ぐ。

 三人てんでばらばら。頭を抱える、偏頭痛。

「燎火、どうしてこんな狭い所に閉じ込めておいたの」

「ああ、ほら…狐と言えば茶釜だろ」

「かがり、それを言うなら狸だ」

「三人とも何の話してるのー?」

 アンプルが毛玉の腹に耳を押し当てる。リヒがその小さな毛並みを目を輝かせながら見つめている。

「かがりちゃん、後でこの子と遊んでいい?」

「ええ?ああ、別に私の許可は必要ないだろ」

「やったー!」と色とりどりの鉱石がドレスの裾から散らばる。

「燎火、この子お腹空かせてるみたい。ご飯あげても良いかしら」

「ああ、まあそれも別に構わないけど」

「お魚が良い?それともお肉?迷っちゃうわね」彼女がうーんと悩んでいる間に壁に風船葛の蔦が這う。

「かがり」と小錆びが私を見上げてきた。

「何だ」

「こいつ標本にして良いか」

「妙案だ、手伝おう」

「小伽!よその子に手を出すのはだめ!」

「燎火もどうして急に乗り気なの!」

 姦しいとはこのことか。まるで爆竹。折角意見の合致、利害の一致ができそうだったのに。

「とりあえずだ、三人衆。よくよく耳を傾けて欲しいことがあるんだよ。いいかい?」

「ええ」「うん」「ああ」

「この白い毛玉、どうやらあの野晒しみたいなんだ。…正真正銘、あの」

 ちょうど、三秒。

「嘘でしょう!?」

「そんなぁー!」

「へえー…」

 悲鳴、驚愕または平静な声が重なる。

「だって野晒しって…あの野晒しさん?」

「あんまり覚えてないけどさ、もっとふわふわおっきくなかったっけ?」

「かつて魔界を統べていたあの野火か」

 あの、紫の宮。

「うん、まあそうなんだけどさ…とりあえず帰ってきたみたいなんだ」

「何笑ってるの燎火!」

 うーん。まあそれは私にも分からないんだけど。

「こういうこともあるのかね」

 そう思いたい私とそう思いたくない私はちゃんと隠れているだろうか。まあでもこの三人の前じゃあ、あんまり意味の無い強がりなのだけど。私は何だか可笑しくなる。もっとみんな笑ってくれたら良いのに。さっきの姦しさは一体何処へ?アンプルが毛玉を大切そうに抱え直す。

「だって燎火、野晒しさんって…」

「ああ」

 分かってる、だからそれ以上は言わないでおくれよ女王。けれどそうはいかないから、目を閉じて静かに私は言葉を待つ。

「…貴女の、お師匠様でしょう」

 貴女の、たったひとつの憧れでしょう。

 そう何処か哀しそうに告げるモルフォの言葉に、

「そんな時もあったね」と、からりと火を吹き笑ってみせた。





 野晒しは私の師だ。そして先代の点しでもある。兎にも角にも私がまだ幼かった頃、私がまだほんの一尺二寸程度の大きさだった頃、そんな私に焔の使い方や魔界での暮らし方、生きていく上で必要な世界の知識を教えてくれた存在だ。理知に長けた上級の物の怪で、彼はいわば狐火だった。尾は九本に分かれていた。身体は私の何倍も大きく、よく私をその雪原のような背中に乗せてはこの魔界を闊歩していた。白の毛に映える、鮮やかな朱。首の中央には紫水晶の宝珠が埋め込まれていて、焔を扱うたび彩を帯びて貪欲に煌めいていたことを思い出す。

 野晒しは九尾の狐で、そして私は火龍の生き残りで、私は野晒しと同じ焔を扱える者だった。

『りょうか』

 燎火という名をくれたのは野晒しだ。しかし奴は私を様々な名で呼んだ。かがりび、漆、赤鱗、灯嵐、数え切らない。

 周りの奴等は火龍である私を恐ろしがって近付こうともしなかった。近付いたら最期炎が移って焼き殺される、なんせ火龍の捨て子なのだからと。

『燎という字には焼き尽くすという意味があるんだと』

 そう言ってかかかと笑った。笑うたびに火花が散った。その名を付けたのは奴自身であるというのに。その言葉の通り、今じゃあ魔界一つ燃やすのも訳ないことだ。それも全て見通しの上だったと思うと悔しいが。

 魔界とはそういう所。名前もあって無いようなもの、血脈も家族の繋がりも、全てあって無いようなもの。私はたったひとり、この世界の火龍の生き残りで、それを首根っこを摘まむように命を拾ったのが野晒しだったというだけだ。ただ、それだけ。

 キセルを吹かす。火花を散らす。

 私は目の前に居座る黒い瞳の小狐を見る。触りたくもない。小さな手脚で私の方へ身を乗り出そうとする。大きな瞳、潤んだ瞳。これが、あの、大いなる紫の宮?かつて魔界の焔を統べた、あの狐火?私をここまで育て上げた、野晒し?

『燎火』

「燎火?」

 低い声、地響きのような焔の声が彼女の声と重なった。

『月を見ようか』

 頭を振る、苛々、焔々、嫌になる。

「…ふん」

 衝動のまま、ぴんっと毛玉の額を爪弾き。きゃんっと彼女の腕の中で転がる可哀らしい毛玉。

「ははっ」

 例え窘められたって。どうってことない、いい気味だ馬鹿。私を置いてった、馬鹿野晒し。












 毛玉を南洞窟の入口で蹴っ飛ばしてから十日の夜が過ぎた。私は何事も無かったかのように悠々自適、寝て起きて飯を食らいたまに火を点す毎日を過ごしている。翼竜達もいつもと変わらず自由に宮を出入りして、たまに土産の鹿肉を持ってきては裏庭で水浴びをする。そんないつも通りの朝。いつも通りの日々。毛玉があのまま宮に住み着いている、その一点だけを除いては。

 まあそれも気に留める必要も無い些細なことだ。一度着物の裾を爪で破かれてほんの少しだけ額に青筋が浮いた。だからその日の晩に湯を沸かす際、勢い余って宮の浴槽の一枚岩に焼きひびを入れてしまった。まあでもその程度、可愛い程度だ。先日の借りという建前で小鬼共に頼んだらすぐにとんかん直してもらえたし。だからほとんど、いつも通りの日々と言って差し支えないだろう。

「燎火ー!」

 きーんと寝起きの頭に響く声。たたたと廊下を駆ける音。隣で寝ていた珠がのそりと頭を上げる。本来この宮は私の焔の幕を通り抜けられないと入れない、入れたとしてもせいぜい許可しているのは廻廊程度まで。それを何の断りもなくこんな宮の奥深く、私の寝室にまで入ってくることを許容しているのはこの世でただひとりしかいない。私は唸りながら牡丹模様の布団からじんわり顔を出した。

「…何の騒ぎかな、アンプル」

 柱の陰から深緑の髪が揺れた。えらく機嫌が良さそうだ。面倒な予感。

「おはよう燎火!」

「…はい、お早う」

 元気だな。

 ええ、今日も絶好調よ。

 そりゃあ何より。

「ねえ燎火?」

 眼を輝かせて口元が緩んでいる。これは何か企んでいる顔だ。

「…何かなモルフォ」

「わたあめちゃんをお風呂に入れてもいいかしら?」

「わたあめちゃん?」

 どうやって捕らえたのかアンプルの腕には白い毛玉が収まっている。毛玉も毛玉だ、居心地良さげに大人しく抱かれているのも気に食わない。私は珠の銀色の鱗にもたれ翼竜特有の硬い羽根を一枚一枚数える。つまるところ寝床からはまだ起きたくない。思わず欠伸、爆ぜる。

「質問がいくつか」

「何でもどうぞ」

「どうやって捕まえたの」

 あんな何処へだって駆けていく、小さくてすばしっこい知性の欠けらも無い生き物を。

「それは勿論これよ!」

 彼女が小魚の干物を取り出して揺らして見せた。なるほどそうだ、昔から彼女は釣りが上手かった。じっと待ち続けてくんっと動いた瞬間引き上げる。捕らえた折角の獲物は結局、また遊びましょうね等と曰いながら返してしまうのだから毎回毎回勿体無い。私ならその場で一飲みにしてしまうのに私の針には一向に掛かった試しはないのだから一層悔しい。毛玉がきゅーんと物欲しそうに前脚をばたつかせる。

「あら、さっきあげたのにまだ食べたいの?物足りなかったかしら」

 育ち盛りだものね。

 …全く。

「じゃあ次」

「ええ、なあに?」

「わたあめって何さ」

「この子の渾名よ。素敵でしょう?」

 無論、そんなことが聞きたかった訳ではない。毛玉がぺろりと彼女の鼻先を舐めて彼女は擽ったそうに笑った。いつの間にそんなに仲良くなったのか。

「そうは言ったってそいつ、野晒しだし」

 キセルに手を伸ばし火を点す。絹の薄い布団に所構わず灰を落とすとそれを翼竜が舐め取っていく。

「いいえ。もう既に一つの命よ」

 そう確信めいたことを言われた。全く腑に落ちない、気付くと唇がへの字に曲がってる。ヒトの型というのはどうにも表れやすい、難儀なものだ。

「…まあ、どっちでも良いけど」

「嬉しいわ、燎火」

 思わず頬杖、溜息。煙となって弧を描く。私のモルフォはそいつに随分と甘いようだ。

「まさかとは思うけど、毛玉の洗濯の為だけにこんな朝っぱらからこちらに来たわけじゃあないよな?」

 私の言葉にきらきらと悪戯っぽく少女のような笑みを浮かべる。寝坊助な彼女がこんなことの為に早起きなんて有り得るわけがない。

「そうだとしたら?」

「呆れる」

斬るように返すと屈託ない笑い声で跳ね返された。

「だって燎火のことだからどうせ放ったらかしにしてるんじゃないかと思って」

「…女王様も存外お暇なんだな」

「あら、やっぱり図星ね。まああれから考えてみたんだけど意外とやることないみたい女王って」

 深く考えすぎてたのね、私が。

 アンプルが近寄ってきて寝床に腰掛けた。毛玉が私の扇状の尾にじゃれようと駆け寄ってくるのでそのまま左右に振って追っ払う。

「はいわたあめちゃん、あーんして」

 妖精の庭から持ってきたのか、熟れた木通を毛玉に寄越す。喜んで飛びつく毛玉。布団が汚れるから私の眉間に皺が寄る。

「甘やかしすぎないでくれよ、頼むから」

 肥えた魚に大きな木通、あまりにも贅沢すぎる。

「あら、そういう養育方針なの?」

「別に育ててない」

「じゃあ燎火、手伝ってくれる?」

「何を」

「この子のお風呂」

「や」

「お願い」

 だって冷たいお風呂なんてあんまりだわ、風邪をひいてしまうかもしれない。だから貴女が熱を調整してくれたらって思うのだけれど。

 哀れっぽいくんくん鳴く鼻面。木通の汁でびしゃびしゃに濡らして。また爪で弾いてやりたくなる。可愛こぶって憎たらしい、一体何が狙いだ。

「ね、少しだけ。燎火」

 アンプルの蒼い目に当てられて三秒、逸らす。ああ、もう。

「…私の負けだ、分かったよ」

「ありがとう、燎火!」

 彼女は事あるごとに私の名を呼ぶ。きっと願いが叶うおまじないか何かだと勘違いしているのだ。私は彼女に名前を呼ばれるとどうにもなんにも断れない。

「それじゃあ早速行きましょうか」

 毛玉を抱え上げた彼女に対して、引き下がれる余地無しと諦めて立ち上がった。着崩れた黄菊の浴衣を締め直す。床には昨晩調子に乗って飲み過ぎだ水蜜桃の空瓶と蒼い曜変天目が転がっている。彼女の瞳の奥によく似ていると思うからか、どうにも手放せなくて積もり積もりと増えていくばかりだ。

 折角の休日、浴衣のまま髪も結わずに優雅に二度寝といきたい所だったんだがなあ。何が悲しくてこんな毛玉の為に。そうふつふつ言ってもアンプルは楽しげに鼻歌なんか歌っている。彼女の機嫌が良いとあちらこちらに色とりどりの花が散らばるので困る、掃除が非常に大変なのだ。ほら、もう廊下が彩りで溢れた。

「今日は…紅白の牡丹に乙女椿、それから小さな春紫苑ね、きっと燎火のお布団を見たからだわ」

「綺麗だよ、もう充分。お手上げ」

「ごめんなさいね。どうしても気持ちが溢れちゃうのよ」

 後でちゃんと片付けておくわ。そう言うので私は違うよと否定する。

「花なんてなくてもあんたは綺麗だって言いたいの」

 あと別に片付けなくていい。皮肉なんかじゃないさ、そう取られてしまうような言い方を私がしてしまうだけなんだ。

「牡丹の香りは嫌いじゃないしね」

 そう言うと彼女は目をぱちくりさせて、

「…燎火、今日は随分と素直なのね」

「その毛玉が居なかったらもっと素直だけどね」

 後ろから付いてきた珠がすんすんと鼻を鳴らして、彼女の腕の中の小さな生き物を興味津々で見つめている。涎でも垂らしそうな勢いだ。

「珠。残念だがおやつじゃない」

 そう制止すると哀れっぽく喉を鳴らして潤んだ瞳で私を見つめてくる。やれやれだ。もう一度、

「駄目なものは駄目」

 そう鼻先をつつくと仕方がないかと諦めたようで、翼を広げて紫水晶の光と銀色の鱗を反射させながら天窓から飛び立って行った。朝餉でも探しに行くんだろう。瞬間、破顔のアンプルと目が合い私は顔をしかめる。

「やっぱり優しいわね、燎火は」

「…うるさい」

「もしかして妬いてるの?」

 揶揄うような笑顔。あの日から彼女は私に対してほんの少しだけ強気で本物、本音な感じになった。上手く言えないけれど私達の重なっている部分が少しだけ増えた気がする。

「…妬いてると言ったら?」

 私達の背はほとんど同じ。それでもほんの少しの下駄の歯の分だけ私は彼女を見下ろしている。屈む程でも無いその距離、毛玉の鼻面を右手で軽く覆った。

「りょう──」

 大きな一歩、肩を引き寄せてその愛い頰を甘噛みしてやった。唇で食んでほんの少し舐めてやる。本当はもっと咬んであげても良いくらいだ。私の尾が上機嫌にふわりと空を撫でた。

「…燎火!?」

 彼女の体温が刹那的に上昇、それを鱗で感じるけれど知らん顔。

 ふん、愉快愉快。からんと駆ける。私はもうおとな、変温動物。熱いものが好きだ。

「さあ、行こうか?女王様」

 私の愉悦と彼女の甘い熱。たまにはこういうのも悪くはないな。まあ毛玉が邪魔であることには変わりはないけれど。





「燎火、もうちょっと温度上げてくれる?」

「ん」

ふぅと肺臓から火力を上げる。

「うん、温かい。良い感じね」

「ん」

 宮の炊事場、裏庭に一番近い場所だ。中ぐらいのたらい桶と、その桶に張られた湯と、その中で容赦なく洗われる白い毛玉。ざまあみろだ。

「わたあめちゃん、気持ち良いかしら」

 アンプルはもう先程のことなど忘れたように毛玉を泡で包んでいる。こいつの為だけに宮の大浴場を沸かすのだけは腹立たしかったので、ろくに掃除もしていない台所を奴の初めての湯浴み場とした。そのことでアンプルと軽く一悶着あったのだが、絶対に土鍋や雪平鍋で毛玉を炒めないという誓いを半ば無理やり立てさせられて大浴場を回避できた。

 泡が擽ったかったのか、毛玉が勢い良くくしゃみをした。その瞬間、ぽん菓子のような弱々しい熱が弾けて火の粉が散った。

「まあ!今の見た?燎火」

 凄いわねわたあめちゃん!将来有望よ、なんて褒めちぎる。けっ、私なら三日で世界を焼き潰せるけど、なんて言いそうになり急いで飲み込む。

「何処まで前の生命を引き継いでるのかしら。うちの庭では見たことのない不思議な輪廻だわ」

 彼女の考え方は深くまで妖精的だ。

「さあね、私こそ見たことない。そいつ次第じゃないか」

「そうね。この子自身が生きる上ではもう関係の無い話よね」

 ただ一方で、他の妖精共と違ってアンプルは決して無理強いしない。そんな優しい目を好ましく思う。妖精と魔物は違うけれど彼女と居るとそんな違いも些細なものに感じられる。だから私はそんな目に黙ってしまうのだ。彼女の指が優しく毛玉を洗う。彼女の指が水に浸かるたび蓮の花が開く。まるで小さな桃源郷だ。死んだ時にはこんな風に浮かべられたい。

 魔と一つにまとめられてはいるが私達も種々だ。初めから魔のものとして生まれ出る奴等もいる一方、元は獣や何らかの道具であったものが死んだり古くなったりして、あるいは他の魔の影響を受けたりして魔物になるものも多い。小鬼共なんかはみな一様に大千成の実より生まれ出るらしい。しかし鬼神なんかは元は人であることもあるという。まあ未だ出会ったことはないが。

 そう教えてくれたのも全て野晒しだ。そして野晒しはごくごく普通の狐として生まれたものが、魔界にて育ったことによりいつの間にか狐火へと変化したのだと話してくれた。

『普通の狐のが気楽だったかもしれんなあ』

 そう言って笑っていた。どうしてと私は聞き返した。鼠を狩って鷲に狩られる運命なんて、そんなの。

『どちらにしろ同じだよ。気楽か、より気楽かの違いさ』

 私には分からなかった。だって私は生まれながらの魔だから。数少ない火龍の余り物だったから。

 龍は元より弱い個体は育てない。生まれて間もなく、火の粉の代わりに血を吐いた私を肉親は早々に見限った。魔界とはそういう所だ。私達は血肉に刻まれているように知っている。私を捨てて飛び去る親の大きな紅い皮膜を今でも鮮明に覚えている。そんな中、所詮野晒しの気まぐれで拾われた命だ。竜巻の中を走る稲光のような気まぐれだったと思う。そんなものだ、私の命も、私と野晒しの関係も。私達は運命付けない、一瞬一瞬を燃やしていなければ生き残れない。全て、生きる為に生きるのが道理。だからこそ私は認めたくないのだ。この毛玉があの日の早朝、音も無く消えてしまった野晒しを引き継ぐ命だということを。

「彼に最後にご挨拶したのはいつのことになるかしらね」

「さあ…もう、五千年くらい前になるかな」

「初めて会ったのはもっと前ね、私達もまだほんの子供で」

「うん」

「愛らしかったでしょうね」

 空笑い。嫌な私だ。

「今のこいつみたいにか?」

「ええ」

「…私は、そんな風には思えない」

 酷い言葉に対する、愁い含んだ、

「…そう」

 そんな顔しないで欲しかった。でもこれ以上何て言ったら良いんだろう。口下手な私には分からない。野晒しは口が達者だった。生き方は教えてくれてもそこまでは教えてもらえなかった。けれど、気に入らなければ全て焼き払ってしまえば良い、なんてそんなことも言わなかった。

 どうして言葉なんか持ってしまったんだろうといつも思う。温もりと熱で私は全てと分かり合えるのに。そうできれば楽なのに。

「燎火」

「…うん」

「新しい水を汲んでくるわね」

 そう言って彼女は蓮の葉を手に、ついと庭へと出て行った。石畳を降りる花の靴の音、裏庭には湧き水の湧く古竹がある。私は手元の毛玉を見下ろす。こんな視線、私の殺気にも気が付かない小さな生き物。蓮と泡に埋もれて私の手にもたれて心地好さそうに目を細めている。この小さな小さな桃源郷で何を思うのか。ここを出たら誰も信用できない世界が広がっているというのに。

 アンプルとの約束を思い出した。お互いの世界を住みやすく、良いものにしようというあの指切り。そう、ちょうどあの頃、私は野晒しに言われたのだ。

『かがりび』

 大広間に私を呼びつけて言った。

『お前、好きに生きろよ』

 白い長い腕を左右に組んでそう言ったのだ。

 好きに生きるって何?そうは聞けなかった。魔界とは、魔族とは、そういう世界だから。独りで生きていけないものは容赦無く死んでいくような世界だから。

 私は元から好きに生きている。これ以上ない程に自由だったはずだ。誰にも縛られない、捨てられた命だったのだから。私が独り彷徨っていたのも魔界の南だったという。その頃は変化すら出来なかった、独りで腹を空かして赤漆の鱗は逆立ち、血を吐くばかりの火龍の幼生。それを野晒しが摘み上げた。私がこいつの首根っこを掴んだのと同じように。

「なあ、お前。何処まで覚えてるんだ」

 私は湯につけた指で小さな喉を撫ぜた。柔らかな頭蓋、細い首筋。弱い。弱く、なんとあどけない。

「一体何処まで野晒しなんだ」

 毛玉は何処までも吠える。その小さな喉で。まだ閃も芽生えていないその喉で。認めたくない、拒みたい。へし折ってやりたくなる。今のまま、狐のままで、こいつを還してやりたくなる。折角気楽になれたのに、またこんな魔界へ、よりにもよって私の元へ帰ってくるなんて馬鹿げてる。

 好きに生きるんじゃなかったのか、なあ。野晒し。

「…燎火?」

 ハッとして後ろを振り返るとアンプルが蓮の葉を抱えて立っていた。瞬間的に殺意を感じ取られたのが分かった。緊張、後ろの吊り蝋燭が轟々と燃えていた。

「貴女、」

「ありがとう、モルフォ」

 彼女の手から葉を取り上げた。水を溢さないようにするのが大変で困る。毛玉が寒そうに私を見上げた。私の肺臓は冷え切っていた。

「また誤魔化そうとしてるのね。そうやって、私のことをモルフォなんて呼んで」

 彼女が隣に来て私の手を握った。迷いなく掴むから、その真っ直ぐさにこちらが驚いてしまう。切羽詰ったような声だ。焦燥、と言うんだったか。

「もう、この子と何日一緒に居るの」

 さあ。肩をすくめる。

「数えてないな」

「何夜、経ったの」

「魔界はいつだって夜だよ」

 そうやってはぐらかさないで。そうやって貴女はいつも私から逃げようとする。

「もうこの子は貴女のお師匠様じゃない。この子はこの子自身よ」

「分かってる」

「貴女のものではないのよ」

 貴女が好きにしていい命じゃない。

「お願い、本当のことを言って。私達もっと伝え合うべきなのよ」

 もう擦れ違うことのないように。擦れ違ったとしてもまたすぐに隣で歩いていけるように。

 喉が締まる。分かってるよ、私だって。でも期待してしまうんだ。違うのに同じであれと、同じなのに違っていて欲しいと。

 分かってるんだ、でもねアンプル。

「私には、とてもじゃないけど手に負えない」

 そう言った。お手上げだ、これで勘弁して。毛玉の扱い方も言葉にならない胸の内も、これが私の精一杯なのだ。

 私が手をかざすだけで水は瞬時に熱湯へと変わってしまう。彼女の前で毛玉にぶちまけてやっても良かった、殺してしまっても良かったんだ。熱の扱い方を教えたのは野晒しなんだから。

 でもできなかった。彼女は幾度もこんな小さな命を目の前で見送ってきた張本人だから。そんな彼女の前でだけは、そんな簡単なことを簡単にはできない。

「私は弱い火龍だから」

 所詮打ち捨てられた、死ぬ運命にあった命だから。

「あんたや野晒しのようにはなれない」

 この世界の全て、アンプルに愛されないことの方が難しい。彼女は何でも愛してしまう。私とは違う。

「関係無いわ。燎火は燎火よ」

「でも野晒しはもう野晒しじゃない」

「ええ、確かにそうね。でも、」

「私には覚悟も愛情も足りない、私にそんなものは無いんだ。欠けてるんだよ、生まれた時から」

「そんなことないわ。現に私を愛しているのは誰?」

 愚直な程にひたむきな言葉が突き刺さる。

「…それは…、アンプルだから」

 幼い頃から共に成長してきた彼女だから。私の隣にはいつも彼女が居てくれたから。彼女のようになれたらいい、野晒しのようになれたらいい、けれどなれない。いつまで経っても私は私のままだ。それでもふたりは笑って許してくれる、だからまた私はそれに甘えてしまう。

 ほら、燎火。

「私の手を見ていて」

 彼女は優しく、濡れた狐を掬い上げた。毛玉はじっと動かなかった。乾いた絹で水気を拭き取る。私の力を使えば速いのに彼女はそうはしなかった。優しく優しく自らの手で狐を水気を拭い去った。

「野晒しさんも燎火にこうしてくれたでしょう。きっと灰にしてなんていないはず。思い出さないようにしてるの、ただそれだけ」

 同じようにしないといけないわけじゃ無い。それでも私はこいつをどう扱ったらいいのか分からない。一人でどうしろと言うの。毛玉は甘えるようにくんくんと鼻を鳴らした。私もそうだっただろうか?幼い火龍であった私も?

 血の繋がりも薄いこんな世界で、奴は狐で私は火龍で、なのに奴は私の師で、なのに突然居なくなって、朝飯を用意したのに、手紙も無しに突然消えて、数千年の時を経て、こんな姿で帰ってきて。こんなか弱い、小狐になって。

 でも、それでも奴はたったひとりの、私だけの。

『野晒し。私、野晒しの後を継ぐよ』

 野晒しのような、立派な魔界の点しになるから。

『だからずっと見ていてくれる?』

 その翌日の朝、奴は消えた。

 苦しい。冷たい熱。尾で冷たい床を打ち付けて、宮中の灯りを消した。

「燎火?」

 上ずった彼女の声。

「もう終いだ」

 背中の飛膜、浴衣の裾が舞う。きゃんと毛玉が一声鳴いて。

「私には無理だよ」

「燎火、そんなことない!」

「麗しい親子ごっこなんてさ」

 反吐が出る。

 飛び立とうとした瞬間右手を掴まれた。宙ぶらりんで私は天窓を見上げたまま。宮には沢山の天窓がある、短気な私がいつでも飛び立てるように。

「離して。アンプル」

 いいえ、燎火。

「この子と一緒に居られないのなら、はなしてあげないといけないわ」

 熱い熱い掌だった。暗がりの中、顔を見ることは決してできなかった。

「この子の為に、離して放してやらないと」

 きつく握られて、絞り出すような声で。

「それが魔界の掟でしょう?」

 その言葉を聞いた瞬間、私はその手を振り払った。彼女にならやっても良いと思ってしまった。きっと、苦しくて寂しそうな顔をしている。私の分までしてくれている。

 ここの掟、そんなことくらい分かってる。だから私だって捨てられた。全部気まぐれだ、運命なんかじゃない。毛玉を彼女の腕に置いたまま私は天窓から飛び立った。何処だって良かった。野晒しが、あの命が居ない場所なら、何処だって。

 前にも同じようなことを彼女にしたことを思い出した。二枚貝を投げつけて飛び去った。物好きな女だ、こんなに嫌われるようなことを私は沢山してきているのに。一体いつになったら私のことを嫌いになってくれるというのだろう。南南西の風が頬を切る。魔界の火龍を阻むものなど誰も居ない。

 野晒し、ねえ野晒し。どうして私を拾ったの。どうして私を育てたの。頼んでなんか、いないのに。夜空に点灯する熒惑に向かって、ただ焼かれに行く、赤漆。独りだ。









「通りで最近お茶会のお誘いがないなあと思ったらそんなことになってたなんて」

「また痴話喧嘩か、飽きないな」

 いやこの場合もう家族喧嘩か?

「まさかとは思うけどそれでずっとアンプルと気まずいままなの?」

 さすがにそんなことはないよね?

「はっきり言ってやるなよリヒ。そうに決まってるじゃあないか」

 耳障りな少女らの会話、ぴいちくぱあちく。辛抱たまらず、

「…今日の天界組は本当に煩いな」

 天使は寝っ転がって両足をぱたぱた、獏は鞘翅図鑑を開いて聞いているのかいないのかという態度だ。私は胡座をかいて部屋の隅を睨む。

「かがりちゃん拗ねちゃった?」

「リヒ、それ以上詰めるとかがりが泣く」

「…天界組今日という今日は本当に煩いな」

 広い寝室、私の寝床は翼竜がゆうに三匹は転がることができる。有り余る余白で私達は寝転びぐつぐつと夜更かしをしている。溜息、あれからまたさらに数夜が過ぎてしまった。やけになって水蜜桃をらっぱ飲みする。一瞬にして空になったそれを寝室の脇に放り投げた。

「あーあ、またそんなことして」

「家事は嫌いだ、後片付けなんて糞食らえ」

「じゃああれどうするの」

「さあな、知らん。明日か明後日か明明後日か…そうでなきゃ百年後かの私がなんとかするだろ」

 次!と新しい瓶に手を掛けた。

「おお〜良い飲みっぷりだなかがり」

「ちょっとくらいお酒もどう?美味しいよ、雨雲で寝かした蜂蜜酒」

 もうこの際だし!ね?と天使から勧められる。さぞかし祝福された美酒なのだろうが、いらんと片手で追い払う。私はどうしてだか酒が入ると泣き上戸になるからだ。それをこの二人は期待しているのだ。

「部屋が泪で埋まるだろうな」と小錆び。

「いいね、水泳大会しようよ!」とリヒ。

「リヒは泳げないだろう」と袖をひらひら。

「大丈夫!翼が濡れたらかがりちゃんの熱で乾かしてもらうから」と翼をゆらゆら。

「おおそれは名案。かがり、私の寝間着も頼むよ」

「じゃあ決定!決まりだね!」

 二人が火鉢のようにぱちぱちお喋り。私は呆れて欠伸をする。

「お前らひとの気も知らずに楽しそうだな?見世物小屋じゃないぞ、諦めな」

 全く、これだから子供は。

 思い出されるアンプルの寂しそうな声と手の熱さ、それに甘えてその手を振り払った私、そして全ての元凶たる毛玉の存在が相まって最近は全く茶会もできていない。だから諸々を察している天界組が今晩は泊まりに来てくれている。

 毛玉が部屋の隅で毛糸と遊んでいた。自然に眉間に皺が寄る。舌打ちと火花。

「そんな怖い顔するなよ」

「してないし」

「まぁまぁ」

「けっ、あんな毛玉」

 当たりたくないのに二人に当たっている。ごめんと一言謝ると、いいよ、いいさと声が重なる。二人には最低限度素直になれる。

「じゃあさ、かがりちゃん」

 リヒが真剣な顔で体を寄せてくる。

「…何」

「あの小狐ちゃんのことは一旦置いとくとして」

 嫌な予感。

「アンプルのことどうするか一緒に考えようよ!」

 こういう予感ほど当たるんだから本当に嫌になる。

「それにさ」

「…ん」

「いつまでも四人でお茶会できないのは寂しいしね」と天使が眉を下げて笑った。その顔にぐうの音も出ない。正直アンプルのことは一番痛い、突かれたくない部分ではある。が、最優先で解決したい問題でもあるのは事実だ。

 白いワンピースのリボンの寝間着。大きく開いた肩甲骨から一対、そして桃色の髪の間から一対、混じり気の無い翼が溢れている。歌う四枚羽の天使様、陶器みたいな白い肌だ。

 私は口籠る。小錆びを見るが伏し目のまま眠たそうに伸び。こいつはいつも寝巻きを持ってこない。明らかに体躯に合っていない私の羽織を一枚身に纏い、細い獏の脚を剥き出しにしている。

 逡巡して観念、諦めた。一人ではどうにもならないことははなから自分が一番分かっている。

「…分からないんだ、色々」

 私は俯く。らしく無い。

「どんな顔して会えばいいのか」

 私はいつも言葉足らずで彼女は真正面すぎるのだ。そして私達はどちらも隠したがり。

 小錆びが黙ったまま毛玉を一瞥、すると何かが伝わったように毛玉が嬉しそうに駆け寄っていく。彼女と毛玉は獣だから、双方に言葉なんていらないのかもしれない。

「今と同じこと、アンプルにも正直に言ってみたらどうかな」

 リヒのその言葉に「同感」と小錆びが両袖を振る。

 毛玉が転がりながら小さな爪を布団に引っ掛けて一生懸命寝床まで上がってきた。それを何もしないでただ見ている、仄かに笑みを湛えた獏。ああ、鬱陶しい。手で払い除けたい衝動をぐっと堪えて一言答えた。

「…そんなの、無理」

 二人が顔を見合わせる。獏は茶器を両袖で抱えて蜂蜜酒をちびりちびりと飲んでいる。私は酒は舐めすらしない。どうしてだか泪の制御が馬鹿になるから。普段泣かない分を必死に押し出そうとするように泪が出て止まらなくなる。けれど体の中の水分と火種はいつだって自分で御していたい。どちらかが狂うと大惨事になりかねない、そのおかげで幼体の頃は大変だったのだ。

 リヒが皿に盛った姫林檎を小錆びの口元に持っていく。小さな牙が見えてしゃくりと小気味良い音がした。

「美味しい?」

「まあまあ」

「じゃあ私も食べようっと」

「私は毒見か?」

 気にも留めずにこにこ林檎を頬張る天使とそれを横目で眺める獏。

「いいな、天界は」

 思わず石炭のような言葉が溢れた。

「そうでも無いさ」

「うん、ちょっと眩しいよね」

「夏は特にな」

「本当にね」

「そんな話はしていない」

「冗談だよかがりちゃん」

「拗ねたか、かがり」

「別に拗ねてないから」

 私が悪うございましたから揶揄うのはもう勘弁してよ、お姉様方。いかにもな口調でぽんぽん枕を上に放っていると、

「ごめんったら」

 笑いながら音も無くリヒが飛び立ってそれを易々と受け止めた。四枚羽で宙返りして風の一つも起こさず帰ってくる。

 手持ち無沙汰だ、毛玉でも弾くかと目をやるといつのまにやら小錆びの膝に居座っていて、そのまま毛玉は器用に小錆びの体を駆け上っていった。獏は無表情のまま、全く意に介さない様子だった。頭まで跳び上がったのを見届けて胡座をかいた足に肘をつくと文句が呪詛のように流れ出る。

「散々だよ」

 ここ最近、特に。

「奴が居なくなって数千年、急に尾も分かれてないちんちくりんになって戻ってくるし」

 そうだねえ、とリヒが神妙に頷く。

「そのせいでアンプルとも…」

 アンプルとも。何だろう。

 気まずい?会わせる顔が無い?そもそもそれはこいつのせいなんだろうか、分からない。けれど散々なことに違いはない。上手くいかないことばかりだ。彼女が居ない所だと、アンプルとすんなり名前を呼べるのに。

「会いたくないわけじゃないんでしょう」

 そう。会いたくないわけない。会いたいさ、勿論。駆け寄って頬を甘噛みしたい。彼女が撒き散らす椿で煙を吹かしたい。

「でも酷いことをした」

「アンプルを傷付けるようなこと?」

「手を払ったんだ。傷付いたに決まってる」

 私の頑なな断言に、

「不安と怖さと、その他もろもろ?」

 リヒの柔らかな言葉。

 どういうこと?と聞き返す。もっと教えてくれ、さっきの林檎のように細かく噛み砕いて。

「私はね、前は二人とももっと近くて遠かったような気がしていたの」

 ほら、かがりちゃんのそのキセルとか、そう。

「アンプルからそれを貰った時、かがりちゃんすっごく喜んでいたけどアンプルにはそのことを伝えずにいたよね。覚えてる?」

 恥ずかしくて言えないとか言ってたっけ!

 天使が閃光花火のように笑う。ああ、そんなこともあった、もう随分と前の話だ。まだ野晒しも居た頃の話。

『誕生日の贈り物よ、燎火』

 私に誕生日なんて無いけど。そうぶっきらぼうに答えた。

『野晒しさんに聞いたの。今日、貴女は野晒しさんに拾われたんでしょう』

 まさか奴がそんな細々したことを覚えているなんて思わなかった。増してそんなことをアンプルに教えるなんて。

『だったら今日、誕生日でも良いでしょう』

誕生日でないとしても、それでも今日は大切な日よ。

『だから貴女へ贈り物をさせて』

 銀の翼が美しい蛇のキセル。妖精の庭の匂いがした。鉄は苦手な癖に、きっと私のことを思って打ったのだ。火傷の跡が小指の裏に残っていた、全く彼女らしい爪の甘さ。初めて吸い込む時は流石に緊張した、そのことは誰にも言ってはいないけれど。キセルを吸うたびに彼女の息が体に入ってくるようで、吐くたびに彼女の一部も出ていくような気がした。だからそう日も経たぬうちに彼女の吐息が私の全身を巡るようになった。あの日からあれは私の身体の一部となった。

 その日遅くに宮に帰ると深酒をしていた野晒しに揶揄われた。随分と可愛らしい娘さんじゃないかと。私を揶揄う為にわざわざ待っていたのだ。反射的にうるさいと言い返した。胸がむず痒くてたまらなかったからだ、それをどうにか隠したかったから。背を向けて自室に向かう私をくぐもった笑い声が追いかけてきた。だから明日は絶対口をきいてやらないなんて思ったんだ。そんな色々なことを思い出した。

 天使は言う。この四枚羽の彼女は、何にも分かってない純真無垢みたいな顔をして全てを両手の上に乗っけて上からすんなり覗いているような娘なのだ。梟なのだから仕方がないのだ、きっと。

「でもかがりちゃんが喜んでることをアンプルは知っていたし、それもかがりちゃんは気付いているように思っていたけど」

 どうなのかな?違う?

 あの頃は言葉にしなくても伝わると思っていた。葉脈に水が這うように、油に炎が沿うように。

「二人は分かり合えてるんだなって、見てて私はそう思ったよ」

 尾を揺らす。近くて遠い。あの樹の前であの約束をした時、私達は近かった。通じ合う、繋がる、とも言えるのかもしれない。限りなく私達は同じだった。けれどあれから少しずつ離れていって、私はそう、野晒しが居なくなってからは特にそう。強く、凛とした点しにならねばと。

 小錆びが月柄の袖を振って、毛玉がそれに飛びついて遊んでいる。私はそれを見ている。龍の姿に、返りそうになる。

「正直、分からないんだ、アンプルのこと。

私は自分の胸の内も分からないのだし」

 私は私のことも分からないのだ。相手のことなど増して。

「その分からないかがりちゃんも、ちゃんとかがりちゃん自身でしょう」

 そのゆったりとした穏やかな言葉を頭の中で炙って私はゆっくりと飲み込む。天使は続ける。

「だから分からなくたって良いの。分からないのが当然なんだよ」

「分からなくても良いの?」

 勿論。

「なんて言ったって貴女達は違うんだから」

 天使は笑みを浮かべたまま。

「だからこそ本当の貴女と本当の彼女、そんな二人でずっと隣に居られたらこの上ないほどに貴女達は幸せ」

 ねえ、そうでしょう。

 天使にそう言われると本当にそうなる気になってくるから恐ろしい。

 誤魔化しては駄目、はぐらかしては駄目。ありのままで彼女に向かうのは本当に大変。私達はもっと伝え合うべきなのだ。自身の両手を見下ろした。薄い表皮の紅い鱗、この鉤爪で怒りのままに彼女を地面に引き摺り倒した。アンプルは私によく手を伸ばす。私の手を掴み、頰を触り、背伸びをして角を撫ぜる。二枚貝を放った時もそう、彼女の手は私を追いかけてきた。私はそれから逃げて、振り払って、傷付けてばかり。

 私が龍の姿で生きないのは、せめて彼女と同じ姿で通じ合っていたいと思うからだ。鋭い爪じゃ触れられない、鱗の唇じゃ笑い合えない、同じ姿で頭を寄せ合って眠りたいから。そんな私の中では当たり前のことでも彼女には言葉にしないと伝わらない。

 私と彼女、同じだったものが離れて、でも今また近くなって遠くなる。前とは違う形で。私は私として、彼女は彼女として、近付いて離れて、傷付けてさよならか。私と野晒しもそうだった。きっと、おそらく、この毛玉ともそう。

 リヒが遊んでいた毛玉を壊れ物を扱うように抱き上げた。されるがままの幼い命。天使の薄い薫衣草色の瞳に小狐の赤い紋様が映っていた。さよならはもう嫌だと思った。

「これからなんて呼ぼうね?」

 桃色の髪を揺らして歌うように問うた。実際、その声からは乳白色の宝石が零れた。彼女と毛玉を洗った時のことを思い出した。あの時もこんな色の蓮が咲いていた。

『わたあめちゃん』

 そう呼ぶ彼女が優しく抱いた命だ。

 私へでは無い、きっとこの天使もこの小狐へ宛てて歌ったのだ。天界の歌う宝石が暗闇の小さな焔を祝福する。妖精の庭の女王が焔の小狐の命を愛でる。

 一つの命として迎える、大切に扱う。白い羽毛に転がる蛍石と月長石。その石の意味を私は知らないけれど、ただ愛されているのだ、この命はこの命として。それだけはこんな汚れた私でも分かる。もうこのままでは居られない。




 天蓋の薄布が垂れる広い寝台。転がる蜂蜜酒の瓶と黒くなっていく姫林檎の食いさし、大きめの絹の枕と縫い付けられた椿の刺繍。青銅の水差しと枯れた鈴蘭の燭台。仄暗くて静かで落ち着く。蠢く魔界、目覚めるものも夢に漂うものも全て。光のものは眠ってしまった。私達は共に丑満時を歓迎する。

 規則正しい静かな寝息が寝室に二つ。一つは天使、もう一つは私の膝の上で眠る狐のものだ。彼女に毛布を掛けた獏が音も無く天蓋をすり抜けてきた。蹄は布団に沈まない。割れた三つの蹄の隙間から黄金の血が滲んでいるようだ。爪染のようで美しい。

「この前はハイソな逸品をどうも、小錆び」

 わざとおどけて言うと、至極平坦な声で「こちらこそ」

「美味かったよ、肝が特に」

 一番大きいのを贈ったからな、と薄ら笑う。

「なんせお前は昔から肥え太ったのが好きだったからね。魔界の小さなスーパーノヴァ」

 久方ぶりのその呼び名に一瞬で鱗がそぞろ立つ気がした。

「…もう忘れたよ。夢喰いこさび」

 幼体に戻ったかのような声で目の前の獣を呼び返した。だからさ、

「そちらも早いとこ忘れておくれよ」

 そうやって乾いた夜に二人で骨を振るように笑った。

 小錆びは天界で山羊を増やしていて、たまに余った奴だとか増えすぎた奴だとかを気まぐれで魔界に横流ししてくる。無論私が喉越しを楽しんでもいいんだが、魔界の地に放って運良く生き残ってくれれば良い墓守りになるので重宝している。

「話す?それとも眠る?」

「話す。夢を摘まみ食いされちゃあ堪らん」

 冗談めかして言うと、

「決めつけは良くないなあ」

 試してみるかい。

 そう本気か分からないことを返された。銀色の睫毛を伏せて私の傍に座り直す。小錆びはとても静かだ、きっと深い森の中でも音も無く暮らしていたんだろう。

「リヒはよく眠るな」

「一生懸命だからね」

 毎日が一生懸命。彼女は朝に起き太陽の下で歌い夜には深い夢を見る。人と呼ばれるものは全て彼女を模して造られた。人が人の姿を成すずっと以前より奴等が拝み、称え、目指し続けている姿こそが彼女なのだ。誰かの為に笑い、怒り、そして涙を流す。彼女は一生懸命に毎々を生きる。

「リヒに諭された」

「ふうん」

「聞いていたか?」

「いや、全く」

 思わず吹き出す。

「お前ねえ」

 小錆びも薄く笑んで袖を振る。

「どうもなあ…」

 なかなか。

 ふうん。

「なあ、こんなことって本当にあるのかね」

 毛玉を見下ろしながら問うと、彼女は片眼鏡を長い前髪の上へ押し上げて、さあ。

「私も似たようなものだし、あるんじゃあない」

 ゆったりとした間延びする口調に思わず溜息をつく。

「その前髪。切ったらどうだ、いい加減。鬱陶しくて見ていられんな」

 私みたいにさ。幼い頃から自分で切り揃えている。記憶にあるうちの獏はいつも変わらない、目にかかる幽霊のような前髪。

「このままで良いよ」

「何故」

「見え過ぎても困るだろう」

「見え過ぎて困ることなんて魔界には無いよ」

 全くここは物騒だねえ。

 そっちが平和ぼけし過ぎてるんだろ。

「それに前髪は天使がいつも切ってくれるんだ。自分じゃ切らない」

「また惚気か。ほとほと呆れる」

「いいじゃないか。もう億年単位なんだよ私達」

 だから少しくらい許しておくれよ。

 熟れたすももの煙草のような香りの会話。死臭に近い、腐乱した甘い香り。滅多にない機会だから惜しみなく使いたい。隠し場所は誰も知らない、でも誰かが開けてしまうかも知らない箪笥の下から二番目の奥。

「かがり」

「何」

 燃えかすのように冷めた金色の瞳で私を見据える。小指ほどの瘴気、悍ましい。

「大きくなったなあ」

「大きく?」

 私は驚いて、膝の上で眠る毛玉に視線を落とす。

「…ああ…そうか、そうだな。毎日見てると分からんもんだな」

「いや、」

 折角笑ってみせたのに否定されて。そして。

「かがりが」

 薄い笑みを侍らせて冷たく言う。こいつはいつもそう、食えない奴だ。

 角が生えた、前髪を揃えた、幼い女王に会いに行ってはじめましてを交わした。そのことを彼女に語って聞かせた。その時食べた二頭の山羊は酷く美味かった。あの時の山羊の魂は何処へ行ったのだろう。忘れられない。

「…そりゃあ、そうさ」

 そうに決まってる。私は大きくなる、これからも止まることはない。獏の魂は凍りついている、私は冷えたものはよく分からない。

 小錆びの黒い耳が左右に揺れて、きりり、天蓋が覆う空気が揺れた。天使の寝返り。ひりつく、感じる。何かが、来る。

 さて、

「そろそろ時間かな」

「一体何の」

「待てば分かるよ」

 少し静かにね。

 一つの予告、生唾、ちょうど三回息をした後。それは音も無く訪れた。

 私の膝の上で、肉の緊張、揺すり。

 毛玉が低く唸ったかと思うと歯ぎしりが始まった。獣が牙を食いしばって、爪を立てて掻き毟って、毛が逆立って唸り声、夢の中で走っているんだろう、手足が小刻みに震えている。生存本能からの恐れと威嚇だ。小さな嵐。逃げ切りたいのだ、何かから。それはきっと、この世のものとは思えないほどの恐怖から。

「小錆び、」

「任せて」

 彼女が垂れる左袖を伸ばして毛玉の額の前で一度大きく右に振った。一瞬、黒の匂い。魔界では嗅いだことのない深く重いまじないだった。

 すると解熱したように毛玉の肢体の力が抜けた。逆立っていた毛が落ち着いて耳が垂れる。ゆっくりと穏やかな寝息に戻っていって私は思わず息をついた。

「なぁんだ」

 拍子抜けしたような小錆びの声。

「…何だよ」

「ちゃんと心配してやれるんじゃないか」

「一々煩いな、少し驚いただけだよ」

 それで小錆びは。

「そっちは大丈夫なのか」

「いやあ…これはなかなか重いね」

 胃もたれしそうだよ。

「食ったのか」

 ささやきで問うと、いや、

「少し手を加えただけ」

 そんな答えが返ってきた。

「手を加えるって?」

「料理みたいなものかな。まあ私はしないんだけど」

「はあ?」

「私の白鳥は料理が好きでね、私は別に食べなくても良いんだけど」

「惚気は結構。どういうことなのか説明してくれ」

「火加減は慎重にってこと。それに関してはかがりのが玄人だろう」

 のくりくらり言うので、

「小難しいことはよく分からん。図書委員の言うことは特に」

 火花混じりに返してやった。するといかにも楽しげに、

「図書委員か、良いねぇそれ」

「やけにもったいぶるな」

 端的に言ってくれ。

 うーん。顎に袖をやり、例えばそうだな。

「夢の中で怪物と鬼ごっこしたいと思うか?そりゃもう恐怖を具現化したような怪物とさ」

「そりゃあまあ…できることなら勘弁願いたいが」

「だよなあ、私も概ね同意だよ」

 概ね、ねと頬杖をつく。

「だが同じ鬼ごっこでも、友とするのはどうだろう?すぐに楽しいものへと変化しないか?その違いを見誤ってはいけないということさ」

「はあ…?」

「感情の配分とか四肢の可動域、夢の滞在時間とか夢自体が持つエネルギーとか、あとはそうだな。個に付随する問題とか」

 頭が痛くなる、なんのこっちゃ。この知識欲の塊はこれだから厄介だ。

「えー…個に付随する問題って?」

 いいか。

「この小狐はもう既に半分魔のものだ。であれば魔力自体が持つ周囲への影響力、魔力の動く方向とか力の制御、環境因子や時間に至るまで色々考慮してあげないといけないだろう」

「頭痛がしてきた。もっとこう分かりやすく…端折って言えないのかお前は」

 あははそうだね、例えば。

「出自、とかね」

ばっと顔を上げる。

「…野晒しか」

「そう。出自があれなだけに潜在能力も未知数だよ。夢の中はただでさえ色んなものが滑落していくしね」

「危険なのか」

 まあね。

「でもかがりが居ればまるで問題ない範囲だと思うよ」

「はあ?結局どっちなんだよ。というか何が言いたいのかさっぱり分からん、付いていけん」

 諦めかける私に小火の煙ように小錆びは語り続ける。

「魔界からは出さない方がいいね。できればかがりの目の届く範囲に置いておく方が無難だろうな」

「暴発するのか」

 焔に属するものは稀にそういうことがある。一度そうなれば止められない、その命の分だけ周りのものを全て焼き飛ばしてしまう。

 私の言葉には何も答えず、ただ金色の瞳がギラギラと光った。天界に住んでいるくせに根っこは闇のものなのだ、よく平気で居られるなと感心する。

 それにしても、そんなに繊細なものだとは思い至らなかった。特にこの毛玉の悪夢が。しかし考えてみればそれもそうだ、あの野晒しの一部を継いでいるのだから。下手に放り出してそれこそ理性の効かない怪物にでもなれば世界ひとつ焼き飛ばしかねない。想像した。そんな怪物になったこいつを、野晒しを引き継いでいるこいつを、私はこの手で殺せるだろうか。またしても頭を抱える。

「嫌になるな」

「そうだねえ」

「まあ悩んでも仕方ないか」

 きっぱり言うと彼女は口元をゆるめ、「相も変わらず爆竹のようで安心した」と片眼鏡を外した。全く失礼極まりない。こいつは何千年経っても私のことを小妹かなんかだと思っているのだ。

「そりゃどうも。だったらまた山羊を送ってくれ」

「もちろん。近いうちに届けよう」

 小錆び。

 なんだい。

「もう夢は食べないことにしたのか」

 そう、あまりにも子供な彼女に問うた。彼女はふうんと息をつき、獏の脚を小さく折り畳んだ。

「そういうわけじゃないんだが、あんまり見境なく食べると叱ってくるのがいるんでね」

「図書委員にも敵わない奴がいるんだな」

 すうすうと向こうで寝息を立てている火鉢のような白梟を一瞥。

「そういうこと。だからさ、これでも慎重にやってるんだよ私なりにね」

 子山羊、多めに送るから秘密にしといてくれないか。そうにやりと笑って言われた。

「ありがとう小錆び」

「どういたしまして」

 息つく間もなく、

「女王にも言ったらいいのに」

「…耳が痛いな」

 膝の上の小さな暖かさを指先で撫でた。刺激しないように、脅かさないように。だってまた悪夢でも見られたら敵わないから。

「遊びたい盛りだからね。楽しいものも嬉しいものも沢山知る、それと同時に怖いものも」

 だからまあ、

「そういう夢を見る年頃なんだ」

「年頃って」

 可笑しくて尾を振る。

「随分と年寄りみたいなことを言うな」

「事実そうだよ、私は年寄りさ」

 袖をひらひら。

「そんな年頃をみんな通ってきたはずだよ」

「アンプルも、リヒも?」

「あの二人はいつだって年頃だよ、今が旬」

 そんなことを言うので確かになあとくつくつ煮込むように笑った。

「小錆びも?そうだった?」

 私は…。

「私も、そう。そうだったよ。いつもは忘れてるだけで」

「アンプルも同じようなことを言っていた。いつもは思い出さないようにしてるだけだと」

「そうか。なら、尚更そうだろうな」

 そう答えて獏は薄く目を閉じた。

 怖い夢を見たらどうしていたのだっけ。野晒しの胸ぐらに潜り込んで声を上げて泣いた。その泪で奴の白い毛が黒く焼き焦げたこともあった。轟々と一頻り暴れた後には、暖かくなって自然と眠れた。

「これからどうしたら良い」

「何が?」

「今みたいなことが起きたら」

 何も特別なことはないさ。

「今みたいに一緒に居てやるとか少しだけ頭を撫でてやるとか、そういうので良いんじゃないか」

 怖い夢を見たらこの小さな背中をさすって側で一緒に寝てやるだとか、そういうこと?野晒しが私にしてくれたことのような、そういうことの積み重ねの数々?

 小さな白を見下ろす。赤い胴体に浮かぶ紋様は全て同じだった。でも喉の宝珠はまだ無い、これから現れるかもしれない。尾はまだ一つ、いずれ奴よりも分かれる時が来るかもしれない。黒い瞳も酷く同じ。でも魔力の質は少し違う。まだほんの少しだけ純粋。燃焼させた後の浄化し切らない灰の量はまだまだ少ない。その灰は私達の体内に溜まっていき、決まっていつかは掻き出さなくてはならない。焔に属すものの宿命だ。生まれたてなのだ。何も知らない。積もり積もった灰の使い方も奴次第。私は撫ぜる、小さな焔を撫ぜる。

「野晒しが私にしてくれたようなこと」

 背に乗せてくれたり、頭を撫ぜて頬をべろりと舐められたり、その太陽のような熱で暖めてくれたり。私達は決して太陽にはなれないけれど、野晒しは私にとって紛れも無い太陽だった。太陽と表現させてくれ。青空のそれとは違うんだ、あの下で私達は生きられない。私の、私達だけの太陽なのだ。

「野晒しとは、違うんだな」

 もう、違う。

 野晒しは、この毛玉じゃ無い。悲しいけれど、違うのだ。呆気ない、されどのしかかる、冬の山火事のような真実だ。

 太陽よ、何処へ行った。遠く、極北へ御隠れ。もう二度と会えない。さあ、向こう側へ行こう。歩いて探しに行きたいんだ。









 野晒しとの記憶はもはや、数え切らない程の煌めく灰燼の数々。

 野晒しは死んですぐの足の速い猪肉が好きだった。他には辛口の濃い酒が好きだった。濃い酒の湧く鉱石の表面を、その分厚い舌で舐め取るのが好きだった。そうした酔いの宵、眠る前は決まって庭に出て月を眺めるのが好きだった。特に、私と。私と見るのを酷く好んだ。

 面倒臭いと口では言いつつ、奴の隣で月を眺めた。あんなに柔らかな色の焔が吹けたらどんなに良いだろうと何度も思った。私はあの満月のような深い橙の焔を吹きたくて何度も何度もやってみせた。けれど一度も上手くいかなかった、私は一度も納得したことはないのだ。それをいつも隣で奴が見ていた。

 野晒しは一度として私を叱ったことなど無い。そして同じように褒められたことも無い。私が気まぐれで煙を吸うようになった時も何も言わなかったし、逆に奴は酒を無理に私に勧めることも無かった。私がいくら血を吐こうと奴は心配など毛ほどもしなかったし、私が癇癪を起こして宮の紫水晶を半分焼き飛ばしても笑うばかりだった。吐いた血で汚れた着物を見てはからからと笑い、お前どうせなら染め上げてしまえと言うような奴だった。

『火龍の血染めだ、こりゃあ高く売れるぞ』

 私の血は良薬になるからと、魔界で熱病が流行した時には色んな種族に分け与えた。それでも何倍にも希釈しなければ体の内側から火傷してしまうような代物だった。お礼にと小鬼共からは私の身の丈ほどもある煙水晶、餓鬼共からは食い残しであろう蛇の頭、大鯰からは水脈の泉が贈られた。

『全てお前のものだ、かがりび。なんていったってお前の血でみなの命が救われたんだからな』

 ある夏に彼女からキセルを貰った時には意味ありげににたにたとこちらを見つめてきて私は無視を決め込んだ。

『最近お前がやたらとヒトガタでいる意味が分かったよ』

 意地の悪い化け狐め。

『随分と可愛らしい娘さんが居たもんだなあ、こんな嵐の子に』

 あんな可憐な笑顔は久々見たよ、俺は。煩いと言い返した。私は素直じゃなくて悪かったね。

『何、だから良いんだろう』

 その時の私に奴が言っている意味など分からなかった。けれど今となっては痛い程によく分かる。

『全員形の異なる小石だから良いんだろう。凸凹してるからこそ、良いんじゃないか』

 無いものを持っているからこそ良い。だから私達は鉄のように近づきあう。互いの凹みを埋めながら私達は隣で歩いてきたのだから。

 ある時、私が朝食の鹿を仕留めきれず、それを奴に揶揄され癇癪を起こしたこともあった。火災旋風で紫水晶を焼き飛ばして、気付くと辺りには焼き切れた炭と硫黄の香りが蔓延していた。まただと思った。私の幼い頃は調和など無くよく泪を流しては暴れていた。血を吐いては体が動かなくなるまで暴れ続けていた。

『お前凄いなぁ、こんなことができるのか』

 一体、何の話。そう怒鳴り返してまた燻った。

『俺がここまで育てた紫水晶を一瞬で焦がし尽くすとは。お前の焔は天下一だな』

 うるさい、うるさい、うるさい。どうして私を拾った。生かしてくれなんて頼んでない。あの時一思いに喰ってくれたらこんなに火傷することもなかったのに。あの時さっさと殺してくれればこんなに痛い思いをすることもなかったのに。どうして。動けないからもがいた、もがいたその分血を吐いた。その熱で床は焼け焦げて、焦げれば焦げるほど奴に腹の底から笑われた。奴が笑い疲れる頃には私の火力も尽きていて、そうなると決まって寝床に運ばれた。首根っこを咥えられて龍の姿のまま毛布に包まれた。構わん、と奴は言った。何をしても構わん。

『寝て起きて飯を食って、もっと元気に暴れてみせろ』

 そんなことを言うから。だから仕方なくだ。奴が戦跡で古釘を踏んだ時があった。その時は私の血を擦り込んだ手拭いを巻きつけてやった。きつくきつく巻いたら痛い馬鹿と鼻先で頭を小突かれた。

『こんな時くらい絹でも巻いてくれよ』

 そう言って奴は呆れたように欠伸をした。なんだ余裕そうじゃないか。私は黙って固結びをした、アンプルなら上手に蝶々結びをするんだろう。でも私は器用じゃないから。本当は清潔な絹布を用意して蝶々結びを練習して、早く良くなれよなんて、そんな言葉の一つでも掛けてやれば良かったと、本当はそう思っているのだ。今も。

 そんな風に、野晒しは大らかな偉大なる狐火で、私は不機嫌なちっこい火龍だった。奴は薬と呪詛に長けていて、私は変化に長けていた。奴は喉仏に焔を収めていて、私は両肺臓に火花を飼っていた。

 野晒しの喉に溜まった火炎は、奴が歩むたびにその足裏から耳先まで熱を散らした。それはそれは美しい魔界の太陽そのものだった。私にとっては紛れも無く、そしてそれは今も変わらない。

 今では私が魔界に住む奴等の太陽。しかし、いくらそう願われたとて私達は決して本物の太陽にはなれない。私の熱は五千度、真の光にはなれないのだ。それでも灯りを点さねばならない。点し続けなければ消えてしまう。魔界は夜の世界、真っ暗闇で生きる奴等の、圧倒的で絶対的な唯一の光になってやらねばならない、誰かが。誰でも良いんだ、私でなくとも良い。それでも私はそうありたいと思ったから。在りし日の野晒しのように。

『野晒し、』

 あの日の朝、私は奴の好きだった猪の首元を咥えて紫水晶の大広間へと入った。久々の大物だったのだ。奴の驚いた顔が見たくて、だから早く奴に見せてやりたかった。縁側から庭園が一望できる、彼岸花はまだ蕾のままで月は出ていない朝で、私は飛膜を畳んで意気揚々と襖障子を覗いた。

 切子の窓硝子に色蝋燭が映っていた。いつも座しているい草の間。青い、触るとまだ暖かい。女の幽霊と泳ぐ丹頂の金屏風。曜変天目の盃と白い徳利、酒の匂い。風と月と湿度、羽虫、だらりと下がる猪の蹄と、逃げる夏。

『野晒し?』

 奴は何処にも居なかった。宮中の、何処にも。初めから野晒しなど居なかったように、蝋燭を吹き消したかのように、いとも簡単に奴は消えた。理由は分からない。きっと奴にしか分からない、きっと理由は一つじゃない。

 いつかこんな日が来るんじゃないかと思っていた。魔界とは私達とはそういうものだから。細い、燐寸のような繋がり。

 まだそう遠くには行っていないことを感じ取った。飛膜を宮の上まで広げて飛び立てばその後ろ姿が見えるだろうと思った。風が灰の香りを運んできてすぐ横を通り過ぎて行った。私はその跡を追わなかった。喜びも悲しみも寂しさも、無かった。野晒しの形だけを点線で綺麗に切り取ったように、野晒しだけが居なかった。私はぽつんとただ独り、一摘みの虚しさと独り。ぽっかりと池に映る満月みたいな事実だった。硬い骨みたいなその事実を、私はただ吞み下すしかなかったのだ。

 朋友達には笑い飛ばした、そういうものだったのだと。彼女達が何も言わなかったのを今でも覚えている。私が強がったから、なんでもない振りをしたからかもしれない。

 奴の居なくなった大広間でキセルを吹かした。揶揄ってくる小煩い奴は居なくなった。喉を通る感覚、肺に入る感覚、何度も輪っかを作っては消えていく様を見ていた。

『飯にしよう』

 独りで食うようになった食事は幾分か冷たかった。食事だけは必ず共にしていたから。頰についた血を舐めとってくれる奴は誰も居なくなった。ただっ広い広間の床は冷たかった。

『俺の背からは魔界がよく見えるだろう』

 まだ幼龍だった頃だ。落ちないよう背中の毛を鉤爪で掴むと、痛いわ馬鹿と睨まれた。私は響く大きな声で笑った。揺れる背中に寝転んで見上げる月はこの上なく美しかった、私でも手が届くような気がした。奴は連なる剣山を縫うように練り歩いて、私達はこの世界で最上だった。

『いずれ飛べるようになれば、もっと高くから見下ろせるぞ』

 奴に拾われて百日で飛膜が張り、二百日で飛べるようになった。夏の間、鬼燕の兄弟から飛び方を教わった。できないことができるようになるのは楽しかった。何度も墜ちた、飛ぶのは難しかった。墜ちるたびに飛膜を裂いた、そのたびに奴が舌で熊油を塗ってくれた。いつしか私は宮の壁を越えられるようになって、南洞窟まで飛べるようになって、私は崖の上から単眼共の巣を見下ろして嵐の目になり雷をも切り裂いた。そして真珠の雲を抜けて何度も彼女に会いに行くようになったのだ。

『妖精の庭に行ってきた』

『蒼玉みたいな瞳をした女の子が居たんだ』

『友達になれたよ、野晒し』

ねえ、

『また遊びに行っても良い?』

 奴は勿論と頷いて、そしていつだって私を背に乗せてくれた。紫水晶の天窓が光っていた春、奴は私を広間に呼びつけた。私が焼き飛ばした水晶がやっと目を当てられるくらいに育ってきた頃であった。

『かがりび、好きに生きろよ』

 耳をぴんと立てて、黒い瞳で私を見つめた。あれを、慈愛と呼ぶのかもしれない。

 好きに生きるよ、私は野晒しのようになるんだから。そう、答えた。

『ああ』

 奴は安心したように笑った。

『ではその代わり、俺も好きに生きよう』

 私が彼の跡を継ぐと言った時、そんな風に奴は答えたのだった。その言葉の意味を私は知らない、今でも分からない、考えることもない。使命で無く、運命で無く、ただ私はひたすらに奴のような点しになると決めたから。それが私の好きに生きる、だったから。

 奴は狐火で、私は火龍で、私達は違っていて、それでも良かった。それが、良かった。私は野晒しの喉仏に抱きついて、少しだけ歯を立てて噛み付いて、その焔を全身で感じたのだった。

『本当に焔のような奴だな、お前は』

 そう言って笑った。重たい頭を私の額に擦りつけ、長い前肢で私の頭を撫ぜた。奴からはいつも、お日様の匂いがしていた。

『自由に生きろ。燎火』

 そんな言葉を残して、私の太陽は消えてしまった。私にこの魔界を託して。

 居なくなるなんて思わなかった、私の前から居なくなるなんて。そう、今なら言えるだろうか。私一人で、なんて、そう甘えられるだろうか。さながら灰燼のようであった、気高い白い焔であった。

 いつまで経っても私は、野晒しに届くことはないのだと思う。それでも追いかけていたいと思う。ふとした時に白い背中を思い描いて、私の生きる道すがら、少しずつでも近付けていたらと願う。荒野の地平線に奴の焔を見出して、ふとそれが目の端に映ったら、走って走って、必死で追いかけていたい。

 そして、私が死ぬその一瞬前だけでいい。目蓋を閉じた終わりの時だけでいい。私もあんな点しになれていたと、そうあれていたと心の底から思うことができたのなら、私の命は満月の窪みに帰ることができるだろう。

 彼は私の唯一の師であり、そして私の憧憬であり、そして私の親であったと、心の底から深く思う。













 私は大広間の縁側で、白い小狐を膝に乗せて魔界の夜を見上げていた。曇っていた。いつもより暗くて月明かりも無い。

 少し離れた池で尾長の錦が跳ねる音が聞こえた。この前天界から分けて貰ったよく太った赤い鯉だ。青いい草の香り、蛇のキセルを長く吸う。葉の摘みは天使、まじないは獏、それを丁寧に詰めて火を付ければここではない何処かへ何処へでも飛んでいける気がする。

 広い庭には所狭しと彼岸花が咲き、どっかで息絶えた白い誰かさんを弔っているようだ。私は彼に会えない分、小狐の顎を擽る。

「なあ。よく見ておけよ」

 天を仰ぎ、首筋は反り上がる。私は暗黒天に向かって長く強く息を吹く。空気の焦げる音、ぼうぼうと火を吐く肺臓。全身の熱、私の口元からは一筋の血が流れる。焼ける、焼ける、私はこの世界を焼き尽くすことだってできるのだ。灼熱、五千度。太陽には満たない私の烈煌。吐いた焔の線は曇天に届き、厚く黒く覆っていた雲を薙ぎ払った。散れ散れ、月光をお招きしよう。おいでおいで、私達を照らして。

「地獄の沙汰も酒次第、鼠一匹、欠け茶碗」

 愉快になってそう口ずさむと、月と星が顔を出した。紅い恒星、熒惑が瞬く。淡い光が闇夜を照らす。小さな喉仏。粒子のような熱を感じた。尾を楽しげに振り、膝の上で飛び跳ねた。そして一声、空に向かって大きく吠えた。

「なあお前、本当に良いのか」

 その問いに振り返る、何も分かっていないような無垢な黒い瞳。彩る白い睫毛と尖った鼻面。少し重たくなったな。これからきっともっと大きくなる。ともすれば野晒しよりも大きく、強く。雪のような白。好きに生きた姿の成れの果て。削り削られ最後遺った命の切れ端がまた生きようと私を見上げている。この命を拾ったのは私。奴と同じように私が拾い上げた命。見逃せなかった、見過ごせなかった。もう一度触れたいと思った命だ。その命の小さな首筋に鼻先を埋ずめた。

「私はきっと、姉くらいにしかなれないよ」

 それでも良いかい。

 狐はまた一声大きく鳴いて私の口元の血を舐め取った。喜んで大いに舐めた。私はそれが擽ったくて大声で笑った。仕方がないから小狐の口元に付いた私の血を袖で拭ってやった。きっとこいつも死んですぐの肉が好きなのだ。そう思うとまた笑えた。

「燎火」

 澄んだ声と共に碧い蝶がすぐ横を通り過ぎた。それを瞬時に追いかける野生の眼。私は頷く、なかなか反応も悪くないじゃないか。行っておいでと促すと、小狐は迷いなく私の膝を蹴って彼岸花の庭へと駆け出して行った。その姿は子供だった。無邪気な何処にでも居るただの子供であった。私は彼女を見上げた。魔界には咲かない鮮やかな赫い花が天から降ってきた。

「アンプル」

「ええ、燎火」

 隣、良いかしら。

 勿論、どうぞ。

 彼女は桜の衣を靡かせて私の傍に座った。廊下に彼女の髪が広がっていく。途端、緋衣草が縁側に咲き乱れた。

「ああ、まただわ。ごめんなさい、すぐ片付けるから」

 そう謝る彼女に、

「そのままで良いよ」

「気持ちが表れすぎね、いつも私」

「分かりにくいより良いさ」

 言い合って笑った。なるほど確かに、奴が言ったように素直で可憐な笑顔だ。

「意味とかあるの、それ。花言葉とか言ってたっけ」

「あら、覚えていてくれたの?」

 彼女が昔目まぐるしく解説していたのをふと思い出したからそう問うて、すぐに少しだけ気恥ずかしくなった。そんなこと今まで一度も気にしたことなかった。それを少し誤魔化したくて血のような花弁を一つ摘んで口に放り込んだ。

 彼女は珍しくからんと笑って、そうね。

「今の私達にぴったりな花言葉だと思うわ」

「ぴったりな?」

 ええ。

「貴女と私と、それからあの子」

「あいつも?」

 そう言って二人、共に駆け回る小狐を眺めた。それ以上のことを、私は彼女に聞かなかった。私と彼女とあいつのことならば、今後生きていけばいずれ分かることだろうから。彼岸花の紅の中で走る白はそれはそれは綺麗だった。風のようで、嵐のようで、白い光のようだった。

「もう少しおもちゃがあっても良いわね」

 どうかしら、お姉さん。

「盗み聞きか、やな奴め」

「かくれんぼは昔から私の方が得意だったわ」

 そう言えばそうだった。ならまあしゃあない、しょうがない。

「おもちゃでもご馳走でも何でもどうぞ」

 その細い指先をくるりと回す、魔法のモルフォ蝶を子供の遊ぶ庭に放った。青い鱗粉、小狐が飛び上がるたびに線光が散る。

「あれって本物?」

「いいえ、ただの幻影よ」

「そりゃ良かった」

「あら、どうして?」

「流石に虫が主食になったら困る」

「まあ!なんだか失礼ね」

 でもそういう養育方針なのね。だったら勿論貴女に従うわ。そう生真面目に言うので私はからからと笑った。本当にそう、こうして顔を合わせたら自然なんだ。思ってもみなかった。

「アンプル」

「なあに、燎火」

 そっと、驚かせないように彼女の左手を握った。拒絶されないか少しだけ怖かった。

「熱くない?」

「熱くない」

「火傷しない?」

「しないわ」

 誓っても、良い。

 アンプル。そう、碧い瞳の奥を見た。

「振り払ったりして、ごめん」

「良いのよ」

 彼女はあっさり笑って答えて私の手を握り返した。彼女は強いなと、そう思った。私は謝るだけで精一杯、使い切ってしまう。やっぱり本当で居続けることは少しだけ難しかった、今の私にはまだ。けれど、もう少しだけ、今晩は本当であろうと思った。今だけは、モルフォと呼ばないから。

「アンプル」

「うん、なあに」

「頼っても良いかな」

 うん、と彼女は頷いた。良いのよ。勿論。私の肩なら幾らでも。私の胸なら幾らでも。何だって言って。出来ることなら私、貴女の為なら何だってするわ。

 まだ何一つ言えていないのに、すぐに頷いてまくしたてる彼女が好きで私は笑えた。

「アンプルは本当に変わらないな」

「ええ?なんの話?」

 よその世界から来た部外者の私をすぐに庭へ招き入れた。燃える隕石のように降ってきた私を両手を上げて嬉しそうに受け止めた。そしてあんな滅茶苦茶な約束まで結んだ。私の記念日を勝手に作って火傷した指先を必死で隠しながら私にキセルを贈りつけた。今もそう、大切なことを何も言えないでいる私をすぐに受け入れようとする。少しくらい待ってよ、ねえ。ちゃんと言葉で、私の口から言うから。

「あの子を育てるの、手伝ってくれないかな。私一人じゃ、到底敵いそうもないし」

 そう?と微笑む。

「お風呂も一人じゃ入れられない?」

 笑って聞くから、観念して、

「そう、当たり。できれば火傷させたくないしね」

「確かに、そうなった時にすぐに治療できるひとが側に居た方が安心ね」

 全く、失礼な奴。そう言うと、でもね私、そんな不器用な貴女が好きよ。恥ずかしげもない顔で、けれど頬は少しだけ染めて彼女は言った。

 比類無いほどに麗しくて、それでいて何処か気怠げで、両極端で慌てん坊で本当に忙しない私の親愛なるひとよ。

 私は野晒しじゃない。丸ごと奴にはなり得ない。何が好きで何が嫌いか、どう育てたら良いのかも分からない。どう向き合ったら良いのかも、分からないんだ。でもね。

「アンプルがくれたキセル、私凄く嬉しかったよ」

 ずっと言えていなかったけど。

 うん。

「当然私知っていたわ。だって貴女、いつも持ち歩いてくれてるものね」

 そう、もう体の一部なんだ。私にとっては手足みたいなものなんだ。これがあればいつだって私は火を吹ける、彼女に会いに行ける。

「あとね」

「うん」

 私は天使みたいな可愛げもないし、獏のように口も上手くないし、アンプルみたいに素直でもないし、私は私にしかなれないから。

「私、アンプルと同じ姿でありたいと思ってた。龍の姿じゃなくて、同じ姿で隣に居たいと思ってたんだ。ずっと、昔から」

 だから変化の練習も頑張れた。彼女と同じ所に唇があって瞳があって心臓があって、例え彼女の心臓がすぐに萎んでしまう月下美人であったとしても。

「同じ姿で繋がっていたいと思ったから、今こうして居られるんだ」

 彼女の瞳から白い花弁がひらりひらりと舞い落ちた。私は恥ずかしくなって口を窄める。

「もう、泣くなよ」

 すぐ泣くんだから。小さい時からそう。

「ごめんなさい、だって嬉しくて」

 嬉し泣きなんだから別に良いでしょ?

「燎火がそんなこと思っててくれたなんて知らなかった。今ここに生きてて良かったって本当に思ってるの、貴女に出会えて本当に良かったって、私」

「ああー、もういいもういい」

 長い、長いよ。恥ずかしいし大仰だよ。

「ね、これから先、ゆっくり聞くから」

 だからさ、お願い。最後のお願い。

「あの子のこと、一緒に育てて欲しいんだ」

 正直に言葉で伝えたから、私のお願い、聞いて欲しいんだ。

「一生に一度のお願い?」

「そう。一生に一度のお願い」

 何回目かしら。そう、くすくす。

 五か、六くらいか?そう、くつくつ。

「また約束が増えちゃったわね」

「もうこの際だ、構わないよ」

「ええ、貴女の直々だもの。断る理由なんて一つも無いわ」

 ねえ、燎火。

「一緒に生きていきましょうね」

 焦らず、私達なりのやり方で。

「だって貴女の焔は、世界で一番優しいんだから」

 飛び切りの笑顔に、なんだかなあ、本当に真っ直ぐすぎる。頬杖をついて、

「聞いてて恥ずかしくなるよ」

「だって私もずっと言いたかったの」

 だから言えて良かった。

 優しい焔、確かにそうであれば嬉しい。奴のような、お日様のような光であれば嬉しい。

「ありがとう、アンプル」

 きっとあの日、私を拾い上げた、私の上に落ちてきた彗星のような光。そして数千年の時を経て、あの子の上に落ちてきた私という赤漆の光。私達は永遠に太陽にはなり得ない。燎火と彼が名付けた意味も、私は永遠に知り得ない。

 彼のようになれなくたっていいさ、私は私で点しをやるさ。北で果て、南で生まれた。雪に埋もれ、焔を発する。

 私もあの子も、好きなように生きるのだから。私は立ち上がる、隣で彼女が見守ってくれている。

 彼岸花の中、碧い蝶を追いかける、焔。空にひかる熒惑のように。野を駆け抜けるひかりのように。

「のひかり」

 私は呼んだ。私の喉は鳴りに鳴り。さあ、手を叩いて。

「野熒り」

 何度だって、呼んでやろう。

 白い光が彼岸花の庭を駆け抜け、私達の元へ帰ってくる。私の胸へ飛び込んでくる。

「おかえり」

 受け止めて、さあ宮へ。月を一瞥して、暁。

 尾が分かれるのはいつでしょう、火を吹けるのはいつでしょう、特別に私の背に乗せて、魔界を空から見せてあげよう。仕方ないから、焔の扱いも教えてあげよう。

 大きくなったらその背中に私を乗せて、狩りをするところでも見せてくれ。その頃には私も、少しは素直になれているだろうか。

 共に、魔界の荒野を闊歩しよう、

 たったふたつの太陽として。

「さて。朝食にしようか」

 小さな喉仏は一声鳴いて、

 横で彼女の優しい破顔、

 新しい焔がここに始まる。













拝啓、野晒し。

熒惑、変わり無く。

太陽、未だ成れず。

それでも良いと貴方が笑むから、

息吐く熱、両肺臓。

彗星、赤漆、

白い光のまだ見ぬ真紅。

暗闇の中の焔。

点し続けてみせましょう。

敬具。




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