颭の箱庭

小富 百(コトミ モモ)

第一杳『女王と抱かれる怠惰』








 木の葉を纏った小人達が最後の紅茶を注ぎ終わってしまう。白い丸テーブルには山葡萄の蔦、苔玉に鎮座する蕾と真上には金木犀の木漏れ日。空には九つの虹が架かっていて、確か今日は曇りのはずだったけれどと首を傾げる。きっと誰かが今日の雨雲をお掃除をしてくれたのだ。よく晴れているから今晩は森の天道虫達が星になって光る蜂鳥がリボンで繋いでくれるだろう。夜に詰んだカーネーションの紅茶に夢食い獏が持ってきた蜂蜜を充分に溶かす。かき混ぜる時には天使が持ってきてくれた一つとして同じものはない銀のスプーンを使う。おやつは木枯らしの焼き菓子と火龍が持ってきた苦い檸檬の縞々キャンディ。

 そんな好きなものだらけを敷き詰めて私達は三日三晩のお喋りと惰性、頬杖をついて枕にもたれて思い思いに語り耽る。ブランコを漕いで、図鑑でお昼寝して、蓮の葉のボートで少し遠くの湖畔まで赴く。水が嫌いな火龍は嫌々だったけれど結局乗ってくれた。いざとなったら湖全てを干上がらせるなんて言い出すから私は思わず大きな声で笑ってしまった。

 そんな、昔のこと、今のこと、これからのこと、そしてほんのり甘い夢物語。天使が歌を歌ってドレスを翻すと、そのフリルの隙間からパールの悪夢が溢れるから獏がそれを喜劇に変える。それで嬉しくなった天使は彼女の手を取って慣れた手つきでワルツに誘い出して、ほら聞こえてくる蹄とブーツのメロディー。獏はダンスが苦手だからぎこちない蹄の音色に私と火龍は笑いが止まなかった。その時のむうとした彼女の顔といったら。

 火龍は空に花火を散らして、私がそれを花弁に変える。彼女はダンスなどはなからしないのが分かっているから少しだけ残念。その代わりキセルの煙で好きな模様を描く。小鳥に食器に水馬の形、本当にこういう所だけは器用で、蛍達が楽しそうに辺りを舞う。

 夜の読み聞かせが終わったら少しだけ眠りにつく。誰が一番早くに目が覚めるかしら、私でも火龍でもないことは確かねといつも心の中で思う。私達二人はいつも遅起きで、それは六千年前からずっと変わっていない。早起きさんと言えば天使で、彼女は伸びをしてすぐ獏をくすぐってちょっかいをかけるだろう。だからきっとまたこの二人に肩を揺すられることになるだろう。紅茶淹れたよ、朝に弱いのは二人とも昔から変わらないね、なんて子供の笑みでそう茶化されながら。

 そんな、三日三晩。退屈などしない月の反転。笑い踊り、飲み、歌い、私達四人だけが共有する時間。誰にも邪魔などさせない、そんな三日三晩。そして月がひと刻み満ちて西の空に傾いたら、お茶会は静かに、そして唐突に幕を閉じる。地図を畳むように、本を閉じるように、カーテンを片手で引くように終わる。妖精の庭ではそれが約束で、始まりも終わりも優雅にそして突然訪れるもの。それがこの庭の掟だからご容赦。

 がりりと音を立てて最後のキャンディの一粒を彼女の犬歯が噛み砕いた。

「かがりちゃんもったいないよ〜」と天使が言う。

「折角小鬼が丁寧に作ったのになあ」と獏も加勢。

 そんな声に、「私が持ってきたからいいんだよ」とそう突っぱねる。

 彼女は昔から素直じゃない。だから私は肩を震わせて笑うのだけれど背中の翅がびくともしないから動けない。もうそろそろ痛くなってきた。二日目の夜からかしら、彼が背中に取り憑いて飛べなくなったのは。そんな私をちらりと一瞥して燎火がキセルを取り出した。

「じゃあ、終いにしようか」

 彼女から言い出すのは珍しい。いつもは大概私が先に声を掛ける。天使が寝不足で船を漕ぎ始めるか、獏が留守にしている間の図書宮殿を気にし始めるから。

「そうだね、続きはまた今度にしよっか」

 抗いの声が出ないのはまた次があるのを知っているから。当たり前のように訪れると心の底から信じているから。

「次はいつにする?」

 天使の軽い問いに私は答える。

「じゃあ紅い月が指先程欠けたくらいに。また使いを出すわ。それで構わない?」

 紅い月ね、と獏が視線を寄越して。

「いつごろかな」

「そうね、いつになるかしらね」

 そう答えながら、もう永遠に訪れないかもしれない等と思う。訪れたとしても私は貴女達とお話できないかもしれない。でもこれは内緒。私だけの秘密。

 天使が四枚羽を広げて、シルバーピンクの髪が揺れた。白いフリルのワンピースが相まって彼女そのものが翼になったようだ。舞い上がったその風で金木犀とティーカップが揺れた。一瞬にして深い香りが辺りに立ち込める。

「それじゃあ帰ろ、小伽」

 差し出される手。

「うん、リヒ」

 躊躇なくそれに委ねられる体。嗚呼、羨ましい限り。

「二人ともまたねー!」

「じゃ、また」

 短めの銀髪が揺れる夢食い獏が長い袖を振って、大きめの靴下がふわりと浮いた。小伽には羽が無いのでいつもリヒに運んできてもらっている。リヒは小伽の重さなど感じていないかのように自由気ままに好き勝手に飛び回る。空で器用にくるんと宙返りなんかするから私はいつもドキドキしてしまう。その姿は随分前に見た妖精達の曲芸のようでで硝子片が刺さっているように胸が痛む。

 上空の雲間に帰っていく二人の影。真っ白な羽がひとひら落ちてきた。天界と妖精の庭はきっちり線を引いて繋げていないはずなのだけれど、一体何処を経由しているのかしら。彼女達は私達より随分と長い命である分色んなことを知っているけれど、私はそれを知ろうとは決して思わないのだ。私が二人に振っていた手を下ろすと霞草が指先から零れ落ちた。

「あいつらはいつも元気だな」

 私が今しがた散らした霞草をふうっと焼き消しながら呆れたように彼女が言う。

「本当にね、でも良いことじゃない」

 風向きが変わった、私から流れる霞草が彼女の方へ。

 それにしても、モルフォ。

「この白いのはどうにかならないのか」

「あら、嫌だった?」

「彩りで目が弾けそうだ」

 彼女は火でものを喩えがち。それに無自覚な貴女が私は可愛くて大好き。

「綺麗でしょう?」そう言うと、

「感情が表れすぎなんだよ」また呆れたように言われた。

 私は片眉を上げて、「分かりにくいより良いわ」と言い返した。

 私はこの庭の女王、歩むたびに花が芽吹いては咲き散ってしまう。私の身体全てが季節そのものと言っていい。

 まあいいけど、なんて言って燎火は煙を吐く。素直じゃない、薄っすらと桃の香り。私の庭に来る時はいつも、この庭に優しい紫煙を吸うことを私を知っている。

「燎火」

「何」

 私は頬杖をついて、

「燎火は帰らないの」

「少しね」

 木彫りのテーブル、蔦が橙色の花を咲かせている。どうやら葡萄でないものも混じってしまっているみたい。それをより彩る彼女の投げ出された脚。小さな妖精達がひらひらと私のすぐ横を舞う。轟々燃える火の化身がこんなに近くに居るのにこんな近くまで来てくれるなんて、きっと私を心配しているのだ。大丈夫よ、と目線で抑える。

 どう、と差し出されたキセル。翼の生えた蛇が彫られている銀色のキセル。彼女の誕生日としている日に私が贈ったもの。

「いつも持ち歩いてくれてるわね」

 そう言っても何も返してくれないから、私は黙ってその煙を受け取ってしまう。それを受け取ってしまったが最後、私は彼女に嘘がつけない。

「ねえ、モルフォ」

「なあに」

「今日の紅茶も美味かったよ」

「それは良かった、けれどあれは小伽の蜂蜜が良かったのよ」

 聞いてないように、

「次は天界にでも集まろうか」

「そうね、ちょうど図書宮殿にも行きたいと思っていた頃だったし」

「私はその間リヒと鬼ごっこでもしていようかな」

 いいわね。

「私は見守っておくことにするわ」

「でも私に天界は眩し過ぎる」

 痛いくらいにまであるから。

「ええ。貴女にとってはそうでしょうね」

「太陽が近くにあるのは慣れないからな」なんて笑うから、あら、

「あの方は貴女の太陽じゃなかった?」そう問うと、「さて、何の話かな」

 笑い合って、三秒。目が合って、一秒。彼女は答えない。喉まで入れた煙、吐くと勿忘草の花弁が風に攫われていく。

「良い香りね」

 私は楽しんだふり。嘘は見透かされている。

「モルフォ、なるべく嘘はつかずに答えて欲しい」

 なあに、燎火。

「今日はやけにお喋りが多いのね」

 黙って聞いて。

「いつから?」

「何のことかしら」

 笑って、でも誤魔化せない。

「…それのことだよ」

 私の背、長く伸ばした髪の間から覗く深く蒼い私の翅。それに鎖のように纏わり付く重い荊の黒い棘。動けない、今回はかなり内部への侵食が速い。深く巻き付いて剥がれない。どうしてかしら、どうしていつも見破られてしまうのかしら。一番いけないのはそう、私が何処かで貴女に暴かれることを望んでいること。彼女に見抜いてほしいと望んでいることだ。彼女なら見抜いてくれると胸の何処かで信じ込んでいる所が私の一番いけない所。燎火が立ち上がって私の側に来ようとするから私は急いで手で制した。

「駄目よ、燎火。危ないから下がって」

 それでも決して物怖じしないで、

「危ない?一体誰にものを言ってんの」

 嫌な言い方しないでよ。お願いだから、言わせないでよ。

「…貴女が少しでも、危ないのは嫌なの」

 分かるでしょう。そう縋るように言っても、

「私を誰だと思ってる」

 強気な口調。何も言えなくなる。荊を食い入るように見つめる焔の眼。貴女は火龍だから言葉よりも熱で語る。彼女の瞳孔が細まって、静かな揺らぐ火炎を感じる。この庭に相応しくないその温度を感じて周りの妖精達が一目散に逃げていく。そして私の翅にべったりと纏わりつく、荊の彼の凶暴性が目覚める。

「いつからこうなんだ。まさか気付かなかったわけないだろう」

「違うの、よくあることでしょ?」

「こんなに酷い状態は今まで見たことない」

「仕方ないの、あんまりに陽気が良かったから。全部私のせいなの、あんまりにこの子が優しいから」

 私が彼を庇うように両手を上げた瞬間、荊が鞭のようにしなって私の身体は大きく横へ揺さぶられた。彼女へ向かう攻撃性、荊の棘が彼女に襲いかからんとする。嗚呼、お終いだ。

「燎火、待って!」

「黙って」

 彼女の左手の、焔が唸った。

「そのまま動かないでよ。モルフォ」

 キセルの煙、桃の香り、焼き焦がす。胸が痛い、ガラスが深く食い込む。こんなにも彼が私に溶け合おうと深く食い込んでいるのに、貴女は私が贈った煙で彼を焼くのだ。なのに私のことだけは火傷ひとつさせてくれない。

「燎火」

 ねえ、お願い燎火。惨めに、牡丹柄の黒い着物に縋った。お願い、お願い。

「…この子を殺さないで」

 お願いだから。私のせいなのに。私が悪いばっかりに。私が無力で、酷く無責任なばかりに。

「ごめんね、モルフォ」

 彼女は私を見てくれない。ただキセルの煙で彼を焼き尽くして、その燃える炎をひたすら瞳に映していた。それがただ酷く恐ろしかった。

「これだけは見過ごせない」

 無慈悲で優しい愛の言葉、私は残酷な妖精の女王。私から貴女へ贈った愛を、貴女は道具としか見ていない。

「ここで始末する」

 愛しい子は焼かれ逝く。私の翅から剥がれ逝く。声にならない悲鳴が響く。





 荊の死骸は丁寧に土に埋め、最後その土に指で三度口付けを落とした。月が一回転する頃にはまたすぐに芽吹くだろう。けれどそれではもう意味が無いのだ。それはもう彼であって彼では無い。テーブルには一仕事を終えた燎火が長い脚を組んで座っている。もう煙を吸うことはしていない。裾から血が透けたような龍の尾を覗かせ、それがゆったりと宙に揺れている。

 彼が居なくなって軽くなった背中、私の翅は思うがままに動いた。それがより一層悲しかった。

「おかえり、モルフォ」

 椅子にもたれて彼女は言う。

「その渾名で呼ばないで」

 泣き腫らした私は彼女の顔もまともに見れない。

「我儘だな」

「ごめんなさい。でも今はやめて」

「分かったよ、悪かった」

「…リヒと小伽には言わないで」

「言わないよ。特にリヒには。でも小錆びは気付いていただろうね」

「ええ。…あの子はリヒ思いだから」

 あの子が傷付くことは絶対に言わないのだ。アンプル、と彼女がキセルをテーブルに置いた。

「今回は癒着が特に酷かった。なぜあんなに放置したの」

 責めるような口調ではない。それが嬉しくて同時に酷く悲しかった。だから私も正直に答えるしかなかった。

「可愛い、尊ぶべき子だったからよ。知っているでしょう、私にとってはみんな等しく愛しいのよ」

 この言葉のなんと言い訳がましいことか。

「だからと言って放置すればあの棘はあんたの内部に喰い込んでいく。知っているでしょう、最期どうなるか」

「ええ、分かってるの、分かってる。でもどうにもならないのよ」

 この妖精の庭には様々な妖精や幻獣、植物達が存在する。その中には自分の持つ魔法だけでは生きていけない子も存在するのだ。

「あの子はね、病気がちだったの。でも私の為に青の薔薇を咲かせると言ってくれたのよ。そんな子をみすみす見捨てろと言うの」

 私はまくしたててしまう。思いと理性はどうしたって重ならない。

「私の魔法を分けてでも、あの子を生かしたいと思ってしまった。分かっているのよ私だって、そんなことをしても意味が無いって、結局あの子は私の魔法に惑わされて狂わされて、それで結局…」

「それで結局?」

 彼女が詰め寄る。私は思わず後ずさった。

「怪物に堕ちた荊の彼を、私が燃やすことになっちゃったってね」

 燎火がカラカラと笑う。

「まさかあいつも自分の最期が見ず知らずの化物の焔に燃やされることになるとは思ってもいなかっただろうね」

 唇を強く噛み締めた。

「…貴女は、化物なんかじゃないわ」

 そう言って俯くことしかできない。ふんと鼻を鳴らして、「龍だろうが野火だろうがここの奴らからしたら全部同じだよ」そう言い捨てられた。

「私は今まで色んな花や木と癒着してるあんたを嫌という程見てきた。その度に私が奴等を焼いてきた。私はいいさ、焔は使わないと溜まる一方だから」

 ずきりと胸が痛んだ。

「ね、だから分かるだろう。土に根で縛られる植物共はあんた達翅を持つ妖精とは違う。同じ庭に住んでいても根本から違う種族だ」

 その通りだ。植物の彼らは芽生えた場所から生涯動くことができない。その場所から動けないのならば、より強くその場所で生き抜こうとするのが本能。

「悪気は無くてもより強くあんたの髪に惹かれてしまう」

 私の髪。生まれてこのかた一度も切ったことの無い髪だ。六千年来、母なる樹より受け継いだ私の魔法が全て詰まった深緑の髪。私は言い返す。

「じゃあこれからは私がその分髪を切るわ、鋏は天使に、知恵は獏から借りる。だったらあの子達を殺さなくて済む、命を奪わなくて済むでしょう」

 馬鹿だね、と一蹴。

「無駄だよ。髪を切ってその分の魔法を与えでもしたらいよいよ女王の魔法に取り憑かれる。女王の魔法は女王の器でのみ扱えるのだから」

 それに、と続ける。

「気付いているでしょう、何処かでは。奴等が枝葉を伸ばす気配や音、私怨。私の知る、六千年来のあんたなら事前に容易く防げるはず」

 魔法に取り憑かれた彼等は私の髪を求め蔦を伸ばし荊を喰い込ませ、そして最期は私を内部から突き破る。もしそうなったらもうこの庭は女王を失い全てお終いだ。妖精達の多くが彼女が統める魔の世界に逃げ込み、そしてそのほとんどが儚い命を落としてしまうことになるだろう。

「ねえ、アンプル」

 彼女が私の名前を呼び、私の顎を細い指で持ち上げた。紅い瞳、縦長に伸びる瞳孔から目が離せない。端正な顔。白い肌に焔の紋様がよく映えて、黒い髪は真紅に燃えていた。

「…あんたまさか私に黙って、死のうだなんて思っているわけじゃあないだろうね」

 灼熱。彼女の長い爪が頰に食い込む。痛い、痛い、居たくて、痛い。嗚呼、なんだってお見通しなのだ。私は今だってこの命を捧げても構わないなんて思っているのよ、他でもない貴女に。

「…さあ、どうかしらね」

 私は努めて冷静に聞こえるよう言った。

「さあってあんた、本当に…」

「分からない。貴女が分からないのなら私は本当に分からないわ」

 強く告げるとふんと不満げな唇。私は努めて動じない。

「別に、それでもいい。何だっていいよ」

 強く頬を横に撫でられた。その指が酷く熱かった。

「あんたが死ぬ時は私の焔に焼かれる時。それだけ、忘れないでいてくれれば」

 言い捨ててふっと煙を巻くように紅い眼が離れた。本当は離れたくないのに。離さなくて良いのに。

「…ええ、もちろん。誓って、忘れたことなんてないわ」

 冷たくて熱い瞳を見つめる、決して眼は逸らさない。真正面から貴女を見つめる。私なりの精一杯の抗いだ。なのに貴女は眉一つ動かなくて私の目をじっくりと見返すばかりだった。本当なのにきっと嘘だと思われていることが分かって酷く悲しかった。

「これを」

 彼女は懐から紫の二枚貝を取り出してテーブルの上に置いた。私は受け取らない。受け取ってしまえばきっと彼女の思うがまま。私にだって雹のような誇りがある。いつだって思い通りなるなんて思わないで欲しかった。

「いらないわ」

 私はそれを弾いて突き返した。熱い、指先が少し悲鳴を上げた。

「そこまで貴女に甘える気はない」

 そう言ったのに彼女は聞く耳すら持たず、「私の灰が入ってる」と言った。そしてするりと立ち上がり踵を返した。

「眠る時は撒いて寝て。当分邪な奴は近寄れないから」

「いらないったら。聞こえないの?」

 私は思わず立ち上がる。ガタンと後ろに椅子が倒れた。金木犀の木漏れ日、うら若き緑の丘、遠くに萌える深森、朱の着物が風に煽られる。

「じゃあ捨てて」

「燎火!」

「この庭に持ち込んだ時点でそれはもう半分あんたのものだった。そしてそれを私は放棄した」

 だからそれは完全にあんたのものになる。

「いらないのなら自由にして」

「燎火待って!」

 そう言い捨てて彼女は高く地面を蹴った。振り返りもせずに。カランと鳴る一本歯下駄と牡丹柄の鼻緒。紅い飛膜で一度大きく羽ばたいて、低空を飛行していた白の翼竜が彼女を空中で拾い上げた。

 翅で追いかけて、魔法で行手を阻んでも良かった。でもそうはできなかった、拒絶されるのがただ怖かったから。黒い焔の残り香、彼女はすぐに見えなくなる。瞬く間に東の果てに飛び去ってしまう。

「いつも…貴女はいつもそうよ」

 所在無い、彼女を追おうとした私の手。悔しくて悲しくて居場所が無い。テーブルの上の二枚貝を握りしめる。私の思いと一緒に握り潰して粉々にして、二度と使えなくしてやりたかった。彼女は私にこれを捨てる度胸なんて無いと分かっているからわざとこんなものを置いていったのだ。こんなお守りじみたものを。それがこんなにも悔しいだなんて。

本当は彼女の手を掴みたかった、こんな小さな貝殻ではなくて。それだけは確か。きっと呼び止めた所で、何も言えないのを見透かされてる。それだけは、確かなのだ。

 私は所詮我儘ばかりの無力な女王。もう潮時だ、ちゃんと分かっている。この気持ちも胸の痛みともお別れする時が来ただけのこと。彼女が居なくなった途端、森のざわめきが戻ってきた。周りを多くの妖精達が舞い始め草木の芽吹く音がした。

『陽だまりの君』

 妖精達が呼んでいる。泣かないで、と呼んでいる。玉虫が私の涙で喉を潤す。手の中の二枚貝をなぞって、少しだけ開いた。彼女の焔の灰が詰まっていた。目を閉じて頰を寄せると冷たい桃の香りがした。







 私は薄暗い夜の中この樹海で最も古い巨樹に手を置いていた。他でも無い、私をこの世界に産み落とした月桂樹の樹皮に。

「お久しぶりです、お母様。少し頼らせてください」

 彼女の灰が入った二枚貝はネックレスにして首から下げていた。常に熱く熱を発していて、それだけで彼女と私の住む世界の違いを感じてしまう。これを持ち歩くだけで力の弱い妖精は私に近寄ることすらできない。それほどまでに火龍の力は絶大なのだ。なんて言ったってあの混沌とした魔界を統治する王と呼べる存在。絶対的な焔を肺臓に収める唯一無二の火の龍。

 母なる大樹の周りに彼女の灰をほんの少しだけ撒いた。この庭に不似合いな空気の燃える匂い、向こう百年は素晴らしい結界として機能するだろう。本当に強い、それだけ彼女の世界と私の世界は重なり合う、けれど決して相容れない隣人なのだ。真っ暗な樹洞の中を白い雛芥子で埋め尽くした。ここが今晩の私の揺り籠。頭を下げて樹洞に入るといまだ懐かしい香りがした。六千年前、この大きな大樹の肚の中から私は生まれ出たのだ。

 暖かい、静かで美しい。目を閉じると外から羽虫達の音色が聞こえてくる。プロポーズの歌だ。それから下草に露が滴る音、胞子の舞、木の葉と子鹿のスキップ。浮雲が流れる小川の傍に佇む桜の花弁から、私の今のドレスを姫蜘蛛の子らに仕立ててもらったのだった。

 好きなものは沢山ある。この庭、妖精達、植物達、季節、花々。この母なる月桂樹を中心として四方に大きく広がっている光年樹海。この樹海の夜は本当に優しい。全てが混在する妖精の庭で、私はここの夜が一番好き。

 妖精の庭は朝、昼、夕、夜、全ての時間帯が同時に並行して存在し、全ての気候、季節が入り混じっている。雪の子、花の子、雨の子、石の子、全ての妖精が住みやすいように作られている。他でもないこの私がそう設計した。けれど彼女は違う。

『そうそう無いよ、好きなものなんて』

 伏し目がちに幼い彼女はそう言ったのだった。今もそうだろうか。魔界に生まれたらそうなるの?それとも貴女の過去が貴女をそうさせたの?幼い貴女に聞いてみたい。どんな答えが返ってきたってそっと優しく抱きしめてあげたい。

 六千年前のこと、私が生まれた頃のことだ。この世界を問わず、色んな境界が曖昧でこの庭も今みたいに安定しているわけじゃなかった。魔族と妖精は基本的な構造は同じだから、灯りを好む魔族も居れば暗闇を好む妖精も居る。けれど根本的に異なるのは魔力が発生する源だ。

 魔族は自身の内側から魔力が湧いてくるのに対して、妖精は自身が棲まう領域に満ちる魔法から生命を得ている。湖に棲まうもの、花畑に棲まうもの、朽ちた獣の肋骨に棲まうもの、全てそれら一帯の魔法で命を繋いでいる。だからこそ芽を出したが最後、とある一部の土地に縛られてしまう植物達はより強い魔法に惹かれてしまう性質を持っている。花が太陽に向かって咲くように。今日の彼も同じように。

 そうなってしまう理由はきっとそれぞれ違うのだろう。元から命が弱かったり、彼のように強い願いがあったり。それらが彼等を突き動かす。力の強い幻獣や聖なる泉、時には私の長い髪へと。いつだったか彼は私の為に青い薔薇を咲かせると言った。私がいつか、野薔薇の朝露を飲むのが好きだと零したからかもしれない。この世のなにものよりも澄んでいるそれで喉を潤すのが好きだと。だから理性を犠牲にしてまで蕾を咲かせようとしたのかもしれない。彼が居なくなった今じゃあ、もう聞くことすらできないけれど。

「だとしたら私のせいね」

 言葉にした途端自嘲がこみ上げてきて私は喉を震わせて笑う。私一人で全てどうにかできれば良いのだ。けれどこればかりはどうにもならない。女王とみなから呼ばれる私は本当は女王の器なんかではない、全てを完璧に熟せないのだから私はとても女王とは呼べない。その無力さを知った時、どうかこの庭と永遠に一つになれはしないかと考えてしまう。もう随分と昔に考え至った一つの答えだ、実行する決意と少しのきっかけが無かっただけ。

『いつまで経っても甘いね、モルフォは』

 そんな風に彼女は千切って捨てるように言うのでしょう。言い方がぶっきらぼうなのは昔から変わっていない。そんなところも私は好きで、何処までも綺麗な彼女が好きなの。

 クルル、と喉を鳴らす音がして私はゆっくりと樹洞から顔を出した。遠くで子守歌のようなせせらぎが聞こえる。少し離れた所に月明かりに照らされた青い水馬が座っていた。ぬらりと鱗の生えた尾ひれが光っていた。

「…レリス」

 本来なら北の湖に棲んでいる水馬だけれど、一度怪我を治して以来懐いてくれている。長い睫毛を二、三度震わせるのは、そちらに行ってもいい?の合図。

「ええ、…おいで」

 私は手招きをする。

「どうしたの、こんな遠くまで」

 水馬は酷く火を嫌う。またクルクルと喉を鳴らしながら器用に灰の結界を飛び越えた。どうやら私のことが心配になったようだ、相変わらず勘の良い脚の速い子。尾ひれを引き摺りながら樹洞の中に入ってきた彼女の、その冷たい首に腕を回す。私は正直に嬉しかった。こんな夜に一人で寝付ける気は到底していなかったから。

「私に何かあるとすぐに駆け付けてくれるわね、あなたは」

 そう顎をくすぐると甘えるように顔を寄せてきた。レリスが嫌がらないよう、貝殻のネックレスは首から外して耳元に置いた。レリスは私が居なくなったら悲しむだろうかとそんな取り留めのないことを考えた。ドレスを誂えてくれるパンプキンも、靴を揃えてくれる霞の子猫も、暗渠に住まう泥のあの子も、みんな。『陽だまりの君』と私を呼んで、慕ってくれるこの庭の愛しい子達。きっと悲しんで涙して庭中が暗い悪雲に包まれる。十月十日の雨が降り、森や湖の地形すら変わってしまうだろう。でも、もし私がこの庭の一部となればそんな悲しいことはもう二度と起きなくなる。本当の意味で、私達ずっと一緒に居られる。文字通り、私がこの庭そのものになれば。そうなったら古くからの友人達はどんな顔をするだろう、どんな言葉を投げかけてくるだろう。

 リヒはきっと泣いてしまう、きっとあの大きな翼で自身の涙を拭くのでしょう。でも大丈夫、あの子は明るくて強い子だからすぐに私のことは忘れて前を向いてくれると思う。

 小伽は睡蓮でも手向けてくれるかしら。その時は白が良い、今からお願いしておかなくては。そしてその後私の愚行を書き記すのだろう。でも秘密にしておきたいこともあるのよ、私はいつだって女の子ですもの。

 燎火は、魔界の火龍は、どうでしょう。なんて言うかしら。何にも言わずに背を向けて煙を深く吸い込むのだろう。そして私が贈ったキセルはもう永遠に使われることはないのでしょう。私ばかりが想っているから、悲しいかな、きっと間違いないでしょう。

 レリスが優しい力でもたれてくる。もう眠りましょう陽だまりの君、渦潮のように同じことばかり考えていないで、と心の声が聞こえてくる。この庭に言葉なんていらないのだ。私はあらゆるもの達と会話ができる、指先で、心で、あるいは水や風、土で。私はレリスの額と自身の額をくっつけて目を閉じた。ひんやりとして冷たく心地良い。嗚呼、幼い頃こんな風に彼女と眠ったことがあった、いつのことだったか。

『おやすみ、アンプル。また明日』

 そう言って黒い髪と緑の髪を寄せ合って眠った。明日は少し遠くまで遊びに行こう。黄色の飛び蜘蛛が案内してくれるんだって。貴女の髪はそれはそれは漆みたいに光沢を帯びて綺麗だった。梅雨の丘にウィステリアを見に行った。その道すがら小高い虹より眼下を見下ろして、貴女は私の髪を深い森の色のようだと言ったのよ。覚えている?

 触れると火傷してしまいそうだった、それほど艶やかに貴女の髪は燃えていた。もしそうなってしまっても大丈夫、私は治癒は得意だから。雛芥子の香り、しっとりと濡れた柔らかい水馬の肌。

「眠りましょう、眠りましょうね、レリス。…嫌なことなど、もう忘れて」

 おやすみなさい。そう言うとクルルと喉を鳴らして彼女は大きな瞳を閉じた。私はその水を弾く黒い鬣をゆっくりと撫でる。暖かい暗闇だ、生まれる前の心地良い曖昧さ。

 おやすみ、おやすみ。おやすみなさい、愛しい全て。怖いことなんて何も起こりませんように。安らかな眠りが妨げられませんように。この庭の命全てが穏やかな音楽に包まれますように。そして私が眠っているこの間に、誰の命も居なくなりませんように。





 夢を見た。

 私は胡蝶、蒼翠のモルフォ。もう六千年前のことだ。私は夢の中で、もう一度この樹洞で蛹となり蝶のように成形された。巨樹の深い意志による魔法が一つの形を成したのだ。子宮の温もりだ、さざめく羊水、私は女王として生まれ出た。生まれるのは痛かった。痛くて痛くて堪らない、きっと本当は生まれてきたくなんてなかったのだ。だからずぶ濡れのまま私は青い瞳からざあざあと大粒の涙を流した。あの日からずっと胸の奥に生まれてきたが故の硝子片が突き刺さったままだ。

 私はずっと、生まれた時からずっと痛くて、この痛みが少しでも酷くならないようにと、ただひたすらにこの庭を守ってきた。たったひとつしかない私の世界を。この世界は想像を遥かに超える美しさで、まだ誰も見たことのない色とりどりの花束を振り回したかのような世界なのだ。手付かずのパレットは静かに濡れて、それでもなお混じり気のない四季。深い森には数多のランプが飛び交う、絢爛な玉虫達と蜜の香りを放つ秋桜。そんな光景を私は見た。世界はこんなにも多くの生命に溢れ愛おしい。

『陽だまりの君』

 彼等は私をそう呼んだ。生まれ落ちたその瞬間に即位の儀式が始まった。月桂樹を前にした幼い私に妖精達がこの庭から集めた恵みのドレスを羽織らせた。木蓮のクローク、椿の留め具、アマリリスの王冠。

 多くの妖精達にただ一つの愛だと抱かれ、幻獣達は蹄を打ち鳴らし、沢山の植物達が私の為に花を咲かせた。柊のアコーディオンが鳴り響き、背の高い紅色の豹と逆立ち烏のカーニバル。側転するウツボカズラに、金糸雀に乗った花の精達が何処までもパレード。花籠に入れられた取り替え子は川を下り、明け方には異界へと旅立っていく。それを見送るチューリップと艶きのこ達のサーカス団、手のひらの上の曲芸。うららかな羽兎達の身投げ、お好きな相手の手を取りタップを。毎昼毎夜、円になってダンス、終わらない恍惚の宴。

 女王の誕生だと慈しまれた。

 サファイアの瞳、蒼々の鱗粉、桜の花弁で織ったドレスを着て、深緑の髪には強大な魔法が宿る。妖精の女王の誕生だと、この庭を司る偉大な魔法の誕生だと謳われた。嬉しかった。祝福されたことが。楽しかった。彼等の踊り歌う姿が。そして今に思い知ることになる。悲しい、哀しい。私はこの庭で一番の、無力で非力な女王であることを。

『女王』

『女王』

『私達の女王』

 期待に満ち溢れる瞳、爪、蔦と雨と光。

『何をしてくれるの』

『女王はわたくし達に何をしてくれるの』

『何を恵んでくださるの、何を施してくださるの』

『ねえ、教えて』

 私は本当は無力だと、今の私は知っている。

 彼等のダンスに囲まれて幼い私はプルメリアの玉座へ。官能的な香りに包まれて、私は聖なる声を聴く。母なる月桂樹はその枝葉で私を包み込み、そしてそんな無知な私にそれはそれは残酷なお告げを述べる。

『輪廻から外れた、可愛い私の小さな女王』

 今でも覚えている。胸に深く刻まれている。私は今でもがんじがらめ、助けて、何も聞きたくない。あなたからの呪いの言葉を。

『彼等の巡りを、そしてこの妖精の庭を、永遠に守り続けなさい』

 永久に?悠久に?待って、待ってくださいお母様、私一体どうしたらいいの。どうしたらこの庭をそんなふうに守れるというの。どうやったら彼等が死んでいく姿を見なくて済む?どうして私なの?どうして私を選んだの?頼んでなんかいないのに。生まれて来たいだなんて、頼んだ覚えは一度も無いのに。

 どうして私なの、どうして私を選んだの!

『…真名を授けます』

 ねえ、教えて。待って、行かないで、お母様。

 私、

『アンプロンプチュ・プルメリー』

 女王になんてなりたくなかった。



 ハッと眼が覚めた。冷や汗、鼓動、顔にかかる薄暗い明け方の香り。彼女の灰のおかげか外には何の気配も無い。静寂が満ちる樹海、幻影の予感。遠い昔の私の魔法が語りかけてくる。夢路の記憶だ。

 外から小さな子供の笑い声がする。くすくす、くすくす。きっとそれは内緒の話、秘密の約束。引き寄せられるように、誰も邪魔しないように、そっと体を起こして樹洞の淵に手をかけた。そして静かに息を呑んだ。

 青い淡い光に包まれた、幼い燎火と私の姿。

 嗚呼、あの時の幻想を見ているんだわ。夢が私を更なる夢へと引き摺り込んだのだ。私と燎火が初めて出会った日の夢。私ですら邪魔することは許されない、清らかなヴィオラのような夢。

 あの日、光年樹海の入り口は夕暮れだった。彼女はその小さな飛膜で東の雲を渡ってきたのだった。最初は赤い星屑が落ちてきたのだと本気でそう思った。けれど違った。ボロボロの貴女は稲妻のように私に向かって落っこちて来た。小さな細い赤漆の龍。しなる枝のように分かれた赤い角と大きな瞳が忘れられない。貴女の尖った鉤爪が私の肩に食い込んで、私は彼女を両腕いっぱいに開けて受け止めて、「痛い!」そう私は悲鳴を上げた。

 びっくりして、地面に引き倒されて、生まれて初めて感じる痛み。ごうっと大きな風が巻き起こった、光と鳴り響く鐘の音。光年樹海の隅から隅へと振動が響き渡っていく。光と光の衝突。胸の痛みとは全然違う、熱い、ちゃんと生きている痛みだった。

「ああ、ごめん」

 龍は私の体の上で返事をした。

「すぐにどくから」

 私と同じ言葉を返してくれるなんて思ってもいなかったから私は心底驚いた。肩は血が滲んでいてはらはらと紅梅が零れた。その蜜を龍が舌で舐めとった。

「美味いね」

 目を細めて皮膜を畳んだ貴女、その嘴に私はそっと指先で触れた。龍に会うのは初めてだった。本当に胸が高鳴った。すると鱗が鉱石のように剥がれていって、瞬く間に彼女は私と同じくらいの女の子の姿になった。黒い髪の女の子だった、淡く燃えている、赤い瞳の女の子。心底綺麗だと思った。

 えっと、

「…はじめまして、でいいのかしら」

 ごめんなさい、私、慣れていなくて。恐る恐る言うと、

「そう、はじめましてだね」とにっこり笑う。

 この庭に棲まうもの達はみんな私のお友達だけれど、それ以外の命と出会うのは初めてだったから私は酷く緊張していた。彼女が起き上がって地面にぺたんと座るから、私も体を起こして向かい合って座った。ドキドキしていたから手持ち無沙汰のその手で彼女の頭にハルシオンのレースをかけてあげた。

「なに、これ?食べていい?」

 物珍しそうに言うので思わず、

「うん、いいよ」

 返事もしないでぱくんとレースは食べられてしまった。そして彼女は大欠伸。

「うーん、なんだか眠たくなる味だね」

 そうへらんとまた私に向かって笑った。

「…ねえ、」

「ん、何?」

「もしかして、真珠の雨雲を駆け抜けてきたの?」

「うん、そうだよ」

 彼女は何でもないことのように答えた。凄い、凄い!私は噂にしか聞いたことがないあの嵐の中を?たったひとりで?貴女ってもしかして凄いひと?

「どうしてここに来ようと思ったの?」

「似てるひとが居る気がしたから」

「誰と?」

「私と」

「貴女と?」

「うん」彼女は笑って、

「でももう見つけたんだ」と言った。

「もしかして、私のこと?」そう問うと、

「うん、正解!」彼女は頷いてまた笑った。

「そんな事の為だけに?」

「そんな事じゃないよ。その為なら私、何度だってここに来てあげるよ」

 そう胸を張って彼女は答えた。強いひとだ。本当に会えるかも分からないものに自分なら会えると信じる強さを持ったひとだ。そんな貴女のことをもっと知りたいと思った。だからこの庭へ、この樹海へと招き入れた幼い無知な女王様。嫌になる、全てやめさせたくなる、どうして今更こんなものを見せるの。ささやきなんてもう聞きたくない。

「ねえ、貴女の名前は何ていうの?」

 切ることのできない、ただ伸びていく髪を不思議に思っていた、そんな小さな私が聞いて、

「燎火」

 まだ前髪を切ったばかりの、小さな角が生えたばかりの、そんな幼い彼女が答えた。しゃがみこんだ私達は囀るみたいに笑い合っている。

 私は悟った。嗚呼、私は、遠いお母様の記憶を見ているのだ。こんな風に見えていたのだ。あんなにも小さく無知で無垢だった。

「私の名前ね、」

 妖精にとって真名がどれほどの力を持つか、自身にどれほどの影響を及ぼすのか、この庭で知らないものは居ない。生まれ出たその日から私を名前で呼ぶものは誰一人として居なくて、ただ『陽だまりの君』と、そう呼ばれていた。なのに。

「…アンプロンプチュ・プルメリーよ」

 そうささやく声で貴女に教えた。貴女にだけは知っていて欲しいと思った。私と貴女は似ているって、貴女がそう言ったから貴女にだけは嘘をつきたくなかった。

「凄い!綺麗な名前」

 彼女は鬼芥子の瞳を輝かせて言う。

「でもね、内緒にして」

「どうして?」

「あんまりね、ひとには教えちゃ駄目なんだって」

 怖いことが起きるんだって。どうしてかは私、全然分からないんだけど。彼女は静かに頷いて、

「分かった」

 絶対、守るよ。

 丸い頬、子供だった。幼いながらに真剣な私達に近寄るものは誰も居なくて、あの時間だけは永遠に私達だけのものだった。

「じゃあさ、アンプルでどうかな」

 燎火が立ち上がって器用に回る。回るたびに鱗の尾がキラキラと輝く。

「アンプル?」

「うん」

 その名前、綺麗だけどちょっと長いからさ。アンプルの方がきっとみんな呼びやすいと思うんだよね。私ねぇ、渾名付けるの上手いと思うんだ。

「どう?嫌かな」

 いいえ、いいえ。そんなはずない。

「すごく可愛い!すごく素敵ね!」

 私は嬉しくて答える。薔薇が弾けた、赤い薔薇。貴女はわっと驚く。だって渾名ってそれはそれは素敵なものなんでしょう、飛び切り仲の良いひとが呼んでくれるものなんだって聞いたことがあるもの。嬉しいわ、とっても嬉しい。

「これからはアンプルって呼んで!」

「うん、もちろんだよ、アンプル」

 そう私達は手を繋ぎ合った。

「じゃあ私は貴女のことなんて呼んだらいい?」そう私は大きな声で問う。

「何でもいいよ」

「何でもいいの?」うん、と少し俯く貴女。

「私、あまり燎火って呼ばれないから」

「どうして?」

「名を呼ぶと燃え移るって思われてるみたい」

 燃え移る?貴女の焔が私の体に?

「素敵ね!それってすごく素敵!」

「素敵?」

 怪訝な顔。眉を潜めて、

「火傷するとさ、結構痛いらしいよ。私はできないから知らないけどさ」なんて言う。

 そうね、貴女は火龍。火傷なんてものとは無縁の存在。

「いいえ、とっても素敵よ。だってそれってきっとすごく暖かいわ」

 貴女の輝く焔を私にお裾分けしてくれるなんて。私、松明に燃え移らせて決して消えないように祠の中で絶対絶対大切にするわ。

「燎火」

 名前を呼んだ。燎火。ほら、私を見て。

「私、燃えたりなんかしないわ」

 大丈夫よ、貴女が不安に思ってることなんて何にも起きない。私は治癒が得意だから例え燃えたって平気よ。灰になったりしない。

「だから貴女のこと、燎火って呼んでいいかしら」

 彼女は顔を上げて、少しはにかんだように笑った。幼かった私はそんなこと、気付いてすらいなかった。小さな燎火、貴女は嬉しかったのね。あまりに強大な焔を持つ貴女は魔界ですら疎まれて恐れられていた。今までずっと気付けずにいた、貴女の心の傷付きに。

「もちろん良いよ、アンプル」

 私達の横を蒼い蝶が飛び去っていく。あれはモルフォ、この森だけに住んでいる。

「あの蝶、アンプルに似てるね」

 彼女が獣の瞳で追いかける、蝶はするりと逃げる。似てるかしら。ちょっとだけ似てない気もするわ、だって私があの蝶であれば駆けてくる貴女に喜んで捕まってあげるもの。

 幼い私、そんな顔で笑っていたのね。毛先の紅、首筋の模様、貴女はちっとも色褪せていない。そんな貴女は大きくなって、私をモルフォと呼ぶようになる。曖昧にしたい時は必ず、私のことをそう呼ぶの。

 私達は色んな話をしたわ。貴女の名前は火を表すこと、貴女が魔界でたったひとりの生き残りである火龍だってこと。私が妖精の女王であること、この庭全ての命は私のお友達だってこと。どうしてかしら、この庭と火は合わないことに私初めから気が付いていたのに。私、初めて会った時から貴女に惹かれていたのね。

「ねえ、アンプル」

「なあに?」

「聞いて、私ね、」

 揺れる桔梗の浴衣が綺麗だった。

「大きくなったら、魔界に灯りを点そうと思うんだ。みんなが安心して暮らせるように」

「魔界に灯りを?」

 そう、と少し恥ずかしそうに続ける。

「憧れている先代がいるんだ。私、そんな風になりたくて」

 彼女はそう言って魔界を統べる白い獣のことを語った。美しい大きな、太陽のような焔であると聞かせてくれた。

 知らなかった存在、私の隣の世界、初めての友人であり、私の唯一無二。本当はね、ごめんなさい、話の中身なんてあんまり聞いていなかったの、ただ貴女の紅潮した頬から目が離せなかっただけ。

 貴女が魔界の荒野を飛翔する姿を想った。硝煙に咲く気高き真紅の野薔薇よ。

「アンプルは?」そう唐突に問われた。

 その綺麗な尾に惹かれてヒラヒラと飛んでいた私は小さな足で下草に着地する。無知で可愛い子供の私。

「…私?」酷く驚く。私、私が?

 最初から女王として生まれた私は自分で何かをしようなんてこと今まで一度も、思いついたことさえなかった。だから彼女に心の底から憧れた。初めて誰かを尊敬したのだ。やっぱり貴女は凄いひと。そして私は言う。考え無しの浅はかな、夢のような希望を口にしてしまう。やめさせたい、馬鹿な乙女。私の最大にして最愛の過ち。

「私、私も!…貴女みたいに、この庭に棲むみんなが安心して暮らせるような庭にしたい」

 そう、例えば。目一杯の笑顔、叶わない願望なんか、口にするんじゃなかった。

「永遠に、魔法の絶えない庭にしたいわ!」

 見たくないのに目が離せなかった。夢の中なのに涙が溢れた、私と燎火は同じだった。ちゃんと覚えていたはずなのに。貴女みたいになりたかった、貴女みたいになりたかったの。なのにどうしてこんな大切なこと、今まで忘れていたんだろう。

「じゃあ、指切りしよう」

 彼女の爪先には火が点った。約束のキャンドルだ、私はなんて綺麗なんだろうと思ったんだ。

「うん」

 私より随分と温かい小指をそっと握って、それが酷く暖かくて、

「私達、ずっと一緒に支え合おう。もしどちらかが間違えてしまっても、私達ふたり、手を取り合うの。そして、みんなが幸せに暮らせるように」

 指切りげんまん、

「私達の世界を一緒に守ろう」

 指、切った。

 魔界と妖精の庭、切っても切り離せない癖に、決して相容れる事はできない。こんなにも重なり合っているのに、東の厚い真珠の雲で隔てなくてはならないの。一緒になれたらどんなに良いだろう。彼女に素直に頼ることができたなら私はどんなに良いだろう。燎火の笑顔を思い出した。いつもはツンと呆れたように笑う癖に、みんなのことになると真剣で、本当はとても優しい。

 魔界に、憧れの白い焔に、恩返しがしたいのよね。貴女は何も語らないけれど分かっていたの、知っていたわ。憧憬の白い獣が居なくなったあの日だって、貴女はからりと笑い飛ばした。だから私は何も言えなかった。ちゃんと言葉にするべきだったのに何も言えなかった。私が臆病なばかりに。

 酷く酷く悲しいけれど、貴女の心に私自身は居座れない。彼女が守りたいのはこの二つの世界、彼女は先代の後を継ぎ、今や立派な点しとなった。この二つの世界を守る為、循環を維持し続ける為に私は必要不可欠な支柱なのだ。ただ、それだけ、それだけだ。知っていたのに、分かっていたのに、何処かで期待していた。彼女があんまり優しいから。彼女が私までもを守るから。あんな約束をしてしまったから。それを今、やっと思い出した。

 夢が薄れる、私達の姿が消えていく。雨が止まない。濡れそぼつ、春の雨だ。長雨であって欲しい、ずっと止まないで。願わくば胸の硝子を溶かして消して。そしてそのまま記憶も約束も全て洗い流してくれたら良いのに。

 燎火、あのね、聞いて欲しいことがあるの。貴女だけに聞いて欲しいことがある、ずっと言えてなかったことがある。貴女は決して許してはくれないだろうけれど。

「私必ず、この世界を守り続けてみせるから」

 その約束だけは必ず、私絶対に守るから。永遠に。だから安心して。私自身を愛してなんて、そんな我儘もう願ったりなんてしないから。







 ゆっくりと目を開けた。涙が流れていた。その涙は落ちるたびにカーラントへ変わっていく。私は涙さえ満足に流せないのだ。チチチと羽兎の声、本物の朝だ。柔らかい朝日が差し込んでいる。レリスは私から溢れた花に埋もれていた、さながら棺桶のようで美しい。

 また散らかして、って燎火ならきっと叱るだろう。でも私が散らした花を貴女が焼く姿を見るのが私はとても好きなのよ。

 内側から母なる樹の肚を撫でた。あの時、私がこの肚から生まれ落ちたあの日、この樹は私に名前を授けすぐに深い眠りについてしまった。私を産み落とすという大仕事を終えて、もうあれから何一つ言葉を発さない。動きもしない、愛も無い。

 私は女王になるべく生まれた。故に幼い頃から何でもできた。この庭に住む彼等の怪我も、病も、全て治せた。私が息を吹きかけるだけで創傷は癒え、私がその体に手をかざすだけで夏の日差しのような生命力が溢れた。皮膚の下には金魚草が咲き乱れ、つつじの甘い蜜が流れる。

 あの日の約束の後、私と燎火は魔族と妖精の棲み分けを行なった。全てはこの二つの世界の為。彼等が少しでも息がしやすくなるようにと、焦土と水辺を分断し魔法の向かう方向を定めた。

 私には何でもできた。文字通り、何でも。何でもできると思っていたのに、唯一変えられないものが一つだけあった。それが彼等の死だ。それだけはどう足掻いても変えられなかった。

 六千年間もの間、多くの輪廻を見てきた。六千年間もの間、私は彼等の死をただ見送るばかりだった。庭の循環、古い水が空に上って新しい雨になるように、死だけは平等に訪れる。そう、私を除く彼等全てに。どれも忘れることはできない。この庭に棲む全ての種族の死を私はこの目で見届けてきた。私と妖精達の別れ、私と植物達の離れ離れ、それはあまりに残酷であまりに胸を締め付けられ、私だけが常に取り残されていく。だからとうとう私は全てを永遠にしたくなった。死とはどういうことなのか、二の腕を掻き毟るようにずっと感じてみたかった、肌身で。胸の一番奥底で。あの子も、あの子も、あの子も、あの子も、死んでいった全ての命はもっと生きたいと願っていたから。

『私は死んでしまうの、陽だまりの君』

 死にたくないわ、お別れしたくないわ、ずっとこの庭で生きていたいの。そう弱っていく彼等。

 ごめんなさい、ごめんなさい。何もできない私でごめんなさい。

『どうして死なないといけないの。ずっとここには居られないの。どうして女王だけ、私達と違うの』

 ごめんなさい、約束したのに。あなた達を守ると、そう約束したのに。私、お母様と約束したのに。

 生きて永遠の楽園を享受する、それを願う彼等を誰が拒めるだろうか。生きていたい、ただそれだけを願い、私の髪にすら縋るのに。

『アンプル、これ以上はもう駄目』

『逝かせてあげてよう、アンプル』

 嫌、嫌よ、まだ温かいわ。まだ脈打ってる。

『…彼等の為にならない』

 手の中で冷たくなる、愛しい幼子達。

 天使が私の肩に手を掛けて制止する、獏が私の手から彼等を取り上げる。やめて、やめて、奪わないで。逝かないで、お願い、ねえ、取り上げないで。吐息くらい何度だって吹きかけるから。なのにお別れしなくちゃいけないの?どうして?私が守ってきた庭なのよ、そこで生まれた命なのに。私を愛してくれた命よ、私にももっと愛させてよ。ねえ。

『どうして枯れてしまうの』

 みんなそう、みんなそうよ。

『どうして私だけ違うの』

 お母様だってそう、私を産んで枯れてしまった。みんな私を置いて逝く。酷いわ、酷い。置いていかないで、独りにしないで。真夜中に涙で埋もれたくない。

『モルフォ』

 彼女の声、愛しいひとの声。

『モルフォ、顔を上げて』

 やっぱりそうよ、貴女は誤魔化したい時、私を蝶の名で呼ぶの。嘘をついているのよね、私の為に。

『もうお終いにしよう』

 燎火の焔でお終いに。花の火葬、昇る葬列。どんな悠久の命も私の手から旅立ってしまう。きっといつか、貴女も、そう。

 だから貴女にあのキセルを贈った。銀色の翼を持つ蛇のキセルを。鉄を打つのは苦手、指先を火傷してしまうから。火傷するのは貴女が言った通り酷く痛かった。血の代わりに溢れる真っ赤な花弁はすぐに手元を狂わせる。

 けれどこれだけは魔法を使いたくなかった。私だけの手で作り上げたかった。それを貴女に贈ることに意味がある、一瞬で形になるものなど何の価値もないのだから。

『贈り物よ、燎火。誕生日の贈り物』

 そう言うとしかめっ面をして、

『私に誕生日なんて無いけど』

 そう言って捩れる天邪鬼な眉根。

 良いのよ、どうせ下手な口実なんだから。私が貴女に私の想いを押し付けたかっただけ。断られることもない、かと言ってお返しもいらない、それだけの理由があれば良かった。

 私も自分自身の想いを誤魔化したから。

 一番伝えたかった言葉は胸に仕舞ったまま、それを貴女に贈ったんだから。気付かれたくない、でも気付かれている。本当は貴女に暴かれたいのに、貴女は決して暴かないから私にはそれが一番良いの。全て貴女でないと意味がないのだから。

 樹洞の中でお母様の樹皮に爪を立てる。爪が割れて白詰草が降り注ぐ。水の廻りが途絶えているから蜜も何も出てきやしない。なんて狡いお母様だこと。

「何とか言って、ねえ」

 また声が聴きたいの。いい加減起きたらどうなの。

「私、六千年も耐えてきたのよ」

 女王として生まれ、女王として生きてきた。唯一できた大切なひとにも、本当の想いは隠したまま。この六千年で大切なものがいくつもできた。楽しみなことも、美しいことも、沢山知れた。この庭だけじゃない、もっと色んな世界があることを私は知ることができた。

 天使の羽が柔らかいこと、図書宮殿で見た地上の海、暗がりに点す瞳の灯籠。

『ねえアンプル、お願いがあるの!明日来てゆくドレス、選ぶの一緒に手伝ってくれない?』

 実は小伽とお出掛けするの、とはにかむ天使。

『小伽がね、珍しく遠出に賛成してくれたからとびきりおしゃれして行きたくて』

 ええ、もちろんよリヒ。どんなドレスにしましょうか。

『白と黄色で悩んでるの、ブーツはやっぱり編み上げかなあ?アンプルはどっちが良いと思う?』

 チューリップのクローゼット、くるくる回るころころ変わる楽しげな四枚羽の天使。ドレスコードは乙女の嗜みですものね。

 しっかり者で一生懸命な、気付けば姉から妹のような存在になっていた天使の子。白い翼はいつだって美しかった。白鳥のように綺麗で鷹のように強靭な子。天使がうっすらと消えて次に獏の顔が浮かんできた。

『果てまで続く永久の海だよ。今度一緒に見に行こうか、アンプル』

 ええ、行きましょう小伽。渡鳥の背に乗って何処までも私を連れて行って。何処にも行けない私を貴女の夢で願いを叶えて。

『さあ手を取って、女王陛下』

 またそうやって茶化して、と私が笑うと、

『茶化してなんかいないさ、私は私なりに敬意を払っているつもり。あなたにも、彼女にも、あなた方のその関係にも』

 どこまでお見通しなのだか。銀色のくせ毛で本当の表情は読めない。けれどゆるく微笑む口元だけを信じている。貴女がいるから悪夢も怖くないわ、天界の獏。

 本当は暗がりに居るはずの神獣なのに、天使の為に世界の天井に居るのよね。食事もお風呂も高いところも、本当は全部苦手で天使に手伝ってもらっているのよね。本当に、天界の知恵者とはとても思えない。そんなこと言ったらまた、ケラケラはぐらかされてしまうかしらね。

 とうとう天使も獏も消えてしまって、最後にはやっぱり貴女の顔が浮かんだ。

『ねえ』そう、蘇る彼女の声。

『これはあんたにしか頼めないんだけど』

 涙は静かに溢れた。瞳から離れた瞬間赤い実になって弾けてしまう。

『なあに、燎火』

 私は返事をする。そんなに哀しい顔をしてどうしたの。そう言うと彼女は薄く微笑んで、

『もし万が一私が道を外れた時には、アンプルが私を始末して欲しい』

 もし、そうなったらで構わないから。

『どうせなら最期は、アンプルの魔法で死にたいなって思うから』

 哀しい癖に、強がって笑っていた。嗚呼、嫌なんて言えるわけがないじゃないか。だって私達はあの約束で繋がっているって、そう信じていたいのだから。例え何もかもが変わってしまった今でも、そう。

 私だって貴女の為に死にたいわ、本当に叶うのなら。そしてその間際に伝えたいわ、あの贈り物と一緒に伝えたかった本当の想いを。どうせなら貴女のびっくりする顔が見たいの。その間に死ぬのよ、貴女に手を振られる前に。

 ああ、私の涙はちゃんと塩っぱいかしら。遠く永く生きていて、私、彼らと違うものになってはいないかしら。ただそれだけが不安よ、それだけが心配。貴女が確かめてくれたら良いのに。

 私の力を持ってして、この庭を永遠のものにできたら良いのにと心底思う。この庭と一つになって永遠の眠りにつくことはできないかしらと。そうしたら私、永遠に、誰ともお別れしなくて済むでしょう。

「ねえ、お願い、答えて。…お母様、燎火」










 よく晴れた日だった。私は母なる月桂樹の前に一人立ち、風が深緑の髪を巻き上げていくのを感じている。静かだ、息をしていない、意識は深く潜っている。

「お母様。今、起こして差し上げます」

 翅を広げて飛び立ち、樹の最も上へ。周りを取り囲む広大な光年樹海、それを覆う庭全てが見渡せる頂へ。この庭の中央に座するこの樹、そして私の生みの親、この世界で私と最も親和性の高い魔法だ。ここならば、私の力を庭の隅々に行き渡らせ続けることができる。文字通り永遠に。全てが見える。全てを感じる。私はこの庭において絶対唯一の存在。

 虹の麓、雪の春、四季の花、妖精達の羽音、行進、水馬の群れ、宝石の村、風の合唱団、私達がいつもお茶会をする金木犀。私の大切な愛するもの達。

 東へ顔を向けた。その果て、真珠が降る注ぐぶ厚い雨雲を超えるとすぐに魔界だ。きっと私の力は魔界にも大きな影響を及ぼす。けれど彼女が気付く頃には、私はもう封じられた樹洞の中だ。永遠に目を覚ますことない蛹、脈打ち続ける繭の中の核となる。お喋りできなくなる代わりに、この庭の命全てと繋がることができる。誰へも想いを馳せることも叶わなくなる代わりに、返ってこない想いを夜な夜な待ち続けなくて済むようになる。独り、孤独になる代わりに、孤独の寂しささえ感じられないものになる。だから今なら言える。

 燎火、私ね、

「貴女のことを出会った時から、そして今でも────」

 私の呟いた続きの言葉は風に流されて消えてしまった。きっとそのまま森を渡って湖を越えてもう会えない遠くまで運ばれてしまう。それでいいの、貴女が生きてくれてさえいれば。お返しなどもう求めない。消えた瞬間居なくなってしまった言葉、感謝か謝罪か、はたまた、それ以上か。永らく忘れていた。こんな所まで来て、目先の感情に振り回される私をどうか笑って許して。明日になればまた貴女は私のことなんて忘れてきっと普通に焔を吐いているんだから。だからもういいの。笑うのよ、だって私はこの庭の女王。

「…さあ、二度目の宴をはじめましょう」

 今日は私が生まれる二回目の日になるのだから。

 息を吸った。庭の香り、沢山の魔法。天へ髪が靡く、軽い上昇気流。罪深い魔法の香り、こんなにも伸びていたのね。みんなが欲しがる理由も分かる。

 髪を一束、魔法で薔薇の葉へと変えて燎火の灰と混ぜ合わせた。強力な彼女の魔力に拮抗できるものはこの世で私の魔法だけ。拮抗し効力を更に増加させる為にはこれしかない。それを掌に乗せて、吐息で私と月桂樹を包むように散らしてみせた。これでほら、誰にも打ち破れない最たる結界の完成だ。もうこれで誰にも邪魔することはできない。私と彼女の力を合わせたのだから、もちろん燎火、貴女でさえも。

 私はこの庭で最も月の光を浴びている月桂樹の頂の枝を手折った。美しい新鮮な若木を胸の前へ。さあ、唱えましょう。始祖の、古の、言の葉を。さあ、最も強大な魔法を。この母なる樹を媒介に、この庭と私は一つになるのだ。

 この庭は、この庭に住む彼等は、

 永遠の命と永遠の楽園を手にし、

 私は永遠の眠りを享受する。

 これでもう悲しまなくて済む。

 これでもう苦しまなくて済む。

 何を求めることもなく、

 何を求められることもなく、

 大切な人に置いて逝かれることもなく、

 大切な人をこれ以上見送ることもなく、

 彼女への想いが彼女に暴かれる前に、

 私は永遠に死ぬことができる。

 怖いことなんてない、不思議と嬉しいのだから、本当に不思議。青い光が帯状に私達を包み、月桂樹の香りが私を貫く。

 オーロラだ、酷く懐かしい、私は母の胎内でオーロラを見たのだ。こんな世界が外には広がっているのだと夢見た。その通りだった、この庭はなにものよりも美しかった。そしてこの庭以上に美しいものに出会えた、私だけの真紅。その分胸の奥に刺さった硝子片はさらに奥へと突き刺さったけれど後悔など露ほどもしていない。

 私の身体全てが、母と同化していく。足の裏から皮膚の下へ枝が食い破り潜り込み、爪先や耳先から葉が芽吹いた。指や首は樹皮に埋もれて見えなくなり、瞬く間に髪の魔法が膨張し溢れた。私自身が月桂樹の大きな一つの蕾となる。全てが一体となった時、私は花開くのだ。

 私の眠りはこの庭の心臓として、彼等に永遠の生命力を与え続ける。この庭は二度と巡らない、老いも死も存在しない。ただ新しい命が生まれ続ける、美しい永遠の神秘が生まれる。奇跡の時だ。

「ありがとう、みんな」

 みなに祝福され生まれてきた、みなに慈しまれここまで育った。この庭に永遠の恩返しを。

 さようなら、妖精達。

 さようなら、リヒエナ。

 さようなら、錆び小伽。

 さようなら、そしておやすみなさい。

 愛していたのよ、燎火。

「こんな私を忘れないで」










 音よりも光よりも速く稲妻が落ちた。

 私は月桂樹の頂から翅をもがれた蝶のように転がり落ち、無様に地面に打ち付けられた。悲鳴も出ない、泣き声も出ない。痛い、痛い、裂けた皮膚からコリウスの花弁が大量に溢れ出た。痺れ、流血、デジャヴ。六千年前にも同じようなことがあったと思い至ったその瞬間、鼻腔を劈くよく知った焔の香り。嗚呼、


 彼女だ。


 何故、何故来たの。こんな所まで。

 彼女の焔は私を何ものからも守ってくれる。けれど、こんな風に私を傷付けることができるのもこの世でただ一つの焔だけ。初めて痛みというものを知ったあの日と何もかも同じだ。

 息もできないまま母なる樹に目をやると真っ二つに中心から割れていた。それを真上から覆う巨大な飛膜。鉤爪、逆光と陰り。私だけの優しい焔が、あの日と同じように私の上へと落ちてきたのだ

「アンプロンプチュ・プルメリー」

 地表を揺るがす轟音のような声、久方ぶりの真名に四肢を繋ぐ私の中身がぶつんぶつんと千切れる音がした。熱い、痛い、目が舞う、魔法が途切れかけている。お母様が死に行くのが分かる。

『あんまり教えちゃ駄目なんだって』

 だって怖いことが起きるから。そう言ったのに、貴女ってひとは。彼女の怒りと殺意の分、私の真名は私を傷付ける。風を切って朱色に燃える鉤爪が私の千切れそうな手足を抑え込んできた。

 血塗れの、猛り狂う火龍。漆のような鱗は逆立ち、紅い瞳孔は開き切り、長い髭は鞭のようにうねる。彼女の沸騰した血飛沫が私を容赦なく焼き焦がす。良かった、貴女にはきちんと血が通っているのだ。私のように花なんかじゃなくて本当に良かった。

 グルルと獣のように唸る、牙の狭間からじりじりと太陽が散る。嗚呼、その顔、物凄く怒っている顔。龍の姿なんていつぶりだろう。貴女は私と出会ってから私と同じ姿を形作るようになった。私は龍のままでも構わなかったのに貴女は頑なに私も同じ姿で居ようとした。

 初めて出会った日、貴女はまだ幼い火龍で私の上に落ちてきたわね。細い龍の姿で、雨に打たれてずぶ濡れで。どんな時でも貴女は綺麗ね。世界で一番、綺麗で優しい焔。こんな時に、そんな事ばかり考えていた。

「アンプロンプチュ・プルメリー。この庭の、妖精達の女王」

 低い声が体の内側に直接響いてくる、そう、これが好きなのだ。だから私も潰れた喉で、掠れた声で答えてあげる。

「…なあに、魔界で唯一の火龍さん」

 吠える。

「あの契りを忘れたか」

 火を噴く口元、私は焼ける。

「私達は支え合うと。世界を守る為ならば私はお前を、お前は私を、殺すことさえも厭わないと」

 青い青いルビーのような焔だった。

「そう、言ったのに」

 その瞳から血の雫が一筋垂れる。

「…約束したのに、どうして」

 悲しかった。悲しませてしまったことが、何よりも悲しかった。

「ええ。忘れてなんか、いないわ」

 なら!縋るような大きな声。

「アンプル、どうして?どうしてこんなこと」

 どうしてこんな酷いこと、したの。

「嬉しいわ。私のこと、その渾名で呼んでくれて」

 貴女は真名の力を十分に知ってくれているから。貴女はいつもモルフォと呼んで誤魔化すから。だから嬉しいの、凄く。

「ねえ、燎火」

 手を伸ばして鼻先に触れた。尖った嘴が可愛いわ。酷く熱くて私の指先は瞬く間に溶け落ちた、真っ赤なカンナが狂い咲いた。貴女の瞳と同じ色だ。

「私を殺す?」

 頬が炙られる、私の中の水分が蒸発していく。

「殺す、…殺すよ」

 彼女の縦長い瞳孔、充満する血の湖。

「私を殺してくれる?」

「ああ、殺してあげる」

一瞬で。絞り出すように貴女は言う。

「…苦しませたりなんか、しない」

 あら、

「私は痛くっても良いのよ」

 むしろ痛い方が良いのよ、貴女を心ゆくまで感じられるから。そして貴女が私を殺してくれれば、貴女は永遠に私のことを忘れられない。ずっとずっと貴女の真ん中に居座っていられる。

 私は酷い、無慈悲な女王。もう隠せない、だって貴女が悪いのよ。私の行いを邪魔するから。

「いつも貴女は世界の為ね。いつも貴女は優しいわ」

 残酷なくらいに。

「酷いひと。どうして黙って眠らせてくれなかったの?どうしてなの、そんなに私が大切?いいえ違うわね、貴女が大切なのはこの二つの世界だけだものね」

 貴女が守りたいのは、この二つの世界の均衡を保ち続けること。私の庭と貴女の魔界が混ざり合ったりしないこと。ただそれだけを願っている。

「その為に私は必要不可欠だものね」

 火龍の表情は読めない、瞳の色も分からない。ほら言ったでしょう、分かりにくいより良いって。

「いいのよ、殺してくれて。この世界を守る為に、貴女は私を殺すのよ。その事実を背負ったまま貴女はこれからを生きていくの」

 貴女はいつも私の弱い部分を引き出す。私がどんなに強がったって貴女の前では無意味なのだ。貴女にはいつも見抜かれて暴かれてばかり。ならばいっそ。

「もう死なせて」

「嫌だ!」

「何が嫌なの」

 この後に及んで我儘さんね。

「…あんたは、間違ってる」

「何処が」

 お願い、お願い。

「話を、聞いて」

 ぎりりと鉤爪が締まった。悲しみが吠える、愛余りある殺意。

「私は、私だけの為にあんたを殺したい。この世界の為なんかじゃない」

 赤い花が私達を取り囲む。花葬、火葬。

「そして私も、あんたの為だけに死にたいの」

 アンプル。

「愛してるよ、世界で一番。焼き潰してしまいたいくらいに、アンプルのことを愛してるの」

 彼女の目尻、どくんと脈打つ私の胸。

「…燎火、貴女…何を、言ってるの。自分が何を言ってるか、分かってるの」

 愛している。言葉の反芻。顔が歪むのが分かる、思わず手が出る、弱い拳で彼女の鱗を叩く。じゅうじゅうと拳が焼ける、それでも構わない、私は硬い鱗を叩き続ける。

 酷いわ、どうして、

「貴女、こんな怪我までして、今更こんな所まで来て…私を殺すって言ったじゃない!」

 彼女の肩に爪を立てた。

「どうして今更、そんなことを言うの!」

 冷たいきめ細やかな漆色の龍鱗がするりと私の頰に擦り寄った。

「世界の為じゃ無い。あんたがこの世で最も大切だから。本当は、女王なんて関係無いんだ」

 見開く、瞳。

「出会った時から愛しているから」

 熱い血。それは私か彼女か。

 胸の痛み、硝子片が溶けていく。サファイアのような私達、青と赤は相入れないと思って今までを生きてきたというのに。

「…なんなの、貴女」

 本当に。

「今、言った通り」

「…貴女って本当…どうしてそうなの」

 私なんかの為に。

「言ったはずだよ」

 少しバツの悪そうな、けれど優しい声色だった。

「あんたの為なら何度だってここに来てあげるって。言ったでしょう、あの時」

 忘れたなんて言わせない。

 嗚呼、敵わない。涙が止まない。私が隠したくても隠せない、でも仕舞い込んでいたい弱い部分を突っついて引き出して、そっと抱きしめるのがどうしてそんなに上手なの。

「燎火」

 彼女の名を呼ぶと彼女の尾は縮み、いつもの私と同じ姿になった。

 鱗の間に挟まっていた数え切れんばかりの真珠が彼女の肢体から降ってきた。ざあざあと雨とように私に降り注いだ。彼女が泣いているみたいに見えて、より一層綺麗で、より一層熱く光った。

 私は彼女の頰に手を置いた。私の爪先から月桂樹の葉がひらりと落ちて、母と私の繋がりが途切れた。そんな音がした。

「真珠の雨雲を、駆け抜けて来たのね」

 あの日と同じように、貴女ボロボロね。

 彼女の眼から本物の真珠が零れ落ちた。私の瞳からもちゃんとした涙が流れ落ちた、花になんかならない彼女と一緒の涙だった。

 ああ、悪い?と泣き声。

「あんたを想う私の為に、私はここまで飛んで来たんだ」

 彼女の体は傷だらけだった。彼女から流れる血で私は焼け爛れていた。その傷からコリウスが流れ、そしてまた彼女の熱い血で止血される。その繰り返し、巡り巡る血潮だ。

「その怪我は、結界を無理に破ったせい?」

 彼女の着物は紅かった。きっと奥まで傷だらけで、嗚呼、私の力で治せるかしら。彼女はこう見えて身体が弱いから心配だった。

「そう、そうだよ。私を誰だと思ってるの。 あんたの結界くらい何度だって破れる」

 あんたの為ならいくらでも。アンプルの為ならいくらでも。

「アンプルのことを大切に思う私の為に、私は何度だって命を張るんだ」

 そう言って彼女も泣いた。聞き分けのない子供みたいだった、私達。私は泣いて、さめざめ泣いて、私の為にざあざあと泣く彼女の頭を撫でた。

「ごめんなさいね、燎火。ごめんなさい」

 彼女は私の肩で泣いた。爪を立てて泣いた。初めてだった。こんな彼女、初めて見たのだ。

「いつもそう、燎火、燎火って。私の名前ばっかり呼んで」

「だって私、貴女の名前、沢山沢山呼びたいのよ。他の誰でもない、私が」

 だって、幼かった貴女の俯いた顔がどうにも今でも忘れられなくて。

「私はあんたのこと蝶の名で呼んでばかりなのに」

 ごめんなさい、アンプル。貴女の涙は燃えない、私の涙もちゃんと塩っぱい。

「だって綺麗だったから。あんたの翅によく似てるって思ったから」

 嘘じゃないんだ。

「ええ、知ってるわ、分かってる」

 お互いに誤魔化して、誤魔化されてばかり。でも嘘じゃないから曖昧にしたいのよ。本当の気持ちは真っ直ぐすぎて怖いから。

「自信が無かったの、私が女王で良いのかって考えてた」

「うん、知ってた」

「毎晩怯えてるのよ、笑うでしょう」

「ああ、笑ってあげるよ」

「燎火は強いと思ってたの」

 誰よりも何よりも、

「私のことなんて眼中に無いくらい、私達の世界のことを考えて、なんて強いひとだろうって」

「失望した?」

 こんなに血だらけになって、こんなに子供みたいに泣いて、

「世界のことを考えてるふりをしてた。強い私を演じていた。こんな私を笑う?」

 彼女を抱きしめた。彼女の血が全身に沁み渡るのを感じた。

「いいえ。前よりも深く愛しているわ」

 彼女が私を強く抱き返した。真珠とコリウスの海の中で。

「だったらね、アンプル。私の為に生きて欲しい」

「うん、…うん」

「傷が痛むでしょう。私の血で火傷した跡が」

「ええ、痛むわ。生きてるくらいに痛いの」

「私もだよ、私も痛い、身体中の傷が痛むんだ」

 だから。

「私の為に負った傷、私が全部治してあげるから。だからあんたの為に負った傷、あんたが全部全部治してよ」

 そうしたら、ほら。

「私達、もう一度繋がり合えるはず」

 そりゃあ私、治癒は得意じゃないけれど。あんたはそういう器用なの得意でしょう。

「だからさ、お願い」

 そう言って、彼女が急に私の手を取って、空へ。ふたり、ボロボロの翼でフラフラと空へ。女王ふたりとはとても思えない、弱り果てて、けれどどこまでも暖かい掌。

 貴女はいつだって強引、私はそんな貴女に惹かれた。口下手な貴女と、大切なことだけは言えない私。ふわりと浮かんで、傷だらけで、私達、初めて出会ったあの日みたいに。傷だらけの深紅の薔薇と蒼い蝶、庭の全てが私達を照らした。

「私が灯りを点すから。あんたの光になってあげるから」

 ねえ、アンプル、だから。

「私の為に生きて。私も、アンプルの為に生きるから」

 世界の為なんてもうどうだっていいから。

「貴女が死ぬ時は私の魔法で、私が死ぬ時は貴女の焔で?」

「そう、約束した通りに」

 だからそれまで、

「私達それまで、ずっと生きていようよ」

 ね、良いでしょう。

 ええ、勿論良いわ。

「それってすごく、素敵な提案」

 彼女に抱きついた、素晴らしく自由に動くその翅で。追いかけていた手の居場所はここだったのだ。こんなに近くにあったなんて、初めから側にあったなんて気付かなかった。彼女は私の明かり、生きる意味、これからは一緒に生きていける。目を開けると三つの月が見えた。赤い月は彼女みたいだった。

「繋がっているのね」

 気持ちが繋がるってこういうことね。

 そう言うと顔をしかめて、

「恥ずかしいこと言うな」

 私は貝のネックレスを手に取って、

「だからもうこれも必要ないわ」

 指先で紫の二枚貝をカシャンと壊すと、風に乗って何処までも飛んでいって、東の雨雲とぶつかり真珠の艶になるのだった。

「あーあ、もったいない。せっかく私が作ってやったっていうのに」

 なんて肩をすくめるから、

「私のだから、いいの」

 ね?だって、

「これからはいつでも守ってくれるんでしょう?」

 彼女の髪は黒真珠のように輝く。

 手を取り合って、ヒラヒラと私達、何処までも春の花弁のように舞う。真っ二つに裂けた月桂樹の上で、私達こそが真の花になる。

ごめんなさい、お母様。どうか許して。約束はきちんと守るから、果たすから。この世界のこと、この庭の愛しい命達、必ず私が守り通すから。だから私、このひとと生きていって良いかしら。これから先ずっと。

「私達、ずっと一緒に生きていくの?」

「ああ。可能な限り、何処までも」

 死ぬ時まで。いいえ、死んでも尚。約束よ、二度目の約束。指切りげんまん。

 金木犀の香りがして、妖精達の歌が聞こえて、私は彼女の頰から流れる血を指で掬った。口に入れると彼女の味がして、彼女の私への想いを私はころころとキャンディのように味わった。

「うーん、なんだか随分と情熱的なお味ね?」

「全く。元気になった途端うるさいのは出会った時から変わんないな」

 彼女がそう言いつつ私の腕を乱暴に取って、私の火傷に口付けた。そしてそのままコリウスを噛み切るから、

「燎火!痛いわ」

 痛い、生きている。

 ふんと身体をのけ反らせて真っ赤な花を咀嚼しながら、

「そっちも随分とお熱だね?」なんて言う。

「そりゃあもう随分と前から」

 そうやってひとしきり笑い合った。こんなに笑ったのは久し振りだった。それこそそう、あの幼い時以来。あーあ、と血だらけの彼女が笑った。

「もう最悪だよ、あんたの前ではできるだけ格好つけていたかったのに」

「ええ?かっこつけ?」

「全部台無し、どうしてくれんの」

 あら、と焼け跡だらけの私もつられて笑う。

「かっこつけの燎火より、可愛いくらいの燎火が好きよ」

 例えば、と私は翅をはためかせる。

「酔っ払った時の燎火とか」

「ちょっとアンプル!その話はしない約束だろ!」

「どうして?泣き顔もすっごく可愛いのに」

「こら、それ以上は言うな!」

 燎火が私を捕まえようと加速、私はそれをヒラリ躱して。空で血塗れの追いかけっこ。あの日の幼い私達、ほらこっちを見て。

 あれから数千年と経ち、真っ二つに裂けた月桂樹の前で、全てを見渡せる世界の中央で、大人になってもこんな傷だらけになりながら私達鬼ごっこなんてしてるのよ。こうなるなるのに随分と時間がかかってしまったけれど。

 三つの月が何度も重なって離れて、それを何千と繰り返して、いずれ月が割れてしまっても私達ずっと一緒に居るんでしょう。裂けた大樹からふたつの芽が同時に出る時まで、私ずっと待っているわ。そうしたらまたご挨拶させて、お母様。きっと彼女と会いに行くから。だからそれまでどうか待っていて。

「燎火」

 手を伸ばす、貴女が掴む、握り返す。

「アンプル」

 胸の硝子片が溶けて消えてなくなった。

 ねえ、お願い、死ぬその瞬間まで側に居させて。貴女の中心に置いておいて。そこで貴女の焔をこの両手で守らせて居て。

 死ぬ時も貴女と同じなら、私、これからも約束を守るわ。生きてこの世界を守り続けられる。

 生きて恩返しを続けましょう。

 貴女の名前を呼びましょう。

 キセルの煙に吹かれながら、

 貴女に名前を呼ばれましょう。

 掛け替えのない、貴女と生きる。

 貴女が私を私として、愛し続けてくれる限り。










 金木犀の下、九つの虹が架かった午下り。

「──…ということがあったわ」

 私が話し終えると、

「良かったよ〜!ふたりが仲直りできて!」

 そう安堵と共に泣き出してしまいそうな天使と、

「世界ふたつ巻き込んだ大痴話喧嘩か」

 相も変わらず壮大だなと呆れ顔の獏。

「もう小伽!そうやって茶化さないの!」

 天使の声に、はいはいと大欠伸をして伸びをする。今日は紅い月が指先程欠けた日。

「それでもうひとりの主役さんは?さっきから見かけないけど…」

「恥ずかしがって金木犀を登っていっちゃったの。大分上の方まで行っちゃったんじゃないかしら」

 えー!可愛い!私見に行っちゃおうかな!と天使が翼を広げると、上からやめろと彼女の声が降ってきた。

「かがりはいつから木霊になったのかな。木霊は魔界には居なかったはずだけど」

 獏が言うと今度は、私はそんな小物じゃない、なんて無愛想な声が降ってきた。

「ねえ小伽」

「何」

「かがりちゃんは何をそんなに恥ずかしがってるの?」

「そりゃあリヒ、私の口からはとてもじゃないが言えないな」

「じゃあどうして?アンプル」

「燎火がもっと上に登っていっちゃうから私からも言えないわね」

「ふたりとも全然教えてくれないよ〜、かがりちゃんはすごく照れ屋さんってこと?」

 お前らいい加減うるさいと上から声が聞こえて、金木犀の花がティーカップに落ちてきた。どうやら相当動揺してるみたい。

 ね、と二人に耳打ち。

「本当に燎火ったら可愛いでしょ」

「惚気」

「これが惚気か〜」

 ちょっとアンプル、と急に近くなる彼女の声。

「何か余計なこと言っただろ」

「いいえ、なんにも」

 そう笑った。

「そういえば燎火。少し気になってたことがあるんだけど」

「…何」

 ひょこっと逆さまの彼女が枝からぶら下がって葉の影から顔を出した。器用なものだ。リヒがわっと声を上げる。

「もー!びっくりしたよー!」

「芸達者だな、かがり」

「二人は黙ってな。それでアンプル、何」

 二人がこそこそ笑う。私達、どうやらお邪魔虫、ってやつみたいだね?

 紅茶を啜って、私、その彼女の白い頬が愛しい。

「ずっと気になってたんだけど…どうして私が今回こういうことしようとしてるって分かったの?」

「こういうことって?」

「だって誰にも言わずにあの結界も張って一人でやり遂げようとしてたのよ?いつ気付いたのかなあ、なんて思うじゃない」

 もしかして…、

「愛、ってやつかしら?」

 きゃーっと思わず頬を押さえる。

「さっき天使から教わったの!言ってから恥ずかしくなるわねこれ!」

「隅におけないよねえかがりちゃん!」

「地獄の業火より熱々だな」

 ほら、ふたりだってこう言ってるし。

「いや、別に。あいつだけど」

 彼女が冷淡な瞳でぴんっと指さす樹木の影。耳を下げて眠たそうにくつろぐ青い水馬。

「あっ可愛こちゃん!」

「おお、水馬か」

「うん、あいつ」

「レ、レリス!?」

「極端なあんたに比べて機転もきくし足も速いしかなり優秀だね」

「ちょっと貴女、いつの間に…!」

「レリスって言った?あんたうちに来る?

あんたになら魔界の選りすぐりの良い湖沢山紹介してあげるけど」

「ちょっと燎火!何勝手に口説いてるの!」

「嫉妬か?可愛いなモルフォ」

「レリスはうちの子よ!絶対譲らないから!」

 木の上にいる燎火に手を伸ばすもするりと躱された。

「新しい火種だよー小伽、どうする?」

「それではそろそろお暇するとしようか、リヒ」

「ええー、あのふたりほっといて大丈夫なの?」

「いい、いい。このまま巻き込まれる方が敵わん」

 そういうもんなの?

 そういうもんなの。

「あ、じゃあ帰ったらご飯作ろうね!」

 何食べたい?

 いや食べたいものはないけど…。

 そんな天界組の会話を耳に掠めながら飛び立ち燎火を捕まえようとする私と、それに驚いてすぐさま飛膜を広げる彼女。

 それを見ながら翼の支度を始めるリヒと呑気に欠伸する小伽。

「二人とももう帰るの?」

「うん、小伽にご飯食べさせなくちゃだから!」

「また来るよー、あとは若いおふたりだけで」

「お前ら覚えとけよ!」

 天界に帰っていくふたりの影。咲き乱れる金木犀、香る鱗粉。卵型のクッキーと菫のレモネード。

 やっと細い右手をぎゅっと掴んで、少し照れている彼女と目を合わせて。ほら、捕まえた!

「じゃあ、燎火?」

「…何よ」

 目を逸らす、頬を赤らめる彼女。

「私達だけでも、やりましょうか。…お茶会の続き」

 にこりと笑うと、ふんと鼻を鳴らして。

「…仕方ないな」

 そう笑んで返される。

 時に喧嘩しながら、時に触れ合いながら、底にある愛情を確認しながら、私達は一緒に居るのだ。終わらないと信じている。終わったとしても大丈夫、私達ならまた巡り会える。

 次はいつかな、次は月が幾つ分欠けた時にする?そうやって小鳥を使いに出すのも良い。手紙を届けるのも良いわ、貴女の家まで遊びに行っても良い。迎えに行くわ、約束する。

 ねえ、そうでしょ。

 私達だけの永遠のお茶会。

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