第4話 サツキとシズク
「出ない」
マラソン。それに色んな人に話しかけられることもあって、放課後も話したり、期末も近いことから荒屋敷さんや松原の試験勉強をみたりと、そんなこともあって、帰ったら疲れ切って、とても出かける気力になれずに、日に日に電話ボックスにいく頻度も少なくなってきた。
そして数日ぶりに来たのだが、サツキが電話に出ることはなかった。
そして今日、放課後。再び電話ボックスを訪れたのだが、今日も出なかった。
一時間程粘ったところで、一向に電話に出る気配がないので、溜息一つ電話ボックスから出た時に、
「あっ」
「あ」
ばったりと鬼仏さんと会ってしまった。
「こ、こんにちは」
「う、うん、こんにちは」
話題がない。喋ることがない。
どうしようかと話題を探す気まずい沈黙。
「朝、マラソンしてるんですね」
「え?」
「おばあちゃんから聞きました」
あ~。
そう、鬼仏さんに会うために始めたマラソンだったが、どっちかというと菊枝さんと接触する機会の方が多かった。
そして一度も鬼仏雫さんとは会ったことはなかった。
「うん、ちょっと体力づくりにね」
まさか、君と会うためとかは言えないよな。そんなこと言った瞬間に願いを叶えるどころか、そこから一番遠いところに配置されてしまう。
「凄いですね。私は土日や祝日に走るのが精一杯で」
「え?」
「え?」
お互いキョトンとした顔で相手を見る。
そして僕は心の中で叫ぶ。
うわぁ~そりゃ、会わないわけだ。鬼仏さんと僕とで活動と休眠のサイクルがまるで真逆だったのかよ。
「どうしました?」
頭を抱える僕に鬼仏さんは不思議そうに首を傾げた。
「いえ、なんでもありません。ちょっとアイデンティティが」
でも、これでマラソン中に彼女と会える。
そこで傍と気が付く。
会える?
僕はマラソン中に会って、彼女と何を話す?
いや、そもそも根底が間違っている。僕は彼女と話す為にマラソンをしているのだから。
だから。
「あの、少しお話」
「少し話しませんか?」
僕の言葉に被せるようにそういった鬼仏さんの頬は少し赤い。
気まずい雰囲気。しかし何度も彼女に助けられるわけにはいかないので、今度は僕がその沈黙を破る。
「じゃあ、ここじゃなんだから、スーパーのベンチのところで」
その提案に鬼仏さんはコクリと頷いた。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
『フーコ』の前のベンチに座り、アイスミルクティーの缶を受け取った鬼仏さんが、お金を出そうとしたので。
「ああ、お金は良いから。奢るよ」
「え、でも」
納得いかなさそうな顔だったので、
「じゃあ、今度何か奢ってもらえれば」
そう提案してから後悔する。今度ということは次に会うことを提案しているみたいじゃないか。
「はい、じゃあ、それで」
しかし気にしているのは僕だけで、鬼仏さんは特に気にした素振りは見せなかったので、一つ息を吐いて、鬼仏さんの右隣に座り、コーラの缶を開けて、一口飲んだところでようやく落ち着いた。この時間になってもまだ蒸し暑いので、冷たいコーラが喉に染み渡る。
「はぁ~」
まもなく夕暮れ時。スーパーと併設している学習塾での出入りが多くて、それを迎えに来た親御さんとかの車で目の前にある駐車場は出入りが激しく、ようやくそれが落ち着いたところで、鬼仏さんは口を開く。
「あの~あそこで何を?」
「えっ」
「いや、その答えづらいことでしたら」
「ああ、あの、その。家に入ろうとしたら鍵がかかっていて、電話しようとしたらスマホも家の中で、それで鍵を持っているという妹に早く帰ってきてくれって、電話してたんだ」
そう言いながら、右ポケットに入っているスマホをマナーモードにして、奥までしまいこんで、左ポケットに入ってある丸めたレシートと鍵をいじくる。
「そう、だったんですか」
我ながら上出来な嘘ではないだろうか。
「鬼仏さんも菊枝さんのところに行くところだったんですか?」
「あ、はい。そうです。そうです」
どうやら鬼仏さんは嘘をつくのが得意ではないらしい。
菊枝さんの家に行くのにあの道は使わない。多分、またあの案山子を拝みに来たのだろう。
しかし、そのことには触れない。
本当はどうして案山子にお願い事をしたいのか聞きたいのだが、今にも涙を流しそうに必死にお願いをする鬼仏さんのことを思い出しては、とても聞くことは出来なかった。
「それで、その話というのは?」
「ああ、あの~私は後で、先に我孫子君からで」
「あ、うん」
僕はコーラを一口飲んだ。既にぬるくなってきたそれは喉を潤すどころか、炭酸はほとんど抜けていて、甘ったるかった。
恐らく外気温だけじゃないだろう。
よっぽど缶を強く握っていたのだろう。この短時間でこれだけ生ぬるくなるとは。
「あの、その、僕、鬼仏さんに何かしましたかね?」
「……へぇ?」
意外な質問だったのか。鬼仏さんは随分驚いた顔を浮かべて、こちらを見ていた。
「いや、その、勘違いだったらすいません。
その、僕のこと、この前睨んでいたように見えて、一昨日も荒屋敷さんがお弁当を一緒に食べることを拒否されたのが、僕が原因って言っていたから」
しかも最近クラスメイトと話すとき、遠目に僕のことをなんともいえない複雑な表情で睨んでいたこともある。
「違います!」
立ち上がり、そう叫んだ鬼仏さんを僕は驚くように見あげた。
しばらくしてようやく自分が立ち上がって叫んだことを自覚したのか、顔を赤くしながら、沈んでいった。
「すいません。取り乱してしまって」
「ああいや、別に」
それからしばらく沈黙。チラリと鬼仏さんを見たら、顔を赤くしてモジモジしていたので、僕も照れ臭くなってくる。
「あ、あの。その」
「いや、いいよ。理由は」
どうやら話しづらいことのようだ。
「鬼仏さんに嫌われていないとわかっただけで、十分だよ」
すると、また驚いたような表情をこちらに向けた。随分今日の鬼仏さんは表情豊かだ。
「どうしたのかな?」
「あ、いえ、その私のこと怒っていないのですか?」
「え?」
怒る?なんで僕が鬼仏さんのことを。
そしてしばらく考えた末に辿り着いた。
「ああ、別に怒ってないよ。睨まれたことも拒否されたことも、僕の思い違いのようだったし」
「いえ、そっちじゃなくて」
「え?」
そっちって、どっち?
鬼仏さんが真っすぐこちらを見る。缶を握りしめる手は小刻みに震えている。
なんだ、どうしたんだ?
一体、鬼仏さんは何に怯えているんだ。
どこか張り詰めたような空気感に僕の方まで緊張していた。
そしてその緊張を切り裂いたのは。
「あれ、お兄ちゃん?」
偶々通りかかった友衣がこちらを見て、近寄ってくる。友達の家からの帰り道なのだろうか、妹が持っているのはランドセルではなく、お気に入りの『端っこ暮らし』のトートバックだった。
「どうしたの?」
「え、あ~どうしたじゃないよ。家の鍵をしまっているから、早く帰ってきてくれって、電話したじゃないか?」
「電話?」
僕の方をじっと見つめていた友衣の瞳が何かを察知したように輝いた。
「あ~そうだった。そうだった。全く馬鹿なお兄ちゃんを持つと妹は苦労しますよ」
「うるせぇ」
「それで、そちらの方は?」
そう言って友衣は鬼仏さんの方を見て、どこか不敵な笑みを浮かべる。
「あ~こちらは、その」
「情報解禁?雫お姉ちゃん」
「……え?」
なんだ。それ。
その言葉に鬼仏さんは何かを言いたげに友衣の方を見たが、そこにいたのはいつも僕のドアをノックもせずにぶち開ける彼女ではなかった。
ただ、ただ、にこやかながらも何処かその底の知らない笑顔を浮かべる、年齢不相応のコミュ力モンスター(空気清浄機付き)の我孫子友衣の姿だった。
なんだこの雰囲気?
まるで、元カノと今カノが衝突したような雰囲気。
「今カノも元カノもいないお兄ちゃんにそんなのわかるわけがないじゃない」
「変に心を詠むな!」
思わず突っ込んでしまったが。
「それより、お前、鬼仏さんを知っているのか?」
「鬼仏?」
首を傾げる友衣。そして全てを察したように。
「ああ、ずっと下の名前で呼んでいたから、気づかなかった。なるほど、そういうことか」
一人で納得したように友衣はそう言って徐にスマホを取り出して、鬼仏さんを撮影した。
一体、こいつは何を?
そして一分ぐらいスマホをいじった後に、こちらにスマホを差し出してきたので、僕は反射的にそれを取った。
そこには写真に落書きが出来るアプリで三つ編みと眼鏡を付け足された鬼仏さんが写っていた。
その姿を見て、僕の記憶が一瞬にして蘇った。
小学四年生。転校生の自己紹介の場面を。
「……皆瀬さん?」
小学四年の時に一緒に遊んだ女の子。
黒ブチメガネに三つ編みという、いかにも地味で、周りからとても排他的な女の子だということもあって、母さんから頼まれて、何度か話したことがあった。
一年もしないうちに転校していって、それっきりになっていたが。
「え、あの時の彼女って」
「そぅ、目の前の美人さんはあの時の女の子だよ」
驚いた。なにせあの時の彼女が目の前にいる鬼仏さんなんて全く見えない。それぐらいにその両者の姿は違っていた。
「友衣、僕のことをからかっているのなら、そろそろ勘弁してくれ」
僕の反応を受け、友衣は盛大な溜息をついた。
「ほら、これだよ。雫お姉ちゃんから言わなかったら、絶対気づかないから」
さっきからずっと俯いている鬼仏さんの体は震えていた。どうやら、その情報は彼女にとって、明かされたくないことみたいだった。
「おい、友衣」
「お兄ちゃん、空気を詠んで円滑に回すのは、何も相手がずっと気持ちの良い、居心地の良い状態をキープすることだけじゃないんだよ」
糾弾しようとする僕の言葉を友衣はピシャっと、否定した。
「だからって」
「それに、何も変わらないでしょう?お兄ちゃんの中で何かが変わるの?雫お姉ちゃんのことが」
「え、まぁ、そうだけどさ」
「思い出が増えて、ラッキー程度じゃないの?」
「いや、その」
正直、よくわからない。
もちろん驚いた。だって、あの時の鬼仏さんと今の鬼仏さんの容姿があまりにも違い過ぎて、トランスフォームとかそういうレベルじゃないだろう。
そう思ったら、なんか鬼仏さんのことを見ることに対して背徳的な感情が押し寄せてくる。
ヤバイ、彼女を直視出来ない。
鬼仏さんはすっと立ち上がった。
「か、帰ります」
そう言って、彼女は一礼して逃げるように去っていった。
残された僕と友衣。
「……おい、どうしてくれるんだよ」
「フォローしたら?私、ID知っているよ」
思わず頭を抱える。
「なんで知っているんだよ」
「逆になんで知らないの?修学旅行でデートした仲じゃない」
「あれはデートじゃない」
そうか、これで合点がいった。
「お前、あの写真見た時から気づいていただろう?」
「え~なんのことだろう。友衣ちゃんわからないな~」
妹を本気で殴りたいと思ったのはこれが初めてだった。
「それはもぅ、告白するしかないでしょ!」
次の日、明らかに鬼仏さんが僕のことを避けていることに目ざとく気づいた荒屋敷さんは松原を携えて、昼休み、僕のところにやってきた。
そして追及を受けた僕はものの数分でげろってしまったのだ。
なんたる弱さ。
「お~良いじゃなぇか。告白しろ。そして男子全員を敵に回せ!」
松原も囃し立ててくる。まさか、自分がこんなポジションになる日が来ようとは。
「松原も敵に回るのか?」
「いや、俺は別に。鬼仏さんはなんというか、観賞用というか、綺麗だけどそんな感情は起きない対象だ。だから、俺は内輪の外にいるから、遠慮なく告白してくれ」
「それ遠回しに、何が起きても俺には関係ないって言われているような気がするんだけど」
「酷い奴なんだよ。泰氏は。まぁ、でも冗談抜きで告白しなよ。勿体ないよ」
「いや、それこそ勿体なくありません?」
あんな綺麗な子が僕のその彼女になるというのは。
僕の危惧を笑顔で一蹴する荒屋敷さん。
「大丈夫だよ。それに可愛い人ほど、イケメンに言い寄られるから、案外一般人の方が好きになる確率高いと思うよ」
「全然褒められている気がしねぇ!」
単にディスられているだけだった。
「酷い奴なんだよ。アラは」
呆れるようにそう言った松原に荒屋敷さんは突っ込む。
本当にこの二人恋人じゃないのかよ。この二人をみていたら、恋人ってなんなんだろうかと思ってしまう。
「二人を見ていたら、なんかハードルが下がった気がする」
そう言った僕に二人ともお互いを見て、首を傾げた。
『告白すればいいじゃない』
久しぶりに繋がったサツキのノリはどこまでも軽かった。
「お前、他人事だと思って」
『他人事じゃないわよ。自分事よ』
まぁ、それはそうなのだが。
「でも、まだ彼女の願いを聞いてないし」
『聞く理由になるんじゃないの?あなたの小学校の頃の常套句だったじゃない』
「……まぁ、確かに」
僕はただ円滑に、クラスの雰囲気が悪くなるのが嫌で人の手助けをしていた。
しかし誰もが理由を求めて、大概は色恋沙汰になっていた。
それが鬱陶しくて面倒だった。
だから、いつの間にかその手の話から避けていて、いつの間にか異性と接触してもなんとも思わないように心を押し殺した。
それは今でも続いている。
「確かに鬼仏さんは可愛くて、魅力的な女性だと思う」
しかも昔よく話していた女の子がとびっきりの美少女になって再び目の前に現れた。
一般的に恋しない方がおかしい。
しかし残念ながら、僕は一般的とはズレた場所にいる。自分でもいうのもなんだが。
「だから、その」
『告白が成功するという前提で話すなんて、メイって、うざいわね』
なんの遠慮もないその言い方に思わず突っ込む。
「やかましいわ!君は僕だろ」
『ええ、あなたの上位互換よ。どの場所をとっても、あなたより優れているわ』
「あ、はい、はい、凄いですね」
『そんな私が言うんだから、遠慮なく告白しなさい』
どこまでも優しいその声に僕は言葉を失った。
『大丈夫、あなたは私なんだから。もし、振られたら良い経験したと思いなさいよ。何事も経験だよ。メイ君』
「……その時は慰めてくれるのか?」
顔を赤らめて、頬を掻きながら訪ねたその質問に、サツキは吹き出した。
『うん、うん、慰めてあげましょう。それじゃ、特攻してこい!』
玉砕確定かよ。
でも、なんだろうか。どんな言葉よりも、どれだけ理屈を並べて筋立てしてした言葉よりも、どれだけ偉く著名な人から述べられた言葉よりも、信じることが出来る。
「五月隊長、行ってまいります」
『うん武運を祈る、メイ二等兵』
そう言って電話は切れた。
「僕って随分階級下だな」
でも、いつか追いついてやる。
そう思いながら、僕は受話器を置いた。
「よし、頑張りますか」
芽友は熱いうちに打て。僕は電話ボックスを飛び出して、その日のうちに友衣に頼み込んだ。
鬼仏さんを呼び出したのは彼女が住むマンションの近くの住宅街の一角にある公園だった。
下校してからの呼び出しだったので、日もすっかり傾いていた。
遊具と広場があるだけの小さな公園。昔は時々学校帰りに遊んだこともあったが、ブランコは安全上の理由で撤去されて、ただ、体操選手が使うような鉄棒になっていて、後は小さな子供が遊ぶような滑り台が一つだけ。
広場はあるが、今の時間は誰もいない。オレンジ色の街灯は鳥かごのような鉄のオブジェに囲まれていて、オレンジ色に染まる公園の地面に流線型の長く伸びた黒い影が、縞々模様に映し出されていた。
その公園の中心の東屋の下の木のベンチに僕は座って、鬼仏さんを待った。
『メール送ったよ。頑張ってね』
鬼仏さんをこの公園に呼び出して欲しいと頼んだ瞬間に全てを察してくれて、何も聞かずに友衣はニコリと笑って了承してくれた。
『悪いな』
友衣から来たメールにそう返すと、
『いいよ。これでお兄ちゃんのお世話から解放されるなら、お安い御用だよ』
なんとも可愛くないメールが返ってきた。
『僕がいつ世話になった』という文面を送ろうとして、送らずにデリートした。
「そうだよな」
友衣は全く諦めなかった。僕のことを僕が諦めても、友衣は全く見捨てなかった。
毎日のように部屋を訪れては底抜けの明るさで僕に声をかけてくれた。
正直かなり救われていた。
それもなくなるんだと思ったら、少し惜しい気もするが、
「って、なんで僕も告白が成功する体で考えてるんだよ」
サツキのポジティブがうつったのだろうか。
そんなことを考えて、苦笑いを浮かべていたら、
「我孫子君」
そう呼びかけられて、俯いた顔をあげると、公園の入り口に鬼仏さんが立っていたので、僕は驚いた。
「は、早いね」
友衣にメールを頼んだのが駅に下りた時。そこからこの公園まで五分位。マンションからこの公園は八分位で、女性なら身だしなみとかもいるだろうから、早くとも三〇分ぐらいはかかると思っていたので、まさか公園について三分で到着するとは全く思ってなかった。
とりあえず僕は突然の呼び出しに応じたことにお礼を言って、隣に座るように勧めたら、鬼仏さんは了承して、僕達は並ぶようにベンチに腰掛けた。
「うん、その、あの、ごめんなさい。黙ってて」
どうやら先日のことをまだ気にしているようだ。
「いや、気にしないで。こっちこそすいません。あまり知られたくないことをうちの妹が」
「あ、それは気にしてません。ただ、昔のことを知ったら嫌われるんじゃないかと思ってて」
「どうして?」
「あ、あんな地味で根暗な子が私だって知って。それにそのあの時の私、不愛想でしたし」
「中学の頃にあった時の僕と一緒じゃないか」
これで合点がいった。どうしてあんなにも不愛想な僕を気遣ってくれたのか。
でも、そう思うと急に罪悪感に苛まれた。
「あの、その間違っていたら御免だけど、小学校の頃の僕は別に誰かに慕われたくてとか、感謝されたいわけじゃなくて、ただ、ただ、自己満足で」
「それでも私は救われました」
鬼仏さんは真っすぐ前を向く。僕はその横顔をじっと見つめた。
「転校ばっかりしていたから、親しい友人も出来なくてトラブルもあったから、人と関わらないようにしていたの。
でも、小学生であんなにも周りに気を遣ってくれる人初めてで。その、知らない間に私が居易いように環境を整えてくれて、本当に感謝しています」
突然こちらに向けられた笑顔は破壊力抜群で、頬を赤らめ、目線を逸らす。
「あれは、その」
ただ単にトラブルの種を摘み取っただけだったのだが。
「どういう意図があったとか、どういう気持ちでやっていたとかというのは関係ないんだと思います。ただ、私が感謝して、その嬉しかったことに変わりはありませんから」
そう言ってくれると無性に嬉しかった。
「こっちも中学時代はありがとう。あの時の僕は全てが上手くいかなくて、やさぐれていて、その随分きつく当たってしまっていたような」
あの日、鬼仏さんのやっていること全てを否定して、昔の自分を見ているようで、八つ当たりして、そして彼女を泣かしてしまったことを思い出しては、今でも胸が締め付けられる。
彼女はゆっくり首を横に振る。
「ごめんなさい。その、私のせいで、我孫子君が虐められることになってしまって」
突然涙を流した彼女に僕はぎょっとした。
「え、なんで?」
どうして僕が虐められていたことと鬼仏さんが関係あるのだろうか。
「私が余計な事しなければ、あの時の恩返しだと思って、やったことが、その失敗して」
「あ~」
そういう風に捉えていたのか。
「別に僕はあの時のことを鬼仏さんのせいだと思っていないし、誰のせいだとも思っていない」
あの時、変に鬼仏さんを突き放そうとした僕の失態だ。それがブーメランになって返ってきただけのことだ。
「でも、そんなの」
それでも鬼仏さんが自分を許せないというのなら、この話をするしかない。
「その、僕の為に叫んでくれてありがとう」
「……へぇ?」
暗くてもわかるぐらいに、彼女の顔がみるみる赤くなっていく。
「な、な、なんで」
なんであの時のことを知っているんだという言い草に、僕は頬を掻きながら。
「その、荒屋敷さんに聞いて。彼女の友達がその、その場にいたらしくて」
話を聞いただけでは荒屋敷さんはピンときていなかったが、僕にはわかった。
一体、その時誰の為に声を荒げて、怒ってくれたのかを。
頭から煙を出しながら、蹲る鬼仏さんを見ては、確かに僕なら死ねる自身があると思えた。
「『モモ』今も持ってくれているのかな?」
彼女は大きく首を縦に振る。
「そっか。良かったよ。鬼仏さんが持っていてくれて」
鬼仏さんは我に返り、こちらを向く。
「その、ごめんなさい。本、雨でぐちゃぐちゃになっちゃって、新しいのを買って返そうとも思ったんだけど、その」
まぁ、確かに返したら、あの日のことを鬼仏さんは僕に話さないといけないのだから。でも、このままじゃ無断で借りていることになる。
羞恥心と良心の間で随分葛藤したことだろう。
「良かったら、そのままもっていてくれないかな?」
「え?」
「ああ、でも気持ち悪かったら、返してくれれば」
確かあの時、あいつら本で虫を潰していたような。
「いいんですか?」
「うん、鬼仏さんなら大切にしてくれると信じているし。それに内容は頭の中に入っているから」
そう言って、僕はニコリと笑いかけて、前を向いたと同時に、いつの間にか僕はあの本の一部であるとある男がモモに出題したクイズを朗読し始めたのだ。
読み終えたところで、我に返り僕は赤面する。何故ならテンションがあがって立ち上がり、まるで演者のように立ち振る舞いをしてしまったからだ。大根役者だが。
そして目の前にいる唯一の観客はクスクス笑っていた。
「凄い、本当に覚えているんですね」
そう前置きして、鬼仏さんはすっと息を吐いて、教室でみせたあの、柔らかな笑顔でクイズの正解を呟いた。
思わずその笑顔に見照れてしまって、反応するのが遅れる。
「うん、正解、大正解!」
妙なテンションで叫んでしまい、またもや赤面して、再び僕は隣に沈み込むように座って、しばらく経って、ようやく頭が冷えたところで、僕は話を続ける。
「つまり、僕達は過去に色々あった。もしかしたらお互いを、お互いを傷つけ合ったのかもしれない。
でも、現在僕は鬼仏さんの隣にいて、そして未来も君の隣にいたいと思う」
俯いていた顔をあげて、じっと彼女の方を見る。
「だから、これからも鬼仏さんの隣にいる権利を僕に与えて欲しい。君とずっと一緒にいる権利を、どうか僕にください」
そう言って頭を深々と下げる。
多分、一般的な告白とは違うのだろう。
でも、僕は嘘をつけなかった。
未だに恋というものがよくわからず、その状態で好きとかいうのは不誠実なような気がしたからだ。
いや、どちらかというとこの関係をただ、好きとかそういので納めたくなかったのだ。
って、はい、これは全ていいわけです。
ただ単に人に面と向かって好きとか愛していますとか、付き合って下さいとか、そんなことをいうのが恥ずかしかっただけです。許してください。
「嬉しいです。私も我孫子君のことが好きです」
顔をあげたところに僕の瞳に映る彼女の笑顔がとても綺麗で、可愛くて、崩れそうな表情筋をなんとかギリギリのラインで保つのに精一杯だった。
「だけど、我孫子君が今、好きなのは私じゃないですよね?」
時間が止まった。
もちろん止まるわけがないのだが、僕の中の時計は確実に今止まっていた。
好きじゃないのは鬼仏さんじゃない?
「な、なんで」
そりゃ僕は告白するのに好きとか愛しているとか、付き合って下さいとか、そんな気のきいたセリフも言えない男だ。
でも、僕の告白は成功したはずだ。じゃないと、鬼仏さんはあんな返しをしないはずだ。
なのに、なんで?
呆けている僕に鬼仏さんは優しくとても暖かな、どこまでも遠い顔で言った。
「我孫子君が好きなのって、異世界にいる異性の自分ですよね?」
「!!!!!!!!」
動揺しているとか、パニックになっているとか、そういうレベルの話じゃない。
意味が分からなかった。
言いたいことはわかるのに、意味が全くわからなかった。
だから、どういう風に聞き返せばいいのかもわからない。ただ、ただ、頭は真っ白で言葉は何も出てこないし、口も一切動いてくれない。
口を半開きにしながら、どこまでも情けない、呆けた顔を浮かべている僕に鬼仏さんは自分の後ろ髪を触りながら言った。
「私が卒業の少し前に髪をバッサリ切った時のこと覚えてますか?」
「あ、ああ。皆失恋したとか、なんとか」
「それ、ニアピンなんです。私はあの時振られたんです。異世界にいる異性の、男性のキボトケシズクに」
そう前置きして、鬼仏さんは話してくれた。
彼との邂逅の話を。
※
雫の話4
本を抱きしめながら雨の中を、傘を差さずに歩く。こんな時間にずぶぬれになりながら、歩く制服の女の子に誰もが一瞥するが、誰も話しかけてこない。
そりゃそうだよね。
誰もが厄介事に巻き込まれたくないし、昨今は一つ、話しかけただけでセクハラ認定されるし、誘拐や強姦と間違われる世界。誰も好き好んで、話しかけてこない。
ある意味、思春期の女子は世界から一番遠ざけられる存在になったのかもしれない。
こんなのだったら、帰ってくるんじゃなかったかな?
私はもしかして彼にとっては疫病神なのかもしれない。
もらってばかりで何も出来ない。そのくせして、彼を不幸にする。
そうだ。私は彼と触れ合うべきではなかったのだ。
私が我孫子君に出来る最大限の恩返しは、彼の迷惑にならないようにするだけだったのだろう。
そんなことを考えながらふと顔を上げると、なんと向かっていた先は彼の家の方面だった。
「アハハハ、まっこと、恋愛とは恐ろしいな」
こんなにも彼のことを不幸にしといて、そのくせ彼を求めている。悪いという理性が、彼と話したいという欲求に攻撃を受けているようだ。
「気づいてよかった」
しかし、今の私にそんな資格などない。
この前こそはあやふやにされたが、嫌われるよりも酷いことになったが、それを具現化されたら、また違うショックになるだろう。今の私にそんなの受け止められるHPなんてない。
そんなリスクを犯してまで、我孫子君と会う訳にはいかなかった。
方向転換して、彼の家の方面に背を向けて再び来た道を歩き出した。しばらく歩くと、田んぼが見えてそこに立つ案山子が見えた。
来た時は俯いて気づかなかったが、私はその場所を知っていた。
それは小学校の頃、クラスメイトから教えてもらった、この神新台と美浜台に伝わる七不思議の一つ『願いが叶う案山子』がある畑だった。
私は徐にその前に立つ。
まるで畑の番犬のように立つ案山子。当時、その案山子は私よりも大きかったのに、今はほぼ同じぐらいの大きさになっていた。
「……」
私は自然とその案山子の前で目を瞑っていた。
手には本を持っていたので、合掌は出来なかったが、胸に強く本を押し付けて、首を少し曲げた。
しばらく目を瞑っていた。
願いは一つ、彼の幸せだ。
自分は仕方ない。致し方ない。
でも、彼は違う。彼は私と違って被害者なのだ。
産まれ持った能力に振り回されながらも頑張ったのに、この仕打ちはあまりにも酷い。私が言えた義理ではないのだが。
だから、私には神様にも仏様にも頼む権利はないけど、それでも叶うかどうかわからない、都市伝説に願う権利ぐらいはあるだろう。
どれくらい目を瞑っていただろう。
雨音以外聞こえなかった私の耳に違う音が聞こえた。それは電話の音だった。
空耳と思い目を開けて、当たりを見回したら、音源はすぐ近くにある公園の前にある電話ボックスだった。
「電話ボックスって、電話かかってくるの?」
人生で一度も使ったことのないので、よくわからないが、確実に音は鳴っていた
「………」
恐怖などはあまりなかった。彼に嫌われる恐怖に比べれば、心霊現象なんて、怖くなかった。むしろ、それで呪われたらきっと、天罰だと思ったぐらいだ。
電話ボックスの扉を開けた。雨はよっぽど冷たかったらしく、電話ボックスの中はとても温かく感じた。
私は左手で本を抱えて、恐る恐る緑の物体にかかる受話器を耳に当てた。
「もしもし」
『あ、誰か出た』
「どちら様ですか?緊急事態なら一一〇番か一一九番した方が」
『そういう君こそ大丈夫?声が震えているよ』
「……大丈夫そうなので、切りますね」
『ちょっと待った。いきなり電話をかけてきて、何も言わずに切るのはどうかと?』
「かけてきたのはそちらでは?」
『おっと、意見の対立か。まぁ、いいや。君みたいな可愛いこと話せて』
「……可愛いですか」
思わず声が強張る。
『おっと、なんか琴線に触れたみたいだね。
もしかして、可愛い、可愛い、言われ過ぎて、コンプレックスを抱いている贅沢な子?』
「いえ、その辺の有象無象に可愛いいを言われるのが嫌なのです」
『さりげなく、有象無象扱いされた!ということは、あれか、本当に言われたい相手には言ってもらえてないということか』
思わずドキリとする。
「チャラ男さんは中々鋭いですね」
『チャラ男さんは止めて。これでも俺、あまり人と話すのが得意じゃないんだよ』
「それは人と話すのが苦手な私は遠回しにディスっているのですか?」
『随分、ひねくれてるね。でも、なんか君の事はよくわかるんだ。何故かわからないけど。次から次へと言葉が出てくる』
「……」
『引きつった顔で受話器を置こうとしないで。あたりを見回さないで』
「本当に私のこと見てないんですか?もしかして、これ新手のナンパですか?この電話ボックスの中にカメラが仕込んであるとか」
『もしそうなら、疑うようなことを言わないよ』
「私の油断を誘っているのかと」
『よっぽど、君は自分のスタイルに自信があるみたいだね』
「はい、ありますよ。そして、それを振り回して、盛大に転びましたよ」
やっぱり、身の丈に合わない武器はしまっておくのが一番だったみたい。
『……良かったら、何があったか話を聞こうか?』
「チャラ男の常套句みたいなことを言いますね。
あれですか、傷心の心に漬け込んで今まで、口説いてきたんですか?」
『信用全くないね。どうしたら信用してもらえるの?』
無茶を言わないでもらいたい。
いきなり電話で話をした相手に優しくしてもらう程、私は優しさに飢えてない。まぁ、これが我孫子君なら話は別だが。
『ごめんな、思い人じゃなくて俺で』
「だから、なんでわかるし」
『わかるものは仕方ない。というしかないけど。まぁ、いいや。とりあえず自己紹介しない?』
「パードン?」
『わかった。切るよ。お節介かけてごめんなさい』
「あ、ちょっと待って」
流石にやり過ぎたと思った。
最近まともに人と話せなかったし、素の感じで話せる相手が久しぶり過ぎて、思わずテンションがあがっていたようだ。
『折角久しぶりに真面に素で話せる相手と話せて、少しテンションが上がってましたごめんなさい。って、謝るなら話を続けても』
「さようなら」
『あ、ちょっと待った。すいません。俺も一緒です。テンション上がって思わずからかってしまいました。すいません』
「まぁ、そこまでいうなら」
『良い性格しているね。是非とも名前を聞いておきたい』
「まず、尋ねた方が先に名乗るのが礼儀では?」
『本当に良い性格しているね。シズク、キボトケシズクだよ』
思わず声が強張る。
「‥‥‥‥ふざけているの?」
『おい、こら。俺を馬鹿にするのはいいが、名前を馬鹿にするな。
そりゃ、あんな可愛いヒロインと同じでからかわれることも多いが、結構俺は気に入っているんだ。それで君の名前は?』
そこで私はようやく思い出した。
この電話ボックスもまた七不思議の一つで『異世界に繋がる電話ボックス』だと。
その日、私は異世界の私、しかも別姓と初めて会話を交わした。
雨と精神的なもので私は三日寝込んで、土日を挟んだので、ほぼ一週間休んだ形で学校に登校した。
クラスメイトは遠巻きに私のことを見て、コソコソと何か言ってる人はいたが、誰も直接言ってくる人はいなかった。教室が違うので、我孫子君がどうなっているかはわからない。
もしかしたら私の愚行は既に彼の耳に入っているかもしれない。
しかし、そんなこと今の私にはどうでも良かった。この街に来て初めて、我孫子君以外の男性のことを考えているのだから。
嘘だよね。
あの後、彼とはいくつか言葉を交わした。
彼と私を別人だと、単なるよく似た他人の空似だと、自分を納得させようとした精一杯の足掻きだった。
しかし、聞けば聞く程、彼は私だった。
「夢じゃないよね」
しかし目の前にある、グチャグチャになった本が、周りの視線があの日の私が歩んだ軌跡が実際にあったということを教えてくる。
でも、それでも半信半疑だった。
あの後のことをほとんど覚えていない。どうやって家に辿り着いたのかも。いうならば、夢と現実の境目を私はわかっていない。
なら、電話のところまで夢かもしれない。そう思ったのだが。
『ああ、ようやく繋がった。どうしたの風邪?良くないよ。体は大切にしないと』
何気なく寄った電話ボックスで、計ったようにベルが鳴り、出た私の耳に届いたのは悪魔の囁きだった。
「……夢であって欲しかった」
思わず溢れた言葉にシズクはケラケラ笑う。
『まぁ、そりゃそうだよね。自分と話すなんてこと。しかも相手は異性で、とてつもない美人ときた』
「頼みますから、私の容姿については口にしないでください」
『おっと、ごめんね。それで、雫ちゃん』
「その呼び方恥ずかしくないのですか?」
自分の名前を『ちゃん』付けって。
『え、なんで?あれと一緒じゃない。アニメやドラマに偶々自分と同じ名前のキャラがいた。
そう思ったら、そこまで恥ずかしくなくなるでしょう?』
思わず頭を抱える。そこまでこの状況を楽観的に捉えることが出来ない。
『それで、君は俺のことなんて呼んでくれるの?』
「有象無象さん」
『酷くない。流石にそれは。あ、なんなら君の思い人の名前で呼んでみたら?
付き合った時のプレだと思って』
「彼はそんなにチャラチャラしてません」
『本当にそうかい?』
電話の向こうの私の声質が変わって、思わず私はドキリとする。
『君が思っているだけで、もしかしてその彼は全く別の側面を持っているかもしれない。
もっと喋るのかもしれないし、もしかしたら、全く喋らないのかもしれない。
もしかしたら人といるのが苦しいと思っているのかもしれないし、もしかしたら、ひとりぼっちをとても寂しいと思うのかもしれない。
靴はどっちから履く?
味の好みは?
理論派?実践派?
お箸の持ち方は?
嫌いなものから食べる?好きなものから食べる?
暑がり?寒がり?
インドア派?アウトドア派?
うるさいのは嫌い?好き?
好きな音楽は?
朝が得意?夜が得意?
心配性?楽観的?
ストレスの解消法は?
SEXする時の好きなたい』
「ああ、もぅいい!」
私は顔を真っ赤にして、彼の話を遮った。
『これを全部、会話もせずに知ることは出来るかい?』
「……出来るわけない」
『そう、だから俺は間違えた。勘違いしていたんだ。彼女と同じようなことをしていたら、彼女を救えると』
どこか寂しそうなその声に、私は耳を傾けた。
「あなたも同じことを?」
『言っただろ?俺達は同一人物だ。性別は違うけど』
「それって、結構重大なことだと思いますけど」
『でも、同じキボトケシズクだ。少なくとも意中の彼よりは君のことがわかるつもりだよ。
だから、話をしてみないか?ちなみに俺は彼女ともう一度やり直したい』
「……」
確かに、電話の向こうの彼は私なのかもしれない。それは言葉にならないところで理解出来るし、説明出来ないのに、納得出来る。でも。
「どうしてあなたはそんなにポジティブなのですか?もし、あなたが私ならわかるでしょう?彼に私がしたことを」
どうしようもなく彼を傷つけたこと。
「私に出来ることは彼と関わらないこと。私の存在は彼を不幸にするだけだから」
しばらく返答は返ってこなかった。
そりゃそうだ。彼は私なのだから、その罪の重さは一緒。同じ十字架を背負うもの。なら、軽はずみな発言は出来ないと。
『そんなこと気にしてたの?』
「……はぁ?」
思わず言葉を失う。そんなことって。
『人は一緒にいるだけで、人を傷つけるよ。それでも一緒にいたいと思うのが恋って奴じゃないの?』
「そ、そんな自己中心的な」
『今更それをいう?君はなんで、そんなに傷ついているの?
君はどうして彼を不幸にしたの?
好きだったからでしょう?』
「私は別に彼を不幸にしようとしたわけでは」
『誰もがそうでしょう?
幸せになりたいからその人と一緒にいるし、誰も不幸になりたくて、人と付き合ったり、告白したり、結婚したり、しないと思うけど』
「話をすり替えないで。私は幸福かもしれないけど、彼が不幸になるって言ってるの!」
『じゃあ、君が彼を幸福にしたら?』
「だから、それが出来ない」
『出来るよ。君なら。何故なら、君は俺だから』
私はしばらくの沈黙の後に。
「あなた、やっぱり私じゃない!」
そう言って、電話を切った。
それからしばらく、私はその電話ボックスに近づくことはしなかったし、このままシズクのことを単なる幻聴として片付けるつもりだった。のに。
「え~それでは、修学旅行の説明は以上です。
ここからは班に分かれて、各自予定を決めて、代表者が予定表を持ってきてください」
担任教師がそう言った瞬間、教室に喧噪が訪れる。
皆、席から立って各々に好きな人達と班を組んだ。
当然、私はあぶれる。
さて、どうしようかな?
そんなことを考えていると、先生が寄ってきた。
「鬼仏、お前一人なんだよな?」
そんなこと堂々と聞かないで欲しいな。
「はい、一人です」
この前の私のヒステリックな叫び声は先生たちの耳にも入っている。だから、先生も気を遣ってくる。
「隣の教室の女子数人が寝る時だけなら一緒でも良いと言っている」
そこまで言ったところで、先生は頭を掻きながら、言いづらそうにいう。
「それで、その。隣のクラスに堂々と休む宣言をしている奴がいるんだ。そいつと班行動共にしてもらえないか?」
私は首を傾げる。
「来ないと言っているのに?」
「いや、そいつの担任教師から頼まれてな。誰か相方がいれば休むのも少し躊躇すると思って。
流石に最初からサボることを宣言している奴をそのままにするわけにはいかないからな」
「まぁ、それなら」
ん?ちょっと待って。隣のクラスのぼっちって。
言うまでもなく、放課後。呼び出された場所にいたのは我孫子君だった。
「「……」」
気まずい。実はあれから一度も話していない。あの私のヒステリックな叫びを彼の耳に届いていたのか、どうかもわからない。
私は俯いたまま。彼の顔を直視出来ない。
「なんか、ごめん。余りものの、相手させられて。そして、ごめん。僕、行かないから」
思わず私は顔を上げた。
「修学旅行来ないの?」
「行っても仕方ないしな。それに、僕あまり人ごみ得意じゃないし」
そのどこか拗ねた感じが、子供みたいで可愛らしく、思わず笑みを零した。
「私もだよ。だから、その、来てくれると嬉しいかも」
これが最後だ。これが最後のわがままだからと、自分に言い聞かせる。
長い沈黙。でも意外と前よりもその沈黙は楽だった。嫌われて当然で、よくいけば開き直り、悪くいえば自暴自棄になっていたのかもしれない。
そして。
『人は人を不幸にするのは当たり前』
その言葉があったのも大きかった。
「期待はしないでもらいたい」
聞きとれるかどうかわからない、小さな声だった。だけど、確かに我孫子君はそう言った。
「はい、期待しないで待ってます」
それから私たちは大雑把だけど、京都のどこを回るかの予定を決めた。
一日目は京都市内。二日目は嵐山を周ることで同意した。
まだ二人ともぎこちなかった。
ブレーキをかける私。決してこれが当たり前じゃない。彼の優しさに甘えているだけだと自分に言い聞かせていると、どうしても口数が少なくなってしまい、一方の彼も最低限しか喋らなかった。
「どうしたら良いと思います?」
『君さ、前に俺に対して何て言って、電話を切ったか覚えてる?』
「過去のことをネチネチ話題にしているから、彼女さんを不幸にしたのでは?」
『よーし、まずは君を不幸にすることから始めようか』
「私が不幸になったら、あなたも不幸になるのかな?」
『開き直った女、こえ~』
何を仰るやら。あなたは私なのに。
「とにかく、あなたは私にあんな格好いいことを言っておいて、放置するつもりなの?」
『ああ、もぅ、わかったよ!その代わり、アドバイスなんて期待しないでくれよ』
「使えないな~」
『君、口が悪くて、彼を怒らしたんじゃないだろうね?』
「そんなことはないよ」
『その根拠は?』
「そこまで彼と話したことがない」
『うん、悪かった。俺が全面的に悪かったよ』
「なに、その黒歴史えぐって、ごめんなさいみたいな態度は。違うからね!そんなんじゃないからね!」
『あ~それで、何に困っているの?』
私は修学旅行の件をシズクに話した。
『なんだ、簡単じゃないか』
「何?」
『その自分に不釣り合いな武器を振り回せばいいじゃないか?』
私は顔を真っ赤にして、怒鳴る。
「誰が、そんなことを聞いているのよ!」
『あれ、違うの?てっきりどうやって告白するかどうかを聞きたいんじゃ?』
「そんなんじゃないから、決してそんなんじゃないからね」
私は落ち着くように深く息を吐いた。
「私は、これを最後に彼から身を引くつもりだから、後腐れなく行きたいから、その方法について相談してるの」
しばしの沈黙。あれ、私そんな変なこと言ったかな?
『泣きたくなったら、いつでもここに帰っておいでよ。胸は貸せないけど』
その一言に私は思わず吹き出す。
「なにそれ、君は田舎の私の両親か!」
『う~ん、近いかな。それよりもそろそろ君じゃなくて、シズクちゃんでもいいし、なんならセイジ君でもいいよ!』
「有象無象君ではご不満?」
『それで不満を抱かないのは、特殊性癖の人間。俺にそんな趣味ない!なんなら我孫子君と呼んでもいいよ。芽衣君でもいいし』
思わず私は言葉を失う。
「なんで、彼の名前を?」
え、言ったの、私。いつの間に?
混乱している私に彼は吹き出すように笑った。
『アハハ、言ったでしょ?俺は君だって。だから、思い人も一緒』
「……………え?」
『今まで一番長い沈黙。雫ちゃん、絶対勘違いしているでしょう!
我孫子芽友ちゃんは女の子』
まさか、そっちの世界にも我孫子君が。
「……可愛い?」
『口調がおっさんだね。もちろん、可愛いに決まっている。そっちは?格好いいの?』
「もちろん、格好いいに決まっている」
それから私と彼は他愛もない会話をいくつか続けたけど、結局実りのあるアドバイスは何ももらえなかった。だけど電話ボックスを出た時に、
「月が綺麗だな」
いつの間にか私の目に再び色が戻ってきたことに気が付いていた。
修学旅行の日、我孫子君はちゃんと来てくれた。
物理的な距離は常に近かった。
新幹線の席も隣同士だったし、食事の時も隣同士、移動も常に二人で移動した。時々、自撮りする写真に、我孫子君も入るように映した。
そして自由行動の最初に寄った八坂神社で私は必死でお願いした。
この旅行の間だけは許してくださいと。
彼も必死で何かを願っていた。何を願っているのだろう。
それから私達は清水寺の方に向かった。
春の京都は思ったより暑くて、しかも平日だというのに、観光客も多くて。日本語じゃない言葉も聞こえてくるのも、珍しいことではなかった。
そして清水寺を昇っている最中で、我孫子君はばてた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
「大丈夫ですか」
「ごめん、人ごみに酔った」
本当に苦手だったんだ。
ベンチに座る彼はとても小さく、とてもか細くみえて、今にも消えいりそうだった。
「ちょっと、休みましょうか?」
「ごめん」
「大丈夫。班員は私達二人だけだから」
そう言って、私は出来るだけ彼といる間、能面にしていた顔に表情を浮かべて、そう言った。
「何か、冷たいものでも買ってきますね」
「本当にごめん」
そこは謝罪じゃなくて、お礼の方が良かったなと思いながら、私は自販機の方に向かって歩いていった。
春の京都は桜が舞い散り、とてもいい感じで、
「なんか、デートみたい」
と、自動販売機の前で、顔をほころばせる始末。
「って、何浮かれているのよ私!」
二人分のペットボトルのジュースを手に取り、私はブンブンと顔に溜まった熱と何ともしまりのない表情を振り払うように大きく振った。
いくらこの旅行中の間だけだとはいえ、浮かれすぎだ。
しばらくその場で深呼吸して邪念を振り払ったところで私がベンチに戻ったら、我孫子君は寝てしまっていた。いや、正確にいえば気絶していた。
「よっぽど、人ごみ苦手なんだ」
やっぱり彼は人が苦手なのかな?それともつい最近あった色々なことで、すっかり人間不信になっちゃったのかな?
そんなことを思いながら、ベンチで眠る彼の隣に座った。
しばらくその寝顔を見ていたら、
「わぁ、わぁ、わぁ」
なんと彼が倒れてきたので、慌てて、受け止めた。膝で。
「……やってしまった」
膝枕なんて、まるで恋人同士じゃないか。膝から伝わる彼の熱、規則正しい寝息の音が聞こえてくる。
「思ったより童顔だよね」
普段はずっと、ムスッとした顔をしているので、目立たないが我孫子君は中学三年生にしては幼い顔つきをしている。そしてそのどこまでもあどけない寝顔が私の胸を締め付ける。
私は目に涙を浮かべながら、彼のくせっ毛混じりのその髪をゆっくり撫でた。
「頑張ったね、辛かったね、ごめんね」
何度もそう呟きながら、彼に謝った。決して許されるわけじゃないし、許されるとも思っていない。
それでも、言わずにはいられなかった。
卑怯だとも思う。彼に否定されるのが嫌で、拒絶されるのが怖くてこうやって謝っているのだから。
でも、それでもこれがベストだと思った。
自己都合かもしれないが、彼にこれ以上、辛いことを、昔のことを思い出させる必要なんて、ないのだから。
「お願いします。神様。これぐらいは許してください」
春の京都で私は何度も懺悔しながらも、その後彼と過ごす時間を楽しんでいる自分が本当に嫌だった。
「というわけで、一発殴らせて!」
『君は彼氏に対してはあれだけ気を遣えるのに、どうして俺に対してはそんなに粗忽なの』
「自分に厳しくがモットーなので」
『返ってくる答えが予想出来るだけに、とても虚しいよ』
修学旅行から帰った後、私の足は自然と電話ボックスに向かい、シズクは私の帰りを待ってましたと言わんばかりに、私が電話ボックスの傍に来るや否や電話を鳴らしてくれた。
『それで、本当にこれで終わりにするの?』
「‥‥‥‥」
彼の質問に私はすっと目を閉じた。
今でも鮮明に思い出せる。
春の京都を二人で歩いた、最初で最後のデートのことを。
そして最後だということに半ば自棄になっておこなった膝枕や写真の時の立ち振る舞いに。
思い出しては赤面をして、フルフルと首を振って、深呼吸した。
その途中で『忙しいな君は』と言われたが、無視をした。シズク意地悪い笑顔が目に浮かんだ。
しばらくしてようやく落ち着いたので、私はニコリと笑った。
「はい、私は満足ですので、もぅ、心残りはありません」
『そんな顔をしといて?』
「え?」
私は思わず自分の頬に手を当てて、初めて気が付いた。
自分が涙を流していることに。
「あれ、どうしてだろ?私に泣く資格なんてないのに」
拭っても、拭っても、涙は取り留めなく流れてくる。
『あのさ、君はさ、あんなことをしたのに、それでも彼女にアプローチをする俺のことを凄いとか思っているかもしれないけど、君の方がよっぽどすごいよ』
「私が、凄い?」
『ああ、俺だって、身を引こうと考えた。でも、出来なくて今も駄々をこねているだけ。
相手のことを思って、身を引こうとしている君の方がよっぽど凄いよ』
その言葉は妙に私の中の隙間にストンと収まった気がした。いつの間にか、涙も収まっていた。
でも。
「私はただ単に自分の蒔いた種を何とかしようとしているだけで、そんなことを言われる覚えは」
『面倒だな、俺』
間髪入れずに私は深い溜息をついてそう言った。
「何よ、いきなり」
『わかった。じゃあ、こうしよう。俺が君を許す。これでいいでしょう?』
「な、何を唐突に」
『だって、君が自分を責め続けていると、まるで俺が責められているような気がしてならないんだよ。だから、俺が君を許す』
「全く意味が分からない」
『良いだろ、別に?俺は君なんだから。このままじゃ、雫ちゃん、前に一歩も進めないよ』
「前に進む?」
『そう、彼に一番迷惑がかけることは、彼を理由に君が一歩も前に進まないこと。
だから、君は前に進むんだ。幸せになるんだ。
それとも我孫子さんを理由に君は不幸になるのかい?
そんなの余計に彼に迷惑をかけるだけだ』
「でも、それで」
『恨まれるのなら、君も本望だろう?』
彼のその言葉に私の受話器を持つ手が小刻みに震える。ようやく慣れてきたその重さが、再び重力となって、襲い掛かってきて、思わず落としかけたところで。
『大丈夫、君には俺がいる。
君が次に進めるまで、そうだな、便利屋程度に思っててくれればいい。
別に遠慮することはない。何故なら俺は君だから、誰にも迷惑をかけない』
彼の言葉で再び私は受話器を持ち直す。
「どうして?君は、シズクは、そんなことを言ってくれるの?」
無意識に出た言葉だった。
だから。
『そう言われるのが面倒だから。でしょう?』
思わず噴き出した。
「アハハハ、やっぱり、シズクは私なんだね」
『ああ、シズクチャンは雫ちゃんなのです』
意味が分からない。でも、なんか良い。
私はしばらくの沈黙の後。
「じゃあ、ちょっとの間だけ、我儘で傍若無人になるね」
『今までと、何が変わるのさ』
「うるさい」
シズクはケラケラ笑う。
『さぁ、どんとこい。胸は貸せないけど、ちゃんと耳は傾けるからさ』
「それじゃ、お言葉に甘えて」
『うん』
私は大きく息を吸って、そしてその息を吐き出すと同時に、叫んだ。
「諦めたくないよ!終わりたくないよ!
もっと話したいし、デートもしたいし、手を繋ぎたいし、キスもしたいし、エッチなこともしたいよ!
許されるなら、ずっと彼の隣にいたいよ!もぅ、離れ離れはやだよ」
その場に崩れ落ちて、取り留めのない涙を流す私に、シズクは優しく、穏やかな声でいう。
『よくできました。君の気持ちちゃんと受け止めたよ。
そして少しずつでいいから、君は自分を許すべきだ。大丈夫、君が大好きな人と向き合うまで、ずっと一緒にいるから』
頭を優しく撫でるようなその声にあの時の私は確かに救われた。
ただ、ただ、泣きじゃくるばかりで、あの時は何も言えなかった。
もし、あの時、あの瞬間に戻れるとしたら、私は彼に言いたいことがある。
嘘つき。
修学旅行明けから、私は普通に学校に登校出来た。
何かが変わったわけじゃないし、何かが分かったわけじゃない。
目的地も分からないし、そもそもそんなものを設定する必要があるのかもわからない。
それでも足取りは軽い。スキップをする程ではないが、しっかり足を持ち上げることは出来る。
「…………」
彼は、シズクは決して道を用意してくれる訳ではない。私が歩く凸凹道を舗装してくれることもなかった。
ただ、私が足を持ち上げても越えられない大きな石を少し小さく砕いてくれるだけ。私が精一杯足をあげたら、越えられるか、越えられないか程のサイズに。
蹲っている私に決して、優しい言葉をかけなかったし、手も伸ばさなかった。
ただ、私が立ち上がるのをじっと見てくれているだけ。でもそれがあの時の私には一番適切な気遣いだった。
だから。
「おはようございます」
「……おはよう」
我孫子君にもこれぐらいの距離でいよう。
決して避けるでもなく、かといって、愛嬌を振りまくわけでも、以前の彼みたいに影からサポートすることもない。
ただ、会ったら笑顔で挨拶する。それぐらいの距離で。
そんな感じで、何もない、何かが起こることを期待しない日々を送っていた。
不健康そうに、病んでいるように聞こえるかもしれないけど、意外と精神衛生的には一番良い生き方かもしれない。
『会えませんか?』
そんな折だった。友衣ちゃんからメールが来たのは。
あの日以来、私達はメールのやり取りも電話のやり取りもパタンと止まっていた。恐らく私に気を遣ってくれてのことだろう。流石『めぃじぃ』の妹『ゆぃばぁ』である。
「……」
恐らくこのメールに私が無視をしたところで、彼女は怒らないし、これ以上何かのメールを送ってくることもないだろう。
そういう子だ。
『うん、私も会いたい!』
その返答はすぐに出来た。
そして私達は数日後の放課後。駅前のファストフード店で向かい合った。
二人の間にあまり会話はない。
出会った時も「お久しぶりです」と言われて、それに私が返して、そのまま店に来た。
「ここは私が持ちます」
とアイスカフェオレを注文したところで友衣ちゃんに言われたけど、流石にランドセルを背負った小学五年生に奢ってもらうわけにはいかないので、断ろうとしたら「お店の人に迷惑です」と言われてしまったら、どうしようもなかった。
周りの視線が痛い。
私達が頼んだアイスカフェオレの氷と彼女のシェイクのバニラが少し溶けたところで、ようやく友衣ちゃんが口を開いた。
「でも、本当に良かったよ、雫お姉ちゃんが来て」
そう言って、胸を撫でおろす友衣ちゃんの言葉の意図がよくわからず、首を傾げる。
「私以外の他の誰が来るの?」
「もしかしたら、私とメールのやり取りをしていたのは実は雫お姉ちゃんのお母さんで、そしておばさんがここにきて沈痛な面持ちでいうの『雫は死にました』って。だから今日、雫お姉ちゃんが来て、本当に良かったよ」
「友衣ちゃん、漫画や小説見すぎだよ」
流石の私も顔を青ざめた。まさか、そんな心配をされていたとは。
「それだけ、あの時の雫お姉ちゃんは追い詰められていたと思っていたから」
「あ、うん、そうかも」
もしあの日、シズクと出会ってなかったら、その道もなかったと断言できる自分はここにはいなかった。
「ごめんなさい。心配かけて。でも、もぅ、今は大丈夫だから」
「そうみたいだね」
頭を下げた私に友衣ちゃんはニコリと微笑んだ。
「本当に心配したんだよ。この前、修学旅行でお兄ちゃんがぼっちだと思っていたら『隣のクラスの子と回る』とか言ったから、一枚は必ず写真撮ってくるようにと言ったら、その写真に雫お姉ちゃん映っていて」
やっぱりあれは友衣ちゃんの差し金だったか。
「雫お姉ちゃんにしては随分、大胆なことをしましたね」
頬をピンクに染めて、口に手を当てながら微笑む友衣ちゃんをみては、あの時のことを思い出しては羞恥心に悶えた。
「で、そのお姉ちゃんの顔がまるで『これが最後の思い出』だからって、語っていたから」
思わず苦笑いを浮かべる。
これは察しが良いとかではなく、完全にエスパーではないのか。
「何があったの?もしかして、もぅ、好きな人が!そっか、お兄ちゃんもぅ、捨てられちゃったか」
明後日の方向に進む話に私は慌ててブレーキをかける。
「いやいや、好きな人なんて出来てないし、そもそも捨てた覚えはないし」
捨てたというか、なんといえばいいのか。
「身を引いたの。その、私が我孫子君と一緒にいたら、彼が辛い思いばかりするから。一緒にいても迷惑なだけだよ」
しばらくの沈黙。友衣ちゃんはじっと私の顔を見つめてくる。まるで心の奥深くまで入ってきそうな、そんな深い、深い、まさに深淵を覗くようなそんな瞳だった。
「本当に良いの?」
「……うん、私達、少し距離を置いた方が良いんだよ」
「なんで付き合ってもないのに、倦怠期のカップルみたいなこと言っているの」
呆れ気味の友衣ちゃんの声に胸を刺されて、思わず俯くが、
「まぁ、雫お姉ちゃんがそれで良いというなら、友衣は何も言わないよ。
それより、その相談に乗ってくれた人は男?」
この子絶対エスパーだ。話してないよ。誰かに相談にのってもらったなんて。
「別に誰かに相談にのってもらったわけじゃ」
「男?」
「……はい一応、男です」
私だけど。
「好きになる確率は?」
思わず呆ける。私がシズクを?
「ないない。それは絶対ない」
大袈裟に顔の前で手を振る。
未だにシズクが異世界の私だということは上手く呑み込めないけど、少なくとも彼に抱いている感情はそんなものではないと、自分の中で断言出来た。大体、もしそうだとしたら、どれだけ自己愛が強いのよ、私。
「本当に~」
尚、疑いの目を向けてくる友衣ちゃん。
「本当の、本当」
「じゃあ、数年後。お兄ちゃんも雫お姉ちゃんも一人身だったら、お兄ちゃんと付き合ってくれる?」
「え、それは、その」
流石にそんな長期スパンでは考えてなかったけど。
「我孫子君が数年後に一人身とは思えないけど」
「いやいや、雫お姉ちゃんは未だに『芽衣ちゃん好き好きフィルター』越しにお兄ちゃんを見てるけどさ」
「なに、そのフィルター。普通に恋する乙女とかでいいのではないの?」
「認めたね、未だにお兄ちゃんのことが好きだって」
「うぅ、酷いよ誘導尋問なんて」
「どっちかというと、勝手に転がってくれたような。
まぁ、いいや。とにかく、今のままなら、お兄ちゃんは必ず一人身。どれだけやばいというなら私がもらわないといけないレベル」
そう言って自分の胸を強く抑える友衣ちゃん。どこから突っ込めば良いのか、この小学五生に。
「だから、数年後も一人身だったら、お兄ちゃんと付き合ってくれる?」
決して冗談ではないということは私を見るその瞳でわかった。
「約束はできない。でも、わかった。私は高校卒業するまで、彼氏を作らない。それだけは約束する」
『と、言いつつ彼女は、ほんの数日で恋に落ちるのでした』
「変なアテレコ入れないでよ」
『良かったね。声をかけたのが、俺で。もし、俺が君じゃなかったら、メルヘナー傷心美女はあっさりと篭絡していただろうから』
「はいはい、声をかけてくれたのがシズクで本当に良かったよ。おかげで友衣ちゃんとの約束守れそうだし」
『へぇ~そっちも逆なんだ。ユイの女バージョンか。会ってみたいな』
「ってことは、そっちの友衣ちゃん男の子なの?」
『ああ、小生意気なくせして、無駄に察しが良いから手に負えない。まさにあの姉にして弟ありだよ』
やっぱりそっちも根本的に変わらないんだ。
『それで、どうするの?数年後も一人身だったら、一緒になるなんていうラノベ的展開をご所望で?』
「別に私が所望したわけじゃないんだけど」
でも、それでも。
「何もないよりは、僅かでもいいから、そんな点のようなものでいいから、あったら、少しは楽かなって」
『あんなこと言っといて、未練タラタラじゃないの』
「うっ、シズクが言ったんじゃないのよ!諦めずにコツコツやっていけって」
『そういえば、そうだった。わかったよ。ではその日まで、便利屋さんは付き合わせてもらうよ』
「ありがとう。あ、なんならそっちの相談にも乗ろうか」
『いや、それは良いや。不幸がうつる』
私はムッとする。
「人を疫病神みたいに」
『自分で言ったじゃないか』
そう言われて何も言い返せない私に、電話越しの私の声は楽しそうに笑っていた。
それから私達は数日に一度のペースで電話のやり取りをしていた。ジメジメした梅雨の日も。うだるような夏の暑い日も。少し涼しくなって、ひぐらしやツクツクボウシが現れるようになった日も。気持ちの良い秋晴れの日も。寒い冬の日も。私達は他愛もない会話を続けていた。
今日居眠りをして、先生に頭を叩かれたこと。
志望校を未だに決めかねていること。
いくらアタックをしても、暖簾に腕押し状態で一向に進展しなくて、珍しく落ち込んでいたシズクの声。
友衣ちゃんに誘われてショッピングに行ったこと。
そんな、なんでもない会話がいつしか私が一日のうちで一番楽しい日々になっていて、放課後になっていたら、自然と電話ボックスの方に足が向いた。
かかってくる日もあれば、かかってこない日もある。それでも私は毎日のようにそこに向かっていた。
決して多くはないが、話す人も少しは出来て、私は人並みの中学生活を送っていた。
シズクがもたらしていたものは大きくなっていた。しかし、当たり前のなんでもない日常になっていたその非日常が、当たり前のようになっていたことに私は気づいてなかった。
いや、気づいていたのに、目を逸らしていただけなのかもしれない。
そしてそれを突き付けられる日は唐突に訪れた。
「じゃあ、また。良いお年を」
『うん、良いお年を』
中学生活最後の年の大晦日。私達はそう言って別れて、それ以来彼から電話がかかってくることはなかった。
来る日も来る日も私は電話ボックスに通った。挙句の果てにはいつ何時かかってきてもいいように、一日中電話ボックスの前に張り付いた。
しかし、彼から電話がかかってくることはなく、かかったのは風邪だけだった。
シズクと初めて話した日のように、熱に侵された私はベッドの上でのたうち回りながら、今まで目を逸らしていた事実と戦っていた。
雫と私を繋げていたものが、あまりにもか細かったこと。
あの会話があまりにも非現実的だったこと。
そして目覚めた時に私の中で一つの答えが出た。
鬼仏雫の男なんて、初めからいなかったのではないか。
私が生み出した都合の良い、偶像。
こういったら、こうやって答えてくれる、理想の答えをしてくれる幻聴。
「そっか、そうだったんだ」
そう割り切ると、少し気持ちは軽くなったけど。
「重いな」
その日、私はベッドから起き上がることが出来なくて、学校に行けたのは冬休みが明けてから、一週間ぐらい経った後だった。
新年初めて登校した私に誰もが注目した。
そりゃそうだ。なにせ、私は背中の中間地点まであった長い髪を肩口までに切ったのだから。
「どうしたの?」
「何があったの?」
クラスメイトの数人から、そう尋ねられたが、
「ちょっと気分転換。ほら、受験も近いし」
受験といっても、ほとんどのクラスメイトがエスカレーター式にあがれる高校に行くのだから、全くもってそんな説明じゃ納得いかないだろう。
でも、それ以上彼女達は聞いてこなかった。
それぐらいなのだ。
私がこの街に戻ってきて、築きあげた友達という奴は。
決して深く突っ込んでこないが、深く心配もしない。テレビの向こうの世界に心は痛めるが、何もしないし、他に何かあればすっかりそのことが頭から離れていく。
それぐらいなのだ。
「この街から離れようかな」
皮肉なものだ。今まで散々一か所で定住したいと思っていたのに、いざ、その街に深く根付いたら、今度はそこから離れたくなるのだから。
エスカレーター式じゃなくて、別の高校に行きたいと言った時に、母は反対しなかった。
私が選んだ高校は家から電車で一時間半の場所だった。一人暮らしも考えたが、母もおばあちゃんも一人にするわけにはいかないし、そこまでわがまま言う訳にはいかなかった。
卒業式の日。
ほとんどの人が別れることもないのに、涙を流していた。私みたいに私立の高校に行く人もいれば、専門学校に行く人もいる。それに雰囲気に流されているというのもある。まぁ、一応区切りだしね。
そんな中で、皆が涙を流しながら卒業証書を持ちながら、帰るのを惜しむように、下駄箱から校門までの道中で喋っているのを他所眼に一人、すたこらとそんな風景脇目も逸らさずに、いつものように帰ろうとしていた人物がいた。
『お兄ちゃんに昨日荷物届いてた。あれ、絶対ゲームだ。故に明日の卒業式、直帰しようとするから、言いたいことがあるなら、さっさと捕まえて言った方が良いよ』
昨日友衣ちゃんのメールを思い出して、私は思わず微笑む。
なんか、結局君に振り回されっぱなしだったな。
確かに、何か一言言いたい気分ではあったけど、言いたいことが見つからない。
数年後に迎えに行くから、首を洗って待っておけ。
あり得ない。
そういえば一度もこの髪形に言及してくれなかったけど、どう?
違う。
ボッチ同士、最後にお茶でもしない?
何言っているの私。
結局、私はこれぐらいしか言えなかった。
「卒業おめでとう。修学旅行楽しかったよ。またね」
彼の前に立って、捨て台詞のように満面の笑みでそう言って、彼の返答も聞かずにその場を去った。
ああ、またこんな感じだよ。
『君って、どうしていつもそうなの?』
どこからともなく聞こえてくる幻聴に「うるさい」と言って、私は学校を去っていった。
大丈夫、今までだってそうだった。
人と深く関わらず、それでも波風立たないように出来るだけ、上手くやれるように。それがまた始まるだけなのだから。
※
全てを語り終えたところで、鬼仏さんは再び自分の短い髪に触った。
「あの頃の私はどうしても彼に会いたくて、髪を切って、鏡の前に立って自分を見ていたら、また彼が話しかけてくれるんじゃないかって。でも、彼は話しかけてくれなかった」
しばらくの沈黙。彼女が語った非現実なのに、全く嘘に聞こえない話が僕の中にようやく届いた。
「いつから、知っていたの。その僕がサツキと話していたことを」
「サツキ?ああ、サツキって呼んでたんですね。そうなんだ。可愛い呼び方です。私は彼のことを一度もセイジとは呼べなかったですけど」
「茶化さないでくれ」
「この前、あの電話ボックスの前に通りかかった時。我孫子君、スマホの画面をみながら公衆電話で電話していたから」
なるほど、それは確かに不自然だ。
「でも、それだけじゃ単に僕がスマホじゃかけづらいところに電話していたという可能性も」
「同じ顔をしていたんです。電話ボックスから出てきた我孫子君が、あの時の私と。
電話をし終わって、どこか満たされたような、すっきりしたような、満足したようなそんな顔を。
だから、私も確信しました。きっと同じところに電話しているって。
そりゃ、好きになりますよね。
言わずとも自分のことを気遣ってくれて、わかってくれて、優しいだけじゃなく、時には意地悪な言葉を言って、それでもその対話がとても心地よくて、どこまでも話していたくなるそんな異性を好きにならないわけがありません」
そこまでいって、鬼仏さんはこちらを見た。彼女の視線は、表情は今まで見たことのない、とても鋭く真剣なものだった。
「でも、そんな人現実にはいません。あれは単に妄想逞しい私たちが作り出した幻覚、いいえ、幻聴なんです」
「そ、そんなこと」
「じゃあ、サツキさんは何かためになることを言ってくれましたか?
具体的な、自分が思いつかないことを言ってくれましたか?
サツキさんがいう言葉の中に一つでも、我孫子君が知らない事柄はあったと断言できますか?」
「……でき、ない」
だって、幽霊屋敷にいくことだって、マラソンをやることだって、もしかしたら意識していないだけで、視界の隅に菊枝さんの家に行く鬼仏さんを見かけたのかも、マラソンをする彼女を見かけたのかも。
大体、彼女を作れなんて、しょっちゅう友衣に言われていた言葉だし。
サツキのいうことに、何一つ、具体的なものはなかった。
彼女の名前から鬼仏さんの名前が出てきたのは、ただそれしかなかったからだ。
最近関わった異性なんて。
「私たちは対話をしていた訳ではありません。
ただ、自問自答していただけなのです。まるで腹話術のように。大好きなぬいぐるみに話しかけるように。ペットに話しかけるように。
だからサツキさんの口から具体的な話は一切なかった。
当然です。
我孫子君の頭の中にないものを、彼女が口にするのは不可能なのです。何故なら、彼女は我孫子君なのですから」
呆けきった僕を見て、鬼仏さんはようやく自分が言い過ぎたと思ったのか、立ち上がり僕の前に立ち頭を下げた。
「すいません。酷い言い方をしてしまって」
「いや、いいよ。だって、事実なんだろう?」
鬼仏さんは顔をあげて真剣なめつきでいった。
「はい、これが、私があの日、彼と話せなくなってから、彼の存在に折り合いをつける為に出した結論です。
そして今日、この日ようやく我孫子君のことを好きといえるまで、葛藤した結論です。
ですから二度と彼女とは話せません。自覚してしまいましたから」
僕は鬼仏さんの話を半分しか聞いていなかった。
『私、メリーさん』
『うん、とりあえず君がとても面倒な生き物だということはわかった』
『じゃあ、メイとサツキで』
『しょうがないな』
『レッツトライ』
『無駄な想像力で工夫出来ることは数少ない私たちの良いところだし』
『慰めてあげましょう』
そんなサツキの言葉たちが未だに僕に彼女の存在をしらしめてくる。
「お願いします。どうか妄想の自分じゃなくて、私を選んでください」
そう言って、頭を下げる鬼仏さんを見て、自分が鬼仏さんに告白したのが随分過去のことに思えた。
「すいません。色々と考えたいので、また、今度連絡します」
まるで抜け殻のような僕を見て、鬼仏さんは「はい」とだけ言って、公園を去った。
「……」
野球中継の音が聞こえる。子供の泣き声も、犬の遠吠えも、車のエンジン音も聞こえてくる。
でも、今はその全てが本当に聞こえているのか判然としなかった。
それぐらいに、僕は今、自分自身の耳に自信が持てなかった。
ただ、確かなのは。
サツキの声が、言葉たちが確かに僕の中に残っているということだった。
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