第5話 セントエルモの火
「お兄ちゃん、随分おそかっ」
家に帰るなり、笑顔で出迎えてくれた友衣に僕はまるで死んだような無表情を向けたので、芽衣は言葉を詰まらせた。
「え、なんで?」
まるで世界の終わりをみたかのような友衣の表情。どうやら友衣は鬼仏さんの気持ちを知っていたのだろう。だから。
「鬼仏さんは何も悪くないから、彼女には何も言わないでくれ。大丈夫、振られたわけじゃないから」
「大丈夫で、振られたわけでもないのに、どうしてお兄ちゃんはそんな顔をしているのかな~」
階段をあがる僕の背中に友衣はそう呼びかけたが、僕が振り返ることも、彼女がそれ以上の追及をすることもしなかった。
自室に入り、電気も点けずにベッドに仰向けに寝転がりながら、天井を仰ぐ。そしてその視界が徐々に滲んでいく。
「ハハハ、僕思ったよりショック受けている」
時刻は二十三時。鬼仏さんの話は七時ぐらいにおわったというのに、どうしてここまで帰宅が遅れたのは、当然、今まで電話ボックスにいたのだ。
「サツキ、返事をしてくれ」
受話器の向こうの彼女に何度も何度も話しかけたが、彼女の声は一切返ってこず、ただ『ツー』という音だけが耳に届いた。
それでも何度も呼びかけたが、一向に返事が返ってこずに、
「あれ、お前、我孫子さんところの。駄目だよ、学生がこんな時間にうろうろしていたら」
畑を見に来たおじさんにそう言われて、やむなく帰宅した。
もう一度明日行こうとは思っているが、僕の中でほとんど答えが出ていた。
もぅ、サツキとは話せない。
「なんだよ、それ」
そんなことあるのか、あの会話が全て幻聴なんて。
ふざけるなと思う反面、鬼仏さんの言葉を否定出来ない自分がいた。
それが彼女を信じたい気持ちでもあり、心の奥では薄々気づいていて、ただ、目を背けていたことに、彼女が目を向けさせてくれた結果でもあった。
「そうだよ、それでいいじゃないか」
サツキのことなんか忘れて鬼仏さんとこれから一緒に生きていく。
ただ、それだけの話だ。
なのに、どうしても割り切れずに、結局、僕はそのまま眠りに落ちた。
目覚めたのは朝の四時だった。どうやらこの時間に起きることがすっかり染みついているようだ。
「最悪だな」
爽やかな目覚めとは程遠く。体は重く、疲れが全く抜けていないような感じなのに、瞼を閉じるのがとても億劫だった。
かといってこんな状態でランニングする気も起きない。そもそもやる必要もないのだが。
「……」
起き上がり、制服に着替えて玄関で靴を履いている時に友衣がやってきた。
「ランニング?じゃないみたいだね」
寝ぼけ眼だが、僕の制服姿を見て、その瞳がしっかり開く。
「まだ始発も動いてないけど」
「ちょっと、寄るところがあってな。
大丈夫だ。別に自暴自棄になっているわけでも、もちろん家出でもないから」
「その顔で大丈夫って言われてもね」
目の下にクマが出来て、一晩でどれだけやつれたんだといわんばかりの酷い顔だということはさっき鏡をみて自覚している。
「まぁ、気を付けてね」
そう言って、友衣は踵を返して、欠伸をしながら自室に向かう。
僕も立ち上がり、玄関の扉を開けようとした時、
「いつまでも妹に心配かけないでよ」
そう言われて僕はただ、ただ苦笑いを浮かべるしかなかった。
「出てくれよ」
朝一に電話ボックスによって、放課後にも寄る。それを一週間ぐらい続けているのだが、一向にサツキが出る気配はなかった。
いや、出ないことはわかっている。僕はとうにわかっているのだ。
でも、それでも足がここに向く。
何かが欲しいわけでも、答えを求めている訳でもないのだ。
僕はただ、君ともう一度話したいのだ。それが叶わぬ望みだということはわかる。いや、話そうと思ったらいつでも話せるのだ。
何故なら、彼女は僕なのだから。
でも、そうしようと思っても出来なくなった。
一度でも自覚してしまったら、全くもって、それは無理なのだ。
確かにサツキが言った言葉は覚えている。でも、それは単なる言葉なのだ。教科書に書かれた文字のように、看板に書かれた注意書きのように、欠伸を噛み殺しながら聞くスピーチのように。
一体サツキがどんな喋り方をしていたのか上手く思い出せない。
僕の問いに対して、どんな口調で、どういった抑揚で、どういったイントネーションで、どんな感情をこめて喋っていたのか。
この質問にはどうやって返してくるのか、僕のボケにどうやった突っ込みを入れてくるのか、情けない僕にどうやった叱責をしてくるのか、わからないのだ。
「自分なのに」
こんなにも自分というのが、自分の理解の遠い存在だということを僕が初めて知った瞬間だった。
電話ボックスから出てきた僕は深い溜息をついた。
「このままじゃ、駄目だよな」
でもかといってどうすればいいのかもわからず、途方に暮れる。
「それは子供の遊び道具じゃないぞ」
そう言って菊枝さんは僕の元に歩み寄ってきたので、僕は黙って一礼した。
「それは電話するものじゃ」
「はい、知っています」
「なんじゃ、最近の若者は公衆電話のかけ方も知らんと聞いたぞ。
この前、テレビに映った学生は受話器を置いたまま、お金を入れてボタンを押していたぞ」
苦笑いを浮かべる。確かに僕も電話をかけたことはないが、そこまでじゃない。
僕は振り返りじっと見あげた。その立方体の無機質な物体を。
「この電話ボックスって、異世界の自分と話せるという噂がありまして、それで、異世界の自分と話したいと思ったんですけど、無理でした」
何を言っているんだ、僕は。
そんな非現実的なことを、ひたすら現実と何十年と向き合い続けた人に話すなんて。
人をからかうかなと、怒られると思って振り返られずにいたが、いつの間にか隣にいた菊枝さんはどこか懐かしむような穏やかな表情で電話ボックスを見ていた。
「そうか、今じゃ異世界と繋がる電話とか言われているのか。ワシらの時は故人と話せる電話じゃったのに」
「故人と?」
「ああ、何十年も昔のこと。まだ公衆電話自体が珍しい時代の話じゃ。
大方、大切な人を失った奴が物珍しいそれに可能性を感じてしまったのじゃろ。
滑稽じゃろ?文明の利器にそんなオカルトみたいな望みを願うとは」
「いえ、素敵な話だと思います」
だって、その噂話がなかったら、きっと僕はサツキと話すことが出来なかったのだから。
「フン、少しやつれたの。孫も最近元気がないし、お主らなんかあったのか?」
その一言に見上げていた僕の顔はすっと地面の方に向いた。
「…………彼女を傷つけてしまいました」
多分、いや確実に鬼仏さんはそんなことを思っていないだろう。
でも、結果的にはそうなる。何故なら、僕は好きな人との思いを断ち切る為に、彼女を利用していたのだから。
今、思えばそうだ。
理屈をこねくり回して、さも恋がわからないとか、そんなことを言っていたが、思春期の男子が恋愛に微塵も興味がない訳がないし、いくら自分が人とは違う変な人だとしても、他の人に向けるものとは違う感情を鬼仏さんに向けていたことは気づいていた。
初めて気づいたのはあの修学旅行での渡月橋の上で見た彼女の笑顔。
桜が散り、綺麗な水が流れる、あの美しい橋の上で。
そんないくつも綺麗で美しいものが並ぶあの風景の中で、他の追随を一切許さない程に、綺麗だったあの笑顔を見た瞬間から。
そしてその気持ちが幻ではないと気づいた卒業式。
高校の初登校日。あの小さな小窓からみた車両を挟んで、隣に座る同じ高校の制服をみた瞬間にその気持ちが再び僕の中で駆け巡り、クラスの中で彼女を見た時には恥ずかしながら、有頂天になっていた。
でも、美人で人望があって、クラスの中心人物の彼女と未だに中学の失敗を引きずる僕とではあまりにも大きな隔たりがあった。
毎日のように黙って、僕の席の前に立ち、朝と放課後に、何も言わず頭を下げた彼女の懇意に歩み寄ることも出来なかった。
自分の体なのに、全くいうことを聞かないもどかしさに何日も苦しんでいた時だった。
サツキと話せるようになったのは。
元来、しんどいことが嫌いで、コツコツやることが苦手で、それでも自分の居心地が良い空間を作りあげようとしていた僕に、彼女は無償でその空間を与えてくれたのだ。
飛びつかない訳がなかった。
「いつしか、目的と手段が入れ替わってました」
サツキと話す機会をもう一度得ようとして、鬼仏さんの願いを叶えようとした。
サツキに褒めて欲しくて、認めてもらいたくて、鬼仏さんに歩み寄っていった。
そうあの時の告白、正直僕はどっちでも良かったのだ。
成功したら褒めてくれる。失敗したら慰めてくれる。
そんなことしか考えていなかったのだ。
「僕が鬼仏さんを利用していただけ。そしてその全てを、彼女は見透かしていたんです。それなのに彼女は僕を責めなかった」
「それで、孫の代わりにワシに叱責をして欲しいと?」
沈黙が是成りと捉えたのだろう。菊枝さんは叫ぶ。
「甘ったれんじゃないよ!」
しかしすぐに甲高い声は鳴りを潜めた。
「と言いたいところじゃが、孫が許したことにワシがどうこういうつもりはない」
右こぶしを握り締める。どこまでも甘ったれの自分が許せず、挙句の果てに菊枝さんにまで助けてもらおうと思った自分に対する怒りに体が震える。
「いえ、鬼仏さんは許したわけじゃ」
声が震える。
「それ、本人に聞いたのか?」
「いいえ」
「はぁ~お前さん達は本当に似ているの」
その言葉に思わず僕は俯いていた顔をあげて、彼女を見る。
「空気を読むというんじゃったか?そんな屁理屈を言って、ロクに相手と対話もせずに、全てを決めつけようとする。悪い癖じゃぞ。お主も孫も」
「すいません」
「謝るな。気分が悪い」
「す、はい」
そう言った僕の背中を菊枝さんはバシッと叩き、ゆっくり踵を返して去っていく。
何も言えずに固まる僕に、
「あ、因みにの。この案山子じゃが、ウチの死んだじじぃが作ったもんじゃ」
「え?」
思わず振り返り、そちらを見たら菊枝さんはゲラゲラ笑いながら去っていった。
「はい、どうぞ」
昼食時。荒屋敷さんが僕の席にやってきて、そこに購買でパンを買ってきた松原が遅れてやってくるというのが、日課になっていた。
そんなある日、僕もコンビニで買ってきたおにぎりのフィルムを剥いていたら、荒屋敷さんが弁当を差し出してきた。
何が起きているのかわからず、荒屋敷さんと弁当を交互にみる。
「ほら、最近、芽友君お弁当持ってこなくなったし、やつれているから、お母さんに何かあったのかな~と思って。だから、今日は君の為にオムライスを作ってきました。
「おむ、らいす?」
そこにあったのは有体にいえばスクランブルエッグがのった、真っ赤なご飯。
ケチャップだけで味付けしたと思える白米に、斑模様にのっかった、焦げているのもあったら生焼けの黄色の塊がのっていて、更にその上からケチャップをかけている。もはやこれは主役が卵じゃなくて、ケチャップだ。
「なんだ、この物体Xは」
マジマジとその弁当をみつめる僕の傍目から購買で買ってきたパンを掴みながら松原が荒屋敷流オムライスを見て、しかめっ面を浮かべる。
「むっ、オムライスだし!」
「荒っぽいのは苗字だけにしとけよ~まだ、ケチャップかけたチャーハンだと言われた方がマシだ」
そう言って松原は頬を膨らませる荒屋敷さんの隣に近くの席の椅子を引っ張ってきて座った。
「大体、男にオムライスを渡すなら、せめて、ケチャップでハートマークぐらいはつくるサービス精神もてよ」
「そ、それは、その恥ずかしいし、それに勘違いされるというか」
「女の子の人生初の手料理がこんなんだとは。芽友、どんまい!」
「うるさい!人のこと言えるの。
あんただって、この前半生のホットケーキ私に食べさしたじゃない。食べた瞬間にクリームじゃなくて、生地が中から飛び出すとか、どんだけ」
「それはお前が、いきなりホットケーキ作りたいとかいうし、焦げたパンケーキなんて、炭を食べているものとかいうからじゃないか!」
「どうして、黒か白なの。茶色目指してよ!」
そんないがみ合う二人を見ながら。
「おお、また始まった夫婦漫才」
「相変わらず仲が良いね、お二人さん」
囃し立てるクラスメイトに。
「「仲良くない!!」」
と見事にハモリ返したので、更にクラスに爆笑が起こる。
そんな二人を見ながら、僕は思わず、
「怖くないのか?」
「え?」
「は?」
お互いを睨んでいた二人の視線が一気にこちらに向き、思わず僕は俯く。
「あの、その、僕はその昔っから、怖かった。自分の一言で相手が離れていくことも、傷つくことも」
だから、必死に空気を読むようになった。
常にお互いの会話を円滑に進むように仲介役になった。
そしていつしか『めぃじぃ』と呼ばれる程に人と人が円滑に付き合う為の潤滑油になっていた。
でも、それは当事者になるのが怖くて、どこか一歩引いたところに自分を置きたかっただけなのだ。
内輪の中に入るのが怖くて、常に内輪の外から皆を俯瞰していた。
相手のことを傷つけることが怖くて、相手の言葉を真正面から受け止める勇気がなくて。
「だから、僕は二人が信じられない。どうして、相手に対してそんなに遠慮なく向かっていけるのか。
下手したら、その一言で今まで築いてきた関係が一気に瓦解する可能性だってあるのに」
顔を上げられない。
一体、僕のことを荒屋敷さんと松原はどんなふうに見ているのだろうか。
いきなりキモイと思っただろうか。
何、訳のわからないことを言っているんだと思っただろうか。
「アハハハ」
「…………」
そんな僕の耳に荒屋敷さんの笑い声が聞こえたので、思わず顔をあげると、彼女は爆笑して、松原は俯き体を震わせ、必死で笑いをこらえていた。
予想していなかった二人のリアクションを受け、呆ける僕。
「いや、すまん。そんなこと考えて話したことなかったから、新鮮で」
「うん、ごめんね。でもね、そうだな~何回ぐらい?絶交って言ったの」
「少なくとも両手じゃ数えられないな」
「うん、ちょっと喧嘩しただけで、絶交だ!って、叫んでた」
「そして謝った記憶もほとんどない。自然と元に戻ってた」
僕はまるで未知の生物に触れたような感覚だった。
「凄いな二人は」
「凄かないよ。ただ、ただ、お互い馬鹿なだけだよ」
「確かに。それに他人を傷つけない人間はいないと思うし、傷つけて全く後悔も反省もしたこともない人間もいないと思うぞ。
現に芽友に中学時代の鬼仏さんの話をしてから、二人がどこか避けているようになって、こいつ滅茶苦茶気にしてたんだぞ。『これって、やっぱり私のせいだよね』 って」
「え?」
赤面する荒屋敷さん。
「ちょっ、ばらすなし!あんたこそ、この前クラスの女子にメール送って、半日返ってこなくて、私にそのメールコピペして送ってきて『なんか、まずい言葉あったか?』とか聞いてきたくせに」
再びいがみ合う二人を見て、僕は思わず噴き出した。
まるで肩の荷が下りた気分だった。
そして僕はゆっくり、お弁当に手を伸ばしてそれを一口食べた。
「ケチャップの味しかしないな」
「ちょっと、我孫子君もそんなこというの」
膨れっ面を浮かべる荒屋敷さんに僕は微笑む。
「でも、滅茶苦茶うまい。ありがとう!今度、松原のホットケーキも食べてみたいよ」
「おお、最高のをくらわせてやるよ」
「だったら、ホットケーキパーティやろうよ!」
そう言って荒屋敷さんは教室の後方でクラスの女子数人とお弁当を食べている一人に視線を送って。
「四人で!」
その一言に、僕は自然と頷いていた。
放課後。もうすぐ梅雨が明けて、夕暮れになってもジメジメする気候。坂を登るだけで、汗が零れ落ちる。
「暑いな」
初めて入った電話ボックスの中はひんやりしていたのに、今はサウナのように暑い。
僕は深く深呼吸して、受話器を取って耳にあてた。
「サツキ、鬼仏さんに告白したよ。そして残念ながら、君に慰めの言葉をもらえないみたいだ。
今までありがとう。君がいてくれたから、僕はここに立ち、前を向くことが出来る。
君のおかげで、大嫌いだった自分が、少しは好きになれそうだ」
少し間を開けて。
「サツキ、僕は君が好きなんだと思う。そしてこの気持ちをずっと忘れないように生きていくつもり。それじゃ、さようなら」
そう言って受話器を置いて、深呼吸して、財布とスマホを取りだした。
「そういえば、電話をするのは初めてだな」
苦笑いを浮かべながら、スマホのデイスプレイに映し出された電話番号を押した。
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