第2話 モモ
『自分のそっくりさんは三人いる!』
朝焼けに照らされ、揺れる電車の中。いつもの席で、壁と一体化した僕は、スマホで超有名動画サイト『Y〇U○○E』のそうテロップがつけられた動画を、まるで酔っぱらいで朝帰りしたサラリーマンのような、周りにどんよりした空気を垂れ流しながら見ている。
周りの人は自然と僕と距離を取っているように見えるのは気のせいか。
いや、気のせいじゃないだろう。
平日の朝。しかも水曜日という、疲れが蓄積を初めて、まだ今日含めて三日もあるという先を考えると余計に憂鬱になるというのに、わざわざ自分より更に陰気なオーラを放つ奴に誰も寄っていこうとしないのは自然の道理だろう。僕だって寄っていかない。
動画の内容は、有名な生物学者が遺伝子学的にはその可能性は十分あり得るという見解を示す論文を発表している事実を言うところから始まり、もう一人の自分=『ドッペルゲンガー』というぐらいに有名なそれは、ただ単に自分と全く同じ姿の自分というのではなく、未来の自分と逢うということだということを述べて、そして動画の最後はこう締めくくっていた。
『あなたは自分のそっくりさんを見たいと思いますか?』
「見たくないよ」
もっといえば声も聴きたくなかった。
スマホとイヤホンをポケットにしまうと同時にトンネルに入り、すぐ横にある小窓に自分の顔が映し出される。そしてまるで自問自答するように僕はなんとも冴えないその顔をじっと見る。
仕方ないだろ、あれは。
電話を切ったことに関しては確かに申し訳ないと思った。
だけど。この人、自分とよく似ていると思っていた人が自分と同じ名前。
もちろん同姓同名という可能性はあるし、その方がよっぽど現実的な考え方だということもわかっている。
でも、体中の細胞が引き寄せられる初めての感覚があって、彼女の名前を聞いた瞬間、彼女の声がもぅ、他人の声に聞こえなくなったのだ。
世の中の常識とか、一般的教養とか、そういうものが一切受けつけない領域。そんな感覚だった。
難しい言葉を使ったが、ようは僕の中で彼女が、どこか別の世界に住む自分だということが、揺るぎのない真実になっていたのだ。
唯一の救いは相手が異性だということなのだが、心の奥底ではそう思っていないらしく、窓に映る自分が下手くそな化粧をして、ロングヘアーの女装した自分に見えてきて、
「うぇぇぇぇ」
思わず吐き出しそうになって、次の駅で途中下車。トイレと恋人になること数十分。高校生活で初めて遅刻した。
登校した後も、とても授業を受ける気にならなくて、保健室に直帰。先生が「今日は一段と」といつもの苦笑いも三倍増しだ。最近お世話になることも多いので、すっかり顔なじみになっていたのだ。
結局その日、午前中は保健室にいて午後の授業だけを受けて帰った。そして帰るなり、ベッドにダイブした。
「めいじぃ、可愛い、可愛い友衣ちゃん様が庶民サンプルのお兄ちゃんの顔を見にきてあげたよ!」
相も変わらず、ノックもしないで入ってくる友衣。もぅ、ベッドから起き上がるのも、突っ込む気も失せた。
「可愛い、可愛い、友衣ちゃん様、助けてください」
「わぁ、何このぼろ雑巾。トリプルMだね」
「トリプルM?」
枕にうずめていた顔だけを友衣に向ける。
「醜い、みすぼらしい=芽友」
「ちょっと、謝って。全国の芽友さんに謝って」
「はぁ~本当に駄目なお兄ちゃんを持つと妹は苦労するよ。
それで、今回はどうしたの?特別に友衣ちゃんがお話を聞いてあげましょう」
「その前にどうしてそこから動かないんだ」
薄々気づいていたのだが、友衣は小学四年生ぐらいから、綿密にいえば僕の部屋に入ったことがない。常に廊下と僕の部屋との境界線の中で立ち尽くして、その境界線を越えることは一切ない。
「う~ん、乙女の貞操守る為?」
「ヒエラルキーでも低層にいる僕にそんな勇気があると思うか?」
「今のちょっと上手いね、ご褒美に部屋に入ってあげよう」
そう言って友衣は一歩進んで、一歩戻った。滞在時間一秒未満。
「お前のツボがよくわからん」
「凡人には理解出来ないですわよ~」
そしてその謎のテンションもわからない。
「それで、友衣ちゃん様は何しに来たの?」
「あ、そうだ。餌のじかん、もといご飯だって」
僕は妹の中では家畜かよくて愛玩動物のようだ。
「いらない。胃が痛くて食べられない」
「え~今日はお母さん張り切って、この前の豚バラ肉でとんかつ作ったのに。衣マシマシだよ!」
「ほぼ衣じゃねぇかよ!」
考えただけで胃がキリキリする。ホワイトハムでハムカツ作るみたいなものじゃねぇか。
「お父さん美味いんだよ。こうやって、中の肉だけ取ってね」
そう言って、まるで流しそうめんのそうめんをすくうようなジェスチャーをする友衣。
「魚の骨を取るのが上手いみたいなテンションで言わないでくれ」
流石に母さん怒るだろ、それ。
「それで、何のお悩み相談?」
友衣の声のトーンが変わったのを感じて、僕はベッドから起き上がる。すると、友衣は扉の前で三角座りをして、ベッドに座る僕を見上げるようにニコリと笑った。
ああ、良かった。こっちの遺伝子もあるんだ。
「むしろ、絶対こっちであって欲しい」
「なんの話?」
「こっちの話」
僕は肩で一つ息を吐いた。
「なぁ、自分に瓜二つで、考え方もそっくりで、なのに自分より遥かに優秀な人が目の前に現れたら、友衣ならどうする?」
「?つまり、友衣にそっくりだけど、友衣より頭が良くて、運動も出来て、フルスペックパーフェクト美少女の女の子だけど、それが友衣にそっくりだってこと?」
「まぁ、当たらずも遠からずだな」
「つまり、私はフルスペックパーフェクト美少女だってことだね!」
「いや、違う。全然違う」
この母親譲りのどこまでもポジティブシンキングな妹に聞いたのが間違えだった。
頭を抱える僕に。
「イヤなんだね」
「え?」
やけに優しい声音に僕は思わず友衣の顔を見つめる。
「つまりお兄ちゃんはその人を見て、考えちゃったわけだね。
こういう自分もいるってことに。
どこで自分が間違ったのかとか、どうしたらこんな風になれたのだろうかとか。
もっと違う別の可能性を探し求めていたら、それを体現したような人が目の前に現れた。
それは誰だってイヤだと思うよ。
だって、まるで自分が劣化品だと見せつけられているみたいだからね」
「…………」
このコミュ力モンスター(空気清浄機付き)は。
「ああ、そうなんだよ。まさにその通りなんだよ!やっぱり、僕の気持ちを理解してくれるのは友衣だけだよ」
そう言って立ち上がろうとしたら、まるで波動拳を放つように右手を僕の方に翳して、ニコリと笑った。
『それ以上近づいたら、分かってるよね?』
僕はゆっくり腰を下ろした。すいません少しテンションがあがって、我を失っていました。
「だから、その、思わず僕、その人から逃げ出しちゃって」
「安定な屑っぷりだね!」
「いや、そんな素敵な笑顔でグットサインを出さないでくれ」
本当に泣きたくなる。
「でも、逆に考えれば良いんじゃないのかな?」
「逆?」
「うん、その人がお兄ちゃんとそっくりなら、正しい道を知っていて、もしかしたら導いてくれるかもしれないよ。そう考えたら、こんな楽なゲームはないよ」
「……なるほど」
ようは目の前に僕の人生の攻略本を持った人がいるって訳か。
「まぁ、後はお兄ちゃんが、現状の自分を打ち破る根性があるかどうかだね」
そう言って、友衣は立ち上がった。
「それじゃあね、待っているから」
去ろうとするその背中に僕は声をかけた。
「友衣!」
「ん?」
僕は優しく微笑む。
「もう少し顔を見せてくれ」
勢いよく扉を閉められた。
よし、上書き完了。
気のせいか、胃の痛みは大分マシになった気がした。
「やっぱり、持つべきものは妹だな」
シスコンはなるのではない、妹によって構築されるのだ。
名言だと一瞬思ったその言葉は、自分を貶めるだけだった。
「というわけで、僕はようやくあなたの存在を受け入れる覚悟ができましたので、こうやって馳せ参じました」
あれ、電話越しに話す時もそういうのかな?
『おし、色々突っ込みたいところはあるけど、まず、謝れ』
おや~どうやら向こうの僕は随分ご立腹な様子だ。何故だろうか。
『わざとでしょう!わざと空気読まないようにしているでしょ!さっさと謝りなさいよ』
仕方ないな。
咳払い一つ。
「気温もすっかり温かくなり、もうすぐ梅雨が近づく今日この頃、アビコメイ様においては如何お過ごしでしょうか?さて、昨日の一件についてですが」
『普通に謝れ!言ったでしょ!
あなたは私。私はあなた。その謝り方に誠意がこもっていないことは、すぐにわかるから!』
「そちらも疑わないんですね?」
その問いに先ほどまですぐに返ってきたマシンガントークが成りを止んだ。
しばらく電話ボックスの中に静寂が響いて、その静寂は『たけや~さおだけ~』と鳴らしながら電話ボックスの横を通り過ぎる軽トラによって破られ、その音が聞こえなくなったところで、ようやく彼女は口を開いた。
『そりゃあね、あり得ないことだと思っているよ。でも、どうしても他人と思えないのよね~君のこと‥‥‥‥‥もう一度聞くけど、君の名前って』
「我孫子芽友です。性別は男です」
『最後の情報はいら、いや、女子の方がまだ気楽だったかも』
「僕は君が、女子だったことが唯一の救いですよ」
なぜなら僕にはフルスペックパーフェクト美少女の妹がいるのだから。
同じ血縁関係で同姓。
別に僕は兄の威厳とかプライドとか持ち合わせていない。前にもいったが、友衣が僕より出来の良いことに嫉妬する、なんてことはしない。むしろ誇らしい。
つまり彼女が女性ということが、僕が彼女と違うということをはっきりいえる場所。分水嶺で防波堤なのだ。
『考えていることが分かり過ぎて、本当に嫌になる』
「人の心をあまり読まないでください。え~と、とりあえず呼び方決めませんか?」
『そうね、なんかあなたとはしばらくお付き合いしそうだし』
僕もそのつもりだったので、向こうが乗り気なのは良いことだ。しかし。
「今の結構じ~んと来ました。もう一度お願いできますか?」
僕のアンコールに彼女はとても冷たい声で返してくる。
『あなた、悲しくないの?
いうならばあなたの声をパソコンに取り込んで、編集したその声に告白されているようなものなのよ』
想像してしまい、思わず吐き気を催す。
「すいません。忘れてください」
『わかってくれて何より。じゃあ、名前を決めましょう。と、その前に』
「その前に?」
『謝れ』
中々根に持つタイプ。流石僕だ。
それから僕は僕に深々と頭を下げて、もう一度緑の物体に頭をぶつけた。
『あなた、馬鹿でしょう』
「それは自分のことを馬鹿だと認めているのと、同義では?」
『それは違う。あなたは私であって、私ではない。何故なら歩んできた道のりが違う以上先天的に身につけたものは全て別物なのだから』
「ちょっと、何いっているのかわからないです」
『‥‥‥奇遇ね、私もクズ語はわからないわ』
酷くねぇ。
でも、ちょっと楽しい。妹以外でこんなに長く話したのも
閑話休題。
『それで、名前どうする?』
僕は頭を摩りながら答える。
「芽友(♂)芽友(♀)というのは?」
『どこかのモンスターみたいでイヤよ。芽友(上位互換)芽友(下位互換)というのは?』
「長いので、嫌です」
『嫌がるところそこなんだ』
向こうで僕が頭を抱えたような、うなり声が聞こえてくる。唸る理由はどっちなのだろうか?
『じゃあ、メイとサツキで』
名前の方だった。
「因みにどっちがメイでサツキなんですか?」
『そんなの、あなたがメイよ』
まぁ、自分の名前を呼ぶよりは良いか。
「わかりました。サツキさん」
『うん、くるしゅうない』
パラレルワールドを超越するとは。流石コミュ力モンスターの血筋。
『それで、私にワザワザもう一度、電話してくるなんて。メイよりも遥かに優れたサツキさんに』
やはり気づかれていたのか。
「その~コミュ障の僕にコミュニケーションのレクチャーをしてもらおうと」
『メイは別にコミュ障じゃないわよ』
あっさり看破された。
でも、流石に恥ずかしくて言えない。
どうすればサツキみたいになれるのかなんて。
『あなたはコミュ障じゃなくて、単に人を傷つけるのも、自分が傷つくのも怖いだけよ』
意外な答えに俯いていた顔が自然と前を向いた。
『人と喋る時、どうしてもあなたは考えてしまう。
こう言ったらもしかしたら相手が、傷がつくんじゃないかって?
そしてもし、それを言ってしまった自分が傷つくのが怖い。
だからあなたは人を遠ざけ、人から遠ざかる。結果、喋られなくなる。コミュ障だと思ってしまう。
まぁ、過去の様々なトラウマがメイから根こそぎ、自信を奪ってしまったっていうのもあるけど』
「……どうしてそう思うのですか?」
『言ったでしょ?あなたは私。私はあなただって。
性別は違えども、あなたは私なのだから、根本的な考え方まではそう変わらないはず。
ただ、それをどう捉えるかによって、人は変わると私は思っている。
薄い色が好きなのが、いつでもやり直しが効くからと捉えるのか、これからどんな色にでもなれると捉えるかの違い。
つまり、ほんの少しボタンの掛け違いよ、あなたと私の違いは』
「随分、簡単に言いますね。わかってるでしょう?サツキが僕なら」
人なんてそう簡単に変わらない。変えられるのなら、こんなに悩んでもいない。
指南書を読んだところで、結局書いているほとんどが具体性の欠片もないもの。ほとんどが精神論。
それらの中に自分に合うものは少なからずあると思うが、それを見つける前に心が折れてしまう。
そういう人間だ。我孫子芽友という男は。
サボり症で飽きっぽい。
『はぁ~まぁ、確かに数十回の成功よりもたった一度の失敗の方が記憶に残るっていうしね。
かといって、このまま放っておくのもな~』
まるで捨てられた子犬を見つけて、葛藤しているようにも聞こえるが、突っ込みはしない。
『一つ聞くけど、あなたは私みたいになりたいの?』
人が恥ずかしいことを易々と。
「多分、いや、そうなのだと思います」
『それは自分の為?』
「いえ、どちらかというと家族の為、僕のことを未だに諦めない人の為かな」
母は馬鹿だが、何も言わずいつも笑顔でいてくれて、必ずお弁当を作ってくれる。
父は何も言わない。でも、反対もしない。僕がやるということに無言で頷いて、投資してくれる。
友衣は毎日のように部屋に来て、他愛もない話をしていく。
「だから、今のままでは駄目なんです。
とはいえ、昔のように振る舞える気もしない。それでも、家族には安心してもらいたい。
だから、教えて欲しい。僕が君なら、僕と同じような人生を歩んできたのなら、君がどんな方法で乗り越えて、そんなに明るく振る舞えることが出来たのかを!」
我ながら恥ずかしいことを言っている自覚はあるのだが、それでも折角変われるチャンスが目の前にあるのだ。
しかも相手は僕だ。つまり僕に出来ないことは絶対ないだろうし、結果も約束されている。かなりのイージーモードだ。なら、僕にだって出来るはずだ。
長い沈黙。電話ボックスに入った時は明るかった街もすっかりオレンジ色の光に包まれている。
『それは無理かな』
「……え?」
『だって私、助けてもらったもの。ある人に。つまり、私自身で立ち直ったわけじゃないの』
「それって、つまり。僕とサツキの違いはその人と出会ったか、どうかということ?」
『そういうことになるかな』
思わず僕は反射的に受話器を置こうとしたら、
『キルナ。キルワヨ』
「すいませんでした」
サツキはふっと、息を大きく吐いた。
『まだ、話は終わっていない。ようは、メイは家族を安心させたいのよね』
「まぁ、有体に言えば」
『なら、私はあなたに協力出来るわよ』
「どうやって?」
『簡単よ。彼女を作れば良いのよ』
たっぷりの沈黙。そして僕は理解した。
「いや、それは無理ですよ。僕とサツキさんは同一人物で、しかも異世界の存在なんですよ?」
『うん、あなたが恐ろしく明後日の方向に理解したことを理解したわ。
一応いうけど、だったら私にしておきなさいよ。とか、そんな展開を期待しているなら、今すぐそのアニメや小説を読んで蓄えた、豊かでファンタージー過ぎる想像力をデリートしなさい。あり得ないから。あなたと付き合うなんて』
「すいません、冗談を言ったことは謝りますから、そこまで言われると流石にへこみます」
『面倒な奴!安心して、そんなあなたでも、愛してくれる人に心当たりがある』
僕は目を丸くする。
「え、ちょっと待ってください。相手を指定されるんですか?」
彼女を作れと言われただけでも混乱しているのに、相手まで指定される。これじゃまるで、今流行りのAIが決める出会い系サイトではないか。
『当たり前よ。私は私のことをよくわかっている。
そんな、乙女ゲームの主人公みたいに選びたい放題なんて程のスペックは持っていない』
「フルスペックパーフェクト美少女なのに?」
『誰がそんなこと言った!』
あ、それを言ったのは友衣か。ややこしいな。
『つまり、あなたにも選ぶ権利はない。あなたが選ぶ権利は彼女を彼女にするかどうかだけよ。大丈夫、あなたには勿体ない相手を指定するから』
嫌な予感がする。
「それって、まさか」
『流石私、察しが良いね』
そしてサツキは嬉しそうに言った。
鬼仏さんの名前を。
※
雫の話3
鼓の枝学園は中高一貫校で、自由な校風でも有名で、私が通っていた環陵小学校から上がってきた子達もいたが、小学校の時の隔たりはほとんどなかった。
生徒数も多いこともあるのか、それとも自我の成長で、あまり気にならなくなったのか。それとももしかしたら、彼の尽力のおかげで、綺麗に収まったのか。
もし、そうだとしたら嬉しいな。
私はそんな妄想を膨らませながら、教壇の前に立った。
「初めまして、東京から引っ越してきました鬼仏雫です。今日から、よろしくお願いします」
ニコリと笑った私に、誰もが注目していた。自意識過剰かもしれないけど、多分そう。
何故なら私は今、イモじゃないから。
薄っすらと水色が混ざった黒のロングヘアーに、伊達眼鏡は外したなんの隔たりもない、エメラルドグリーンの瞳。今までコンプレックスだった体系も少し小さめの制服を選んだことで、引き締まるところは引き締まって、出るところは出るという女子の部分を思いっきり強調させる。
恋をする前の私なら考えられないような大胆な格好をしていた。
私は女の子になっていた。
いや、元から女の子なんだけど、それでも、私がこれまでも自分の性別を女子だと意識したのも強調したのも初めてのことだった。
何故なら私は恋人になりたいのだから。
クラスメイトの我孫子芽友君と。
結果的にいえば、私のやる気は周囲に人を引き寄せた。
あまり人と話したことがなくて、しばらく人と話してこなかった弊害も伴い、矢継ぎ早に来る質問に対応出来なかったが、それでも精一杯愛想良くした。
中にはもちろん同じ小学校の子もいた。
「え、マジで、皆瀬さん?マジ、信じられない」
「くそ~こんなんだったら、先に告白しとけばよかった」
目を丸くして私を観察する女子。頭を抱えて悔しがる男子。
その中に我孫子君の姿はなかった。
彼は教室の片隅。壁際の席で、壁と一体化して、休み時間もずっと頬杖を突きながら、本を読んでいた。まるでかつての自分のように。
しかし、別にそれはさして気にならなかった。前も言ったが、彼の存在は教室の中でもあまり目立たなかったのだから。
だけど、小学校の頃とは明らかに違っていた。
小学校の頃は勝手に人が彼の元に寄っていった。相談事や悩み事があったら、女子も男子も彼の元に寄っていった。まるで彼は彼の愛読書である絵本の主人公の『モモ』のような存在だったし、彼もそれを目指していた。
ところが、今はまるで彼の周りだけ絶海の孤島のように、誰も寄り付かなかった。皆、その後ろの扉から出入りしているのに、一言も、一瞥も彼に向けることはなかった。
一体、何があったのか?
ずっと、そんな疑問を抱いていて、それに答えてくれたのは、友衣ちゃんだった。
偶然だった。私たちの街で唯一あるスーパーである『フーコ』で買い物していた時に。
「もしかして、雫お姉ちゃん?」
三年ぶりの再会。彼女は前に会った時の私と同じ年齢になった。
友衣ちゃんの身長はかなり大きくなっていた。
「あーミニバス始めたの。そしたら急激に」
もはや、あの時の我孫子君の陰に隠れていた女の子ではなくなっていた。
「我孫子家の遺伝かもね。お兄ちゃんも六年生になってから、急激に身長伸びたから」
気づかなかった。彼が立っているところをほとんど見ていないし、座っている時も頬杖ついて、少し丸まっているから。
私は俯き、意を喫して彼女に尋ねた。
「あの、我孫子君、変わった?」
「いや、雫お姉ちゃんの方がよっぽど変わったと思うけど」
いや、それはそうだけど。
「あの頃から胸は大きくなると思っていたけど」
どんな目線で私を見ていたの。幼稚園児。
「似合わない眼鏡つけて、綺麗な髪の毛を無理に縛って、なんか凄く痛々しかった」
「うん、ごめん。私の話は良いから。それよりも我孫子君の話を」
今となってはあの姿。思い出すだけで結構恥ずかしいから。
「うん、お兄ちゃん変わったよ。一言でいえば『くず』になった」
「いや、流石にそれは言い過ぎじゃ」
「じゃあ『くず君?』」
「人を侮辱する言葉に君、さんをつけても丁寧にならないよ」
「くずゆ?」
「うん、もぅ、それ別のもの」
思わず吹き出す友衣ちゃん。
「アハハハ、やっぱり雫お姉ちゃん、そんな感じなんだ。あの頃はなんというかシェルター張って、人と出来るだけ深くかかわらないようにしてたようにみえて。でも、それがとても不自然に見えて」
「……」
流石あの母親と我孫子君の妹。
空気の読めるコミュ力モンスター。え、それって最強じゃない?
「何があったの?何があったの?」
キラキラ輝くそのブラックホールのような瞳から当然逃げることが出来なくて。
「うん、実はね」
私は話した。当時我孫子君に話した話を。
店の前のベンチで隣同士に座っていた私達。隣に座る友衣ちゃんは私が話終わるや否や、持っていたジュースを一口飲んで。
「なるほど、それでお兄ちゃんのことを好きになってしまって、でも、自分が頼んだ手前引っ込みがつかなくなった。
でもそれをやる必要なくなったという、大義名分が出来たから、自分が元来持っていた武器を振り回して、堂々と殴り込みに来たと」
「突っ込みどころが多すぎて、収集つかないよ!正しいと思うけど、もっと言い方に気を付けて。私にも配慮して!」
「お願いします。お兄ちゃんを助けてあげて」
頭を下げる友衣ちゃん。
時間が止まり、空気が変わった。それを確かに感じ取った瞬間だった。
「ちょ、ちょっと頭上げてよ!」
顔を上げた友衣ちゃんは慌てる私にニコリと笑いかけて、我孫子君の今の、現状について話してくれた。
小学六年の時に言われた言葉から自信をなくしてしまったこと。
中学になって、身長を理由に色々な部活に勧誘されたけど、元来の運動音痴もあり、それでも努力はしたが、皆から一斉に見捨てられて再起不能になってしまったこと。
「まぁ、それだけじゃないんだけどね。色々重なりあった結果、あんな風になっちゃったの。
だから、彼女でも出来れば、変わるんじゃないかと思ってね」
とても楽しんでいるように思えない。この子は本気で兄のことを心配しているんだと思った。
私はすっと立ち上がって、自分の胸に手を当てた。
「任せて、私が必ず我孫子君の彼女になるから!」
その姿を茫然と見ながら、
「恥ずかしくない?」
私の顔はみるみる赤くなる。
「わかっていて、その表情するのやめてくれないかな?」
私達は同時に吹き出した。
「アハハハ、格好いいこと言ってるけど、それって、ただ単に本来のお姉ちゃんの目的を達成させようとしているだけだからね」
「慈善事業よりも、よっぽど信用できるでしょう?」
「雫お姉ちゃん、本当に変わったね」
「友衣ちゃんも。頭打って、前世の記憶を取り戻したとか、そんなんじゃないよね?」
「な、何故それを!そうなの!私、頭脳は大人、見た目は美人の友衣ちゃんなのです!」
「自画自賛が甚だしいね」
その後いくつか他愛もない会話をして、解散しようとした時にメルアドを交換した。登録名を『ゆいばぁ』にしようとしたら、当然却下されて、どこぞのスパムメールの差出人みたいな登録名にされた。
それを見て目がチカチカする私の方がよっぽど、ばぁさんだと思った。
次の日から私は積極的にクラスメイトの為に動いた。
まず、委員長に立候補して、立場的に誰に優しくしても問題ないような立場になった。
『なんで、優しくしてくれるの?って、聞かれる方が面倒』
かつての彼の言葉だ。確かにこうなってくると、その言葉の意味合いが全然違ってくる。
そして委員長として誰にも平等に接することに徹した。
「これ、一緒に運ぶよ」
「日直の仕事手伝うね」
「うん、そこはねこうやって解くんだよ」
とにかく、クラスメイトに優しくした。理由は至って単純で、私が我孫子君ばかりに構うと、彼が他のクラスメイトから攻撃を受けてしまうからだ。
全てが彼と話す為のカモフラージュ。
そう考えたら自分が悪女のように思えたけど、その頃の私はそんなこと気にならなかった。
何かを得る為に何かを捨てないといけないのは当然のことだ。
だから私はいくらだって偽善者になれた。例えクラスメイト全員の好感度が地の底まで落ちたところで、彼の好感度さえ、手に入れることが出来るのなら、何の問題もなかった。
我孫子君は全く私のことを覚えてなかった。
あの当時のクラスメイトとか言われても、首を傾げるレベル。どうやら、気合を入れたこの格好が、彼との距離を更に広げてしまったらしい。
でも、決して私は元の姿に戻るつもりはなかった。何故なら、もしあの当時の姿に戻ってしまったら、今の彼を更に傷つけてしまう。
友衣ちゃんの話を聞いていたら、彼は空気を読み過ぎて、傷ついてしまった。もし、あの時の私の言葉を私が今、あの格好で否定してしまったら、当時の私の格好で否定してしまったら、彼は更に傷つく。
だから、彼の彼女になる私は、当時の私じゃなくて、今の私じゃないと駄目なのだ。彼を必要としているのが、当時の私じゃなくて、今の自分じゃないとわかってもらわないと駄目なのだ。
だから、私は一切自分の素性を喋ることはしないと決めた。
だけど彼ほどに空気を読める能力は持っていない。だから、ひたすら言葉を重ねた。話をした。
「ねぇ、何を読んでいるの?」
「今の授業難しかったね」
「そうだ。今度勉強会やるんだけど、我孫子君もどう?」
彼の返事は決まって二つ。無視か、『良いよ、別に』のどっちか。
かつて空気の読む天才は、あえて空気の読まない人災になっていた。
ああ、もぅ。そんな態度取ったら。
「なんだよ、あいつしずくちゃんが折角気を遣ってくれているのに」
「何様のつもりよ」
ほら、そうなっちゃうでしょう。
「ううん、私、全然気にしてないから、クラスを纏めるのは委員長の大切な仕事だから」
クラスメイトのフォローに追われる。
「マジ天使」
「雫ちゃんって、本当に凄いよね。何か朗読している動画を上げても、バスりそう」
そんな感じで、私は八方美人ならぬ、全方向美人に徹した。でも、何か称賛を受ける度に、私の心はチクチク痛くて、それは徐々に蓄積されていく。
「あ~しんどい」
お風呂に入り、湯船に浸かった瞬間に私はおっさんのような声を出した。
元来、私はそんな誰とも仲良くするような性格じゃない。
リーダーの気質もないし、クラスの調和を保つこともない。長年、誰とも深く接することなかった人間が、急にクラスの人気者になって、祀り上げられることになったのだ。その心労は図りしれない。しかもそれが全て私利私欲の為ときている。
自分で言うのもなんだが、まっこと恐ろしい子。
「でも、やらないと」
こうしないと、私は彼の彼女になるどころか、彼の隣に立つことすら許されないのだから。
「でも、思ったよりその壁は大きいかも」
前途多難な未来を考えていたら、のぼせてしまった。
「あれ、本当に芽友君?双子のお兄さんとかじゃなくて?」
そう送った私のメールに友衣ちゃんは、
『あんなのが二人いたら離縁届をだしてやります』
そう返してきた。離婚届を突き出すスタンプと共に。こんなのあるんだ。
「でも、頑なというか、頑固というか、あまりにも前に会った時との印象が違っていて、別人と言われた方がまだ納得するというか」
もちろん本心ではない。ようは上手くいってない現状からの現実逃避みたいなものだった。
『空気を読んでいた男は空気に押しつぶされたみたい。あ、今の上手くありません?』
「上手くないよ。でも、言いたいことはなんとなくわかる」
いくら空気を読んだところで、人の気持ちなんて一〇〇パーセント分かる訳がないし、誰も一〇〇パーセント納得出来る結論なんてない。
それでも彼は読もうとした。
か細い糸を、いや目に見えない、ほんの微妙な流れを、少し息を吐けば吹き飛んでしまう、あっという間に変わってしまうそれをずっと相手にしてきたのだ。
それなのに、我孫子君はその空気に裏切られた。
「ずっと、仲良くしていたものに裏切られるって、どんな気分なんだろう?」
そこまで深く人と仲良くなったこともなく、何かに一生懸命に取り組んだこともない私にとって、到底理解出来ない気持ちだった。
「随分お節介な人なんですね。鬼仏さんって」
そう言われたのは、彼に他愛もない会話を振り続けて、数ヶ月目のこと。もぅ、夏が終わり秋を迎えようとしていた時だった。
「……」
「今度は僕が無視される番ですか?」
私は慌てて答える。
「あ、すいません。初めての長文返答に思わず言葉を失ってしまいました」
彼は訝し気に首を傾げた。
「そんなに僕、喋っていませんでした?」
「はい、喋ってません!」
「そこまではっきり言われるとは」
「嘘のつけない人間でありたいと思っているので」
久しぶりに我孫子君と交わされた言葉のキャッチボールはとても気持ちが良くて、私はノックばりに、すぐ返答を返した。
「ちゃんと、喋られるんだね」
「いや、そりゃ一応は」
「これからも少しずつでいいから、喋ってもらいたいな」
「まぁ、その考えときます」
まさかのツンデレ要素。これは萌える展開ですな。
その日をきっかけに私達は自然と挨拶が出来るようになっていた。
「一緒に帰りませんか?」
そう提案した私のことを一瞥して我孫子君は何も言わないまま、教室を出ていったので、必死で食らいつく。
「あの~聞こえてませんでした?」
「僕と帰っても、何も楽しくないと思いますよ」
「そんなことないと思うよ。言ったでしょう?私は我孫子君とお話したいって」
「本当にお節介な人ですね」
それから彼は付いていっても、突き放すことも、嫌がることもしなかったので、私は彼の半歩後ろを歩いた。
大きい背中だな。
友衣ちゃんの言う通りで、彼の身長は確かに大きくなっていた。しかも体つきも大分逞しくなっていた。
『身長あるのに運動神経悪くて、全ての部活から戦力外通告受けたの』
「……」
その、どこか鍛えられた体を見ればわかる。それで我孫子君がすぐに諦めなかったことを。
彼は必死にもがいたのだろう。それでも、誰もが彼にそっぽを向いた。
思わず胸を締め付けられる。
なんで、私はその時彼の傍にいなかったのだろうか?彼が一番しんどい時に支えてあげられなかったのだろう。
それが今、一番悔しいことだった。
「体調でも悪いんですか?」
いつの間にか彼が後ろを振り向いて、沈痛な面持ちの私にそう尋ねてきた。
「あ、ごめんなさい。ちょっと考えごとしていただけだから」
一緒に帰りたいと言ったのは私なのに、私がぼ~っとしていてどうするんだ。
彼は私の顔をじっと見つめたが、何かを諦めたように俯いて、再び歩き出した。
「どうして、そんなに頑張るんですか?」
そう彼が尋ねたのは再び歩き始めて間もなくのことだった。
「が、頑張るって何が?」
思わず動揺してしまう。
「無理しているように見えるので。まるで自分を着飾って、振りたくもない愛想を、周囲に振りまいて、とてもしんどそうに見えるので」
「そ、そんなことないけど」
失念していた。彼が読もうとしないだけで、読もうと思えば、読めることを。
「そうですね。すいません変なことを言ってしまって」
「あ、あぅ」
思わず吃音を上げる。言おうとした言葉を呑み込む。
これじゃ、雁字搦めだ。
認める訳にはいかない。でも、認めないと彼を更に傷つけることになる。
必死で思考を巡らせて、言葉を選びながら、答える。
「嘘です。実はそうなんです。私はとても、人と話したり、親しくしたり、ましてや、その人の助けになるなんてことは今までしない人間でした。
でも、そうやっているのは、私には待ち人がいて、その人に帰ってきて欲しい人がいるから」
思わず苦笑いを浮かべる。
「変な話ですよね。こうやっていると、その待ち人が帰ってくると思っています。
つまり私は完全に私利私欲の為に人を助けているんです。
ですから、こうやってあなたと話しているのも自分の為です。嫌いなりましたか?」
表情はひきつり、思わず手が震えてしまっている。
当たり前だ。ここで彼に嫌われてしまったら、私は立ち直れない。
皮肉な話だ。数年前までは人に触れない。人に好かれない。人と関わりたくないと思っていた私が、今ではたった一人の言葉の一言で、人生終わるかもしれない程に追い詰められているのだから。この返答次第で、あんなに嫌だった引っ越しを自分から所望することになるのだから。
我孫子君はじっと私を見た後に、ゆっくり口を開いた。
「やめてあげなよ」
「え?」
驚き立ち尽くす私を他所眼に彼は止まることなく歩き続けたので、我に返った私は必死に食らいつく。
「君の待ち人が、なんでそんな風に考えて行動していたのか、どういう信念で、そんなことをしていたのかはわからないけど、その人はようやくその仕事から解放されたんだ。
だから、そっとしてあげた方が良いと思うよ」
「し、仕事って」
「仕事だよ。自分の意思を押し殺して、ひたすら周りが気分よくなるように立ち振る舞う。
それって、接客業や接待とどう違うの?」
どっちもしたことないけど、違うということだけはわかった。
「でも、ほら、そうすることでその人自身も喜びを感じていたというか」
「もし、そうならその人は今でもその仕事を続けているんじゃないかな?」
「ざ、挫折しているだけで、何かのきっかけで戻ることも」
「もし、そうだとしても、それは他人から促されて戻るものじゃない。
人生の中で挫折なんてことは何度もあることだ。
その度に君は同じようなことを繰り返すのか?
神経擦り減らして、慣れないことをして、それでもなんの見返りがないかもしれない。全てが徒労になるかもしれない。
それでも君は同じことをするの?
もし、僕が君の待ち人なら、こう思うだろう」
『余計なお世話だと』
我孫子君の言ったその一言は、私の心の奥深く、なんとしてでも守り抜かないといかなかった防衛ラインをあっさり貫通していき、根本から崩れ落ちた私はその場に立ち尽くした。
「!!!!」
驚く彼の表情を見て、私は自分の額に手を当ててようやく気が付いた。
自分が涙を流していることに。
「す、すまない。別に君のことを否定することも、君の行動を否定する気持ちもないんだ。
ただ、その一つの意見として、言っただけで」
出会って初めてみる彼の人間らしい表情は私の目には届かなかった。
「あ、すいません。大丈夫です。全てわかりましたから」
「え?」
驚く我孫子君を他所眼に「すいません、今日はここで失礼します」と一礼して、私はその場から離れた。
もぅ、十分だった。
なぜなら、その一つの意見が、私の中の全ての答えだったのだから。
そして私の目から再び色々な色が消えた瞬間だった。
※
鬼仏雫。
僕が中学三年間で一番話し、関わりを持って、そして傷つけた相手。
再起を図った中学生活は出鼻をくじかれて、結局小学六年生の延長線上みたいになってしまって、もう全てがどうでも良くなって、クラスという大海原の中に絶海の孤島を作り上げて、積極的に誰とも関わらないようにした。
意味などない。どうせ、卒業したら誰とも会わなくなるのだから、こんなことに労力を使ってどうする。
そう自分に半ば無理矢理言い聞かせながら。
そんな時に鬼仏さんは転校してきた。そして委員長という立場からか、使命感からかはわからないが、積極的に話しかけてきた。
一度か二度下校も一緒になったし、時々一緒に勉強もした。
だけど、中三になってクラスが別れると同時にほとんど話すことはなくなった。
いや、もっといえばその少し前からだ。僕が鬼仏さんのことを、彼女の優しさを全く信じられず拒絶した時から。そして今まで無視していた奴らが、小学校時代から僕のことが気に喰わなかった奴らが、直接的に攻撃をしかけてくるようになった。
別にそれ自体はどうでも良かった。昔から周りの奴らが子供に見えて、どこか達観していた性格は中学の頃も健在だったので、特に辛いとかしんどいとは思わなかった。
気になったのは、あのいじめが起こったのは自分のせいだと、鬼仏さんが自分を責めていないかという、ただそれだけだった。
「結局、言えなかったな」
窓からは西日が射しこみ、文学少女でもいたら、とても絵になりそうな閉館まで後一時間程の図書館。
鬼仏さんの話をサツキから聞いて、彼女のことを思い出すと同時にとある本のことが脳裏に浮かんだので、探しに来たのだ。
「あ、あった」
本棚から取った本の表紙には『モモ』と書いてある。
『モモ』は有名作家『ミヒャエル・エンデ』によって書かれた傑作。
とある廃墟となった演劇場に住んでいる『モモ』という名前の孤児と彼女を取り巻く人々のこと。そして『時間』という、永遠のテーマが題材となっている。
かといって別に哲学書とか思想本とかそういうわけでもないので、とても読みやすい絵本である。
でも、正直この本を気にいったのは内容云々ではなく、ただ単に『モモ』に憧れたのだ。
僕は一般の小学生にしては少しずれていたと思う。
クラスメイトの皆が敵を倒すヒーローに憧れて、その仕草や動作といった一挙手一投足に夢中になっていた頃、白黒つけることが格好いいと思っていた時、僕はひたすら灰色を目指していた。
誰が勝つでもなく、かといって誰が負けるでもない。喧嘩両成敗というわけではないが、誰もが満足することはないが、一方的が一方的に損害を被ることがない、そんな状態を目指していた。
だから『モモ』の能力である『本当に聞く力』というのは、当時の僕にとっては憧れだった。
「懐かしいな」
表紙をじっと見つめ、なぞるように指で触ると、とても感慨深いものがあった。
もちろん、この本を僕は持っている。いや、正確にいえば持っていたのだ。
中学の頃。いじめが無視から直接的な嫌がらせにエスカレートした時に小学校の頃から僕と隔たりがあった奴らに取り上げられて、その本の見開きのところで虫を潰されたのだ。
虫は真っ白の表紙の上でグロテスクに潰れていて、それをクラス中に見えるようにして、振り回した。
しかしいくらその虫の死骸付きの本を大事そうに抱えている僕のことを罵倒しようとも、我関せず悔しがろうとも、泣きわめこうともせずにただ、黙っていたのが気に喰わなかったのだろう。一度奪い返した本を更にとられて、そいつらは教室の外に飛び出していった。
後を追ったが途中で見失った。
でも、諦める訳もなく、学校中のゴミ箱をあさる覚悟で、校内をうろついていた時だった。どこからともなく叫び声が聞こえたのだ。
何事かと声のする方向に歩いていくと、特別棟の一階廊下のところに人だかりが出来ていた
そして近づこうとした時、その人だかりから鬼仏さんが飛び出してきたのだ。
僕の探している本をその胸に抱えて。
その本が僕の本だったのかどうかは定かではないし、確かめようもなかった。
クラスメイトの奴らの話に聞き耳を立てて手に入れた情報によると、どうやら鬼仏さんはあのまま、学校を飛び出したらしい。土砂降りの雨の中、傘も差さずに。
そんなのよっぽどのことがあったのだろうと思い、とてもその日のことを聞くことは出来なかった。
だからサツキに鬼仏さんの話を聞いた時、あの日のことを急に思い出して、急に『モモ』を読みたくなったのだ。
「鬼仏さん。あなたにあの日、何があったんですか?」
決して答えの返ってこない、独りごとのようなそれは、図書館の静寂の中に埋没した。
※
雫の話4
次の日、私が目を腫らしてきたこともあって、あっという間にクラスメイトに囲まれた。
「どうしたの?」
「何があったの?」
「あ、ごめん。何でもないの。ただ、昨日みた映画に感動しちゃって」
そんな幼稚な嘘は当然の如く通用しなかった。
どうやら誰かが見てしまったらしい。我孫子君の元から泣きながら逃げ出す私を。
「おい、てめぇ、何やったんだよ」
「女の子泣かすなんて信じられない」
彼はあっという間に、皆から攻撃を受ける存在になってしまった。
「ち、違うの。その、私が」
慌てて弁解しようとしたが、昨日の話をする訳にもいかなくて、答えあぐねている私に。
「委員長という責務に駆られて、ぼっちの僕にも優しくしてくれたらしいが、そんなのお節介だと突っぱねた。
ほら、これでわかっただろう?
僕に関わってもロクなことにならない。だから、僕のことは放っておいてくれ」
クラスの中は沈黙に包まれた。私は空気を読む力はあまりないけど、その時、確かに聞こえた。
空気ががらりと変わる音を。
唯一繋がっていると思われるか細い糸が、ぷつりと切れた音を。
その日から、彼に無関心だったクラスメイト全員が彼に関心を向けた。
悪意という最悪な関心を。
『お兄ちゃんが今日、上履きとジャージで帰ってきたんだけど、学校で何があったの?』
友衣ちゃんから来たメールに私は胃が握り潰されるような感覚に襲われた。
「うっ」
吐き気を催して、私はトイレに駆け込んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ」
そんな日々がしばらく続いて、私の体重は5キロ減った。でも、私が疲れた表情や、暗い顔をしていたら、我孫子君の嫌がらせが日々エスカレートしていった。
だから出来るだけ平静を装っていたのだが、笑顔も歩き方も、雰囲気も、どこかぎこちなくて全く意味がなかった。そんな自分に腹が立って、更に荒んでいった。
彼への嫌がらせは、最初は無視やSNSの悪口の書き込み程度のものだったが、元来無視されていて、彼がそのような書き込みをみないこともあって、更に悪質な直接的なものに変わっていった。
そして今日、彼の靴はゴミ箱に捨てられて、濡れ衣を着せられてやっていたトイレ掃除の最中に水をかけられたのだ。
もちろん私は必死でかばった。最初は優しいとか、天使だとかもてはやされたけど次第に。
「なんで、そんなに庇うの?」
「もしかして、好きなの?」
「わぁ、なんであんな奴。ウチの思い人振っといて」
完全に敵にまわっていた。
といっても直接的なものはない。ひたすらSNSの書き込みと、陰口だけだった。
心が痛くないといえばウソだが、あまり気にならなかった。
何故なら、私がそれに対して苦しむ権利も、ましてや人に助けを求める権利もなかった。
むしろ、責められて当然の結果だったのだから。
下校したら、いつものように飛び込むようにトイレにこもって、数十分。ようやく落ち着いた。夕方には帰ってくる母には絶対バレたらいけない。
祖母にはあっさりバレてしまったが、母には絶対言わないでという私の願いを聞いてくれた。
「いつでも来るんだよ」
優しくそう言われたが、私にそんな権利はないと思いながらも時々は顔を見せないと流石の祖母も動きかねないと思い、顔だけは見せていた。
「ごめんなさい。それ、私のせいなの。私がもっと上手くやればよかったのに、失敗しちゃって」
友衣ちゃんからきたメールを返すのにも、随分時間がかかった。それだけで我孫子君にも私にも何があったのか容易に想像できたのだろう。返信は素早く何も追求はなかった。
『こっちもごめんなさい。お兄ちゃんのことは私がフォローするから、雫ちゃんは自分を守ってね』
「フフフ、本当に小学四年生?」
あまりにも察しすぎる彼女の一言に私は苦笑い一つ。
「そんなの無理だよ」
涙を零しながら、そう呟いた。
三年生になった。教師の介入とクラス替えもあってか、それとも友衣ちゃんや祖母が動いてくれたのか、あるいは何をされても学校を来ることを辞めず、ただ、ただ無反応だったので、飽きたのかはわからないが、直接的なものや私に対する露骨な嫌がらせは無くなった。
それでも、私と彼が孤立しているのは変わらなかったし、頻度は減っても、彼への嫌がらせはまだ続いていた。
そんなある日のことだった。私は見てしまった。本をゴミ箱に捨てているのを。
そしてそれはかつての小学校の頃のクラスメイト。女子一人に男子二人の三人組。
私はその本に見覚えがあった。忘れる訳がなかった。
それは彼があの日、私の家に初めて来たときに見ていた、彼の愛読書だったのだ。
思い違いかもしれない。そう思いながらも彼らが去った後に、ごみ箱を漁り、ボロボロの本を取り出した。そして見開きを開いたところに書いてあった『あびこめい』というのをみて、息が詰まった。
そしてそう書いてあった上には瞑れた虫の死骸が張り付けてあった。
「あれ、雫ちゃん。どうしたの?あ、それ手近にあったから思わずそれで虫を潰しちゃったから捨てたんだよ」
ゴミ箱にこの本を捨てた三人組の中心に立っていた男子がニヤニヤ笑いながらそう言った。
「え~雫ちゃん駄目だよ。そういう時はキャアーって叫ばなきゃ。美女が叫ぶっていうのはきっと乙なものだよ」
「アハハハ、あんたらひどすぎ」
笑いながらそういうクラスメイト達の下卑た声など、私の耳にはとっくに届いてなかった。
「何読んでいるの?」
「本」
「我孫子君って、そういう冗談言える人だったんだ」
「アハハハ『モモ』っていう絵本だよ」
「ふ~ん、面白いの?」
「内容はもちろんだけど、僕は『モモ』になりたくて」
「え、女の子になりたいの?」
「皆瀬さんって、そんな冗談言える人だったんだ」
「フフフ、『モモ』の何になりたいの?」
「彼女はね、色々な人の相談に乗るんだ。でも、別にアドバイスを言うでも、慰めの言葉をかけるでもなく、ただ、聞くんだ。
彼女には話を聞く才能があったんだ。それが凄くて」
「話を聞く才能?」
「うん、彼女に話をすると、皆勝手に自分の中にある答えを引っ張りだすことが出来るんだ。
僕もそんな人になりたくて」
「さすがめぃじぃ」
「君もその呼び方をするのか」
昔に交わされた他愛もないその会話が私の中でフラッシュバックして、自然に私はその本を抱きしめるように胸に押し付けていた。
「うわぁ、キモイ」
「汚れたね、制服。着替え手伝おうか?」
「ヤラシイ~あ、でも、そんな体系してたら仕方ないよね」
「……ふざけるな」
「え?」
「ふざけるな!!!!!!」
気づいたら私はそう叫んでいた。
「あなた達はいつもそう。私の体系や容姿だけ見て、ちかづいてきて、私の体や顔といった容姿。上辺だけの性格をほめる。
綺麗だね、とか!カワイイね、とか!優しいね、とか!
何様のつもりよ!
小学校の頃は眼鏡をつけて、髪形が違うだけで、誰も何も言わなかったのに!」
もぅ、そこには皆が持て囃す美女はいなかった。顔をぐしゃぐしゃにして、鼻を垂らして、泣きじゃくる不細工以外何物でもない女がいた。それでも止まらない。
「そんな私に話しかけて、話してくれたのは彼だけだった。不愛想で不細工な私を、ひたすら陰で支えてくれた!
あなた達もそうだったんじゃないの?
彼がいたおかげで、小学校生活皆、気持ちよく暮らせたんじゃないの?それなのに、今は、今は」
思わず膝から折れて、その場に座り込む。
「酷いよ、酷いよ。なんで、こんなひどいこと出来るのよ。なんで、あれだけ傷ついた彼がまた傷つけられないといけないのよ。もう、放っておいてあげてよ」
いつの間にか人だかりが出来ていた。
座り込み泣きじゃくる女子の前に立つかつてのクラスメイトは流石に周囲からの視線に罰が悪くなり、逃げるようにその場を去っていった。
「君大丈夫か?」
先生の一人がしゃがみ込み、手を差し伸べてくれたみたいなのだが、私にはそれが全く見えてなくて、ゆっくり立ち上がり、必死でその本を抱きしめながら、歩き出した。
皆、そのヒステリックに叫んだ女に触れまいと、遠巻きで見ながらも道を開けた。
そして私は人生で初めて、学校を無断で出ていった。
※
結局閉館時間を知らせるアナウンスが鳴るまで、僕はその場に立ち尽くしていた。
「どうして鬼仏さんなのですか?というかいるんですね。そちらの世界にも」
『いるわよ~』
そんな、待ち合わせ場所に来ているかどうか確認した時みたいな軽いノリで言われても。
まぁ、向こうの世界はこちらのパラレルワールドみたいなところなので、別にいたところで不思議ではないのだが、どうして彼女なのかは正直よくわからない。
「確かに、中学時代に一番話したのは彼女かもしれませんが、でもとても鬼仏さんが僕の彼女になるという想像がつきません」
『想像がつくほど、つまらない恋愛はないわ』
そんな格言みたいにいわれても。
『大丈夫。私の言う通りにしたのなら、必ずあなたと彼女は結ばれます』
今度は新興宗教の教祖みたいになってる。
確かに鬼仏さんが彼女になってくれるというのはとても魅力的ではある。
あまり彼女の人と成りについて、良くは知らない。でもなんとなくだが、悪い人ではないような気がする。
なにより、サツキが僕を不幸にするような人を彼女に指定するとはとても思えないし。
でも。
「すいません。少し考えさしてください」
即答出来なかった。
別に鬼仏さんが嫌とかそういうわけではないし、こんなズルみたいな方法で彼女と結ばれることに特に抵抗はない。
でも、どうしても今は違うような気がした。
それが僕に問題があるのか、それとももっと違うどこかにあるのかはわからないが、今、鬼仏さんに彼女になってもらうために近づくのは間違っている気がしてならなかったのだ。
『わかった。でも、いつまでも待たないわよ。そうやって問題を先送りにするのは、私の悪い癖だからね』
というわけで一週間以内には返事を出すということで、話は保留にしたのだが、
「どうすればいいんだ」
図書館の帰り道。夕暮れの中、僕は家路に向かう。バックの中に借りた本を入れて。
五月もそろそろ終わる。本格的な梅雨のシーズンに入ってくるせいか、空気が纏わりつく。
問題がわからない問題に答えを出そうとしているのだ。いくら考えてもわかる訳がないのに、答えを出そうとしている。いかに無謀で、下手したら‥‥‥いや高確率で無駄になる行為だ。
「中間も近いのに」
現実的な問題が、答えを出そうとする問題を阻害しているのも一つの要因かもしれない。
あの日から鬼仏さんの周りには傍目から見て気づくぐらいに人がいなくなった。
でも彼女はどこか晴れ晴れしていた顔をしていた。
まるで気軽に話す誰かと出会ったみたいに。
だから本のことにもあの日のことも聞くことが出来なかった。大して必要性も感じなかったし、鬼仏さんが持ってくれているとわかったら、返してもらおうとも思わなくなった。
あの時の僕はもぅ、鬼仏さんと関わることはないと思っていた。
彼女もどこか僕から距離を取ろうとするみたいに、前までみたいに話しかけることもなくなっていたし。
しかし出会いは再び、しかも結構すぐに訪れた。
「頼むから、堂々とそんなこと言わないでくれよ」
修学旅行の班決めの時、全く席から動こうとしない僕に先生が寄ってきて『修学旅行サボりますので』と言ったら、中年の男性教師は頭を抱えてそう言った。
「これでも気を遣っているもつもりなのですが。ババ抜きのババになるよりは」
「ああ、もぅ」
「先生もそんなに考えなくて大丈夫です。これが問題になったら必死に弁明しますから。僕の正真正銘の意思だと。なんなら泣きながらヒステリックに叫びましょうか?」
頭を抱え続ける教師はしばらく唸っていたが、何かを思い出したように、ぽんと手を叩いた。
「そうだ。お前、今日の放課後少し残れ」
「え、嫌ですけど」
即答した。嫌なことされても黙っているけど、嫌と言って良い相手にはすぐ嫌といえる人になりたい。
「ちょっとはいいだろう。別に説教とかどこかに突き出すわけじゃないから。あわせたい奴がいるだけだ」
そしてその日の放課後。僕は再び鬼仏さんと邂逅した。
そしてクラス別々でやっていたババ抜きのババ同士、二人で修学旅行の自由行動を回ることになった。
「あの時の鬼仏さん、綺麗だったな」
薄く青みがかった彼女の髪の色が暖色系の色で染まった桜舞い散る、春の古都にとってもあっていて、こんな綺麗な人と二人っきりで班行動をするなんて。
まるでデートみたいなその状況は僕にとって役得以外何物でもなく、あれだけ嫌がったのに、来て早々その考えを百八十度ひっくり返し、来て良かったと思った。
でも、すぐに僕のHPは尽きた。
「大丈夫ですか?」
心配そうにこちらを見る鬼仏さんに僕は頷くのが精々だった。
体力に自信がなかったわけではない。でも、久しぶりに歩く人ごみとどこに行くにもつきまとう、僕の日常に溶け込んだはずの坂が容赦なく牙をむいたのだ。
ノスタルジックな坂って、角度が急なんだな。
そんなどうでもいいことを考えながら、清水寺に向かう坂を登っていたところで、遂に僕は力つきた。
「ごめん」
「大丈夫、班員は私達二人だけなので、そこのベンチに座っていて下さい。私、飲み物買ってきてます」
そう言って鬼仏さんは去っていく。
ええ子やな。
是非とも幸せになってもらいたい。
そんな姪を心配するおじさんみたいなことを心の中で呟いた。芽友だけに。
『流石にそのダジャレは心がとても綺麗で穏やかで、駄目なお兄ちゃんを聖母のように受け入れる妹でも許すことは出来ないよ』
そんな幻聴が頭の中に響きながら、ベンチに横になる。
「あ~そういえば、あのミッションどうしようか」
どう考えても、頼むのは鬼仏さんしかいないのだが。流石に同室の先生に頼むのは無理だし。
というか、そんなものをみせたら妹はきっと妹じゃなくなるだろう。
そんなことを考えていたらいつの間にか眠ってしまい、微睡の中で見たのは、二つの膨らみと真下から見た真っすぐ前を見る彼女の横顔だった。顎のラインがとても綺麗だと思いながら、何かとても温かで穏やかな感覚に僕の意識は再び夢の中に落ちた。
「あ、起きましたか」
目を覚ました時に写り込んできた鬼仏さんのとても綺麗な横顔に見惚れていたら、笑顔で話しかけられて、慌てて目を逸らした。
「あ、すいません。結構寝てました?」
ベンチの隣に座る彼女に起き上がりそう言った。
「二〇分ぐらいですかね」
それにしては随分疲れが取れていた。こんな固いベンチの上なのに。最近ちゃんと眠れてなかったこともあって、久しぶりに安眠した気分だった。
特に頭が軽かった。そしてまるで何か憑き物が落ちたように気分も快調だった。
「ありがとう」
「え?どうしてですか?」
「いや、その、なんとなく」
どこか気まずかった僕は話題を替えようと考えたが、見つからなかった。
「それじゃ、行きましょう!」
しばらくして立ち上がった鬼仏さんに続いて、僕も立ち上がった。
一日目は京都市内。二日目の嵐山散策もなんか楽しかった。
どこかゆったりとした気分というのもあるが、人と一緒にいて落ちつくと思ったのも久しぶりだった。
かといって、デートなら間違いなく友衣からゼロ点評価を受ける程にエスコート能力は自分でもわかるぐらいに地に落ちていた。
「楽しいかな?」
渡月橋の真ん中。アーチ状になっている橋の一番高い場所。暖かな京都の中でも少し肌寒い川風の空気がフワフワした思考に冷静さを取り戻したこともあって、僕は前を歩く鬼仏さんにそう言った。
「楽しいに決まってます!」
気を遣ってくれているのかもしれない。それでも。
「楽しいですか?」
そう言った彼女の笑顔に僕が嘘をつけるわけもなく。
「うん、楽しいよ」
「なら、良かったです」
その時思ってしまったのだ。
風にたなびく彼女の綺麗な黒の中に僅かにあるスカイブルー混じりの髪を。
スカートの後ろで手を組み、こちらを覗き見るようなその姿勢を。
僕のことをじっと見つめるキラキラしたエメラルドグリーンの瞳を。
彼女を現在構成する全ての要素を、
「写真撮っていいかな?」
手元にずっと残しておきたいと。
「え?」
目を丸くする鬼仏さんの顔がようやく僕の思考に冷静さを蘇らせた。
「あ、すいません、あの、その」
そこで傍と友衣の言葉を思い出して、頭の上に登っていた血がすっと引いていった。
僕は頭を掻きながら、彼女から目を逸らすように川の方に目をやる。
「妹が、写真撮ってきてくれって言ったんだ。
そのご存じの通り、僕はこんな感じだから、妹に心配かけていて。修学旅行に行く時も一緒にいてくれる人がいるのかって聞かれて。いるって言ったら、写真撮ってこいって言われちゃって。
どうしても断れなくて。だから鬼仏さんに頼みたくて、駄目かな?」
そう言って、顔をあげた鬼仏さんの方を見ると、その瞳からは涙が零れていた。
「え、ちょ、ちょ、そんなにイヤだった?」
当たり前だ。僕達は単なるババ同士の関係。写真を撮るなんて、失礼極まりない。
「すいません、忘れて下さい。だから泣き」
「嬉しいです」
「え?」
そう言って彼女は涙を拭い、笑顔を浮かべ、手を差し出す。
「スマホ、貸してください」
「あ、はい」
言われるがまま、僕は彼女にスマホを手渡すと、それを近くにいた観光客と思われる子供連れの男性に渡し、戻ってきた鬼仏さんは僕の腕に飛びつくように抱き着いた。
「え、え、え」
戸惑う僕に、鬼仏さんは桜のように頬をピンクに染めて、ニコリと笑った。
「ほら、ほら、我孫子さんが言ったんですよ」
そう言って僕の腕を力強く引っ張り、橋脚にもたれかかるように、二人並んだ。
近い。近い。近い。てか当たってる。
僕の右腕に彼女のふくよかな胸が当たり、一気に頭が真っ白になり、彼女は僕の肩に頭を置いて。
「お願いします」
と、叫んだ。
とても良い匂いと、手にあたるその感触に、僕は頭が真っ白になり直立不動になった。構図としては何かのマスコットキャラと一緒に撮る女の子に一番近かった。
しかしそれが逆に良かったらしく、男性はスマホを鬼仏さんに渡しながら、
「初々しいね。素敵な一日を」
どうやら付き合いたてのカップルに間違われたらしい。
「カップルと勘違いされちゃいましたね」
頬を赤く染めながら、ニコリと笑う彼女を僕はその時直視出来なかった。
「その写真、プリントアウトして下さいね」
「あ、はい」
その時、IDを交換して欲しいという勇気は僕にはなかった。これ以上望むのは罰当たりだと思ったからだ。
それぐらいに、間違いなくその日、僕がもう一度この世界と真剣に向き合ってみようと思え、この中学生活の全てが最悪じゃなかったと、救われた瞬間だった。
「そういえばこの写真見た時、友衣滅茶苦茶驚いていたな」
その時の写真を自室のベッドに寝そべりながらじっと見つめる。
まさか女の子と撮ってくるなんて思わなかったからだろうか。それでも一瞬浮かべたあの時の表情は未だに忘れない。
まるで、何かに気付いたような、悟ったような、そんな顔を。
「まぁ、そんなことどうでもいいか」
修学旅行以降の接点は特になかった。全てが元に戻った。良いことも悪いことも。
それから約半年後のことだ。廊下ですれ違った鬼仏さんのことをみて、僕は目を疑った。
なんと彼女は背中の中間地点ぐらいまであったロングヘアーを肩にかかるかどうかのところまでバッサリ切っていたのだ。
学年どころか、学校全体が騒ぎになった。
『学校の中心で叫んだ女が今度は失恋か!』
そんなわけのわからない口コミがSNSで呟かれた。
当然理由なんて聞くことは出来なかった。だけど。
「この顔をちゃんと見ていたら違っていたのか」
写真に写った、笑っているのにどこか寂しい。まるで、これで全てを終わらせようといわんばかりのその顔を。
でもあの時の僕は全くそのことに気付かなかった。
そしてその彼女が特に進学校でもなく、スポーツでも大して有名でもない、僕と彼女以外は同中の生徒がいない片道一時間半はかかる同じ高校に進学した。
そして願っていた。あの案山子の前で。とてもふざけているとは思えないぐらいに真剣に。
「何を願っていたのだろう?」
「パッカパーン、勇者で勇敢でその勇士に誰もが羨む由々しき事態になっている優美で有名な友衣ちゃんがただ今優雅に登場しました。
さて『ゆ』って何回言いましたか?」
相も変わらずノックをするどころか、ぶっ潰す勢いでドアを開け放った友衣はない胸を精一杯張ってそういった。
「希望的意思を込めて、四回で」
「単なる当てずっぽうではないか!」
「いえいえゆうかんな友衣ちゃんにそんなこと言いませんよ」
「フフフ、そうでしょう!」
「ところで今日一九時からのテレビ欄見せて」
「そっちの夕刊じゃないし!
お兄ちゃん、どうした。なんか突っ込みの切れがあがっているような、進化したの?」
「妹との漫才スキルなんてあがってもな。ところでなんの用?」
「‥‥‥安否確認?」
僕は顔を青ざめて友衣を見る。
「そんな顎に人差し指をあてて、可愛く小首を傾げながら酷いこと言わないで。
生きてます。ちゃんとアライブしてます」
「なら、よし!ところで、友衣ちゃんが来たのですから、お茶とお茶菓子を用意しろとまでは贅沢なことは言わないけど、せめてベッドから起き上がりなさい」
兄の部屋に訪れた妹をもてなす兄がどこの世界にいるんだ。
「じゃないと、お兄ちゃんがエロサイト見てニヤニヤしているとお母さんに言いつけるよ」
「何故、スマホを見ていただけで、そうなる」
「消去法です。お兄ちゃん、スマホアプリのゲームはしないし、友達いない。そんな男子高校生がこんな真っ暗な部屋で見ていることっていったら、それぐらいしかないでしょう?
いかがなえ~と、ワニソング?」
恐らく世界的有名な探偵の助手のことを言いたいのだろうけど、絶対伝わらない。なんだ、そのアマゾンの亜熱帯地域のみで聞かれてそうな曲のジャンルは。って。
「え、暗い?」
そこで傍と気が付いた。もぅ、既に日はすっかり落ちて、部屋が真っ暗になっていたこと。
「気が付かなかった」
そう言って、僕はベッドから起き上がった。
「ほら、安否確認も終わっただろう?着替えるから、さっさと出ていってくれ」
制服のまま寝そべってしまっていたので、しわになる前に着替える。
「お構いなく」
「構うわ!どうしてその場にしゃがみ込む」
「あ、そうだ用事思い出した。これ、コピー撮ってきてくれない?」
そう言って、友衣は右手の指で摘まんだA4用紙の紙をヒラヒラと振る。
「なんだ、ラブレターへの返事か?」
「ちょっと、断るのが面倒だから、お断り文章をコピーして使いまわしているみたいな言い方しないで!」
流石コミュ力モンスター。それだけでそこまで察するとは。
「違うのか?大体、父さんの部屋に複合機あるじゃないか」
「お父さんの部屋、この前お母さんが滅茶苦茶にしてから、外出中は常に施錠している」
そういえばこの前帰ったら父さんが廃人になっていたな。
「だから『フーコ』までよろしく」
近所のスーパーにコピーも取りにいけない勇者って。
「わかりました。行ってきますよ」
「おぅ、随分素直だね」
まぁ、考えたいこともあるから夜風にあたるのもいいだろう。
「ご褒美に妹に何か一つ質問できる権利を与えます」
「妹にちゃんとノックしてから扉を開けさせる方法を教えてください」
僕の願いに友衣は笑顔でどこかのおばちゃんのように手を振る。
「やだな、お兄ちゃん。そんなことしているの、この扉だけだよ」
「一番達悪いわ!」
僕は溜息を吐いて、クローゼットから適当にティシャツとズボンを選びながら。
「知っているよな、案山子のこと?」
さっきよりも明らかに違う口調でそう尋ねたので、友衣も真剣な表情でこちらを見上げる。
「あの願いが叶う案山子のこと?懐かしいな。そんなの友衣のクラスでも知っている人少ないよ」
なんでもかんでも廃れる運命なんだな。
「どんな願いだと思う?そんな曖昧なものに必死で頼む願いって」
って、何聞いているんだ。僕は。そんなの友衣がわかるわけがないだろ。
「すまないわすれ」
「二つ可能性があります」
僕の言葉に被せるように友衣は指を二本立ててそう言った。
「一つは藁をも縋る思い。それこそ縋れるものならなんでも縋りたい。それだけ叶えたい願いがあること」
「もう一つは?」
「自分には願う権利さえないって思っている」
「願う権利?」
「うん、願い事はある。でも神様や仏様に願う権利は自分にない。だけどそんな都市伝説ぐらいの代物に願うぐらいなら許されるだろうって、そんな感じ」
なんだよそれ。
「願う権利なんて、そんなもの」
「よっぽど、自分で自分を許せない何か大きな理由があるのか。
それとも、何か恩か罪を感じている人がいて、その人に対して自分は何も出来ないから、せめて願うぐらいはしたい、そんな感じかな」
胸の中に熱い気持ちが立ち込める。
「マジかよ、その人って」
「うん、滅茶苦茶良い人だと思う」
そう言いながら、友衣は立ち上がった。
「だからお兄ちゃん。もし、その人が知り合いなら、その人のお願い事叶える手助けしてあげて」
ニコリと笑う妹の顔に僕の中でもやもやしたものが何か一つに繋がったような気がした。
「ありがとう。友衣!」
そう言って僕は制服のまま部屋を出ていく。すれ違い様に友衣から紙をひったくって。
「一〇〇枚ぐらいコピーしてきてやるから、学年全員の男子を振ってこい!」
「だから違うし!」
そう叫ぶ、友衣の声を背中に受けながら、僕は夜の街に飛び出した。
坂を下りながら僕の中で何か大きなエネルギーが溜まっていくようだ。
でも、きっとそれは新しい環境に飛び込んだ瞬間に爆発するほんのひとときの刹那。今まで何度もあったそれ。すぐにしぼんでしまうだろう。
だからそうなる前に僕は電話ボックスに突撃し、そして叫んだ。
「サツキ!正直、未だに僕は鬼仏さんのことが好きかどうかわからない。
でも、もし、それが彼女の願いを叶える方法に繋がっているのなら、教えてくれ。
よくわからないけど、僕は彼女に幸せになってもらいたんだ。お願いします!」
頭を下げた時、また電話に頭をぶつけた。しかしそんな痛み感じなかった。
それだけ僕は必死だった。
だって、初めてなのだ。誰かの為に、こんなにも何かに全力で取り組んでみたいと思ったのは。
しばらくの沈黙の後。
『学習しないバカは嫌い。だけど。しょうがないな』
彼女の声はとても億劫そうで、しかし僕には、とても嬉しそうに聞こえた。
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