彼(彼女)が話したいのは異世界の自分でした

@esora-0304

第1話 邂逅

『大きく吸ってせーの』

 午前五時。スマホから流れる音楽をまるでゾンビのように手だけ伸ばし、アラームの画面をタップして消す。

 そして再び死ぬ。

 そして五分後に、ようやくベッドから起き上がる。二度寝しても完全に意識を失わないのは数少ない僕こと、我孫子(あびこ)芽(め)友(い)の良いところ。

 雨戸を閉め切っているので部屋は暗い。しかし開ける気もない。そんな気力はない。

「眠い」

 昨日までの大型連休は自堕落な生活を送っていた。

 寝る↓目覚めたらスマホの動画を観る↓再び寝る。

 そんなことを連日連夜続けていたので、当然昨日の晩は目が冴えていて、中々寝つけず、こうやって朝を起きるのがとてもつらい。

「明日から、寝る前のスマホは控えるか」

 誰にいうでもなく、誰に誓いを立てることもないそれは、恐らく破綻するだろう。

 人間とは反省しない生き物である。

 制服に着替えて部屋を出る。薄暗い中でも、外は既に明るいので窓から入ってくる明かりだけで十分に廊下は歩けた。

 歯を磨き、簡単な朝食を済ませて家を出る。家族全員寝静まっているので、扉の開け閉めはいつもゆっくりしている。まるで家族に対する謝罪のように。

 扉を開けた瞬間、腐った僕の瞳(妹談)に容赦なく太陽光が襲い掛かってきたので、思わず右腕で目を隠す。たとえ腐っていたとしても、眩しいものは眩しいのだ。

 鞄を背負い直し、駅に向かって歩き出す。

 僕の住む仁支川市、神新台の標高は高いので、平地よりも気温が二、三度低い。だから五月に入ったとはいえ、この時間はまだ涼しいよりも少し寒いぐらいだ。

 駅に向かう為には坂を下らなければならない。そして当然の如く、下ったら上らないといけないので、帰りはひたすらしんどい。

 長崎のようなノスタルジックな坂道ならまだしも、例え前を見たところで、坂の途中で後ろを振り返ったところで、坂の下を見通せるわけじゃないし、例え見通したところで、朝焼けの海に漂う景色を見られるわけでも、綺麗な夜景を見ることも出来やしない。

 かといって、別に僕はこの街が嫌いなわけじゃない。

 そもそも自分の住んでいる街を好き嫌いで評価する事態が良く分からない。

 住めば都。人間大抵のことなら目を瞑って、たいしたことのないように、やり過ごすことが出来る。

 板チョコタブレットと呼ばれるいくつもの四角形のコンクリートで出来た壁を添うように、坂を下りる。

 美浜公園の脇を添うようにしばらく歩くと、また現れる坂道を下りて、ようやく駅に着く。

 電車は既に着いていて、僕が乗り込むと同時にまるで怪物が目を覚ますように、大きな機械音を鳴らした。

 辺りを見回す。先客は数人。皆、スマホをいじるか、新聞を見るかなど同じ空間にいながら、どこまでも他人で、まるで教室のようだと思う。

定位置である壁際席が開いていることを確認し、そこに腰を下ろして、向こうの車両が見える小さな小窓の淵に頬杖をついて、ゆっくり目を閉じた。

 そして頭の中で今日一日のことを考える。

 いつの間にか一日の始まりに今日の嫌なこと探しをするのが日課になっていた。

 体育、HR、昼休みそしてクラスメイトの女子。

 体育は持久走。それ自体は別にいいのだが、ストレッチは二人組にならないといけないし、高校はどうだかわからないが、持久走という奴はいつも二人組になって、一人が走って、もう一人がタイムを計る仕組みだったのを覚えている。

 昼休みや休み時間。といっても学校の外に出てはいけないし、誰もいないプライベート空間があるわけでもない。赤の他人の集団の中で昼ご飯を食べるというのはなんとも居心地が悪いのだ。

 HR。今日は確か、一ヶ月後に行われる野外活動についてだった。どこにも入れない僕も、きっとどこかに押し込まれるだろう。

 入学して数ヶ月でよく知らない人達とご飯を食べて、風呂に入って、寝る。どう考えても地獄だ。

 まぁ、休むから関係ないのだが。

『来てくれると、嬉しいな』

 突如、頭の中で聞こえたその声に僕はゆっくり目を覚まし、ふと横をみると見知った女の子が目に入ってきた。

 鬼仏(きぼとけ)雫(しずく)。

 車両を挟んで、向こうの窓から見える彼女の顔は動かず、一点を集中しているのをみるとどうやら本でも読んでいるようだ。

 クラスメイト。それ以外に彼女を定義する言葉が出てこない。

 野獣みたいな女子ばかりのクラスの中にいるとても物静かな女の子。

 少し青みがかった黒のショートヘアーにエメラルドグリーンの瞳。高校になって、少し大きめのセーラー服を着ているのであまり目立たないが、中学の頃は丁度サイズのブレザーを着ていたので、スタイルはとても良い。

 そんな彼女が高校の教室の中にいたのは正直驚いた。

 僕と彼女が通っていた中学は中高一貫校だったので、クラスメイトの半分以上はそのままエスカレーターで、高等部に入った。難関私立の受験者、スポーツ推薦、専門学校、それ以外で高等部に進学しなかったのは僕と鬼仏さん以外はいなかったと聞いていただけに、驚きも大きかった。

 そして鬼仏さんは恐らく中学生活で一番話した、彼女だけが唯一の僕の中学の思い出だ。

 でも、彼女を定義する言葉はクラスメイト、それ以外は何もない。

 隠しているわけでも、照れているわけでも、気づいていないわけでもなく、本当に何もないのだ。それだけに鬼仏さんとはよく話して、一緒の時間を共有したのに、とても遠かったのだ。いや、正確にいえば僕が遠ざけたのだ。チキンな僕が。

 電車がゆっくり出発すると同時に鬼仏さんが傾けていた首を上げて、こちらに視線を向けようとしたが、電車は大きなカーブに入って、彼女の姿が消える。次に見た時は、そのエメラルドグリーンの瞳はもぅ、下を向いていた。



雫の話1


彼に出会うまでの私こと雫を、一言で説明すると。内気。人見知り。

一言じゃなくなった。

でも、そんな感じ。別に人と話すのが億劫ではなかったけど、得意でもない。だから必要性がないと思ってから、やらなくなった。

転勤族の父を持った私は産まれてからまだ八年しか経っていなかったのに、四回は引っ越した。二年に一度のペース。オリンピックと同じ。全く興味はないけど。

だから、人と親しくなったところですぐにお別れが来る。だから出来るだけ親しくならないようになった。そして決定打になった出来事が幼稚園の年長にあった。

某テレビ番組の有名な企画。テレビに向かって謝罪するというもので、幼稚園で一番の人気者が選ばれて、その謝罪が、

「雫ちゃんが好きでごめんなさい」

 だった。

 当然、遠回しに断った。

だって好意を持たれたところで、すぐに引っ越すことがわかっていたので、相手に悪いと思ったから。

我ながら、可愛い気のない思考の幼稚園児だと思うのだが、環境がそうしてしまったのだから、私は悪くないと思う。

 あっという間に皆が敵になった。

テレビのほほえま企画が私の処刑台になってしまった瞬間だった。

 だから、出来るだけ人と距離を置くようになった。

 だけど私はどうやら可愛い分類に入るらしく、素っ気ない態度も、全く喋らない態度も、にぎやかでわがままな周りと比べたら、とても好感が持てたらしく、

「ねぇ、ミヤちゃんがヒデ君に告白したら、シズクちゃんが好きだって断られたって。どうしてくれるの!」

 逆に聞きたい。どうしたらよかったのよ。

 だから次の転校先。つまり、この街、仁支川市のマンションに引越した時に、私はビン底の伊達眼鏡と三つ編みを身に着けた。

 はい、イモです。

 おかげで誰も近づいてこなかった。転校の時の自己紹介の時も、

「皆瀬(みなせ)雫(しずく)です。あんな可愛いヒロインとこんな地味な私が、同じ名前でごめんなさい」

 と周囲をドン引きさせた。ちなみにその自己紹介は『ごめんなさい事件』命名私、への皮肉だった。

 因みにその映画はパソコンで見た。なんでもサブスクで見られる時代。便利。

 そして再び繰り返される、誰とも大して関わりのない二年間が幕を開けたと思った。

 そんな折だった。彼と出会った。

 きっかけは彼の母と私の母がこの街に一件しかないコンビニのパート友達になったことだ。

 ウチの母は転勤先では大概コンビニで働いていた。

「日本全国にあって、便利だから。一から仕事覚えなくて済むし」

 転勤族のパート先としても便利なコンビニだった。

 母もそんなに話す人ではないのだが、彼の母がコミュ力の鬼みたいな人らしく、あっという間に母から私が学校で友達出来ないことを聞き出した。

そして私の部屋に彼こと、我孫子芽友君を派遣した。

 別に友達が欲しかったわけではないので、自己紹介された時も素っ気ない態度を取って、ペコリと頭を一つ下げただけで、そのまま読みかけの本に目を落とした。

 しばらくしても彼は何も話してこなかったので、私の部屋はとても静かだった。

どれくらい静かというと、母たちが廊下を挟んだ居間で楽しく談笑している声が聞こえてきて『ウチのお母さん、あんなに話すんだ』と娘ながらびっくりするぐらい。

 私はチラリと目線を上にあげた。すると彼は私が座っている自分のベッドと対角線上にある壁にもたれながら、本を読んでいた。しかもその本の表紙に見覚えがないので、家から持参した本のようだ。まぁ、普通勝手に人の家の本は読まないけど。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 なんでこの人、友達の家に遊びに来るのに、本なんて持参しているの?

「どうかしました?」

 私の視線に気づいて彼はニコリと微笑んだ。落ち着いた声に似合わず、とてもあどけない笑顔だった。詐欺だと思うぐらいに。

「なんで、本なんて読んでいるの」

「皆瀬さんが呼んでいるから」

「いや、確かに本は読んでいるけど。え、母に私と友達になってくれるとか頼まれなかったの?」

「はい、頼まれました」

 それが何故に離れた距離で一緒に本を読むという結論に至ったのか。

「だって、別に皆瀬さん今、友達が欲しいとか思っていないでしょう?

 だったら、必要になってからで良いかと思って」

 思わず言葉を失った。そんなこと言われたのは初めてだった。

まぁ、でも当たり前だよね、このどこかズレた二人、まだ小学四年生なのだから。

「どうしてそう思ったの?」

「友達が欲しい人があんな自己紹介しませんよ」

「あんな自己紹介って、え?クラスメイトなの?」

「はい、皆瀬雫さん」

 全然、気が付かなかった。私がクラスメイトにあまり興味がないというのもあったけど、彼自体あまり存在感がないんじゃないかと思う。

「じゃあ、なんで断らなかったの?」

「皆瀬さんが断らなかったから」

 首を傾げる。え、どういうこと?

「本人が友達を作る気がなかったら、君のお母さんから今日、僕が来ること事態を断ると思って。

でも、断らなかったのはきっと、お母さんに心配かけたくなかったから。だから僕も断らなかった」

「……」

 何この人、キモイ。というのが第一印象で、こんな小学四年生いるの?というのが、第二印象。いや、私も多分、大概だと思うんだけど。

「それに、そんな話を母にしたところで、あのバカは『え~そんなことないよ。友達がいらない人なんてこの世に絶対いない。

むしろ、人類皆友達が戦争を消す第一歩。だから、世界平和の為にメイちゃん、お願い』とか言い出すのがオチだと思うから」

 思わず吹き出してしまった。

「アハハハ、なるほど。お互い変な両親を持ってしまったと」

「え、そっちも?」

「ウチのお母さん、全く喋らないから表情読み取らないといけなくて、物心ついた時には私が母に気を遣うようになってた」

「ああ、それウチのお父さんも一緒だ。しかも、父さんの頭の血管が切れた音、母さんには聞こえないらしくて」

「ああ、それうちのお父さんも。いつもお母さんに返答をせかして、お母さんが返答する前に『お前は昔っから、本当に喋らないよな』とか言っているのに」

 マシンガントークする母の声が未だに聞こえてくる。

 我孫子君のお母さんがとても上手くやっているのかもしれないけど、本当にここまで母が喋るとは。今なら我孫子君のお母さんが声真似していますと言われた方がまだ現実味があった。

 私と彼はお互いにお互いの顔を見てニコリと笑った。

「「なんで、結婚したのだろう(かな)」」

 綺麗にハモッタ。

 でも、その結婚が成立していなかったら、私達はいないわけだから、

本当に、ねぇ。なんとも複雑な心境。彼も苦笑いを浮かべている。

 それからいくつかの他愛もない話をしている間に、口を滑らせてしまった

どうして私があんな自己紹介をしたということの経緯を。

ごめんなさい事件から私が武装した理由も。

 彼は私が喋っている間、何も言わなかった。

 聞いているのかな?

 もしかしたらつまらない?

 こんな話されても困るかな?

 そんなことを思い、時々我孫子君の顔を見ると、彼は無言で頷くか、ニコリと笑ってくれたので、私は最後までめんめんと話を続けることが出来た。

 全てを聞き終えた我孫子君は、

「じゃあ、友達じゃなくて、僕を便利屋と使ってくれたら良いよ」

 笑顔でそう言ってくれたけど、流石にそれは罪悪感。

 それが表情に出ていたのか、

「気を遣わないで良いよ。むしろ、僕が皆瀬さんにフォローをする時に『どうしてそんなに優しくしてくれるの?』って、聞かれる方が面倒だから」

 その気持ちはすごくわかった。現に例の『ごめんなさい事件』。それも私が彼に優しくしたのが原因だったし。それに確かにその考えなら

ら、後腐れないと思えた。

「わかった。じゃあ、困った時に頼らしてもらうね」

 後から思えば、あの時の私はどれだけ浅はかだったのか。

 どうしてこんな可愛くない小学四年生の女の子なのに、そこだけ思考が回らなかったのか。

 いや、きっとそのせいだと思う。なにせ小学四年生で初恋もまだだったのだから、そこだけがやたら遅い、とてもチグハグな子だったのだから。

 だけど、私はそれから、我孫子芽友君と出会ってから数ヶ月で初恋をしてしまったのだ。

 誰に?とは聞かないで欲しい。恥ずいから!



「疲れた~」

 久しぶりの学校は本当に疲れる。連休は嬉しいのだが、休み明けは本当にしんどい。

 片道電車で一時間半。寄り道をしなくても、帰ったら五時過ぎ。まだ明るいが、自室のベッドの上でゴロゴロして少しぼ~っとして目を閉じたら、窓から差し込んできた西日が一気になりを潜めて、あっという間に部屋は暗闇と静寂に包まれたのだが、

「ひかえおろう!」

 ノックもしないで、道場破りの勢いで扉を開け放った妹の友衣はよくわからないことをおっしゃって、

「なんで、頭を下げないの?」

 ベッドで寝転がっている僕を見るなり、更にご無体なことをおっしゃった。

いや、そんな可愛く首を傾げられても。

「なんで部屋に入ってきた奴に、部屋の主が頭を下げないといけないんだ。普通逆だろ?」

 ひかえるどころか、仰向けにベッドに寝転びながら、喋り続ける僕の態度がお気に召さなかったのか、(まぁ、当然だけど)友衣はお冠のようだ。

「ちゃんと人の目を見て話をしなさい。友衣ちゃんに失礼だよ」

 友衣ちゃんに失礼かどうかはわからないが、ちゃんとしないと話が終わりそうにないので、黙って従う。

「これでいいか?」

 体を起こし、ベッドの上であぐらをかいて、友衣と向かい合う。

「ひかえおろう!」

「君は何様?」

「友衣様です」

 そんな紀子様みたいに言われても。

「はい、友衣様。それで、こんなみすぼらしい部屋になんの御用でしょうか?」

 膝に両手を置いて、腰だけ曲げてお辞儀をした。

 すると友衣は悦に浸ったような笑みを浮かべた。

「うん、くるしゅうない」

 わぁ〜馬鹿っぽい。

「それで、何の用だ?お兄ちゃんは疲れているから、さっさとしてくれ」

「‥‥‥‥お父さんに頭を下げてまで、遠くの高校に行きたいと言ったのお兄ちゃんだよ?」

 それを言われれば、耳が痛いのだが。

お願い可愛く首を傾げないで。胸が痛い。

「どう?遠い町に行って、知らない人が全くいない学校行けば自分も変われるという都市伝説にすがった結果は?」

「‥‥‥‥もはやそれって、都市伝説レベルなんだ」

「友達一〇〇人作る方が、よっぽど現実味あると思うよ」

「それはお前だけだ。このコミュ力モンスター」

 友衣は母のコミュ力と無口な父の空気を読むスキルを授かり、コミュ力が高い空気がとても読める最強超人になった。

小さい頃からやたら大人びているくせに、こうやってわざと人の気持ちを上げたり、下げたりして、人を掌で転がす能力に長けていた。将来女王様ルート一直線。末恐ろしい子!

 かといって別に腹は立たないし、劣等感に苛まれることもない。むしろ兄として、立派な妹を持って鼻が高いのだが、疲れている時に相手にするのは非常にしんどい。

「それで、結局何しに来たの?」

「ああ、そうだった。ふふ、これを見ろ!」

 そう言って、友衣を最初に見た時から、ずっと突っ込もうか、突っ込むまいか考えていた彼女の右手にあったものを僕の方を見て突き出す。友衣様じゃなくて、黄門様だった。

「その豚バラ肉のパックを見て、どういう反応をしろと?」

 大喜利にしてはハードルが高い。

「お母さんが卵買ってきてって、このままじゃ親子丼の子なし丼になるって」

「卵を買ってきたところで、その両者は親子にはならない」

 大体他人丼を作るにも豚バラ肉って。

「まぁ、まぁ、細かいことは気にせず、お兄ちゃんは『フーコ』に買い物に行けばいいだけだよ!」

 要はお使いに行けと。

「え~面倒だよ。お前が行けよ!」

 家から一番近いスーパーである『フーコ』は駅と家の中間地点ぐらい。つまり二つあるうちの一つの坂を下りないといけない。

「お父さんが、こんな暗い夜道を歩いちゃ駄目だって」

「どれだけ箱入り娘なんだよ!」

 まだ六時過ぎ。暗いといっても真っ暗闇ではなく、地平線は未だにオレンジ色の装いだ。こんな時間から外に出たらダメだったら、中学入っても部活入れないじゃないか。

 だがこれ以上駄々をこねたところで、おつかいに行く事実は覆らないし、晩飯の時間が遅くなることは自明の理なので、大人しく従う。男子高校生とはわかっていても、一度は反発する生き物なのです。

 財布とスマホを制服のポケットに突っ込んで、手にエコバックを持って、部屋を出ていこうとする時にすれ違い様に、

「友衣は待っているよ。お兄ちゃんが『めぃじぃ』に戻るのを」

 思わず吹き出してしまう。

「それじゃ、早く歳を取れって言われているだけに聞こえるな」

「そうじゃなくても、お兄ちゃん達には幸せになって欲しいと『ゆぃばぁ』は願っていますよ」

 友衣の一言に僕は思わず口だけで微笑む。

 現在小学六年生。四年生の頃から急激に伸びた身長。とても小学生とは思えない発達した体。昔は僕のティシャツを掴んで、後方に隠れていた女の子が(おかげでその当時の僕のティシャツの裾はのびのび)今は僕の身長すらも抜かそうとしていた。

 それでも、僕に取っては可愛い妹に変わりはなく、頭にポンと手を置いて、撫でると、友衣はニコリと笑い、

「お父さん~お兄ちゃんにセクハラされた!」

 と、叫びながら一階に駆け下りた。

 前言撤回。

「待てこら!」

 友衣を止めようとするが、当然ながら、伸ばしたその手は空を切った。

 下手したら今日、いやかなりの高確率で家に入れてもらえないので、家の鍵を持って出かけることを忘れずに玄関の扉を開け、すっかり暗くなった灯ともし頃の街を僕はゆっくり歩く。

「この時間に出かけることが出来なかったら、どうしようもない気がするが」

 まぁ、中学になったらそんな言いつけ破って、父もあのコミュ力モンスターの手玉に取られるんだろうな。しかも後方には天然爆弾である母が控える。

勝てる気がしねぇ〜と、苦笑い一つ。そして不意に頭の中に過ぎったのは先ほどの友衣の言葉。

「……めぃじぃか」

 それは僕の小学校のあだ名だった。

 通っていた環陵小学校は元からこの地に住んでいる美浜台の生徒と急ピッチで進んだ開発によってこの街に移り住んできた神新台で微妙に隔たりがあった。

といっても表面的なことではないので、表立っての問題になることはなかった。

実際、普段はなんともないクラスだった。だが、何か小競り合いが起きれば必ずそれが引き合いに出された

 余所者。

 田舎者。

 お互いにそう言って、相手を攻撃する。僕はそれがなんとなく嫌だった。

性格なのか、それともその時読んでいた『モモ』という絵本に影響を受けていたからなのかわからないが、出来るだけそういう時に率先して中立の立場になって、話を円滑に進むように取り組むようになった。

 今の友衣ほどではないが、それでもコミュ力の母と無口な上に空気を読むことに長ける父の遺伝子を受け継いだ僕にもそういう能力があったらしく、いつしか小学四年生にしては大人びた発言と落ち着いた雰囲気も相まって『めぃじぃ』と呼ばれるようになった。

 もちろん、九歳の僕は爺さん扱いされるのはあまり良い気分ではなかったが、それでもクラスが和やかな雰囲気になるので、別に否定する気も正す気もなかった。

「そういえば一人だけ『調停者』って呼んでくれた子がいたな」

 転勤族の両親を持つ子だったので、経った一年で転校していったが、あの子は今どうしているのだろうか?


※ 


雫の話2


「普段はそんなこと全く気にならないけど、いざクラス会とか工作展とかで意見が割れると必ずそこが引き合いにだされるんだよ。

 これだから、美浜台の女は考えが古いんだよ。

 いきなり他所からやってきたくせに!

知らない?年長者を敬うって言葉。そして昔から住んでいる私達は目上。ちゃんと敬いなさいよ。

 みたいな感じで。しかもこのクラス、男子のリーダー格が神新台に住んでいて、女子のリーダー格が美浜台に住んでいるから」

 我孫子君に教えてもらったクラスの現状は、話を聞いただけでも億劫になりそうだった。どうやら最初に人を遠ざけるような自己紹介をしたのは思わぬファインプレーだったようだ。言われるまで全く気づかなかった。

「更に」

「まだあるの!」

「ある。駅近くにあるマンション知っている?」

「ああ、あの綺麗な」

 それもそのはず。あのマンションが出来たのは私が引っ越してくる半年前で、この春からそこに住む人達が新しくこの小学校に転入してきたらしい。

「A棟からC棟までは住所的に神新台。D棟とE棟が住所的に美浜台なんだよ。

このクラスの美浜台と神新台の生徒の比率が今まで二〇対十五だったのに、それによって、十六対十六になった。

 でも、マンションの子達にとっては何処に住んでいるかなんてあまりどうでも良いらしくて、友達や気に入った人につく感じかな」

「なるほど。つまり多数決になる度に人の奪い合いなるってことか」

 今思えば、小学生の教室で起きるような出来事じゃないよね。

「あれ、二人足らなくない?」

 首を傾げる私に彼は自分と私を交互に指さした。

「僕はそういう多数決の時にどっちにもつかないって言っているから。そして、皆瀬さんは諦められている」

 なるほど、私達スイスなのか。それはそれで、気が楽だからいい。それに我孫子君と一緒なのは少し嬉しい。

 でも、その話を聞いただけで、彼があれだけの気配りを出来たのかが、良く分かった。

「まさに『調停者』なんだ。我孫子君が」

 そう言ったら彼は驚いた顔を浮かべた。

「そんな、格好いい言葉を使ってくれるの皆瀬さんだけだよ。他のクラスメイトからは『めいじぃ』って、呼ばれている」

 思わず吹き出す。確かに、中身おっさんかも。

 ちなみに私達は学校では業務連絡以外では喋らず、三日に一度ぐらいお互いの家に行って、お喋りするような間柄だった。恐らく、私に気を遣ってくれていたのだろう。学校では適度な距離を保ってくれていた。

 彼の家に通い始めて、三回目ぐらいだっただろうか。妹の友衣ちゃんと初めて対面したのは。

 四歳年下の彼女の右手は常に彼のティシャツの裾を掴んでいる。おかげで彼のシャツは大概ヨレヨレだった。

「ほら、友衣。こちらが皆瀬雫さん。雫お姉ちゃんだよ」

「ワタシのかぞくは、メイにいちゃんだけ。だから、おねえちゃんじゃない」

 と言われてしまった。

 別に私のことは良いとして、お父さんとお母さんのことは家族認定してあげようよと思っていたら、

「友衣はベタベタされるのも嫌で、父さんの顔を未だに怖いと思っているから」

 と我孫子君は苦笑いで答えた。なるほど、だからブラコンみたいになっちゃったのか。

 と、思っていたけど。

「しずくちゃん。にいちゃんのおよめさんになって。そしたら、ほんとうのおねえちゃん」

 出会って一時間遊んだだけで、お母さんやお父さんのことをほっぽって、私を家族認定する為の具体的な手段を提示してきた。

 あ~我孫子君の妹さんだ。単純なのか賢いのかよくわからない。

 もちろん、私がそれを言われて一瞬ドキッとしてしまったのは言うまでもない。

でも、それが恋心だと気づいてなかった。我孫子君と結婚したら気が楽だろうし、一つの土地に定住出来るのかな~と、そんなことを思ったぐらいだった。

 一番のきっかけはある日、休み時間に本を読んでいたら、クラスメイトに席を囲まれた時だった。

「ねぇ、雫ちゃん。一緒にクッキー作ろうよ」

 今度の調理実習のメニュー。クッキーにするか、カレーにするかという話だった。

 何、その二択になっていない、二択。そしてどっちでも良いよ。

「あ、汚いぞ。皆瀬さんはどっちにも属さないって言ったって、めいじぃ言ってたじゃないか」

 その男子の一言に私は目をパチリとさせた。頭の上に雷が落ちた気分だった。

 え、我孫子君が?言った?

 てっきり、私は私のクラスメイトに対する排他的な態度でどっちにも属さないという話になっていたと思っていた私にはその事実はまさに晴天の霹靂だった。

「別に誘っているだけよ」

「それがキタネェって言ってんじゃないか」

 頭の上で行われるクラスメイトの言い合いなんて全く聞こえない程に、私は混乱していた。

 当たり前だ。私がこの数か月間、何事もなく、平穏な学校生活を送れていたのは、我孫子君のおかげだといきなりカミングアウトされたのだから。

「こら、お前ら何してんだよ!前に言っただろ。多数決の時に不平等にならないように、皆瀬さんは自分の意見を言わないようにしてくれているんだから」

 向こうからかけられた我孫子君の声に、私はようやく理解する。

 そうだ。

私が住んでいるのも彼が住んでいるのも神新台だ。そして私はこのクラス唯一の神新台に住む女子だ。

 つまり、私はとても微妙な立場なのだ。

もし、そのまま神新台の意見に投票してしまうと、女子のリーダー格から嫌われる可能性があり、美浜台にいれると、今度は男子のリーダー格から、裏切り者だと思われる。

だから、我孫子君は私に波風が立たないように影で動いていてくれたのだ。

私の話を正しく汲んで、私に害を及ばないように。しかも私が、まるで身を引いたような感じで。


「『どうしてそんなに気を遣ってくれるの?』って、聞かれる方が面倒だから」

 

 そんなの無理だ。だって、意識しなくても、どう否定しても、思ってしまうのだから。

「どうしてそんなに気を遣ってくれるの?」

「え?」

「!!!!!!!」

 しまった。思わず口に出てしまった。

 私は立ち上がり、逃げるようにその場から離れた。

 でも、彼からいくら離れようとも、むしろ離れた方が想像で補填してしまう。

 いや、無理でしょ。

 だって、私、今まで恋をしたことなかったんだよ。

 それが自分の気持ちを丸ごと汲み取ってくれて、私の意思を尊重する為に影で動いてくれていたなんて、どう考えてもこれは惚れるよ。

 小学四年生で初恋を知ったメルヘナーを嘗めなるなよ。

 結局、私はその日熱っぽいということを理由に放課後まで保健室にいて、一度も教室に帰らずに、そのまま下校した。とても彼の顔を見て平静でいられる自信がなかった。

 そしてその日から私はゆっくり壊れていった。

 第一に、彼に会いたいのに、どんなか顔をすればいいかわからなくて、会わないように、心の中で願っていること。

 第二に、自分から学校で話しかけないように仕向けて、彼がその空気を読んで、話しかけないようにしてくれていたのに、

『空気読んで、話しかけてよ』

 と、すれ違う度に思ってしまう。

どれだけわがままな奴なのよ。天邪鬼も大概にしてほしい。

第三に、彼に会いたくて、話したくて、毎日でも会いたいのに、いきなり今まで三日に一度だったのが、毎日になったら、絶対変に思われる。という、壊れた中でも未だに正常に物事を考えている私の理性が、それを止めた。

「よし、こうなったら、まず友衣ちゃんを吊ろう」

 友衣ちゃんと遊ぶという名目の元、我孫子君ともしれっと、話せばいいのだ。

「よし、我ながら良い作戦」

 そう思った過去の自分を殴りたい。

「おにいちゃんとあそびたいなら、きょうりょくするよ?」

 その芸術的な作戦は、幼稚園の年長の女の子にあっさり看破されて、気を遣われたのだから。死にたい。

第四に、今まで流していた小説や漫画の恋愛描写などに思わず目を止めてしまうようになった。

 こんな恋愛してみたいな、とか。

 こんな風に我孫子君に言われたら、私はどうなってしまうのだろうか、とか。

 中でも一番共感出来たのは、

『君と出会ったことで、モノクロだった世界が綺麗に色づき始めた』

 だった。

 まさしく、その通りだと思った。

 今までの私は出来るだけ、見ない振りをした。感じないようにしていた。そうすることで無駄に気を止むことも、無駄な苦労を背負いこむこともないと思っていたから。

 でも、私はいつの間に色々なところにある色を見つけようとしていた。

 なんでも良かった。

 昨日の夜暑くて寝苦しかったから、ぼ~っと、外の月を眺めていたこと。

 今まで空き地だったところが工事を始めたこと。

 昨日、買い物に行ったら急に雨に打たれて、逃げ込んだバス停で雨宿りしていたら、バスから下りてきたおばあさんが傘を貸してくれて、その人と相合傘して帰ったこと。

 その時に『ごめんね、こんなお婆さんと。今度は彼氏とやりなよ』と言われて、顔を赤く染めてしまったこと。

 朝日に向かって伸びる向日葵。信号の音。マンホールの柄。ほとんど白いペンキが剥がれた逆ゼブラ模様の横断歩道。ひっかき傷の多い、板チョコタブレット。息を切らして、汗を零しながら登り切った坂道の上で感じる風が気持ち良いこと。額の汗をぬぐう度にその髪が移動するおっさん。どこからともなく漂ってくる晩御飯の匂い。

 とにかく色々なものを探して。彼とそのことについて話したかった。

 どうせまた転校するのだから、離れるのだから無駄だと思うどこまでも冷めきった心。

彼と離れたくない、彼と小説や漫画のようなことをしたいと思うどこまでも恋する乙女の心。

その相反する二つの心がせめぎ合う日々はあっという間に過ぎていった。

 そしてその日はあまりにも早く訪れた。

 両親の転勤が決まった。そして流石に空気の読めない私の両親らしく、二年に一度のペースの転勤のペースを崩して、彼といたのは一年だけだった。

 私は初めて、親に反抗した。

 ここに、この街にいたい!と。

 しかし、そんな小学生の我儘なんて聞き入れてもらえる訳もなく、彼も空気を読んで、見送りには来なかった。

 全部私が望んだこと。そして彼はその気持ちを汲み取ってくれた。ただ、それだけのことなのに、なんだろう。悲しいし、無性に腹が立つ。彼にもそして何よりも自分にも。そしてひとしきり理不尽を責めたところで、残ったのはもちろん空虚だけだった。

  結局、私の初恋は私に二つのことを教えてくれた。

 一つは、恋は惚れた方が負けだということ。

 そしてもう一つは何もしなければ、ただ、ただ苦しい思いをするだけだということ。

 だから私は自分に、微々たるその誇りに誓ったのだ。今度チャンスがあったらみっともなくとも、死に物狂いでそのチャンスに縋りつこうと。



板チョコタブレットの坂をゆっくり下りて、少し歩いたら、神新台と美浜台に唯一あるスーパー『フーコ』に着く。

 スーパーといっても最低限の食料品や生活必需品があるだけのコンビニぐらいの大きさだ。併設されている学習塾から小学生達が飛び出してきて、駆け足で帰っていく彼らとすれ違いながら中に入った。

 お目当ての卵を買ってレジに並んでいる時に、レジ前に並んでいた和菓子が目についた。

「一応買っていくか」

 本当に家に入れてもらえない可能性があるので、和菓子好きの父の賄賂として。

 九〇円の豆大福を選んで、卵と一緒に購入。高校生男子が買える賄賂なんてこんなもんだ。

「レジ袋はいらないですよね?」

「はい」

 店員とは顔見知り。そして当たり前のように買い物の時にエコバックを持っていくところから、いかに僕がうっかりものの母に変わって、ここに買い物に来ていることが垣間見えよう。

 卵と大福をエコバックに詰め込んで店を出る。

「さて、どっちから帰ろうか」

 ここから家に帰る道は板チョコタブレットの坂道を登るのともう一つある。といっても坂を登ることには変わりないので、あまり悩んでも仕方ないのだが、中学時代の数々の後悔がどうしてもこういう選択肢がある時に僕を立ち止まらせる。

バタフライエフェクトとか、石ころを蹴った結果で、何かが変わる。とまでは思っていないのだが、外面的にそこまで思っていないのに、内面では結構後悔している自分がいる。

 だから、どうしても悩む。

 少し考えた後に板チョコタブレットとは別の道を進むことにした。

 板チョコタブレットの坂が一気に登る坂なら、こちらは少しなだらかな坂をダラダラと登るイメージだ。

 スーパーを出て、赤信号の横断歩道を待つ。車は一台も通らなかった。

 青信号になったので渡り、目の前にある坂を上る。五〇メートルぐらいのそれを上り切ると公園があり、道路を挟んだその向かい側には住宅一軒分ぐらいの小さな畑がある。

土地持ちの人が趣味でやっているような小さな畑だ。そこの奥さんと母さんが知り合いで、時々トマトやキュウリなどの野菜をもらっている。

その畑の傍に佇む人影が目に入り、僕は思わず電柱の影に隠れてしまう。

「な、なんで、ここに」

 そこに立っているのは鬼仏さんだった。彼女は案山子の前に立ち、目を瞑って合掌していた。

『願いが叶う案山子』

 七不思議の一つ。

 口裂け女やトイレの花子さんのような、どうやって知ったのかわからない。でも、いつの間にか知っていたそんな都市伝説のような類のものだ。

 中学になってからはそのような話は一切出てこないので、僕の住む町のほんの一角の都市伝説というにはおこがましいような代物だ。

しかし七不思議と言っても、実際に全部を知らないので、七つあるのかは謎だ。

そしてその中の一つがこの案山子だ。

 全長約一六〇センチの一般的な、テレビでよくやるリアルな案山子ではなく、一本足の麦藁帽を被っている案山子と呼ばれるそれに願えば、願い事が叶うと言われている。

まぁ、叶ったという話は聞いたことない。現に畑の持ち主のおっさんも、

「ガハハハッ、でも毎年ちゃんと実ってくれるから、ある意味ワシの願いは叶えてくれているのかもな!」

 そんな感じだ。

 まぁ、今思えば、SNSが普及している現代ではかなり胡散臭い話だ。

 その案山子に鬼仏さんは手を合わせている。しかもとても伊達や酔狂でやっているようにはとてもみえない、まるで信者が神に祈るように(みたことないが)真剣な表情で月明り照らされるその佇まいはとても神秘的できれいで、まるで。

「女神みたいだ」

 思わず見とれしまったが、彼女の瞳から流れる一滴のそれを見て、慌てて我に返り、再び隠れる。

「なんで、こんなところに」

 鬼仏さんが神新台に住んでいることはなんとなく知っていたが、彼女は確か中学からこの街に暮らしているので、その噂を知らないはず。

いや、でも中学にもこの街に住んでいた人達もいるので、人気者だった彼女がその手の話を耳にするのはなんら不思議な話ではないのだが、それでも頼み事があるなら、それこそ神社や仏閣に赴けばいいのに。

「てか、なんで隠れているんだよ、僕」

 まるで、体の傷をみたような、彼女の知ってはいけない秘密を知ってしまったような背徳感に苛まれ、出ていくことが憚られた。

 五分ぐらいだろうか。しばらく電柱の傍に隠れていると、いつの間にか鬼仏さんはいなくなっていた。

大きく息を吐いて、電柱の影から出ていき、案山子の前に立つ。

 もぅ、当たりはすっかり暗くなっていて、電灯に照らされる案山子の顔は少し不気味で、ご利益があるようには到底思えない。

「なんで、こんなものに?」

 何だか妙に気になって、しばらくそれを見ていたら、

 リリリリリリリリリリリリリリ。

「!!!!!!!!!!!!!!!」

 心臓が止まりそうだった。いや、確実に僕の心臓は一瞬、止まっていた。

 例えていうなら、後ろから誰かに脅かされた気分だ。でも、それならまだましだ。後ろを振り返ればいいのだから。

「…………」

 振り返りたくなかった。

でも、振り返らざるを得なかった。

放置する方が後々怖くなることは経験上理解していたからだ。だから確かめるしかない。

でも、本音を言えば今すぐにでも逃げ出したい。一秒、いや一瞬でも早く、一ミリでも遠くに。

 道路の向こう。滑り台やブランコなどの遊具が全て撤去されて砂場しかない、単なる広場になった小さな公園の入り口のすぐ側にある電話ボックス。透明なプラスチックの板と緑の屋根と黒色の縁で構成された縦長の四角柱。辺りに街灯はなく、中にある白色蛍光灯の光はチカチカと点滅して、その緑色の物体は現れたり、消えたりして不気味でしかなかった。

音はそこから鳴っているのは確かで、今も鳴り続けているのだが。

「きっと、誰かの着信音だな」

 まずおこなったのは当然の如く、現実逃避。

一人一台スマホを持つ時代に電話ボックスを使ったことなんて、一度もない。

でも、かけ方は一応わかるし、電話ボックスから電話がかかってくるなんてありえないということもなんとなくわかる。

だから、通りかかる人達の着信音にした。

今は着信音だって色々あるし、年配の人がアニメに出てくるような黒電話のベルの音を着信音に使っている人がいることも知っているので、きっと誰かのスマホの着信音だと思い、事実確認にするように当たりを見回した。

しかしその行為は結局、僕を恐怖のどん底に落とすだけだった。

 通りかかるサラリーマンも、学習塾からの帰りだと思われる小学生低学年と思われる男の子も、一応スマホをいじっているが、電話に出ようとしているようには思えない。何の気なしに通りすぎる。そう何の気なしに、何も気にせず、何の音も鳴っていないように、何のリアクションも取らず。

「嘘だろ」

 普通、こんな何もないところで電話の音がしていたら、何かしらのリアクションを取るだろう。スマホの画面から目線を逸らしたり、立ち止まったり、首を巡らしたり。

しかし通りかかる誰もが歩を緩めることなく、ただ、ただ、通り過ぎていく。そしてそれが指し示す答えは一つしかない。

その電話の音は僕にしか聞こえていない。

 その事実は一気に、瞬間的に僕の体を駆け巡り、その場にヘタレ込みそうになったが、ぐっと堪えた。なぜならその音がさっきから『早く出ろ!』と怒っているようにしか聞こえないからだ。

『出ないと下手したら殺される』

 こんな時だけ空気が読めてしまう、自分の中途半端なスキルを本当に呪う。

 行くも地獄。逃げるも地獄。

逃げ出したい気持ちを必死に抑えて、まるでスローモーションのような、ゆっくりとした足取りで、電話ボックスの方に向かう。

 その間も絶えず、電話のベルは鳴り響いている。

切れてくれ。

と、念仏のようになんども願ったのは言うまでもなく、当然耳の中につんざめく、その音は鳴り止むことを知らない。

 どれくらいで辿り着いただろうか。すぐだったのか、それとも数十分かかったのだろうか、電話ボックスの前に立ち、風呂の扉のような折り畳の扉に手をかけ、力を入れると、ギーという鈍い音を立てながら扉はゆっくり開いた。

そこから電話ボックスの中に足を踏み入れるのにも時間がかかった。まるで断崖の絶壁に立っているような、この世とあの世との境に立っているような。

有名な宇宙飛行士の言葉ではないが僕にとって、その一歩は限りなく、果てしなく遠い地へも辿り着けそうな大きな一歩となることが直感的に分かった。

そこまでも躊躇いつつもなんとか中に入り、扉を開け閉め。閉じ込められていないことを確認して、そこにある公衆電話と向かいあう。

 初めて入る電話ボックスの中は圧迫感があって、完全密閉されているわけでもないのに、風は全く通らないのでこの季節には少し温かい。そして何より空気が薄く感じる。

もちろん通常の状態なら酸欠になることなんて絶対あり得ないのだろうが、先ほどから呼吸が完全に乱れている僕にとってはとても息苦しい。

その間も絶えず電話のベルが鳴り続ける。

一体この電話はいつまで鳴り響くのか。

そろそろ諦めて、切れてくれないかな~という一抹の期待を抱いていたが、期待が裏切られる方が遥かに多かった僕にとっては通常運転の結果だ。

 深呼吸して、溜飲をごくりと飲みこみ、受話器を取る。

ガチャリと音がした初めて持つ緑色の大きな受話器はずっしり重くて、とても冷たくて、まさに無機物という感じだった。

 そして耳に当て、

『私、メリーさん』

と聞こえた瞬間、僕は電話を放り捨てて、脱兎の如く逃げ出した。



雫の話3


転校した先でも私の性格は劇的に変化することなんてなかった。当然だけど。

 何もない一日が毎日過ぎていくだけだった。

 同級生の友達がスマホなどを持っているのを見る度に、連絡先を交換しとけばよかったと思わない日はなかった。

 それでも未だに、彼のお母さんと繋がっているであろう、母から連絡先を交換することも、長期休暇に会いに行くことも憚られた。

 何故なら私は自分で言ってしまったのだ。

『人とあまり関わり合いになりたくない。あまり関わり過ぎると、余計に辛くなるから』

 そんな私の気持ちを必死に汲んでくれて、我孫子君は一年間空気を読んで、影から私をサポートしてくれた。

 それなのに私の方からその関係を踏みにじることを今更出来る訳がない。

 だから私はスマホを買ってもらっても、彼の連絡先を母から聞くことはなかったし、長期休暇に会いに行こうとも思わなかった。

 会いたい。でも、会いたくない。

 二律背反する感情が私の中でせめぎ合って、それに対する答えを、私は出すことが出来なかった。

 しかしまたもや空気の読めない両親は私に言った。

「お父さんとお母さん、離婚することになったの」

 そして母が選んだ街は仁支川市だった。

 理由はいくつか並べられたが、その全てが私にはどうでも良かった。

 私が聞きたいのはただ一つ。

「もぅ、引っ越さないの?」

「ええ。それにもし引っ越すようなことがあっても、あなたも後二年で高校生なんだから、一人暮らししたっていいわ」

 私は目を輝かせて、自室に戻り、ドアを閉めるなり叫んだ。

「きゃっほ!!!」

 まさに水を得た魚。渡りに船。兎の登り坂。要は有頂天だった。

 我孫子君の住んでいるの街に再び戻れる。そして私がずっと悩んでいたことに、答えを付けることが出来た。

 そして私は中二の夏に再びあの街に戻ったのだ。

 鬼仏雫として。

 


 再び僕が電話ボックスの前に立てたのはあれから数日後だった。

 正直二度と戻って来ないと思っていたのに、再びそこに訪れた僕はまるで浦島太郎のように、随分年老いていた。

 頬はやつれ、目の下にクマをつくって、ただでさえその腐った目は完全に消費期限が切れている。死んだ魚の目の方がまだ輝きがある。

「お兄ちゃん、私はめぃじぃに戻ってきて欲しいとはいったけど、精神的な話でね、体現して欲しいわけじゃないんだけど」

 友衣にそんなことを言われる始末である。

 あの日以来、僕はほとんど眠っていない。

 何故なら目を瞑ると、何か他のことに集中していないと、音が鳴るのだ。

 リリリリリリリリリリリリリリ。

と。

 元来特に何かに情熱を傾けることもなく、むしろ集中力はほとんどない僕にとって思考を停止した瞬間に、休もうとした瞬間に、ぼ~っとしている時間に、音が鳴り響くのは地獄でしかなかった。

 しかも持ったときはあんなに冷たく、無機物そのものの感じなのに、頭の中で鳴り響くその音は凄く生気を感じられて、しかも。

『いつまで待たせるのよ!』

 と、明らかに怒っているようにしか聞こえない。どうして女性口調なのかはこの際棚上げだ。

 電話の音にこれだけ気持ちを込められるなんて、電話の相手はどんな人なのか、それとも人ではないのか。

「『異世界に繋がる電話ボックス』か」

 この前はパニックになっていて、そんなこと忘れていたのだが、その電話ボックスも案山子と同じで七不思議の一つだ。

 案山子に電話ボックス。

 今思えば、その選定基準はどこにあるのかはわからないが、廃れた文明の利器だったのかもしれないというのが、今のところの予想出来る。

 まぁ、こんな話を始めたのは完全に現実逃避だということが予想出来よう。

「さぁ、どうしよう?」

 流石にあの時と同じ時間に来る勇気は全くなかったので、明るい時間に来たのだが、これはこれで弊害はある。

「明らかにみられているような」

 公園の砂場で遊ぶ我が子を守る防衛本能剥き出しのお母さま達がこちらを見ては、何かしらの話をしている。

「ここにいたら、絶対通報されるな」

 警察のご厄介にでもなってみろ。絶対兄妹の縁を切られる。

「そうなったら余裕で死ねるな」

 出来るだけ目立たないようにしているのだが、クラスの中では全く目立たないどころか、そこにないものとして扱われる僕も、田舎の住宅街の中ではとても目立つのだから、あら不思議。

「こりゃ、長居出来ないな」

 人間は長期的満足よりも短期的満足の方に選んでしまう生き物だというのはどこかの本の受け売り。

 ようは問題を先延ばしにする、文字通りの屑人間である我孫子芽友は何かしらの理由をつけて、この場から待避する方法を思いついたのだ。

「これは仕方ないことだ。家族に迷惑はかけられない」

 そう言い聞かせながら、その場から離れようとする僕を、

 ルルルルルルルルルルルル。

 その音は呼び止めた。

「よく聞いたら、違う音かも」

 そんな『リ』なのか『ル』なのかどうでも良いようなことを考えながらも頭を抱える。だって、音が違うように聞こえても、そこにこもっている『出ろ』というメッセージは変わらなく同じなのだから。

「ああ、もぅ」

 ほとんどやけくそだった。

 公園に近づいてくる不審者にお母さま達は我が子を抱える。しかし、そんなこと気にも止めず、僕はあの日、何十分もかかったであろう電話ボックスの中にものの数秒で入って、受話器を乱雑に取った。

『あ~やっと出た』

 女の子の声だった。僕と同じか、少なくとも二十歳前後と思われるその声に思わず僕は固まった。

 妹と母以外で女子と対話するのが凄く久しぶりで、その悪意も怒気も感じられない、どこか明るい印象を受けるその声は僕の喉を詰まらせた。

『あなたって、前、電話に出た人?』

 言葉が出ない。

『え、違う?もしかして、喋られないとか』

 喉に何かが、つっかえてるみたいに。

『もしもし、何か答えてくれませんか?』

 声が止んだ。

「…………」

どれくらい経っただろうか、繋がっているのか全くわからない受話器を耳に当てて、しばらく立ち尽くしていると、ようやく喉につっかえていた何かが取れたような気がして、大きく息を吐くと。

『あ、良かった。生きてた。人間だよね?』

 本当に安堵したような、そんな優しい声に少し緊張の糸も途切れた。しかし流石に幽霊に異星人扱いされるのもどうかと思って。

「あなたの中で人間がどう定義されるのは分かりませんが、とりあえず人間という分類に属する生物だと思われます」

 彼女の声のトーンが十階建てのビルの最下段まで下がった。

『うん、とりあえず君がとても面倒な生き物だということはわかった』

 まだ人間認定されてもらえないようだ。まぁ、いい。とりあえず。


「ごめんなさい!許してください!」


 そう叫んで、頭を思いっきり電話ボックスにぶつける。

『~~っうう、いきなり叫ばないでよ。てか、大丈夫?物凄い音がしたけど』

 確かに痛いのだが。

「呪われるよりはマシです」

『うん、なんだろう。まるで私があなたを呪い殺すことを前提に話が進んでいるような気がするのだけど』

「ごめんなさい、メリーさん」

『その設定、まだ続いていたんかい!』

 電話の向こうからメリーさんの盛大な溜息が聞こえてきた。幽霊でも溜息を吐くんだ。

『とりあえず、私は幽霊じゃない』 

「妖怪ですか?ウォッチですか?」

『メリーさんから離れろ!』

「じゃあ、さようなら」

『切るな!というか、さっきまでのまるで久しぶりに女の子に話しかけられて、声が出なかったあなたはどこに行ったの』

 そういえば、そうだ。

 自分でもびっくりする。もしかして。

「メリーさんは」

『ここで私のことを男ですか?とか言ったら、私がキルわよ』

 背筋に悪寒が走った。

「……あの、一つ提案が」

『全てなかったことにしたらどうですか?でしょう?』

 驚愕する。

「メリーさんはエスパーですか!」

『当たって、こんなにも悲しい気持ちになるのは久しぶりよ』

 向こうでこめかみのところを抑える彼女の姿を想像するのは容易だった。

『とりあえず、あなたが自分に全く自信がない、とても暗い少年だということはわかった』

「あの、それよりは少し」

『いや、無理よ。現状これ以上のプラス要素は』

「もう少し下の評価で。その方がお互いの為に良いかと」

『なんで気遣いの要素がそんなにも明後日の方向を向いているのよ』

 その言葉は僕の胸をえぐった。

 思い出したのだ。

 あの日、言われたあの言葉を。


「空気読めないよね。知ってる?明後日の気遣いって、逆に相手を傷つけるんだけど」


 胸が締め付ける思いで、思わず項垂れていると、

『ごめん、辛いこと思い出させちゃったみたいね』

 電話の向こうから聞こえたその声に思わず顔を上げる。

「なんで、わかって」

 彼女はとても穏やかな声でまるで頭を撫でてくれるような、そんな感じだった。

『さぁ、なんでだろう?もしかしたら、私達似ているのかも。

 それと私も似たようなこと言われたことがあるから。空気読んでいるつもりなのだろうけど、逆に人を傷つけているよって』

 似ているも何も、ほぼ同じ言葉だった。

 僕僕の空気を読むスキルは未成熟で不安定な小学生低学年までは通用しても、自我か確定し始める六年生からは全く通用しなかったのだ。それどころか、傷つけてしまった。

『ちょっと、いきなり黙らないでよ』

「そんなことを言われて、メリーさんは平気だったんですか?」

 思わず声が震える。僕はその時のことを思い出すだけでも震え上がるのに、電話の向こうの彼女は完全にそれを乗り越えているような、そんな風に見受けられた。

『まさか、乗り越えてなんかないわよ』

「……じゃあ、やっぱり!」

『私が自殺して、これは幽霊だという突拍子もない設定つけるのは止めてよ!

 生きているから。アライブしているから!』

「じゃあ、なんでそんなに明るいんですか?なんで、そんなにあなたは前を向けているんですか?」

 初対面の人になんてことを聞いているんだという理性を、どうしても聞いて置かなければならない気持ちが僅かに勝って出た言葉だった。

『う~ん、何だろう。あ、あれかな』

「なんですか?」

『恋をした』

 思わず僕は言葉を詰まらせる。

『ちょっと、何よ。そのとっておきの裏技を期待していたのに、それがあまりにも肩透かしな方法だったゲーマみたいなテンションは』

「いや、そんなことはないですよ」

『棒読みやめぇ!誤魔化すなら、もっと上手く誤魔化せ!』

「だって、あまりにも俗っぽいことを言われたので」

 出ましたよ。愛があればなんでもできる。とんでも理論。

『男のあなたに言われたくない!どうせあんたも女子を見る時最初に見る場所は胸だとかという、世間一般的な男の思考の持ち主なのでしょう!』

「心外です!大きければ良いという話ではありません。むしろ僕は丁度サイズを求めます。巨乳は駄目とは言いませんが、苦手です」

『誰が胸の話をしろと言った!』

「メリーさん落ち着いてください。胸の大きさで評価する男子高校生の言葉に耳を傾ける必要などないのです」

『どの口がいう、どの口が!というか、いい加減、そのメリーさん止めてよ!』

「呼んで欲しいから、そう名乗ったのでは?」

『単なる悪戯心よ!悪かったわね、ネタが古くて』

「うん、くるしゅうない」

『何よそれ』

 やばい友衣の言葉がうつった。

「じゃあ、なんて呼べば?」

 連続の突っ込みに荒い息を整えてからメリーさんは言った。

『そういえば、まだお互いに名乗ってなかったわね。

 私の名前はアビコメイ。普通にメイで良いわよ。好きでもない男に下の名前で呼ばれたところで、ドキドキもしないし、キモイとも思わないから安心して!』

 明後日過ぎる彼女の気遣いは僕の右耳から脳を素通りして、左耳からすり抜けていく。

「‥‥‥‥‥すいません。もう一度、名前をお願いできますか?」

『?だから、アビコメイよ。確かに、あびこって珍しい名前だけど、そんなに驚くことも。

 あ、大阪にある駅名の安孫子とは違う漢字よ』

 彼女の言葉を聞き終わるや否や、僕は受話器を置いて、小さな電話ボックスの中に『ピピ、ピピ』鳴る音がやけに遠くから聞こえる。

「ハハハ」

 壁に身を預け、低い天井を見上げて笑うその声は自分で聞いていても不気味だ。

 異世界へと繋がる電話。

 その電話は異世界の僕と電話を繋げてしまったらしい。

 しかも向こうの僕はどうやら、女らしい。

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