彼への切望
「たぶん、あるとしたら、この中です」
柊介は清水さんを私の部屋に連れて行って、床下収納を指さした。自室をあまり掃除していなかったもので、恥ずかしさで顔から火が出そうだ。
「香澄さん、絶対に俺に床下収納を見せないけど、何を入れてるの?」
「私の名前が分かるもの。――あと、お兄ちゃんの遺品」
同棲する時点で私が前に住んでいたマンションは引き払っていたから、兄の遺品はできるだけ持ってきている。捨てられるわけがない。でもその存在を柊介に知られるわけにはいかないから、私はひたすらひた隠しにしていた。
「その中に、もしかするとあるかもしれない。証拠が」
私は床下収納の鍵を開け、一つ一つ思い出の品を取り出していく。服に趣味の品らしき小型カメラ、仕事道具、厳選してもかなり量がある。その中に一つの小さな菓子の缶があった。
「……これは?」
「何だろう……。開けたことはないけど、大事にしてた気がする」
「小型カメラがあるのなら、どこかにデータがあるはずなんだ」
柊介は菓子の缶を開ける。ざっと音を立てて転がり落ちてきたのは大量の、なんか変なMDのような電気部品だった。
「SSDメモリだよ。恐らくだけど、さっきの小型カメラ、たぶんバイクのドライブレコーダー代わりのカメラだと思うんだ。専用のレコーダーもあるけど、車のものと違って盗難の恐れがあるし、付け外ししやすいカメラを代用にしてる人は少なくない。きっと晴哉さんもそうだったんだ」
「へぇ……」
そういえば柊介も事故を起こすまではバイクに乗っていたんだっけ。事故後、特に私と付き合ってからはバイクなんて全く乗らなかったが。
「こんなたくさんメモリがあるのを全部調べるの?」
「うん。晴哉さんの性格的に、事故の動画は消さないだろう。なんなら、それだけ単独で編集して残してるかも……」
柊介はメモリをパソコンに繋いでデータの日付をスクロールしていく。
「これも、これも違う。そっか、事故は今日だ。六月……六月……。あった。二十八日。三つあるけど、たぶん最後だな」
柊介は動画を再生する。高速道路を走っている映像だった。
「……見ない方がいいですよ」
柊介はそう言って清水さんの体をそっと押す。
「香澄さんも。見たくないなら見ない方がいい」
「いいよ。お兄ちゃんの動画でしょ。見るよ」
私がそう言うと、彼女もまた近づいてきた。動画を見る覚悟を決めたらしい。
しばらくはただ高速道路を走っている映像だった。時々兄の鼻歌が混じっていて、そういえば兄の好きな曲だったと妙に懐かしい気持ちがこみ上げてきたり。
思わず涙ぐんでいた時、決定的瞬間は訪れた。
非常駐車帯に止まっていた一台の車の陰から、兄のバイクの前に誰かが飛び出してきた。高速道路のスピードと飛び出したタイミングを考えると、どう考えても避けられる位置にはない。
『うわぁぁあああッ!』
兄の叫び声が聞こえて、私は思わず耳をふさいだ。画面はぐるんとまわり、横倒しになってすっ飛んでアスファルトが大写しになった。バイクが転倒したようだ。
『……痛って』
周囲の車が急ブレーキを踏む音からしばらくして、ゴホゴホと兄が咳き込む音がした。アスファルトを写すだけのカメラに、兄の靴が映る。
『え、あの、だ、大丈夫っすか……』
上擦った兄の声がマイクに入っていた。
『ごめんな。飛び出して』
知らない男の声がする。私の隣で彼女が息を呑む音がしたから、彼の声ということなのだろう。
『いや、飛び出すとかじゃなくて。大丈夫っすか? でも話ができるなら元気……』
『俺、死ねるかな……』
『は?』
兄の素っ頓狂な声に、私と清水さんが両方言葉を失った。
『過失割合は……なんでもいい。俺が九でも、十でも。その代わり、頼みがある』
『え、急になんすか』
『自殺にだけは……しないでくれないか』
『はい?』
『会社の、借金が……彼女に行かないように……彼女が妻になる前に……保険金を……』
そこで急に男の声が途切れる。
『ちょっと! どうしたんすか! ねえ!』
兄が必死に語り掛ける声がする。恐らく意識を失ったのだろう。
「……俺と晴哉さんが事故った時、意識清明でも人は死ぬという話をしていたのは、同じ経験があったからなんだろうな。そして急に過失割合で取引しようとしたのも、過失割合が取引に使えると咄嗟に判断したのも、過去に経験があったからなんじゃないかな」
事故当時、急にそんなことを言い出した晴哉への違和感が今解けた。
「でも自殺ではなく事故になったということは、この音声は表には出なかったはずです。清水さん。これでも、まだ晴哉さんを恨みますか?」
「…………」
いつの間にか彼女は大粒の涙を流していた。嗚咽ばかりで返事どころではない。しかし私にも柊介にも、彼女の返事は分かっていた。
「すみません。晴哉さんは、俺の過失を救ってくれた人なんです。まだ俺は、香澄さんには何一つ償えてないけど、少なくとも晴哉さんの顔に泥を塗るわけにはいかないんです」
柊介は清水さんに深く礼をした。
「……申し訳ありませんでした」
清水さんも涙を拭きながら、頭を下げる。
「尾崎さんが悪いんだと思ってました。ただでさえ会社が大変な時に、うちの人を殺した尾崎さんを、ずっと恨んでました。尾崎さんが死んだと聞いたとき、いい気味だって思ったけど、恨む先が亡くなったら急に心が落ち着かなくなって。……それで、妹さんのことも恨むようになってしまって――」
土下座せんばかりの勢いで彼女は私に謝った。
「分かりますよ。大切な人が死んで、加害者になりそうな人がいるんです。恨まないわけないじゃないですか」
そしてそのうちの大半は、真実がどうあれ一生恨み続けるに違いない。それくらい、恨みというものは長続きするのだ。私は知っている。
そしてその恨みは、真実を知った時、熱したガラスのように急にとろんと溶け落ちる。雲散霧消というよりは、溶けて地面に吸収されるように消える。彼女も今、そうなっているのだろう。
気の毒なくらい謝り倒して、清水さんは雨の中を帰っていった。部屋にはまた私と柊介が取り残された。
「私、あんな感じだったのかな」
彼女の振り乱した姿は自分と重なっているように見えた。醜いと思わなかったと言えば嘘になる。初めて自分を客観視した気がして、私の心はざわついていた。
「さあ……」
柊介はのんびり首を傾げる。
「さあって何よ」
「俺はあの人を見て、人生どん底の状態で何も支えがないのにあんなに気丈にふるまえるなら、むしろ強いと思ったよ。でも、香澄さんのことは何も考えてなかった。そういう意味では、姿は重ならなかったと言えるのかもしれない」
「そう……」
いつだって柊介は真面目だ。私の八つ当たりのような問いにも真剣にも答える。いっそ申し訳ないほどに。
「香澄さん、やっと全部片がついた。俺のこと、好きにしてくれよ。殺しても、殴っても、蹴っても、なんでも」
「……なんで今更そんなのしなきゃいけないの」
「結局、俺は香澄さんに何一つ償ってこなかったのには変わりないだろ。面会拒否されてるのをいいことにさ」
「私に償おうなんて思わないでよ」
柊介から見て、清水さんと私の姿が重ならなかったのなら、私には支えがあったということになる。私だって人生はどん底の状態だった。恨めるものは全部恨んで、それが生きる糧だった。でもわざと自分の人生を歪ませるために近づいた男に、私は支えられるようになった。まるで真人間のような生活を表向きは送っていた。
私は表向きだと思っていたが、今思い返してみれば私はその表向きの生活を心から楽しんでいた。柊介に全てがバレたとき、私は彼を殺すとは言わなかった。それはたぶん、私が柊介を彼氏として本気で愛していたからなのだろう。
でも彼が付き合っていた私は香澄さんではない。だから、好きにされるのは本当は私の方だ。
「ずっと騙しててごめんなさい。尾崎香澄って言わないでごめんなさい。柊介にとって尾崎香澄なんて赤の他人でしょ。だから別れてくれてもいい。でも最後に謝らせてほしいの。ごめんなさい」
「……赤の他人って、俺、香澄さんに償うために生きてきたようなもんなんだけど」
「償う、償わないなんてない。そんなの、もう忘れよう」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「何もいらない。……ううん、やっぱり一つだけ言わせて。私のこと、香澄って呼んで」
ぎゅっと彼の背中を抱きしめる。シャツを脱いだらそこにも傷跡は残っている背中だ。暖かかった。柊介が生きてくれてよかった。そう思った。
「わかった、香澄」
名前を呼ばれて顔を上げた瞬間、柊介が私の手を振り切ってこちらに向き直った。髪をぐしゃぐしゃと撫でて、上から私の体を抱きすくめる。
「愛してる」
死者との密約 本庄 照 @honjoh
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