悪意の推測
「この手紙、宛名が俺でしょ」
中身は私宛だが、確かに封筒には柊介の名前が書かれている。だから私はその封筒に気付かなかったわけで、おかげで全てが始まってしまったのである。
「差出人は確実にこの家に届けるためにやったんじゃないかな」
そりゃそうだ。宛先が尾崎香澄では、この住所には届かない。
「香澄さん、住民票をこの家に移してないよね。で、小田美玲宛の郵便物はうちに届くようにしてるでしょ」
「……うん」
この家に住民票を移すと、私の本名宛の郵便物が届いてしまう。それはまずい。私は仕事でいつ帰ってくるか分からないし、柊介は私の名前を兄越しに知っている。尾崎香澄の尾の字すら、柊介に気取られてはならない。
「差出人は、香澄さんの本名とこの住所を知る人間ということになる」
「そんな人いないよ」
私の本名を知っている人――例えば会社の人――は私が身分証どおりの場所に住んでいると思っている。お金を積んで住民票を移させてもらっている知り合いも、電話番号などは教えたが、このマンションのことは知らせていない。
つまり、私の本名を知る人は身分証通りの住所、私の偽名を知る人は現住所しか知らないはずなのだ。
柊介に本名を知らせないために徹底していた。親友はもちろん、恋人でさえもこのルールからは外していない。
私とこの差出人だけだ。ルールから外れているのは。
「こいつは香澄さんの現住所を知る一方で、偽名を知らない。俺の名前を表札で知って、俺を宛名にして、こうやって修羅場を作りたかっただけかもしれないけど」
実際修羅場になったわけだが。
「なんかちぐはぐだろ。差出人がどうやってここを知ったのか、香澄さんはわかる?」
「いや……」
薄々気付いているが言いたくはない。
「尾行だろうね」
「気持ち悪……」
恨みのある相手に偽名で近づいて彼女にまでなった自分の方が、社会的にはよほど気持ち悪いのだが、私の今の正直な感情は気持ち悪い一択である。
「尾行するにしても、本名のみから現住所を探るなんて相当難しいぞ」
「なんで?」
「本名だけで現住所を探れたら、指名手配なんて存在しないだろ」
確かに。
「今回の場合、どこから尾行を開始するかがポイントになる。香澄さん、俺と付き合う前から今も定期的に通っている場所ってある?」
「……ないと思うよ。本名を知ってる知り合いに会いたくないし」
それに事故前の住所とここでは生活圏が違う。共通して行く場所はほぼない。身寄りのない私には実家すらないのだ。
「いや、あるでしょ。『事故』という単語からピンと来たんだけど」
柊介がしわの薄くなった怪文書を指さす。その瞬間、私も気付いた。
「病院だ……」
「そう。香澄さんは今もずっと同じ病院に通っているだろ。恐らく、病院から尾行して家を突き止めたんだろうな」
私は病院だけは変えなかった。全身傷だらけの私の治療は生半可な病院じゃできないし、表面の傷が多少消えたところで奥深くの組織は疼く。柊介に事故の事がバレないように一般人に擬態したい、という私の理想も高い。
それを叶えられる病院は、比較的都市部のこの県の中でも数えるほど。信用できる病院なこともあって、私には病院を変える選択肢などなかった。
「でも、私が通ってる病院を知ってる人なんているかなぁ。いろんな病院に張り込んで、三カ月に一回しか通わない私を見つけるなんて、一年じゃできないでしょ」
「できるよ。なんでその病院を選んだか考えてみなよ」
「それは、お兄ちゃんが一度目の事故に遭った時に、また車に乗れるくらい回復させてくれた病院だから……」
柊介がさっき事故の話をしていた時に少し出てきたが、兄は今までに二度事故に遭った。一度目は高速道路にてバイクで人を跳ねた事故、二度目は山道で柊介のバイクを避けようとして転落した事故。どちらの事故でも兄は大怪我を負った。二度目は助からなかったわけだが。
「怪文書の差出人はそれを知っていたんだ。俺が尾崎香澄の病院を知ったのは、みな同じ病院に運ばれたから。それと同じやり方で、相手は晴哉さんの病院を知った。そして、香澄さんが事故に遭った病院を推測した――」
「この手紙の差出人は、晴哉さんが一度目に遭った事故で死んだ歩行者の遺族だ」
柊介はスマートフォンで一つの記事を見せてきた。三年前、兄が起こした事故の記事だった。
「なんで俺がわざわざ出張と言って家を空けたかわかる?」
「……さあ」
私は何も考えずに、その出張という言葉に飛びついた。
「まずは、小田美玲が尾崎香澄であることを、君に認めさせるため。じゃないと、この話ができないからね。次に、香澄さんがふらっと外に出ないようにするため」
「ふらっと、って?」
「こんな手紙を寄越してくるような悪意満々の奴、放っておけないだろ。ふらっと外に出て、襲われたらたまらない。俺が今から帰るとLINEしたら、香澄さんは必ず家にいてくれると思ったんだ」
……案の定。家に薬袋を置いていたために慌てて戻っていたのもあるが、そうでなくてもそのLINEを見たら家に帰っただろう。私がいない間に何か見られたら嫌だという気持ちもあったが、そもそも彼は出迎えるべき存在だと思うから。仮にも彼氏なのだから。
「なんでそれがあるとしたら今日なの?」
「その事故の日付が今日なんだよ」
はっとして私はカレンダーを見た。そうだ、今日は兄が事故に遭ったと病院から連絡があった日だ。ニュース記事の日なんか見なくても覚えている。
「怪文書を送ってきた日とも矛盾しない。何かあるとしたら今日だ。何もなかったらそれはそれでいい。俺は、香澄さんを守るまで殺されるわけにはいかない」
まだ私に殺意があると思われているのか。
「大丈夫だよ。殺さないって――」
私がそう言ったとき、ドアのチャイムが鳴った。オートロックのチャイムではない。部屋の前のチャイムだ。ということは同じマンションの人間か、オートロックを突破してきたならず者か。
私と柊介は顔を見合わせる。何というタイミングだろう。
「中で待ってろ。俺が出る」
そう言って柊介はモップを手に取る。
「何か武器になるもの、買っておけばよかったな。香澄さんに殺されちゃまずいと思って、買わずにいたんだけど」
「あのねぇ……」
今でこそ柊介に対して殺意はないが、一時期は殺意でいっぱいだっただけに、否定もしにくい。
柊介はそっと玄関に近づいて、チェーンをかけたドアを少しだけ開ける。瞬間、向こうからドアが勢いよく開かれて、ガチャンとチェーンが引き延ばされる大きな音が響いた。チェーンの隙間から何かが伸びてきたのを、柊介がすぐさまモップで押し返す。相手はバランスを崩して後ろ向きに転んだ。その時に手に持っていた何かが落ちてうちの玄関に滑り込んできた。包丁だ。
ぞっとして身を固くする私の前で、柊介は極めて冷静な声でこちらを振り向く。
「ねえ香澄さん、この包丁持って行って、床下収納の鍵に隠して」
「……わかった」
私は震える手で柊介から包丁を受け取り、新聞紙にくるんで収納に隠しに行く。鍵がついていてよかった。そして柊介がいてよかった。でなければ、今頃私の腹には包丁が突き立っているだろう。
帰ってくると、柊介はまだ玄関で襲ってきた誰かとチェーン越しに話していた。相手の声は明らかに取り乱した調子だったが、思い当たる声でもあった。
「清水さん……」
私が呟いた声に反応して、また相手が激高する。女性、私よりも数歳ほど年上、独特のくせ毛、ぱっちりした目。最後に顔を見てから何年も経っていたが、私の記憶は彼女だと言っている。
「知ってる人?」
ドアを閉めながら、あくまで冷静に柊介は尋ねてきた。
「さっき言ってた、お兄ちゃんの事故の相手の遺族だよ」
怖いくらい柊介の言葉は当たっていた。
柊介は粘り強く清水さんと話を続ける。ここで無下に追い返しても、またやってきて私を襲うだろうし、引っ越したところで彼女の執念なら見つけられかねない、と。
柊介は、私の代わりに自分と話せ、私は出せないと何度も言っていたが、清水さんは納得しなかった。大雨でなければ近所に響き渡るであろう声で泣いている。よく見たら彼女は雨でびっしょり濡れていた。
「……いいよ。私、清水さんと話すわ」
私は柊介の肩を叩いた。いつかこうなる運命だったのかもしれない。
柊介は迷いつつもチェーンを外し、彼女を家に入れる。私はタオルを彼女に差し出した。
向き合わなければいけないと思った。私が柊介に抱いていた恨みと同じものを、彼女は私に抱いているのだろう。兄の親族は私だけだ。兄が死んだ以上、それを受け止めるべきなのは私なのだろう。
「あんたの兄が、私の彼氏を殺したのよ。返してよ、私の彼氏を」
フローリングに正座し、私に向き直った清水さんは私を睨みつけて呟いた。
まるで自分を客観的に見てるみたいだと思った。
「申し訳ありませんでした」
私は床に手と頭を付けて彼女に土下座した。私が柊介に同じことをされたときは、彼の髪を掴んで振り回したけど、清水さんはそんなことしない。きっと私を睨んでいるに違いない。
「五年前の明日、籍を入れるはずだったんです」
事故に遭ったのはその前日、それが五年前の今日だという。
「私の彼氏は小さなベンチャー企業を経営してて。経営は大変でしたけど、でも幸せでした。支え合おうねって約束して、結婚目前だったのに」
しかし清水さんの苗字が変わることはなかった。トラブルで非常駐車帯に駐車していた車の陰から出てきた彼を、私の兄がバイクで跳ねたのだという。
「バイクが歩行者を跳ねた事件なのに、過失割合では歩行者側の彼氏がほとんど悪いことになりました。許せなかった。普通はバイク側が悪くなるものでしょう。彼氏の方だけが死んだのをいいことに、あなたのお兄さんは自分に都合よく証言したに決まってます」
……耳が痛い。
彼女の気持ちは痛いほどわかる。私も三年前に事故に遭って、ずっと考えた。でも柊介を恨みに恨んで知った。過失割合とはそういうものなのだ。三年かけて納得して、いや納得しきれてはいなかったけど、さっき柊介と話して気付いた。
実際に何があったかどうかは、過失割合においてはもはや関係などない。交渉でどう決まるかが全て。現場で何が起こっていようと、一度決まってしまったら、もう何も変わらない。
彼女が納得していない気持ちもわかる。
「あんたに何が分かるのよ!」
まさか私が本当に同じ気持ちを抱いているだなんて、清水さんは思わなかったようだ。口だけだと思ったのだろう。彼女が私に殴りかかろうとするのを、柊介が腕を掴んで止めた。
「俺の彼女に危害を加えるのはやめてください。それに、過失割合の結果から現場を推測しても意味がないですよ。あれはあくまで、保険のことなんで。現場で何が起こってるかなんてわかりませんよ」
「でも、あの事故には、現場のまともな証言も、ドライブレコーダーの記録も、何もないんです。だから過失割合に縋って当たり前じゃないですか。じゃあ私は何に縋ればいいんですか。何か縋るようなものがあるんですか?」
「…………」
そんなものあるわけない。私は現場にはいなかったし、兄からも事故の話はほとんど聞いていない。当事者は両方死んでいる。
どうしよう、と私は柊介の方を見る。
「……もしかすると、あるかもしれませんよ」
銀縁の眼鏡を押し上げて、ダサい部屋着に身を包む柊介がぽつりと言った。
「えっ」
私と清水さんの声が重なって部屋に響いた。
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