夢小路
ワダツミ
一番地
石畳の小道は民家の陰になっていて、日差しが強くなり出したこの頃でも大分涼しい。そっと穏やかな風に吹かれて、道端の棚に並べられた無数の風鈴がしゃらしゃらと爽やかな音色を立てた。少し幅の広い道に出ても未だ人の影は見られない。
誰もいないこの世界で唯一自分の前にいる野良の三毛猫が最も身近に感じる存在だ。
野良猫の後を付いて回りながら、木造の家が所狭しと並ぶ路地を散策する。どこか懐かしい雰囲気をまとったこの町に自分一人しかいないことが少し寂しい。
猫は一本の狭い路地に差し掛かった所で一度足を止めた。そしてこちらを向いて、「こっちだ、着いてこい」と言わんばかりの威厳ある顔をする。それがたまらなく愛らしい。
私がもうじき路地に追いつく所で猫は先に進んだ。ちょうど私の三歩前を先行しているのが憎らしい演出だ。この路地は丈の短い雑草の中に飛び石を配していて、昼間なのに薄暗くじめっとしていた。飛び石には薄く苔が生えている。
私は猫を追いながら苔で足を取られないようにするので必死だが、猫は素知らぬ風で字面通り地に足を付けてすたすた歩いている。
徐々に木々は深くなっていく。先刻まで民家沿いの路地を歩いていたとは思えない。明らかに異様であったが、自分がそれをごく自然なことのように受け入れているのに気付いた。
雑草の丈が高くなって膝にまで達しようとしていた頃、猫は足を止めた。猫の奥には山荘か、はたまた誰かの別荘か、木組みの家が見えた。入り口には【夢及館】と銘打ってある。
一体どんな施設なのか首を傾げていると、家の扉が軋ませながらゆっくりと開いた。
中から扉越しに顔を覗かせたのは顔中しわだらけの老女だった。肩にかけていたブランケットを覚束ない手つきで畳むと、軒先に出ているロッキングチェアの背に掛けた。
「こちらに入るの?」と彼女はいった。
「ここは何をする所なんですか?」
私がきくと彼女は震えた手で中を指した。
「ここは、夢を持った人だけが入れるの。あなたには何か叶えたい夢があるの?」
私は特別思い当たる夢がなかったが、中の様子が気になったし、何より夢及館に住む人たちがどんな人たちなのかが気になって、「あります」と答えた。
すると老女はにっこりと笑い、「なら中へお入んなさい」といって中へ戻っていった。
嘘をついてしまったことを後ろめたく思う気持ちもあったが、中に入りたい気持ちの方が勝っていた。私は大人しく座っていた猫を抱き上げて中へ入ろうとしたが、猫は器用に私の腕から逃げ出し、外のロッキングチェアの上にうずくまってしまった。
無理やり猫を連れ込む理由はないし、深く考えず放っておくことにして単身で中に入った。
夢及館に入って真っ先に目についたのが太い梁から吊り下がったシャンデリアだ。豪華絢爛なものではなくもっと質素なものだが、ダークブラウンな室内に合った温白色の明かりが気持ちを落ち着かせる。
床は暗い色の赤い絨毯。左手にはカウンターがあり、その一角で先ほどの老女が編み物をしている。正面の幅の広い階段は中二階を挟んで両脇から左右に二階へと続く階段が伸びている。
「上に上がってもいいですか?」
編み物をしている老女に声をかけると、「どうぞ。部屋には入らないであげて」としわがれた声が返ってきた。階段を上がるとその都度、屋敷全体が軋むような音がする。これは慎重に歩かなくては二階の人に迷惑かもしれないと思ったが、「そんな音を気にしないくらい皆が物事に打ち込んでいるから気にせず上がりなさい」と老女は編み物から目を離さずにいった。
そういうことならばと遠慮なく階段を上がる。ギシギシとやかましく感じるほどだが、これを気にしないのだから、余程皆が本気になっているのだろう。
二階は全部で八部屋、左右にそれぞれ四部屋ずつだ。回廊になっていてわざわざ階段を経由しなくても反対側に行けるようになっている。一部屋一部屋の扉にはプレートがぶら下がっている。作家、ミュージシャン、漫画家……様々な夢を持った人たちがここにはいるようだ。
夢を追う人々が普段どのような生活をしているのか気になった。私も何か夢を持って、ここで暮らしてみるのもいいかもしれないと思った。
階段を大きな音を立てながら降りると、黙々と編み物をしている老女に尋ねた。
「普段、ここの人たちはどういう生活をしているのですか?」
老女は答える。
「さあ。分からないねえ」
よそ者である私には教えまいとはぐらかそうとしているのだろうか。すかさず私はいった。
「分からないということはないでしょう?ここで一緒に暮らしているんじゃないんですか?」
老女は老眼鏡を外すと、私の目を見ていった。
「夢を追うということは簡単なことじゃない。誰にも知られない所で、誰にも理解されなくても、自分を信じていなきゃできないことなの。ここにいる人たちは皆、一生懸命に夢を叶えようとしている。それでも夢は叶わないことの方が多いのよ」
「夢の叶わなかった人はどうなるんですか?」
「それも与り知らぬことね。ただ皆が一様に、忽然と姿を消すわ。夢が叶って出て行ったのか、夢に破れて失踪したのか。全く分からない」
彼女はふっと遠くを見るような光のない目をした。何となくその眼が潤んだように見えた時、彼女はいった。
「もう一度、二階に上がってごらんなさい」
言われた通り二階へ上がろうとすると、先ほどまで散々軋んでいた階段が全く音を立てなくなった。どういうことだろうと思いながら、二階へ上がる。さっきと空気が変わったような気がした。よくよく見るとドアのプレートがなくなっている。八部屋全てのプレートがない。
プレートの有無など取るに足りないほどの差だが、しかし大きな喪失感のような空気を感じ取ることができた。同時にあゝ夢をなくすとはこういうことなのかとわだかまっていた何かがすっと腑に落ちた。軋まなくなった階段を降りると老女の姿はなくなっていた。彼女もまた夢がなくなったのだろうと、特別不思議に思うこともなかった。
外に出ると、猫がロッキングチェアから私の胸元にダイブした。随分機嫌がいいようで、ゴロゴロと喉を鳴らしたから顎の下を指で撫でてやった。
中世ヨーロッパ風の異国情緒溢れる繁華街で空を見ると日もとっぷり暮れて真っ暗だった。だが街灯から街灯に赤みがかった紫や橙に近い黄色の提灯が通りの向こうまで架かっていて町中が明るく照らされている。祭りでもしているのかと思うくらいだが、思えばここは毎日こんなんだったと思い直した。遠くにアシンメトリーな尖塔が見える。城の近くまで来てしまったんだなと思って、路地の方に引き返す。
この先を進めば郊外に出ることを知っていた。猫を抱いたまま歩を進めると、記憶通り郊外に出た。しかし記憶の中の姿とは違い、そこはかなり荒廃して閑散としていた。
ビスケットの地面はひび割れ、キャンディーの街灯は中央からぐにゃりと曲がり、町中に大粒のグミが散乱している。
ああ、雨が固まってグミになったんだ。それで空から降って来て町がボロボロになったんだ。町の人たちはどうしただろう。城の方で暮らしているのだろうか。他人事ながら気になりつつも、再び城下町の方へ踵を返した。
すると編み込んだ栗色の髪を解れさせた少女がそこに立っていた。サイズがまるで合っていないダボダボでボロボロのコートを羽織った彼女は私を見るや否や叫ぶ。
「先生!生きていらしたんですね、先生!」
もはやヒステリックといっていいほど喚き散らす彼女に落ち着くよう諭す。彼女が抱きついて来てしまったがために猫を両手で頭上に持ち上げているので腕への負担が大きいのだ。
ようやく落ち着いたのか、彼女は涙ぐみながら事情を語った。曰く、この町がグミによって壊滅した時に先生が行方知れずになった、と。町の人々と捜索に乗り出すも被害は甚大。助かっていないと判断され、葬式まであげたが諦めきれず一人で先生を探していたらしかった。
先生と再会したと喜ぶ彼女を私も微笑ましく思ったが、問題はその先生は明らかに私ではないということだ。ここで本当のことを明かしては、ようやく念願叶った彼女を失意のどん底に叩き落すことになる。私は先生を全力で演じるべきなのだろうか。
しかし演じた所で私は本物の先生ではない。すぐにボロが出る。私が先生でないと知れれば、先生じゃなかったというだけでなく騙され続けていたということにもなる。どちらの方が彼女のためなのか。ひたすら逡巡していると、彼女が私の手を引いた。
「先生、家に帰りましょう。ボク、コーヒー飲めるようになったんですよ!」
誇らしげに報告する彼女に、私はボクっ子だったんだと思った。
彼女に連れられてやってきたのは城が大きく見える城下町だった。人でごった返すほど賑やかだが、行き交う人の誰もが暗い色のフードを目深に被っている。
「さあ着きましたよ。早く中に入りましょう」
少女は軽い足取りでレンガ造りのビルに入り、どんどん階段を上がる。一方でいいかげん疲れてきた私は一段上がるのも一苦労だ。ようやっと上がりきると少女がドアを開けて待っていてくれた。
「お疲れ様です、先生。さ、どうぞ椅子におかけになってください」
差し出された椅子に言われるがまま腰かける。驚いたことに自分がオーダーメイドして作ったのではないかと思うほどフィットする。ここまで座り心地がいいと二度と立てないかもしれないと思ってしまう。
「はい、先生。コーヒーをどうぞ」
差し出されたコーヒーからは香しい湯気が漂っている。一口啜るだけでも、よく焙煎された豆を丁寧に挽いて適切なタイミングで蒸らしたと素人でも分かる。これほどまでに雄弁なコーヒーを私は他に知らない。
「えへへ、美味しいですか?ボク頑張って練習したんです。お部屋も毎日掃除していたんですよ?先生がいつでも帰ってこられるように」
言われてみれば確かにそうだ。建物自体が古いから気が付かなかったが、床も壁も天井も、家財道具一式の一つ一つまで新品のように綺麗だ。これを彼女一人で為しえたのも、ひとえに先生への想いなのだろう。
ここで忘れかけていた問題を思い出した。自分がその先生でないことをどのタイミングで、どう打ち明けるかだ。打ち明けた時の彼女のことを想像しただけでも大変胃が痛む思いだが、いつまでも打ち明けない訳にはいかない。分かってはいるのだ。分かってはいても踏ん切りがつかない。
悩む私とは対照的に鼻歌まじりで夕食の支度にかかっている少女。簡単なことなのだ。私は君の知っている先生ではない。この一言でいいのだ。でも今の彼女を見てそれは到底できない。短くても幸せな夢を見せてあげたい。
こんなのは偽善だとかエゴだとか、そんな枠に収まらない。“先生”である私がいなくなった後の彼女を考えると、これは贖いきれないほどの罪ではないかと思う。また彼女に先生が帰ってくると信じて一人耐え忍び続ける、そんな日々を押し付けなくてはならないのかと思うと胸が張り裂けそうだ。それでも先生がどこかで生きているという希望を持たせてあげたい。
この選択が合っているのか、もしかしたら自分が真実を打ち明けなくてはならないことから逃げているだけなのかもしれない。分からない、分からない、分からない。
ただ、この苦しみは、彼女がこれから背負うだろう苦しみを私も一緒に背負いたい。唯一、彼女に私がしてあげられること。私はいつまでも彼女と一緒にはいられないから。せめて彼女の気持ちを、彼女のことを忘れない。
私はそっと席を立った。彼女に気付く素振りはない。猫もじっと静かにしている。
開いたままのドアの前で、最後に彼女の後姿を見た。大きな鍋に野菜を切って入れている。皿は三枚。少女と私と猫の分だろう。私は今にも泣きそうになったが、グッと堪えた。申し訳ない気持ちでいっぱいで、押しつぶされそうだがもう振り返らないと覚悟を決めて外に出た。
足早に階段を下ると後ろから「ありがとう“先生”」という少女の声が聞こえた。
そこからどこをどう来たのか全く分からない。私はいつの間にかどこかの建物の階段の踊り場に立っていた。大きな窓の外はどんよりとしていてしとしとと雨が降っている。
じっとしていても仕方がないと思い、目の前の階段を上がって、少し汚れたリノリウムの廊下を左折した。その廊下を歩いていて、ようやくここがどこかの学校なのだと気がついた。
廃校なのか全く人の気配がない。わけもなくひたすら廊下を道なりに進むと、その先に光が差し込んで陽だまりになっている所を見つけた。外は雨だったはずなのにと不審に思いながら近付いてみると、廊下の一部に大きく穴が開いていた。
穴から中を覗くと、暖かい陽気が差し込む庭園になっている。どこからか水が湧いているのかちろちろと小川が流れ、濃い緑の低木や小さい白い花々の上を鮮やかな青をした尾の長い小鳥が数羽飛んでいる。乾いた草の香りが校舎の中にまで吹き込んだ。この先に進んではいけないと思って、穴から離れさらに廊下を進んだ。
廊下はいつからかロココ調の装飾がされた華美なものになっていた。しかしそれには毛ほどにも気に留めず、先に進む。
ひたすら歩くと図書館に行き当たった。ドーム状の図書館には一階から三階まで無尽蔵という言葉がぴったりな量の本がずらっと並んでいる。
階下に司書らしき青年が分厚い本を読んでいるのが目についた。階段を降りると、青年も私に気付いたようだった。
「こんにちは」青年は本を閉じた。「何か本をお探しですか?」
「いえ、道に迷っていたらここに着いたんです。すごい量の本ですね」
「ええ。誰も読んでくれない本たちですよ」
青年の柔らかな笑顔が急に貼り付けられたもののように感じた。私は一瞬怖くなったがすぐに治まった。さっきの恐怖は気のせいだったのだ。
「本を読んでもいいですか?」
青年は二つ返事で了承した。
「お好きな本をどうぞ。読んだらそこの箱に入れてください」
彼が指さした先には緑色の大きな箱が置いてある。図書館に置いてある返却ボックスのようなものだろう。私は分かりましたといって、気になる本を探し始めた。
ここの本は、別段ジャンルもなければ作者も書かれていないようだった。雑多な本が雑多に並べられている。適当に一冊手に取ってみる。
題名は分からないが、少し古い本のようだ。表紙はしっかりしていて浅黄色をしている。開いて読んでみようとするがまるで内容が頭に入ってこない。原因はさっぱりだが、本を変えてみようともう一冊取り出す。今度は葡萄色の表紙だ。開いてみるが、やはり内容は分からない。読めている実感がない。
不思議に思いながら本を戻そうとすると、「本は箱に入れてください」という青年の声が飛ぶ。「すみません」と一言返して、緑色の箱に入れた。
「この箱は何の箱なんですか?」気になって青年にきくと、青年は答えた。
「この箱はゴミ箱です」
「ゴミ箱?捨てちゃうんですか?」
私が聞き返すと、青年は小首を傾げていった。
「当然です。誰にも読めないんですから」
そうか。ここの本は誰にも読めないから読まれないのだ。浅黄色の本も葡萄色の本も本として成り立っていない不良品なのか。
きっと青年が読んでいるその分厚い本も私と同様、全く読めず内容が頭に入っていないのだろう。それでも彼は丁寧に文章を追って、ページをめくっている。彼は一切読めない本を半分以上も熟読している。得てして読書とはそういうものなのかもしれないと思った。
いつの間にか猫はいなくなっていた。砂漠の真ん中で一人ぼっちであることが大変心細く感じる。やがて日は沈み、月が昇る。全てを飲み込んでしまうのではないかと錯覚するくらい大きな月が砂漠を青白く照らす。その月明かりに逆光して砂丘の上を進む行商人たちの隊列がシルエットになって浮かぶ。これは逃がすまいと私はその黒い影に駆け寄る。
おーいと大袈裟に手を振りながら声をかけると、先頭の男が連れていたラクダを止め、それに従い後続の行商人たちも次々にその場で足を止めた。
「砂漠で一人なんです。道も分からなくて。あなたたちと一緒にいていいですか?」
行商人たちに私の言葉は通じているようだったが、困ったようにお互い顔を見合わせている。
どうしたのだろう、付いて行ってはダメなのだろうかと不安に思っていると、列の先頭にいた鼻の下に髭を生やした中年の男がいった。この人が行商人のリーダーだということは直感的に分かった。
「残念だが、これは蜃気楼なんだ」
蜃気楼ならば仕方がないと思いつつも、これでは私には為す術がない。もう砂漠から出られないのだろうかと途方に暮れていると男は続けていった。
「この先にオアシスがあるから、そこに行けば人がいる。助けになってくれるはずだ」
私は彼のいうことを信じて藁にも縋る思いで砂漠を歩いた。ほどなくして向こうに緑が見えた。オアシスまでもう少しだと自分を励ましながらなんとかオアシスに来ることができた。
オアシスは畳三枚、多く見積もっても四枚半には届かないくらいのサイズしかない。そのごく狭いスペースにヤシの木と水たまりのような泉があった。泉が十分に澄んでいることは救いだった。
さて、その泉のそばには肌が黒くどこかの民族衣装を着た痩せた老人が立っている。行商人のリーダーがいっていた人というのはこの老人のことだろうと思って、砂漠で帰り方が分からなくなっていて助けてほしいと伝えた。
しかし老人は何も言わず黙って頷いているばかりで微動だにしない。こっちは本当に困っているのにどういうことだと憤慨したが怒っても仕方がない。何度も繰り返し話しかけていれば、何かしらの反応はあるかもしれないと思って、何度も何度も助けを求めたが老人は依然として頷くだけだ。これでは埒が明かないと半ば諦めつつも、自分一人ではなく、頷くしかしないが老人と一緒であることを心強く思った。
ここで待っていれば誰かが通りがかるだろう。どんなに小規模でもここはオアシスなのだ。砂漠を渡るには欠かせない。自分でも驚くほど冷静になっていた。自分の精神が二分されて、冷静な自分の思考をただひたすら眺めているような気分になった。
しばらく黙って老人の横で突っ立っていると、白いクーフィーヤを被ったアラブ系の青年がオアシスに現れて、真っ直ぐ私に近寄ってくる。何だろうかと思っていると青年はいった。
「なぜこんな所にいるんですか?」
「道に迷っているんです」
「道に迷っているんですか?」
なぜ聞き返したのだろうと不思議に思いながらも、そんな些細な疑義の念はおくびにも出さず、私は首を縦に振っていった。
「できれば人のいる町まで行きたいです。どうすれば行けますか」
「すぐそこですよ。案内します」
私は青年のことを何の疑いも持たず後を付いて行った。オアシスにもう老人がいなかったことに今更気が付いたが、その至極どうでもいい発見はすぐに霧散した。
砂漠と町の境界は大きな幹線道路だった。道路の反対側には見慣れたファストフード店が見える。旧型の車が行き交い、歩道には小麦色に肌が焼けた人々が歩いている。ここまで来ればなんとかなると胸を撫で下ろした。そうした時にはもう青年はいなかった。
私は大衆食堂に入ると席に着くなり間髪入れずに出されたそばを無条件に啜った。
質素なもので麺の他には薄っぺらいナルトとメンマが数本、豚肉の角煮が一切れ入っているばかりだ。それでもお構いなしに目の前のそばを食べ進める。食べても食べても一向にそばは減らないが気にならない。永遠に減らないそばを啜りながら、最初の内はそばのことでいっぱいだった頭も、いよいよそば以外のことを考えるようになっていた。
そばを啜りながら店内の煤けた壁を意味もなくじっと見つめる。壁に張られた細長い紙に太い黒字でメニューが書いてある。店主が書いたのだろうか、決して上手い訳ではないが味のある文字だなと思った。何より読みやすい。ポップな感じがする。
そのずらっと張られたメニューの中に、【ソーキそば】の文字を見つけ、初めて自分が食べているものがソーキそばなのだと理解した。
ソーキそばといえばとふと思った。前に、どこで誰がいったのかは覚えていないが、
「ソーキそばならぬ、想起そばだな!」
と、大声で愉快そうな男の声を聞いたのを思い出した。
酒でも入っていたのかもしれない。よっぽど気に入ったらしかった。騒々しく薄暗い居酒屋の、それも少し離れた自分の席にまではっきりと聞き取れるほどの大声で何度も声高に叫んでいた。その時は随分お気楽なものだナと思っていたが、今まさにそのことを思い出してソーキそばを食べているのだから、なるほどこれが本当の想起そばかと深く納得した。
いやはや我ながら下らない事を考えてしまったと自省していると、自分が店に入る前から隣のテーブルにいたような気がしないでもないが確実にいなかったグループの、赤い派手なシャツを着た麦わら帽子の男がビールジョッキをテーブルに叩きつけるような勢いでドンと置くと、
「ソーキそばならぬ、想起そばだな!」
と前にも聞いたような声調子でいった。
自分は本当に下らない事を考えてしまったのだなと、一瞬でも男と同じことを考えたことを猛省した。しかし思ってしまった以上、取り返しがつかない。むしろ否定するより肯定した方が建設的ではないかと思い直す。
第一、私は隣の男を知りもしないのだ。その知らない男に対して同じことを考えてしまったなどと、たとえ事実でも思うのは失礼じゃないか。それによくよく考えてみれば、そこまで悲嘆するほど下手なことはいっていないんじゃないかしらとさえ思うようになった。
いや、これはこれで面白いかもしれない。あの男が何度もケタケタと笑いながら繰り返し口ずさみたくなる気持ちも分かるような気がした。居酒屋の男が、隣のテーブルでビールジョッキを豪快に傾ける赤シャツと同一人物かは定かでない。が、同じならば席を立って男の肩を持ち、一緒に豪快にビールを喉に流し込み赤ら顔でこの想起そばの決め台詞をいってみたいものだ。
ここまで考えを巡らせた所で、戯れが過ぎたなと途端に正気に戻る。隣のテーブルの男はすこぶる機嫌がよさそうで、例によって想起そば想起そばと飽きもせず繰り返している。男と同席しているワンピースの女性の引きつった笑顔が印象的だった。
はたと気が付くと、私は石畳の小道の上に立っていた。そっと風が吹いたかと思うと、どこからかしゃらしゃらと風鈴の音がした。
夢小路 ワダツミ @Arnold_Ishida
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