Suck a lemon!

 昼休みは残り五分となった。またしても河内たちから橘を引き剥がし、数学準備室を目指して歩き出す。


「オレンジ盗んだの、誰なんだろうな」

 歩いている途中、何の気なしにそう言うと、橘が言った。

「河内君じゃないかと」

「へー……え⁉」

 橘が俺の大声に、少しだけ顔をしかめる。ごめんって。

 でも、大声を出さずにはいられない。なぜ、河内が柴野のオレンジを盗むというのだ。確かに、柴野が言っていた「三、四組の男子」という条件には合致してはいるが。


 橘がおもむろに口を開く。

「柴野さんの見せてくれた写真。よく考えるとおかしいところがあるんです」

「え?」

「日向さんは、柴野さんのオレンジは『皮付き』だと言っていました。それなのに、あの容器には皮が残っていませんでした」

「捨てたんじゃ」

「普通、容器に入ったオレンジを食べるなら、剥いた皮は一旦容器に入れて、それをゴミ箱の上で逆さにして皮を捨てると思うんです。なら、爪楊枝も一緒に捨てられるはず。それなのに、容器には爪楊枝が残っていました。柴野さんへの嫌がらせとして、オレンジを果肉ごと捨てたのだとしても一緒です」

「……確かに」


 橘は淡々と話す。俺は先を促した。

「それで?」

「だから、犯人は皮だけ欲しかったんですよ。果肉を食べたのは、その過程で発生した副次的なものだったんじゃないかと。おいしい果肉ではなく、特に使い道のない皮が必要だった」

「でも、皮なんて盗んで何に……」

「ところで、日下部君」

 遮られた。少し悔しい。


「柑橘類の皮で風船を割る実験は見たことありますか」

「え? テレビでなら、まあ」

 化学系の番組ではよく見る実験だ。


 それにしても、風船を割る柑橘類の皮か。直近で、うちの高校にある風船と言えば、文化祭用の風船。ということは。


「犯人は、オレンジの皮を盗んで、文化祭用の風船を割ろうとした?」

「いや、違うと思います」

 ぴしゃっと否定されてしまった。


「やるメリットがありません。割ったら弁償ですし、進んでやりたがる人はいないかと」

「ゔぅ、確かに」

「日下部君は、柑橘類の皮が風船を割る理由をご存じですか」


 黙って首を振ると、橘は人差し指をぴんと立てた。

「リモネンという物質が、ゴムを溶かすからなんです。

 ここで、逆転の発想をしてみましょう。――誰かが数学準備室の風船の一つに誤って穴をあけてしまった。だから、オレンジの皮の汁で穴の周囲を溶かし、穴の上書きをして、オレンジを持っている柴野さんに穴をあけた罪をなすり付けようとした。……普通なら弁償なんてしたくないですし、こっちの方が自然です」

「じゃあ、犯人は煤原じゃ」


 今、数学準備室には風船以外に安全ピンもある。数学準備室に入り浸っている煤原が風船と安全ピンで遊んでいて、たまたま穴をあけてしまったというのはあり得るのではないか。煤原は無断バイトがばれて、金欠とのことだ。風船一枚でも、弁償なんてしたくないだろう。


 しかし、橘は首を横に振った。

「私も最初はそう思いました。でも、煤原君は柴野さんを昼食に誘っています。数学準備室で一緒に食事を取り、後日風船の穴が露見した時に『そういえば、風船の近くで柴野がオレンジを食べていた。その汁が飛んだのではないか』と言う方が自然です。実際そうするつもりなんでしょう」


 それもそうか。蛯名曰く、柴野は昨日の朝のホームルームの後、急に煤原の誘いを受けたとのことだ。昨日の朝のホームルームと言えば、俺が「風船を割った奴は弁償」としつこく言っている。弁償のことを知った煤原は焦って、柴野をオレンジ目当てで誘ったのか。


「とは言え、たまたまオレンジの汁が風船の穴にピンポイントで掛かるのは期待できません。だから、煤原君は、柴野さんが数学準備室でオレンジを食べたという事実を作った後、自分で柑橘の皮を用意して、風船を溶かすつもりだったのかもしれないですね」

「じゃあ、何で河内が犯人ってことに?」

「煤原君がオレンジを盗んだ犯人ではないとなると、オレンジが盗まれたことで、煤原君の目論見は犯人に阻止された形になります」

「つまり、犯人は煤原の目論見を阻止するためにオレンジを盗んだ、ってこと?」


 橘は軽くうなずくと、

「はい。……さっき、河内君と柴野さんと喋った時、私たちの後ろを通ったのは煤原君ですよね? 上履きに『煤原』と書いてありました」

「え? ああ」

 確かに、煤原が後ろを通った記憶がある。


「その時、柴野さんが口を開こうとしていましたが、それを遮るように河内さんが言ったんです。『お前、煤原のこと好きってマジ?』と」

「ああ、言ってた言ってた。それが?」

「私は転校生です。しかも、あの立ち話には男女が二人ずついました。それなのに、いきなり色恋沙汰の話を始めるものでしょうか。普通は、同性の仲の良い人としかしないものでは」

 ……言われてみればそうだ。対して仲良くもない人間の前で好きな人の名前を晒すなど、さすがにデリカシーがなさすぎる。


「だから、あれは煤原君に話しかけようとした柴野さんを止めるために、わざわざ河内君が言ったんじゃないかと思うんです。『煤原のこと好きなの?』と言われた後に煤原君に話しかけに行ったら、自分で煤原君のことが好きだと証明しているようなものですから。現に、柴野さんは強く否定して、煤原君に話しかけにはいきませんでした」

「……ということは、河内は何かの弾みで煤原の目論見を知って、柴野が巻き込まれないようにオレンジの皮を盗んだ。けど、柴野がめちゃくちゃ怒ったから、柴野と煤原が接触する機会を河内自ら減らした、ってこと?」

「そうじゃないかな、と。憶測ですけど。……さあ、着きました」


 橘が手で前方を指し示す。そこには数学準備室があった。

「もしかしたら、数学準備室に穴の開いた風船があるかもしれません」

 そう言って橘が数学準備室の戸を開く。


 すると、

「えっ?」

 中には煤原がいた。俺たちの姿を見て、素っ頓狂な声を上げる。その手には、まだ膨らませていない黄色い風船があった。


 橘はずかずかと中に入り、煤原に手を差し出す。

「その風船、見せてください」

「え、何で」

「穴が開いているかもしれないので」

「いや、そんなのないって」


 煤原がへらっと笑いながら言った。しかし、その顔にはありありと動揺が浮かんでいる。橘の推理は当たっているらしい。もしかしたら、風船をどうするか考えるために、数学準備室に来ていたのかもしれない。


 そのまま二人の押し問答が始まってしまった。

 ……俺はどうすれば。止めた方がいいか?


 その時だった。押し問答にしびれを切らした煤原が、橘の手をかなり強めに振り払った。痛みからか、橘が珍しく大きく顔をしかめる。


 それを見た俺は、矢も楯もたまらず声を張り上げた。

「おい、ええ加減せえよ、煤原‼」

 ぽかんとする二人の顔が目に入るが、口は止まらない。


「自分の保身のために人に迷惑かけて……煤原、お前、柴野と橘に謝れ‼ ええな‼」

 煤原が俺の剣幕に小さく悲鳴を漏らし、「分かった」やら「その、ごめん」やらぼそぼそ呟いて、数学準備室を出て行った。

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