シュガートング・ツーピース

夕希ゆき


 朝礼も定時も終電も納期も何もかもから脱出して、それはもう、飽きるほど寝た。

 会社を辞めてからどれくらい経ったのか。それが咄嗟にはわからないくらい、時間と曜日の感覚が狂いに狂った生活。昼過ぎに起きて、何か食べて、特にやることもないのでダラダラしていたら寝落ちする。意味もなく夜更かしをして、さらに次の日起きるのが遅くなる。

 友人たちはもちろんしっかり働いているから、平日に暇なはずがなく、遊びに誘えない。だからといって休日はあまり気がのらなかった。一人で楽しめる趣味や、やりたいこと、行きたい場所などもなかった。もちろん、辞めてすぐの頃は、ショッピングに行ってみたり、日帰りで遠出したり、勉強してみたりなどとチャレンジしたが、どれも少しやればもういいかな、となった。ほかにも流行っているスマホゲームは三日で飽きたし、テレビドラマをクールの途中から見たってストーリーが全然わからなかった。

 するともう、寝ることくらいしかやることがなかったのである。

基本的に服装はほぼジャージ。比較的明るめの茶髪の根元はだいぶ伸びてしまっていて、眉毛もずいぶんやりたい放題な状態だ。フェイスラインのニキビも結構前からそこに図々しく陣取っていると思う。

 友人の舞音から「今さ、七実の最寄り駅いるんだけど家どこ?」と電話が来たのは突然だった。寝ぼけながらスマホを確認すると土曜日の十二時過ぎ。何で舞音が、と驚いたが、とりあえず、簡単な道順と目印を口頭で教えて、電話を切ってからLINEで住所を送っておいた。その時トークの履歴を見て、私が退職の報告をして以来何にも連絡を取っていないことに気がついた。会うのは、いつぶりだろうか。

 家は駅から歩いて十七分くらい。舞音は初めて来るからあと二十分くらいで着くだろうか。とても客を招き入れることのできない部屋の惨状をどうにかしなければならない。

 ベッドから飛び出し、ジャージを脱ぎ捨て、Tシャツとジーパンに着替える。髪はある程度とかして一つに結んでどうにかして、顔面は眼鏡で誤魔化す。舞音との付き合いは長いから、今更すっぴんが、などと気にはしない。

 その他ドタバタと散らばったものをせっせと片付けていると、インターホンが鳴った。

 

「一か月もそんな生活してるんだ」

「ね、自分でもびっくり」

 ローテーブルを囲んで、二人で紅茶を啜る。舞音が手土産にと駅前で買って持ってきてくれた茶葉だ。おいしく淹れる自信がなかったので、舞音にやってもらった。水とコーラしか飲んでいなかった体に染みる。

 舞音は別の用事でこのあたりに来ていて、思っていたよりも早くそれが終わったとかで、私の家への訪問は思い付きらしい。

「今何しているのかゆっくり聞きたいと思ってたんだけど。じゃあ、話すこともとくにないね?」

 そう揶揄われたが、えへへと笑うだけにする。そして、そういえばもうお昼って食べた?と話題を変えてごまかした。

「もしまだなら、どっか今から食べに行こうよ」

「いいね。住民のみぞ知るおすすめのお店とかないの?」

「遅くまで開いている総菜屋さんの話?」


 行くあてがなかったので、私が出かける準備をしている間、舞音に家とは反対側の出口にある商店街のほうで店を調べていくつかピックアップしてもらった。実際に雰囲気やメニューを見て、サラダとドリンク付きで千二百五十円のランチをやっているお店にした。

少し時間が遅めだったからか、店内は落ち着いていて、食後に持ってきてもらった飲み物で、長々と他愛もない話をした。舞音の恋人との近況や、共通の友人の話、最近買ったコスメや気になっている次のシーズンに出る新作の話、今やっているスタバの期間限定ドリンクの話。そして、今度四人で旅行に行きたいね、という話。

「え、侑里と千秋が?」

「そう。まあ私も、七実から会社辞めるって報告きたとき、ちょっといろいろ考えたよ」

「参考にしなくていいよ。後のことなにも決めずに辞めて、貯金切り崩し生活なんだから」

「それもちゃんとわかってるよ。あれだよ、アラサークライシス、みたいな」

 アラサークライシス、と繰り返して呟く。確かに、辞める前後でその言葉に何回か遭遇したかもしれない。けれど、あんなに仕事に生きますという感じだった侑里やワークライフバランス絶対主義の千秋が仕事について今一度考えていると聞いても、あまり想像ができない。

「まあそういう背景もあるけど、単純に会いたいなって思ってて。千秋と電話した時にゆっくり旅行したいって言って、それいいねってなったの」

「侑里に言ったら秒で行程組んでくれそう」

 夏休みの旅行や卒業旅行で大活躍した姿を思い浮かべて言った。特製の旅のしおりの完成度があまりにも高くて、行きの新幹線で驚いたものだ。

「もう場所選びはしてるって」

「流石。誘ってくるころにはほとんど計画が完成しているやつ」

「そう。まあでも、その前に一回どこかで会って日程とかいろいろ調整しなきゃね」

「そうだね、私はしばらくいつでも大丈夫だから」

 おっけ、と舞音は言って、そしてスマホで時間を見た。つられて確認すると、ちょうど十六時になるところだった。二人とも何となく解散の気配を感じて、荷物をまとめ始めた。

「じゃあ、会う日決まったら連絡するね」

「わかった。今日は来てくれてありがとう。気をつけて帰ってね」

 舞音を改札前で見送って、帰ろうと思って出口に体の向きを変えた時にふと思う。

 駅まで来たの、久しぶりだな。

 この間まで通勤で毎日使っていたはずの駅とその出口。

そこにこんな時間に一人で立っているのがなんだかとても違和感があって、落ち着かない。だって、帰宅するときに駅にこんなに人はいなかったし、ほとんどシャッターが下りていて、空は真っ黒で、静かで、少しでも明るくて広い道を選んで帰っていた。

人の流れも、お店の活気も、喧騒も、全然違う。今まで通ろうと思ったことのない道が一気にその存在を主張してくる。

職場と家の往復しかしていなかったから、地元のお店なんてほとんど知らない。今日の昼、それを実感して、今、いつもの帰宅路とは違う道を選んで歩き始めた。

 クロワッサンが自慢のパン屋。おそらく家族へのお土産を選んでいたサラリーマンがいたケーキ屋。重そうなリュックを背負った小学生や中学生が入っていく塾。開店準備中の居酒屋。自転車を停めた高校生が券売機に並んでいるラーメン屋。

 少し進むごとに、新しい発見があった。さらに、電柱の広告なんかで、角を曲がるとタピオカ屋があることを知ってから、脇道にも少し行ってみたりした。

 感覚的に、そろそろ曲がってまっすぐ行けば家のあたりにつくだろうかと思って、地図アプリを開いた。確かに、この先の交差点を左に曲がってしばらく行けば、だいたいマンションの裏にあたるようだった。

詳しい経路を確認するために拡大すると、ほとんど住宅の中に、カフェのマークがあるのを見つけた。『右肩下がり』という独特な店名以外の詳しい情報はない。帰る途中にあるようだったから、覗いてみることにした。


 そのカフェは随分と入り口がわかりにくかった。少し奥まったところにあって、オープンと書いてあるドアサインと、小さな黒猫の置物があるだけだった。

吸い込まれるようにドアを開けて店内に足を踏み入れる。ドアベルが控えめに鳴った。カウンターにいた男性が振り返って、お好きな席にどうぞ、と言う。

店内は横長でそこまで広くない。入ってすぐの正面が五席ほどのカウンターで、右手にソファー席。二人用が二つと、四人用が一つ。

二組の先客がソファー席にいたので、カウンター席の左から二番目を選んだ。メニューを見ると、様々な種類のコーヒーが並んでいて、こだわりを感じる。詳しいことはよくわからないが、スタンダードそうなことが説明に書いてあったものを選んでカウンターの中にいる男性に声をかけた。一人で営業しているようだから、おそらく店主なのだろう。

コーヒーが来るまで、店内を観察する。カウンターの中はコーヒー関連の器具や、色とりどりのマグカップ、たぶん数種類のコーヒー豆などが見える。店内はゆっくりとしたBGMがかかっていて、ほかの客の声が微妙に聞き取れない程度の音量だ。後ろを見ると、そこは床から天井までぎっしり本が詰まった本棚だった。文庫本から、単行本、写真集などの大きなサイズまで、雑多なコレクションだった。

「お好きに読んでいただいて結構ですよ」

ちょうど店主がコーヒーを置いてくれたところで、そう声をかけてきて、ごゆっくり、とすぐに下がった。

ブックカフェのようなものなのだろうか。ほとんど背表紙しか見えない中で、いくつか表紙がこちらを向いているものがあって、その中から一番近いものを手に取った。ページ数も比較的少なめだったので、これを読んでみることにした。

その本は、学校を舞台にしたミステリーだった。事件解決というメインのストーリーの中に、友人関係や思春期の憂鬱、大人の事情などの要素もうまいこと挟み込まれていたと思う。特に、友人が主人公に向けて何気なく言った一言が、主人公の中でうまく消化しきれなくて、考え込んでしまう姿は、どうにも胸に刺さった。この年になって、青春がもう一度痛い。

読後感に浸ったまま、だいぶ前に冷めたコーヒーを飲み干して一息ついた。店内の時計で時間を見ると、十九時を過ぎていてハッとした。ずいぶん長居してしまった。閉店時間は大丈夫だろうか、そう思って店主のほうをみたら、特に迷惑そうな視線は向けられなくて安心した。遅くまで営業しているのか。

こんなに読書に没入して充実した時間を過ごせて、時間の制約もない場所がこんなに近くにあったなんて知らなかった。また来よう、と心に決める。先に支払いを済ませ、荷物をまとめる。そして、本を戻そうと立ち上がると、丁度その時、ドアベルが鳴った。

こんな時間にも客が来るのか、会社帰りかな、と思って目を向けると、予想よりもずいぶん若い女の子だった。グレーのパーカーというラフな服装で、ウルフスタイルの髪からシルバーのごついピアスがのぞいている。

目が合って、それから私が持っている本に視線が止まる動きが、やけにゆっくりはっきり見えた。

「その本、読み終わった?」

 本から目線を外さずに彼女がそう聞いた。いきなり話しかけられて、動揺しながらも頷いて答える。

「すごく、面白かったです。一気に読んじゃって。表紙が見えてたから選んだだけなんですけど」

「ああ、面出ししておいてよかった。誰かに読んでほしかったから。ありがとう」

 彼女はそう言って目を合わせて微笑んだ。そして私に近づいてきて、私の手から本を引き取った。

「私が戻しておくからいいよ。また来てね」


この衝撃的な体験は、狂いに狂った生活リズムに驚くほど効いた。

まずは、ブックカフェで読書という新しい時間の使い方を知ったこと。試しに一回家で本を読んでみようと本屋で本を買ったが、それではダメだった。あの店で、気分で本を選んで、コーヒーとBGMと一緒に本を読むことで、やっと充実感を覚えた。

家から近いところで得られた感覚にすっかりハマってしまって、昼くらいに起きて、着替えて、準備して、何か食べて、そしてカフェに行く。そんな日常を始めた。

次に、人との会話だ。毎日通えば、さすがに店主も顔を覚えてくれて、コーヒーを注文して、出来上がるまでのほんの少しの間だけ、軽い会話をするようになった。最初はコーヒーの質問から、お店の話、そして最近は世間話まで。例えば、天気の話とか、あそこにマンションが建つらしいとか、他の常連のおばさまも交えて、近所のスーパーの値引きの狙い時とか。

「モーニングメニュー?」

 午後二時過ぎ。私が入店した時、先客は四人ソファー席でのママ会のみだった。いつもの席に座って、店主おすすめのコーヒーを注文し、丁寧に用意をする手元を覗き見ながら、コーヒーの特徴やこだわりなんかを聞いているときだった。

「モーニングメニューにパンケーキがあるんですか?」

「そう。はい、これがメニュー」

 初めて見るそれには、確かにパンケーキセットがあったし、ほかにもトーストやオムレツなどのほかのセットもあった。モーニングは平日の七時半から十時。私がいつも夢の中にいる時間だ。

 コーヒーが出てきたときに、ありがとうございましたと言ってメニューを返す。あの日から、ほぼ毎日この店に通っているが、この店がモーニングをやっていたこと自体、今知ったように、まだまだ知らないことが多い。

 振り返って、後ろの本棚を見てそれを強く思う。昨日の夕方帰ったときと、またほんの少し本の並びが変わっている。本を選ぶ基準はあの時と変えていなくて、席から一番近い、表紙の見えているものを毎回手に取っている。毎日本の並びが変わっているので、特に考えなくていいというのが理由だ。

前に一度、そのことを店主に言ったとき、「ああ、そうみたいです」という謎の相槌だけが返ってきて、首を傾げたのだ。この本棚は店主の管理下にはないらしかった。でも、この店に店主以外の、例えばスタッフとか関係者だとか、そういう人物は見かけたことがなかった。

その謎が解けたのは、それからもう数日経った日のことだった。モーニングメニューの存在を知ってから、やっとちゃんと間に合う時間に起きることに成功したのだ。

お店の前についたのは九時半過ぎで、こんな時間に来た私に店主は驚くだろうか、と少し期待しながらドアを開けた。

結論から言って、驚いたのは私のほうだった。

私を出迎えたのはいつもの店主ではなく、あのときの、女の子だったからである。パーカー姿ではなく、黒でまとめた洋服に、焦げ茶色のエプロンをつけていた。彼女、店員だったのか。

店主が奥でパンケーキを焼いているので、話し相手はカウンターの中の彼女だった。

「お姉さん、そこにおいて置いた本、必ず読んでくれてるよね。その、今日は大きめの単行本を置いておいたところの」

「いつも違う本が置いてあるので、すごく助かっているんです」

「よかった。お姉さんに読んでほしいものをそこに置いてるからね。ここの本棚、いろいろ私がいじってるんだけど、こんなに楽しんでくれてるの、お姉さんが初めてだからうれしくて」

 彼女はそう言って目を伏せながら軽く口角をあげた。その表情に何とも言えなくなっている間に、ちょうど入店してきたお客さんの対応に行ってしまって、会話はそこで途切れてしまった。ほっと息をついて、肩に無意識に力が入っていたことに気づく。

あのときは気づかなかったが、彼女、どう見ても高校生くらいの年齢なのだ。

今日は平日、しかもまだ午前中だ。テスト休みという時期でもない。あの日十九時過ぎに店に入ってきたことから、夜間というわけでもないのかな、なんて想像しかけたところで、やめた。

他人の一部分だけを見て、自分の勝手な枠組みで判断することの無意味さをまさに体現しているような自分に気づいたからだ。今の私は、平日祝日問わず、変な時間に毎日来て、本だけ読んで帰っていく客だ。これだけなら、専業主婦のお茶やフリーランスの息抜きに見えているかもしれない。実情は、会社を辞めたニートなわけだが。

私は、彼女が私のためにその場所に置いておいたという単行本を手に取った。

いつもはだいたい二時間半くらいで読み終わる厚さの本だったが、今日のものは結構分厚い。読み始めるのに覚悟がなかなかできなくて、ページをぺらぺらとめくってみたり、表紙や裏表紙、奥付をまじまじと眺めてみたりする。長そうだし、お昼ごろには退店するだろうし、今日読み終わることはなさそうだなと、読む前から考える。

奥から店主がきれいに焼きあがったチョコバナナのパンケーキとコーヒーを持って出て来た。私の手元の分厚い本を見つけて、そしてちらりと彼女に目線を投げてから、こう言った。

「明日のパンケーキにのせる果物をオレンジにしようと思うんですが、どうですか?」

「どうですか、と言われても……」

 問いかけの意味を図りかねて、黙りこくってしまう。今日店主と顔を合わせたのは今が最初だから特に前の文脈などないし、確か前に、オレンジが好きだと話したことはあるが、と考えてやっと思い至った。そうか。

「早起き、頑張りますね」

 

 翌日、昨日の読みかけの本は同じ場所に鎮座したままで、結局あの後全く話すことができなかった彼女のことを思う。店内には店主と、私含めて客が三人。てっきり、朝なら彼女がいるものだと思っていたが、そうではないらしかった。店主にいつならいるのか聞くことはしなかった。そもそも名前すら知らないし、スタッフの情報を聞こうとするなど褒められた行為ではないし、そこまでしようと考えるほど彼女のことが気になっている自分のこともよくわからなくなっていた。

 二日かけて読み終えた本は過去最高に私の心をえぐるような内容だった。

主人公は、今までずっと優等生という評価を周りから得てきた女子高生。ある日ずっと秘密にしていたことがばれてしまったことで、周囲の態度がじわじわと変化し始める。友人の態度がよそよそしく感じ、教師のことも信じられなくなる。いじめや陰口なんかがあるわけではない。ただただ周囲から彼女だけをぽっかり切りとったように溝がうまれ、じりじりと彼女を追い詰める。とうとう学校に行けなくなり、親のすすめで祖父母のいる田舎へ行くことになる。それでも彼女はうまくいかない。

結果として、そんな彼女がいろんな人に出会って、会話して、ともに時間を過ごす日々によって徐々に回復していくことになる。しかし、何よりも前半の周囲との関係がうまくいかず、努力しも余計にこんがらがっていく様が息が詰まるほど苦しく、つらく、読むのを何度も諦めかけた。

昨日の彼女の伏せた目を思い出して、彼女は何を思ってこの本を読んだのか、どうしてこれを私に読んでほしいと思ったのか、どうして今日お店にいないのか、聞きたくなった。それと同時に、その感想を聞くのもなんだか怖い気がした。

パンケーキに添えられたオレンジの酸味が心なしか舌の上に強烈に残ったまま、本をもとの場所に戻した。

 次の日も、そのまた次の日も時間を変えて店に訪れたが、本棚の並びは変わっていなかった。当然、例の本があの場所に置かれたままだ。

私は毎度本選びに苦労していた。そしてどうやら、私は本の選び方が下手くそだということをこの年にして自覚した。想像していた内容や展開がまるで外れたり、あまり共感できなかったり、読むのに苦労する文体だったりして、しょうがないので小説を読むのを諦めた。そして、雑誌感覚で読めそうな実用書をぱらぱらとめくることにした。たとえば、ヨガとか。正直、絶対しないだろうけど。

 スマホの画面がついて、舞音から連絡が来たのにすぐに気づいたのは、読んでいた投資の本の内容が入ってこなくて、気が散っていたからだった。

――ごめん、だいぶ急なんだけど、四人で会うの明日の十二時でどう?場所は七実の最寄り駅で、って話になった。まだ二人には言ってないけど、このあいだの店にしよう。

 おっけーとピンクのクマが言っているスタンプを送って、ついでに時間を見た。ほどほどによい時間だったので、集中力も完全に切れたことだし、今日は帰ろうと決めた。

スーパーによろうと思って駅のほうへ向かう道中は、なんだかいつもより騒がしく感じられた。賑やかな灯りや笑い声が漏れている居酒屋の前を通ったとき、今日が金曜日で、明日は土曜日で、だから明日会おうということになったのか、と今更気がついた。


「じゃあ、こんな感じで決定ってことで。明日くらいに今日決まった分も反映させた資料送るね」

「侑里さん本当にいつもありがとう~」

 食べ終わってから、食後のドリンクをおともに、旅行についての打ち合わせをした。とはいっても侑里がほとんど検討済みで、私たち三人は「いいよ」と言うだけで、行先とか、宿とか、あとは日程とか、あっというまに確定した。ちょうど三週間後に出発する。二泊三日の温泉旅行だ。

 舞音が、ちょっとだけ残っていたアイスコーヒーをストローで一気に飲んで言った。

「あんまりこのお店に長居するわけにもいかないからそろそろ出ようか。どっか移動しよう」

「そうだね」

「おっけー。七実どこかあてある?」

 侑里がそれに頷いて、開いていたiPadを片付け始め、千秋がそう言って私に視線を寄こした。

「え~この辺本当にあんまり知らないんだよね」

「七実の家反対の出口のほうだからね」

「舞音、何で知ってるの。あ、この間行ったのか」

「別に反対の出口のほう行くのでもいいよ。行きつけみたいなのとかないの?」

 侑里が伝票をもって立ち上がりながら笑って言った。つられてみんな立ち上がる。ちなみに侑里は行きつけのカフェとかあるの。職場のビルにあるファミマ。うわ、だいぶ嫌。あ、ここ個別会計できる?前来たときはできたよ。なんて三人が会話をしているのを聞き流しながら、普段は座らないあの四人ソファ―席のことを考えていた。

「七実?どうした?」

「もはや仕事レベルで通ってる店、くる?」


 夕方のこんな時間にこの店に来るのはあの初日ぶりで、毎朝よく頑張ってたなと今更ながらに実感する。後ろをついてくる三人が、え、ここお店?と戸惑っているのを無視して、ドアを開けた。

「いらっしゃいま……せ」

 ドアベルが鳴って、出迎えたのは久々の彼女だった。私が一人ではないのが驚いたみたいで、少し固まっていたが、すぐに気を取り直して、店内右奥のソファー席に案内された。

「めちゃくちゃいいお店じゃん」

「私初見じゃ絶対入れない」

 確かにそうかも、と言ってメニューを手に取る。最近はメニューを見ずに店主と話して注文していたので、なんだか新鮮な気分だ。へえ、この店、紅茶もあったのか。知らなかったな。

「七実ここどれくらい来てるの?」

「毎日」

「やば。ほんとに仕事じゃん」

テーブルに全員の飲み物と、ミルクやシロップ、砂糖などが置かれる。私は何も入れず、紅茶を一口飲んだ。

 それから、各々の近況についてゆっくりと話した。特に、私が仕事を辞めたときの周りの様子や具体的な手続きなどについて深掘りされ、あの時舞音が言ってた通り、みんなそれぞれ思うことがあったのだと知る。理由とか、感情とか、必要以上に私に語らせようとしないのが、その表れだった。

「てか、今何時だ」

 おしゃべりに夢中になっていた私たちを現実に引き戻したのは、千秋のその一言だった。全員一斉にスマホをカバンから出そうとしたが、一番早かったのは腕時計をしていたことを思い出したのであろう、侑里だった。

「十八時十分。そろそろ帰ろうかな」

 そうだね、とみんな口々に言って、立ち上がる。会計の気配を感じたのか、彼女がレジの方へ向かおうと椅子から立ち上がったとき、店主が彼女に何か声をかけているのを視界の端にとらえた。もしかして、個別会計とかは扱っていなかったりするのだろうか、と心配になったが、それは杞憂だった。

 順番に会計を済ませ、退店していく。最後は私。アールグレイのホット。税込660円。電子マネーで支払って、レシートを受け取るために手のひらを差し出す。しかし、ちょっと待ってもレシートは手元に来ず、レシートは要りますか?という確認があるわけでもない。不思議に思って顔をあげると、彼女の瞳が真っ直ぐ私を射抜いていた。

 なにか?と私が聞く前に、彼女の口から発された言葉は、全く予想もしていない言葉だった。

 翌日、だいぶ浮かれていた私は、八時半にお店を訪れた。いらっしゃいませ、とほほ笑む彼女に笑みを返して、昨日とは反対に店内左、いつものカウンター席に座る。中にいる彼女と向き合った。

 店内に客は私一人で、店主は奥でパンケーキを焼いている。そう、今日のパンケーキに添えられるフルーツは、オレンジだと彼女が教えてくれたのだ。

「三神渚です。一応、高校二年生です」

 どう話していいかわからずにいたら、そう彼女が、いや三神さんが切り出してくれた。一応、と添えた言葉に何となく含みを感じて、ごまかさずに告げようと思った。

「高原七実です。この前会社を辞めたので、今は特に何もしていません」

「ああ、ここに通うのがお仕事、っていう?」

「あ、もしかして昨日私たちの話し声大きかったですか……?」

「ああ、いや、全然そういう意味じゃなくって。見かけたときはいつも一人で、本読んでくれてたけど、昨日は久々に会えて、でも一人じゃなくて、どうしてかなってちょっと気になっちゃって」

 三神さんも私のことを気にしていてくれたのか、と思ってうれしくなったが、じゃあ何故、あの本を私に勧めた後、しばらく姿を見せなかったのかと聞きたくなった。

 しかし、ちょうど店主がパンケーキをもって出てきたので、三神さんはごゆっくりどうぞと言って離れてしまった。

 パンケーキをぺろりと食べ終え、コーヒーで口の中を整える。本棚のほうに体を向けようとしたところで、三神さんがカウンターの外から近づいてきているのを正面から受け止めてしまった。カフェエプロンをつけていなくて、リュックを肩にかけ、上着を手に持って、まさに外に出るような格好だった。

「高原さん。この後の時間、私にくれませんか」

「え、このあと、えっと、大丈夫ですけど。え、でも、お店のほうは」

 唐突のことで、思わず店の人員のことを心配し、店主のほうを見た。しかし、どうぞというように頷くだけで、あれよあれよという間に、外に連れ出されてしまった。

「あ、お金」

「大丈夫。私が持つから」

「え、そんな。ちゃんと払いますよ」

「店に呼んだの私だから。気にしないで」

「いや気にしますって」

 そんな押し問答をしながら、電車に乗って二駅。このあたりでは一番賑やかな駅だ。

 それから私は本当に三神さんに連れられるがままで、お洋服を見たり、コスメを見たり、雑貨屋をのぞいたりして、気づけば予約していたというランチまでいって、しっかり奢られた。さすがに大人としての面目がたたないと抵抗したけれど、誘ったのは私だ、の一点張りで、私は一度も財布を出させてもらえなかった。

 せめてもと思い、公園で散歩をするお供のドリンクを勝手にテイクアウトで購入して押し付けた。受け取った彼女は眼を真ん丸にして驚いて、ありがとうと言って、年相応の顔をして笑った。その顔を見て、胸の奥のほうが、ぎゅっと締め付けられた。せっかく目線が交わったのを外すのがもったいなくて、ずっと顔を見合わせていたら、今まで何となく図りかねていたはずの距離感が、ぐんぐん近づいて、ついに二人して声をあげて笑った。

「あ」

「うん?なにかあった」

「あの制服、うちの学校の」

 彼女の目線をたどると、大きなカバンを抱えてベンチに座ってスタバ片手に写真を撮っている女の子たちがいた。

「部活帰りに寄り道かな」

「そうっぽい。うちの学校ここからだと歩いて十分くらいだから、たまり場なのか」

「三神さんは……」

 あんまり友達と寄り道しないの?と聞きかけて、口をつぐんだ。不自然に言葉を切ってしまった。彼女は私の言葉の続きを待っているのか、黙ったままだ。

「どうして私をここに連れてきたの?」

 彼女はあのカフェに平日の朝九時半でも、午後二時でも、夕方十六時でも、夜の十七時過ぎでも、出現する。制服の姿なんて一度も見たことがないので、登校の実態はあまり想像できないのだ。なのに、わざわざ学校のある駅に私を突然連れ出して、それこそ本当に友達とやるような時間を過ごして、なのに、頑なにお金を払いたがる。

 二人で黙ったまま歩く。その女子高校生たちが視界から消えたところで、彼女が口を開いた。

「学校が、嫌いだとか、苦痛だとか、別にそんな感覚は本当になくて。友達もいるし、先生もまあ普通だし、家がしんどいとか、そういうわけでもないし。正直、自分でもよくわかってなくて。」

「うん」

「そんなことを考えるよりも、今はただ、本を読んでいたくて。自分ではうまく表現できない気持ちを、小説の中の人たちに重ね合わせて理解して、共鳴して、読み終わった後に残ったいろんな感情とか言葉とかをゆっくり自分のものにして、ゆっくりしたかった」

「それであのお店に?」

「そう。駅から少し離れてて、学校の人も来なさそうで、追い出されない場所を探してたら見つけたのがあの店。最初は読みたい本をもって制服着たまま朝からお店行って、好きなだけ過ごして、気が向いたらたまに学校行ってた。もちろん、夕方までいてそのまま家に帰るときもあった。そしたら尼崎さんが、あ、いつもいるあのお店のオーナーのことね。本重いだろうから、置いて行っていいよって言ってくれて。だんだん本が増えて、小さい本棚だったのが、だんだん大きくなっていって、お客さんとかが本持ってきてくれたりして、今のあの本棚になった。」

「そうだったんだ」

「一回、母親が心配してお店に来たことがあった。小言は言わないけど、たぶん心配して。その時尼崎さんが、アルバイトというか、好きな時に来て、お店を手伝えばいいって提案してくれた。母親も、ただ学校さぼって遊び惚けているんじゃなくて、居場所を自分で作って、それが受け入れられて、それで生きていけるなら、いいよって。」

「それで、たまに来て、あのお店で働いてたんだ」

「高原さんと初めて会ったとき、正直、すごいびっくりした。私が置いておいた好きな本を読み終えたその顔みて、あ、この人は同じだって思った。なんていうか、感じたこととか、考えたこと、今の自分の状況との重ね具合とか、内容は絶対同じじゃないけど、同じくらい、心が揺さぶられた人だ、って」

 あの時読んだのは、そうだ、学園もののミステリーだ。最初は年齢が違いすぎて懐かしさすら感じながら読んでいたが、どんどん描写に引き込まれ、人に言わずに奥のほうにとっておいた感覚が引き出されるあの痛みが思い出される。

「そう、今私も同じ状態」

 はっとして彼女のほうをみたら、彼女は私のほうを向いていなくて、ただ、同じ歩幅で歩いていた。

「それでさ、お店行くとあの場所の本の置き方がちょっと変わってて、尼崎さんに聞いたらあのお客さんが、そう、高原さんが読んでたって教えてくれて、うれしくて。あの朝あったときも会えたのがうれしくて、でも、本の感想どうでしたかっていきなり聞くのも勇気出なかった。でね、実はタイミングがすごく悪くて、あの日あの場所に置いておいた本のことなんだけど」

 そこで彼女は足を止めた。つられて止まると、開いているベンチがあった。話を聞くのに夢中で気が付かなかったが、随分歩いていたので、休憩もかねて座ることにした。

「それで、あの本は私が一番好きな本で、つい浮かれて高原さんに読んでほしくて置いたけど、いざ読まれると、すごく緊張して。高原さんどんな感想をもつかな、引かれないかな、そもそも読み切ってくれるかなって、不安だった。だから、しばらくお店にもいかなかった」

 私も、あの本を読んだ後、彼女に会いたい気持ちと、会いたくない気持ちが確かにあった。なるほど、彼女の言う「同じ」が私にもよくわかったので、つい頬が緩んだ。それを感じた彼女が言葉を詰まらせ、不安そうにこちらを見た。

「わかるなあ、って思ったの。あのお話、人間関係みたいなのが、わからなくなるよね。『親友』とか『恋人』とか『仲間』とかそういう言葉を使ってあらわすのに、こんなにリスクがあるのかって怖くもなる」

 目を見てそう言えば、彼女はパチパチと瞬きをしてそれからゆっくりと息をはいて、あははと笑った。

「なんだ、全然不安になることなかったなあ。それで、高原さんは自分の周りの人間関係についてどう思った?」

 さっきとは打って変わって、きらきらとした目で彼女は私の話の続きを促した。

「うまく言えないけど、最上級がいくつもあるのは、そんなにわるいことなのかなって思った。なんていうか、『仕事』と『私』を比べるくらい、ナンセンスっていうか」

 そう言いながら思い出すのは、一年前くらいに別れた恋人のことだった。そうだ、あの人もこんなようなことを言って私に別れを告げたのだ。

「わかるなあ。だってさ、『恋人』関係なんて、人間関係の中の特別の一種類に過ぎないよね?そういう『家族』とか『仲間』とかだって特別で、特別の中に序列なんてないもん」

「『一種類に過ぎない』……」

 なるほど。とても腑に落ちる言葉だった。舞音、侑里、千秋の顔を思い浮かべて言う。

「うん。そうだね、すごくわかる。そういう前提でずっといられている人たちが、私の、いわゆる『親友』なんだなって思った」

「それって、昨日一緒にいた人?」

「そう。大学の同期。きっかけは一年生の同じ授業でのグループワークで、すごい一緒に頑張って、いつの間にか仲良くなった。でも、そのあとは同じ授業をあえてとったりとか、同じサークル入ったりとか、そういうことはしなくて、もうほんとにたまに授業かぶったりとかしただけ。大学は単独行動が多いからわざわざ約束しないと会えないし、でも約束するのめんどくさい人たちだったんだけど、卒業旅行とかそういうのはやっぱこの四人だよねってなる感じ」

「……高校とは全然違う」

 彼女のつぶやきは、ちゃんと聞こえていた。でも、それには反応せずに、黙ってだいぶ冷えたコーヒーを飲んだ。


 その日以降、再び彼女は店に姿を見せなくなった。


「三神さんって本当にこの一週間丸々来てないんですか?私がいない時間とかにも」

 私と店主の尼崎さんしかいない店内で、改めて彼女のことを聞いた。私が初めて尼崎さんと店主のことを呼んだときは、驚いて絶句されたが、それ以来、一気に距離が縮まり、こうしてだらだらとおしゃべりをするようになっていた。私がこのあたりに住んでいることも、会社を辞めて今は働いていないことも、すでに話した。

「来てないなあ。まあでも辞めますとか連絡来たわけじゃないから、そのうち来るよ」

「そんなこといって、本当は寂しかったりしません?」

「高原さんが毎日来てくれれば全然そんなことないんだけどな」

「え、すでに私毎日来てますよね?」

 こんな軽口を交わしたり。

また別の日。

「尼崎さん、三十二から百八十までの間で適当に数字言ってください」

「八十九」

「えっと、この段で七十だから……」

 七十一、七十二、七十三……八十九。

「尼崎さんが選んでくれたのは、猫の写真集でした。かわいい」

 本選びを手伝ってもらったり。

 また別の日。

「今日はそろそろ帰ります」

「いつもより全然早いけど。どうした」

「いや、特に何もないけど、ただの気分」

「もう少しいればいいのにって気分」

 暇つぶしの相手になったりした。

 尼崎さんが引き留めるのを無視して、店を出る。ちょうど陽が落ち始める時間で、街がオレンジ色に染まっていた。さっきまで見ていたレシピ本のなかに、もやしを使った簡単でおいしそうなのがあったので、スーパーにいくことにしていた。撮っておいた写真を見ながら、冷蔵庫の中身と照らし合わせながら歩いていた。

「高原さん」

 そう声を掛けられて、顔をあげると、まずは見覚えのある学生服が目に入った。そして、声の主を認識した。

「三神さん」

 制服姿の彼女は、髪をハーフアップに束ね、露出した耳にピアスはなかった。

 結局、私はカフェに舞い戻ることになった。尼崎さんは、私の姿を見て忘れ物?と声をかけてきたが、後ろの三神さんに気づくと、ソファー席使いなといって、そして、頼んでもいないのに二人分の紅茶を出してくれた。

 三神さんは角砂糖を一つ入れて、シュガートングを持ったまま、私にいるかと眼差しで聞いてきた。角砂糖をつかむだけのその道具の丁寧さに見惚れて、一つ、自分で紅茶に入れた。

 ティースプーンでかき混ぜながら彼女は口を開いた。

「実は、最近学校に行ってます。あの日、高原さんの大学のお友達についての話を聞いて、大学進学、いいなって、漠然と思って」

 思わず、え、と声が漏れる。

「そしたら、まず、高校をちゃんと卒業しなきゃいけなくて、三年生に進級できるかな、とか、先生といろいろ相談してて」

「大丈夫そうなの?」

「ちょっと頑張らなきゃいけない。でも、頑張れる気がしてる」

 そう晴れやかな顔をして、真っ直ぐ私を見てくる彼女が、とっても眩しい。一回りほど年下の子に、こんな視線を向けられるのがくすぐったくて、照れくさくて、そして、心から嬉しく思う。

「私たちの関係が良いなって思ってもらえて、大学進学を考えるきっかけになったって、ほかの三人にも今度言っていい?多分、みんな感動して震えると思う」

「またお店で集まる?」

「いや、明後日から旅行行くから、そのとき」

 彼女は、明後日か、と言いながらスマホで何やらチェックを始めた。何泊かって?二泊だよ。

私がきっかけだと言って、新しい道へと今まさに踏み出そうとしている彼女を前にして、このままじゃいられないなと言う気持ちが湧いてくる。そうだ、この旅行が、丁度いい区切りになる。

「私も、帰ってきたら、頑張ろうかな」

 そう口に出せば、彼女は顔をあげて、不思議そうな顔をした。私が今どんな決心をしたか、彼女に察しろと言うのは無理な話か。

「仕事、やろうかなって。あてとかなんにもないけど。少しずつ、生活をもう一回つくっていくつもりで」

 お互い頑張ろうね、という二人の気持ちが重なるかと思いきや、彼女は目をキラキラさせて、前のめりに思いもよらないことを告げた。

「ここで働いたらいいと思う!」

「え?」

「だって、私これから学校行ったら、お店手伝う人いなくなるし、尼崎さん寂しくなる。あと、なによりも、本棚の管理を高原さんにやって欲しい!」

 勢いよくまくしたてる彼女に反応できないでいると、話を聞いていたのか、尼崎さんがカウンターのほうから声を飛ばしてきた。

「なに?やっと高原さん来てくれるの?」

「旅行から帰ってきた次の日がちょうど土曜日でさ、私お店来れるから、この日からでどうかな?」

「え?え?」

「多くは出せないけど。それでもいいなら、大歓迎」

 二人から笑顔でそう詰め寄られて、考えておきます、と言って、ようやく解放された。

 今後のことについて四人でゆっくり考えながら過ごす旅のつもりだったけれど、出発する前から超有力候補が出現してしまった。


 旅行中、本当にいろんなことを話した。会社か、パートか、経験分野か、未経験分野か、ほかにもたくさん。カフェのことも、みんなに言った。

「そういうのも、ありだよね」

「七実がいるならあのカフェわざわざでも行くかも」

「わかる。たまり場?」

「すっごいあり」

 こんな風に勝手に話を進められたりしたけど、確かにすごくいいかもなあなんて、私も思ったのだ。

旅行から帰ってきて、最寄り駅についた。その時には、もう覚悟は決まっていた。

スーツケースをひきながら、百均で履歴書を買って、スピード写真で二×三センチの自分を八個手に入れた。このサイズの自分の写真を見て思い出すのは社員証だったが、旅行で疲れているはずなのに、その写真よりもずっと、明るい表情で写っていた。


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シュガートング・ツーピース 夕希ゆき @yuukikayuki

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