第10話 番犬よ、大志を抱け
久々に顔を合わせた長兄、
「お前、それ、やきもちだろ?」
「……やきもちというのは好きな相手に抱く感情ではないですか?」
「なんで敬語なんだよ……」
夜勤明けから夕方目を覚ました兄が「呑みに行くか」と珍しく徹を誘ったのだ。
騒がしい居酒屋で、しばらく他愛ない近況報告をし合い、会話がひと段落すると、「お前、なんか隠してるだろ」と、グラス越しに告げられた。
「急になに……?」
「いや、薫が心配してたぞ。『兄貴が可愛い女の子にデートに誘われまくってる』 って」
「……それが心配する内容かよ」
「それな」
「で、兄貴もそう思ってるのか?」
「心配されるようなこと、してるのか?」
昔から察しの良かった兄は、警官になって独特の凄みを身に付けていた。
まるで尋問されている心地で黙秘していると、「俺はしつこいぞ」と満面の笑みをたたえる。
それは七年前に経験済みだ。
徹は観念し肩を竦めると、瑠璃子との関係をつまびらかに話す。
すべてを伝え終えると、喉が異常に乾いた。ジョッキの中身を一気に空けて、お代わりを頼む。
翔はしばらく沈黙した後、
「さっさとそんな取引やめてちゃんと付き合え。……どう考えてもお前に群がる女に嫉妬してんだろ、それ」
焼き鳥を頬張りながら、兄は徹を諭した。
てっきり猛反対されると思いきや、予想外に後押しされ驚く。
「そんな可能性は絶対、ない」
ぐいっと生ビールのジョッキを傾ける徹に、
「なんで言い切れんの?」と、素で不思議がる翔。
「……大企業の社長令嬢が、俺みたいな庶民を相手にするわけないの、兄さんも分かってるだろ」
「でも、瑠璃子ちゃん、だっけ? 話聞く限り、あんまりそういうの頓着しなさそうじゃないか」
「俺なんか、よくて 『ぬりかべ』だ……」
「ぬりかべぇ~? 」翔はすっとんきょうな声をあげる。
先日の一件以来、やたらと瑠璃子に連れ出されるのだ。
数日前など、彼女の友人二人との買い物にまで駆り出され、荷物持ちをさせられた。
「これもデートの一種よ」と当人は言っていたが、徹を連れ歩く目的はナンパ防止であることは明らかだった。
「あんまり卑屈になりすぎるのも良くないぞ」
翔は頬杖をつきながら、弟を優しく見つめる。
「自分の価値を下げすぎると、嫌味に聞こえるって知ってるか? 」
「嫌味……?」
「こんな騒動に巻き込まれたのも、薫のためだろ。あいつも何となく自分が関わってるんじゃないかと思って俺に話したんだろうし。……お前は、充分、家族思いのいい奴だよ」
兄は自分を買いかぶりすぎだ。
「俺にとったら、お前は自慢の弟だ」
「人が良すぎるぞ、翔にい」
にかりと歯を見せて笑う兄には、とても敵わない。
「誰かに 『そう』 だって言われたのか?」
「いや……」
「ほら」
言われたわけではないが、実際、瑠璃子と 『そういう』 取引をしているのだ。
事実を否定できずに、もんもんとしていると、
「まあ、本人に確認してないからあれだが、期待してもいいんじゃねえか」
徹を元気づけるように兄は明るく言い放った。
希望を持つなどという選択肢は、ない。
もう少し頑張れば報われるはずだと期待すればするほど、落差は激しく打ちのめされる。
それでも。
瑠璃子はいつでもまっすぐ気持ちをぶつけてきた。
試されたこともある。それは徹が彼女を信用しているか確認するための作業で、騙すという思惑は働いていない。
少しは、信じてもいいのだろうか。
「ただし、犯罪紛いの騒ぎは起こすなよ、嫌だぞ、お前を逮捕するのは……」
ろれつの回らなくなった兄はテーブルに突っ伏し、静かに寝息を立て始める。
酒に強くない彼が、自分を心配して呑みに誘ったのだと思うと申し訳なくなった。酔いつぶれた翔を背負い、これから瑠璃子とどうなりたいのか、ぐるぐると考えながら、家路を急いだ。
季節は確実に夏から秋へと移りつつある。
まだまだ暑いなと思っていても、木陰に入れば、肌をくすぐる風に涼が混ざり込んでいる。
街を行き交う人々も、寒暖の狭間に戸惑い、衣替えが落ち着かない様子だ。
秋晴れも心地よい空の下。
駅前の花壇の縁に座り込み、徹はうなだれていた。
視線は手元のスマホの画面に注がれている。
『選考を重ねました結果、弊社での採用は見送らせていただくことになりました。近藤様の今後のご活躍を心からお祈り申し上げます』
就職活動は継続していたが、進展は全くと言っていいほど、ない。
ここ最近、他者に認められる珍事件が続き、何となく自信を持ち始めていた。世の中そんなに甘くない。
相変わらず、面接会場では緊張して会話を続けることができない。
面接官と顔をあわせると、表情筋がこわばる。場数を踏めば慣れるというが、そんな経験則は徹に当てはまらないようだ。
数を打てば打つほど上手くいかないもので、書類選考は落ち続け、面接に辿り着いても手ごたえがない。
原因が判らない。いや、自覚したくないだけだ。兄に指摘されてから、瑠璃子を意識して集中できないでいる。
誰もが羨む美少女に想いを寄せられているかもしれないという妄想は、徹に幸福感を与えていた。思い返せば、そういえばという場面がなくはない。
そして約束通りに振り込まれる給料も、徹から切迫した気持ちを喪失させている要因である。
五十万円が、きっちりと振り込まれている通帳を確認したら、言い知れぬ安堵感が芽生えた。人に感謝されて賃金が発生している。
当初の罪悪感は霧散していた。このまま現状が続けば、苦労して働き口を見つけなくてもいいのでは、と脳内の悪魔が囁く。
「え、それってヒモじゃん!」
横からの甲高い声に、徹の心臓はどくんと深く脈打った。
「だって、ミキを褒めてくれるの、ケンジだけなんだよ。もうそれだけで私、頑張れちゃうもん」
「そりゃ、お金生み出す女はおだててなんぼでしょ。奴らの常套手段だよ」
「ケンジはそんな人じゃないよ。ミキを一番に考えてくれるんだから……」
涙ぐむミキと呼ばれた年若い女に忠告する友人は、諦めたように肩を竦める。
「まあ、確かに裏表のなさそうな人だもんね。自分でヒモって自覚してない可能性あるかも。ちょっと距離取ってみたら?」
まるで己の心境を映し出したような会話に居ても立っても居られず、徹は足早にその場を立ち去った。
そうか、傍目から見れば、ヒモなのか。
対した労働もせず、大金を貰う。しかも相手は高校生だ。
元々は弟の進学費用を工面するために結んだ契約だ。目的を見誤っている。
瑠璃子との関係に浮かれている暇など、自分にはないのだと言い聞かせた。
「よし!」
気合を入れて頬を平手打ちすると、すれ違った男女が怪訝そうな表情で脇を通り過ぎた。
運が向いてきた―─。
力強く握りしめたせいで、手元のスマホがみしりと悲鳴をあげるのにも気づかないほど、徹は興奮していた。
「近藤さん、どしたの?」
水族館に隣接する喫茶ラウンジでパフェをつつきながら、瑠璃子は小首をかしげる。窓から差し込む陽光に照らされ、栗色の髪がキラキラと輝いて見えた。
後光を背負う女神にも似た姿に、徹は拝みたい心地である。
しかし、人目があることをぎりぎり思い出し、代わりにスマホを差し出した。画面に目を通した瑠璃子は驚いたようにスプーンを口から離す。
「合格……?」
最終面接までこぎつけた会社から採用通知が届いたのだ。
正式な内定通知は郵送されるとのことだが、合格はほぼ確定であることがメールの内容からうかがえる。
瑠璃子は画面をスクロールしていたが、ふと表情を曇らせた。
しかしそれは一瞬のことで、「良かったね」と笑顔で徹にスマホを返した。
「長かった……」
就職活動を始めて半年以上。永遠に続くかと思われた職探しに終止符を打つことができる。脱力するように椅子の背に凭れ掛ると、瑠璃子は優しく労ってくれた。
「近藤さんの就職祝い、いつしよっか?」
「気が早いな……」
瑠璃子が自分の事のように喜んでくれている姿に、徹は泣きそうになった。
彼女と出会ってから歯車が良い方向に動き出している。彼女には感謝するばかりだ。
この恋人兼ボディガードの契約は就職すれば、解除されるのだろうか。
会社勤めになれば、今までのように気軽に会うことはできなくなる。徹としては社会人生活が安定するまではお願いしたいところなのだが、そう都合よく物事が進むことはないだろう。
結局、彼女の気持ちは聞けず仕舞いである。本当のところ徹の事をなんだと思っているのか。
ちらりと彼女を見やると、熱心にスマホの画面に見入っている。
就職するまでは聞けないと言い訳をしてきたが、問題はクリアした。この勢いのまま尋ねてみようと、徹は一世一代の告白のため口を開く。
「あ、あの……」
「瑠璃子じゃないか、デートかな」
深みのあるテノールが喫茶ラウンジに響き、徹の決意を鈍らせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます