5

 翌日、ぼくは外回りしてきますと言って営業車を運転し、病院に行った。


 きのう天使を見て死にかけた経験をしても、白昼が照らし出す圧倒的な醜い現実の中にいれば、乗り物のアトラクションに乗ったような感覚にすぎなくなる。

 ああ、楽しかったな。以上。

 だがしかし、だ。小心者のぼくは、病院に行けと言われてやり過ごせるタイプではない。このあいだ保険を見直したばかりだ。健康に万が一あって、もしもローンが組めなくなれば、ぼくの積み立て投資信託や貯蓄、さらには株やFXや仮想通貨なども含めたささやかな資産計画が崩れる。

 そうさ。ぼくは俗物の中の俗物。キング・オブ・ノーバディー。もっとも軽視される類いのどうでもいいやつ。あなたにおける最も価値がない人間ランキング一位。

そう思いながら、病院に到着した。

 受付をし、問診票の記入を促される。

 名前が呼ばれる。

 「どうされましたか」と医師が言う。

 頭がどうかしてるみたいで。

 「なるほど」と忙しい医師は問診票をあらためながら言う。

 「ちょっと失礼します」と言って、医師はぼくの頭をコンコンとノックし、響きを確かめる。

 きのう見たホルマリン漬けの灰色の脳は、天使の羽と同じ色をしていた。

 「MRIを撮りましょう」と医師が言う。ぼくは違う部屋へ通され、造影剤を飲む。

 テクノロジーの進歩が顕著だ。この頃の磁気共鳴画像は、証明写真機のようなブースに入って、三、二、一で写真にできる。立ちながら全身が映る。

 そして底抜けに明るい女性の人工音声が不安な気持ちを和らげてくれる。心のバリアフリーだ。

 「用意はいいかなー?」

 ぼくは不意に懐かしくなる。

 「はい、チーズ!」

 まるでだれかと撮ったプリクラを思い出す。

 「忘れ物はないかなー?」

 すみやかに退出を促される。

 各部位六枚セットの磁気共鳴写真がガタンと出てくる。

 写真を見ると、頭蓋骨の輪郭の内側に何も映っていなかった。

 何かがパァーンと弾ける音がした。ぼくは壊れた真空管ラジオ。

 機械の故障なのか、事実の反映なのか、医師に確認するしかない。

 「学会に報告する必要がありますね」

 造影剤の副作用が効いてくる。

 「明日また来てください」

 気持ちが悪くなってくる。

 ぼくは立ち眩みをこらえながら会計を済ます。

 「造影剤をお飲み後は、四十八時間ほど飲食はお控えください」

 え、そんなに?

 「お会計は十三万八千円になります」

 え、そんなに?

 目の前の現実が受け入れられない。頭がくらくらする。

 こんなときどうすればいいのか。

 考えが巡る。

 きのうの夜は信じられない体験をした。それは今、昼にも起きている。

 考えが巡る。

 失うものがなくなってこそ何かを……。

 よろこんで手放したいと思うものしか……。

 世界はもうすぐ……。

 そうだ。ぼくは天使から連絡先をもらっていた。

 名刺に書かれた通常より倍近く桁の多い番号をダイアルして、ぼくは天使に電話を掛けた。 

 呼び出し音が鳴る。

 きのう天使は、ぼくに病院に行けと言った。

 呼び出し音が鳴る。

 嘘だと言ってくれ。

 三コール目で天使は出た。

 「そうか」と天使が言う。「話の続きをしよう」

 天使は車の中で会おうと言い、ぼくは社用車に戻って運転席のドアをバタンと閉めると、助手席に天使が座っていた。

 何がどうなってるんだ?と、ぼくはさっきの写真を天使に見せながら言う。

 「よく撮れてるじゃないか」と天使が言う。「あとで使うからしまっておけ」

 そうじゃなくて、ぼくは今どうなってる?

 「残された時間は少ないという印だ」と天使が言う。「メメント・モリ」

 ぼくに何かしたのか?

 「はっ!」と天使は言った。「おれが何かしたかって?おれは何もしていない。今のおまえは、すべて今までのおまえだ。そうしておまえがおれを引き寄せたんだ」

 ……何を言っているんだ? すべてが絶妙に嚙み合わない……。天使とはそういうやつだった。

 「肝心なのはおまえが何をしたかだ」と天使が言う。

 そのときのぼくに思い当たる節はなかった。

 だが聞いた。……ぼくは何をやったんだ!?

 「ふん」と天使が言う。「それはおまえ自身が悟って行動を起こさないと意味がない」

 さらに天使は言った。「自分自身の外側から与えられる確信などない」

 ……ぼくは混乱し、行き場のないやりとりが続く。

 ……ぼくは……ぼくは、まさか死んだのか!?

 「はあん?」と天使がキレ気味に言う。「死んでいないし、生きてもいないが、おまえは徹底的に救いがたいやつだ」

 とことん要領を得ない……。……どういうことだ? ……何がどうなってる?

 禅問答のような堂々巡りを繰り返しながら、ぼくは必死に何かを思い出そうとしていた。

 一体なんだこれは……? どうなってるんだ……?

 ……しかし肝心なことは何も覚えていない……。記憶の引き出しが開かない……。

 どうすればいいんだ…!?

 「きのうおまえは言っただろう」と天使が言う。「おまえ自身の望みを」

 ……ぼくはこのしょうもない現実を……

 抜け出したいと確かに昨夜言った。

 「どの道もどこにも至らない」と天使が言う。「だからこそ、何かを感じるならそれを手掛かりにしろ」

 ……確かにぼくは、目の前のしょうもない現実を抜け出たかった。

 かといって、ぼくは何から始めればいいのかわからなかった……。

 「そうだろうとも」と天使は言った。「人間とはそういうものだ」

 「行くぞ」

 

 昨夜天使は、人間を善(よ)きものに導くと言った。天使にはぼくのすべてがお見通しだった。

 聞きたいことは山程あったが、これから長い付き合いになることは知っていた。

 ふつうの世界では、人間が天使を見ることはないという。見えても、それが天使だとは気づかない。逆に、天使が天使に見えているときは、何かがおかしい証拠だ。

 そして天使はおまえに会わせたいやつがいると言い、ぼくは車のエンジンをスタートさせた。

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