3
同じ日、ぼくはまた誤魔化せないレベルで仕事を一つやらかし、それとは別に顧客からのクレームを関係ない得意先に引火させ、先輩の「お前、何がしたいの?」をくらい、ひどく疲れた帰り、バーに寄った。
職場でピエロを演じるのにも限界がきている。ぼくは見透かされたハリボテ。このままでは今のサーカスを首になり、次の笑われ先を探さなくてはならない。
どうにも飲まずにはいられず、酔わずにはやっていられなかったので、普段は行きもしないバーに行ってみることにした。
そうして不思議な佇まいの店を見つけた。
職場からの帰り道にそれはあったが、それまで気がつかずにいた。小さなバーだった。最初、ドアしかない建物かと思ったが、店は地下に続いているようだった。
階段を下り、入り口をくぐると、そこは思いのほか混雑していて、ぼくは氷のように萎縮して溶けてなくなりそうだった。
気配を消しながらカウンターに座ったが、あまり意味はなかった。だれもぼくの姿を見ていず、だれもぼくの声を聞こうとしていなかった。きつい酒をロックで頼もうとするが、マスターが捕まらない。
まあいいや、ちょっと待とう……。
そのままぼくはカウンターに突っ伏した。
深い溜め息が出る。
ぼくは一体何をしたかったのだろうか。仕事という意味ではなく。
昔から夢見ることに関してだけは一流で、ぼくは目の前の現実とはつねに違う世界があって、手を伸ばせばその世界に行けるはずだと信じていた。その世界はぼくによって顕現されるのを待っているような気がしたが、実際にはその糸口がなくて入り込めず、ぼくは歳を重ねて三十になろうとしていた。
一生続くのだろうか。これが。ぼくの人生はこれだけなのだろうか。
そうやって、もう何千回目かの、出口のない苦悶をめぐらせていた。
……気がつくと、飲もうと決めていた酒が提供されていた。……いつ頼んだっけな?
まあいいや、と初めてのバーでの酒をあおった。
時間だけが過ぎていった。
飲んでは突っ伏し、また起きては、不思議と置かれているグラスを傾けるのを繰り返した。気が利く無言の先回り。ぼくには一生できない芸だ。バーとはそういうものなのだろう。
そうして酔いが回って、だんだんまわりの声と、自分の頭の声との区別がつかなくなっていった――。
失うものがなくなってこそ、何かを得られるのでは。
そうかもしれない。
よろこんで手放したいと思うものしか手に入らない。
本当かな。
どれだけ間違いを犯してきたとしても、先へ進むことを赦(ゆる)されている。
そんな甘くないよ。
世界はもうすぐ終わるのだから。
……え?
不意の聞き捨てならない言葉で我に返る。気がつくと、そこには……。
ぼくの隣で、背中に翼のある男が、膝を組んでグラスを片手に酒を飲んでいた――。
ぼくはまじまじと相手の方を見る。歳まわりはぼくと同じくらいで、細身の仕立てた品のいいスーツを着ている。
「やあ」と翼の生えた男が、初めてこっちを振り向きながら言う。
だれもぼくたちのことを見ていず、だれもぼくたちのことを気にしていない夜だった。
ぼくはぎこちなく会釈を返した。
……どちら様?
「見ての通りさ」と男が言う。
あまり回答になっていない……。
スーツ姿に翼の生えた格好で、ぼくは最初、彼は大道芸でもやっている人なのかと思ったが、見ようによっては天使……。そう、エンジェルにも見えた。
ぼくは、お仕事は天使ですか?と、意味不明なことを聞いた。
すると彼は、片手で背びれのポケットから何かを取り出した。そして名刺のようなものをぼくにくれた。そこには、住所と連絡先だけが書かれていた。
「そうともいう」と彼が言った。「そう呼んでくれても構わない」
こうしてぼくは天使と出会った。
なんとも絶妙な沈黙が流れた。これもバーの醍醐味だろうか。
気にしなければ、何も気にならないものなのだろうか。
ぼくは、天使とは何をするものなんですか?と彼に聞いた。
すると天使は、グラスを置いてゆっくりとこちらに向き直った。
微(かす)かに笑った無言の眼差しには、言いしれない含みがあった。人を惹きつけるような神々しさが宿っていた。なにより、彼の身体(からだ)は若干光って見えた。
そして天使は、「人間を善(よ)きものに導く」と答えた。
……善きものとは?
その日、だれもぼくたちのことを見ていず、だれもぼくたちのことを聞いていないバーで、天使はぼくに語りかけてくれた。ぼくはそれまで、ずっと独りでいるような気分だった。その夜に限った話ではなく、ぼくはずっと長い旅路を独りで進んできていたかのようだった。
「今夜はもう遅い」と天使が言う。「そういうことはまたの機会に」
……ぼくはますます煙(けむ)に巻かれていくようだった。
今夜限りでは?
「それより」と天使が言う。
「よくもそんなに考えすぎて、おそろしく現実を難しくしたな」
ん……? 何のことだ? とぼくは思った。
「なんでもお見通しさ」と天使が言う。
……ああ、でも確かに。よく言われますよ、とぼくは言った。
「複雑に見えて内側は空っぽだ」
ずきゅんと来たが、ぼくはハハハと笑った。その通りかも。
そして「明日病院に行け」と天使は言った。
……はい?
カウンターを照らす明かりが陽炎(かげろう)のように揺らいでいた。
どうして?
「残された時間は少ないからだ」と天使が言う。「おまえには自覚が足りない」
急につっけんどんにそう言われた。
…ぼくが気休めで酒を口にすると、天使はあれがおまえの空っぽの証と言って、酒瓶の陳列棚の一角を指差した。
見ると、古くなった人間の脳みそがホルマリン漬けにされて瓶の中に沈んでいる……。
ぼくの口に含まれていた酒は霧状に噴出した。今となっては、バーにそんなものが置いてあるのもおかしかった。
……ハハッ!……グロいですよ冗談が、とぼくは口を汚しながらミッキーマウスのように声が上ずって動揺したあとで、どうしても彼に一つ聞いてみたいことがあった。
天使に、その翼を使って飛べるのかと、ぼくは聞いた。
「これか?」と天使は、背丈ほどもある背中の羽を小刻みに揺らした。
翼は別の生き物のように動き、思ったよりも不気味だった。
「そうか」と天使が言う。「飛んでみせてほしいんだな」
ぼくたちは店を後にした。
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