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それまでの一部始終を話そう。
ある朝、とてもひどい頭痛で目を覚ました。どれだけ眠っていたのかわからない。どこで何をしていたのかも定かでない。夢の中に何日間もいたような気がする。そしてひたすら暗闇の中に倒れていて、気がつくと自宅だった。
閃光が走ったようにぼくをくだらない現実に引き戻した十万ボルトの痛みは、抑えきれない吐き気で一度吐いてしまうと消えていった。
だれかのものすごい怒りでも買ったかのようだった。
くもった低気圧の暗い朝。見えない強迫観念に襲われる。
ああ、くそう……。
そう、望まない仕事が待ち受けている。今日も一日を無駄にする――。
身支度の最中、時計代わりのテレビをつける。暗いニュースだ。文字通りの。
太陽が輝きを減らしていってるとNASAが発表したそうだ。太陽がぼくらの星に届けてくれるのは、光と熱だけではなく、見えないバリアも含まれるらしい。
太陽のフレアが地球を包み込むことで、この瞬間にもバシバシ降り注ぐ宇宙線からみんなを守ってくれている。しかし最近あまり元気がないみたいで、太陽の咎めをまぬかれた死の不可視光線が、地上のぼくらを灼いていた。
だれにでも降り注ぐ。太陽の調子がちょっとすぐれないせいで。
そういうことはだれにでもある。
ニュースだと思っていたのは天気予報だった。
「宇宙線としてやってきた素粒子が大気に溜まると、雲を形成するでしょう。つまり太陽の活動が弱いと雲がたくさんできて、さらに太陽の光を遮るでしょう。気温は下がり、長引くと寒冷化し、気候変動の原因にもなる恐れ――」
やけに詳細な予報は続く。
「体温が一度下がると、免疫力は約三〇パーセントも低下します。今週も聞いたことがない感染症が流行るでしょう。体は温めるに越したことはありません。そこでみなさんにご紹介したいのがこちら、シルクのストッキング! お値段はなんと――」
天気予報だと思っていたのはテレビショッピングだった。最近のテレビはややこしい。
そういえば、体が冷えると言って、だれかもよく困っていたな。果たしてそれはだれだったか。
そんなこんなで出勤する。ぼくのアパートの向かいの家には足場が掛けられ、これから解体が始まろうとしていた。
朝、だれもが人と距離を取って歩く。他人と関わることはリスクだからだ。
朝、会社に向かうぼくは疑問に思う。果たして今日の出勤に意味はあるのだろうかと。有給はあと何日残っていただろうかと。このまま反対方向の電車に乗ってやろうかと。知らない駅で降りて散策してやろうかと。そうして悶々と職場に到着する。
ぼくの職場は器の小さい人間の集まりなので、挨拶はしない。返ってくることは稀だ。
馬が合わない先輩のギスギスビームをいなし、自分が将来最も就きたくない地位にいる上司によって張られた地雷を飛び越える。戦争が起きなくても、弾丸を避けるような毎日だ。
「言っといたやつ、どうなってんの」と、朝一で先輩に捕まる。
はあ。手についてませんが。他にやることが多くて。
「いつまでにやんの?」と先輩が言う。
逆に、いつまでにしましょう。
「今日中だろ」と先輩が吠える。
いやー、今日はちょっと。
「おい、それよりどうなってんだ、お前の見込み」と、そこへ上司がバトンタッチする。
おはようございます。
「今月の数字どうやって作るつもりだ?」と上司が言う。
なんとかします。
「そのつもりで動いてんのか?」と上司が詰める。
今日動きます。
「やる気あんのか!」と上司が燃える。
ぼくは、机に常時忍ばせている退職願に、今日の日付を書き込もうか思案する。
繰り返し。繰り返し。
出勤し、息をし、退勤する。また出勤する。
こうして望まない一日が過ぎていく。
気がつくと、会議をするかどうかの会議がこれから催される。ぼくが窓口の業務委託先の不祥事の件を報告していないが、そのままにしておこう――。
こだわりもなく選んでしまった職場に丸四年もいると、腰のあたりまで環境に埋没してきてしまう。住み慣れた地獄。
しかしこんな時代なので、この場で働くだれもが、自分がそう遠くないうちにここからいなくなることを想定している。残されてババを引かないよう牽制し合っている。
ぼくの仮説は続く――。
いまや社会で働くだれもが、独自のミニマルな経済圏を築こうと画策している。ぼくらの世代に終身雇用という概念はない。年金など存在そのものを信じていない。明日にも国はデフォルトしているかもしれない。先が見通せず、どんな保障も壊れゆくことが明らかな中で、みんなだれかに構ったり責任を負うことはままならない。
ぼくのセオリーは佳境に入る――。
だからそう、自分自身で稼ぐしかない。自分自身の仕組みで。そのためにはオリジナリティが必要だ。皆がやることの先にあるのは陳腐化だ。整形して同じ顔になんてなりたくない。無個性はディストピアだ――。
……といって、ぼくには何か策があるわけでも、当てやコネがあるわけでもなく、何も動きだしていなかった。世の中はとめどもなく壊れていくようだったから、いずれ目の前の生活のための仕事も吹き飛んで、各々が真にやりたいと思うことをやるしかない時代が来るはずだと踏んでいた。そしてそう踏んでいるだけだった。
ぼくは当時、今よりもずっと無知で世間知らずで、理想を実現するための妄想を練りながら、食べていくための労働で日々を使い果たしていた。
そんなとき、事業計画書のエクセルがバグっていたことに気づき、一度承認を得た発注の見積りの桁が実は二つ足りなかったことを知っても、何もなす術はない。
ああ。好きなことだけをやって食べていきたい。…しまった、おとついの契約書の原本をシュレッダーしてしまったが、シュレッダーごと隠滅しよう。
毎日がこうもスリリングなので、ぼくは職場のテロリストと化す。
そこへ電話が鳴る。
二コール様子を見て、諦めて取る。
「あっ」という女性の声。微かに聞き覚えのあるような。
もしもし。
「……」
切れていた。
「だれからだったんだよ」と、ぼくのそばを通りながら目ざとい上司が言う。
わかりません、切られました。
ふん、と言って上司はデスクに戻り、ぼくはパソコンのソリティアゲームを再開する。
この調子でいけば、職場に居ながらにして悟りを開けるかもしれない。しかし、心は確実に死んでいく。
その日はおよそ一五〇㎡のオフィスに、ぼくと上司と先輩と、昼過ぎにたまたまこの階に迷い込んだ、幼い女の子しかいなかった――。
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