フラッシュバック

八巻 篤史

1


 天使はぼくの胸元に銃を向けて、最高の瞬間はつねにこれから訪れると言った。

 今夜、一つの世界が終わる。 

 地表の崩壊はぼくらのいる建設中のビルの屋上まで到達し、頭上のクレーンがスローモーションで崩れ落ちていく。

 「今日わからなかったことが明日わかるかもしれない」と天使が言う。「その繰り返しだ」

 ぼくは、ひょっとしたら飛べるのかもしれないと考えながら、だれかに言われた一言が思い出せないでいる。

 LSDの致死量は一〇ミリグラム。睡眠薬の致死量は一五〇錠。ぼくにとっての確かな知識。

 天使の銃は銀のデザートイーグルで、彼の慎ましくも洒落たスーツ姿に馴染んでいるが、厳密にどんな仕様なのかは知らない。

 端に積まれていた建設資材がフロアからこぼれ落ちていく。

 ぼくは、返り血で彼の羽が汚れたりしないか心配する。昔、だれかに生傷を応急処置してもらったような記憶がよぎる。その様子をはっきりと覚えていない。

 「心配するな」と天使が言う。

 魂の重量は二一グラム。今宵はなお二一世紀。

 柱の影から少女がこちらを覗いている。

 これはまだ科学と世間の常識が現実に追いついていなかった頃の話。

 そもそもは愚かな過ちが発端だった。ぼくは愛を知らない類人猿。

 床を覆うコンクリートがちぎれて重力に逆らって舞う。

 「起こりうる未来こそ」と天使が言う。「アイディアとして浮かぶ」

 だれもが天国に行けば、なれたかもしれない自分に会うのだろうか。だが、ぼくには行ける保証がない。

 運命の霧の中に、いくつか起こる可能性のある未来が混在している。

 ぼくは自己意識のクオリアで、「意識」そのものを感じるための錯覚で、鏡写しにすぎないのかもしれない。

 「雨だ」と天使が言う。

 未来には、「私」という概念は消滅しているだろう。

 「世界を変えてみせろ」と天使が言う。

 未来は仮想的空間へ。

 もしくは、人類は三次元の世界からはいなくなるのかもしれない。

 確かなのはこの想いだけで、意識は肉体という限界を越えて広がっている。望まない未来は迂回する。

 あの日天使と出会っていなかったら、ぼくはまだ自分の望みを疑っていただろう。自分自身の地獄から抜け出せていなかっただろう。ぼくは彼に感謝している。

 暗い空から燃えるオーロラが溶け落ちていく。

 右脳に囁かれる神の声を聴いて行動した古代人も、恋をしたのだろうか。 

 秒速で現在へ。

 神の意のままの自動人形でも、夢を見たのだろうか。

 瞬間で遥か彼方へ。

 こんな夜、幾度もダークサイドに堕ちたぼくの自意識も、万物の源へ還るのか。

 「すべてはおまえの思うとおりだ」と天使が言う。「よくもわるくも」

 魂の解放に備え、出撃せよ。

 目の前の現実と向こう側の境がぼやけて曖昧になっていく。これが現実と呼べればだが。

 少女が駆け寄って、ぼくの袖口を握る。

 ぼくという現象はあと何秒残るだろう。生命はエントロピーの増大則に逆らって秩序を生む。意識が混沌としてくる。時には、考えても無駄なことがある。

 すべてが神の思惑だとは思わない。

 「さらばだ」

 すくなくとも今は。

 ぼくは怖がらなくていいよと、少女の手を握る。

 ありがとう。明日は晴れに変わるのかな。

 「やがて消えたとしてもそう悪くない」と天使が呟く。

 そして天使は雨の中の涙のようにと言い、持っていた銃を固く握り、今となっては、ぼくは必要にして十分なことを記憶している。

 この世界はまもなく終わる。

 すべてはぼくの望んだことだった――。

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