5


 マリナの死から数日が経ち、私はふと、頭の中に沸き立つものがあることに気がついた。あらゆる感情が小さな波として過ぎ去るこの世界で、突如生じた熱に私は戸惑った。得体の知れないそれを拾っては、これは怒りだろうか、と自問した。心の内に蹲るこの冷たい赤子は、私の怒りだろうか?

 改めて口にするまでもない。結論は、とうに出ていたのだ。

 マリナがおかしくなったのは、師父に呼び出されたあの日からだ。背後には、確実に師父ロクスの影がある。彼女の死についても、彼は大きな嘘をついた。邪霊や呪いの存在なんて信じられなかった。誰かがマリナを殺したのだ。腕にあったのは注射の痕だと、私は確信していた。

 師父になる、という使命だけが残されている。

 私は、彼に会わねばならない。



 地の果てから、歌声が聞こえる。

「主に従う人に誉れあれ」と。

 しかし、わたしは思った。

「わたしは衰える、わたしは衰える。

 わたしは災いだ。

 欺く者が欺き、

 欺く者の欺きが欺く」


 背を向けたまま、彼が言った。「かつて、旧約聖書・・・・と呼ばれた書物に記された言葉だ」

 そして振り返り、沈んだ赤い絨毯の上、黒檀の机に腰掛けると、彼は齢に見合わぬ若々しさで、皮肉げに笑った。

「よく来たね、カタリナ」


 ロクスという男のことを、私は知らない。

 私にとっての彼は、

 教会の長。

 生骸堂の主。

 遠く高みにおわす人。

 せいぜいが、そんなところだった。

 しかし、こうしてみると、存外に親しみの湧く表情をするものだ。

「……突然の訪問をお許しください。どうしてもお伺いしたいことがあり、失礼を承知で参りました」

 最低限の礼儀を、と思い頭を下げた。ここまで来ても、長年教えこまれてきた所作は抜けないものかと苛立たしくも思う。マリナも、同じように振る舞っただろうか。いや、彼女のことだから、私よりも丁寧で、誠意に満ちていたことだろう。

 私の中にはもう、師父への無条件の信頼は残っていない。

 師父の構えは悠然として、余裕を感じさせた。礼拝の時の威厳はなく、むしろ気怠い憂鬱が垣間見える。

 私はそれが、どうしてか気に食わなかった。

「ああ、わかっているさ」瑣末なことだとでも言うように、彼は言った。「君の、配偶子パートナーのことだろう──」

 空白があった。

 気がつくと、私は師父の、あの敬愛すべき男の胸倉を掴んでいる。

 青年と見紛う姿の癖に、彼は異様に軽かった。

「お前はッ! お前が、マリナを!」

「………」

 叫ぶが、彼は動じる様子も見せなかった。こんな大声を出すのは初めてで、煮沸し対流する思考だけがふわふわと覚束ない。腹立ち紛れに、私は彼を揺さぶり、

 ジ……

 紅い装束がぶれる。驚いて手を離し見上げると、そこに私の知る師父はいない。

 一人のくたびれた老人が、私を見下ろしていた。

「──ホログラムという技術だ。実体に、異なる映像のレイヤーを重ねる」

 彼はそう言いながら服を整えた。そして「話があるのはこちらも同じだ。ついてきなさい」と言うと、私の脇を抜けて部屋を出て行った。

 私は唖然として、師父の背を目で追った。従う以外に道はないように思われた。深呼吸し、滲む汗を拭ってから、意を決して後に続く。

 師父は昇降機の前に立ち、壁に掌を翳した。間もなく駆動音が唸り、光に照らされた箱が口を開ける。乗りこんだところで、私は問いかけた。

「どこに行くんです」

「地下だよ」

 事も無げに彼は言った。確かに、地下、と。

「地下なんて……」あるはずがない、と言い切る前に、言葉が被せられる。

「あるんだ。見ればわかる」

 しばしの浮遊感の後に、ドアが開いた。昇降機を降りてすぐは広間になっていて、数組のテーブルと椅子が置かれているが、人の姿は見当たらない。

 教会のどの施設とも異なる建築様式だった。天井に埋めこまれた電灯が、青白く無機質な光を放っている。

 好奇よりも、不安が先行した。

 自らが異物であると思わされる。この空間に自分は相応しくないのだと、私は直感する。

「こっちだ」

 師父は慣れた様子で枝分かれした道を進んでいく。私はしばらく動けずにいたが、どうにか雑念を払い、足を踏み出した。

 廊下に沿って、いくつもの扉が並んでいた。最近使われた形跡のあるものから、赤い塗料で大きく×をつけられたものもある。

「この都市は」歩きながら師父は切り出した。「先端技術の実験都市だった。終末に際して一度は放棄されたようだが、まだ比較的呪い──汚染が少なかった頃、外からきた人々が拠点としたことで、再び稼働を始めた」

 今から、二百年ほど前の話だ。

 なんてことないふうに、彼は語った。人類の栄華は、人間の手によって手折られたのだと。環境資源を巡る争いが全世界で勃発し、小さな火種は隣国を巻きこんで拡大した。あらゆる兵器が使用され、大地は呪わ《けがさ》れた……

 この世界が何かの遺物であるということは、何となく予感していた。〈図書館バベル〉を利用していれば、自ずとわかることだ。問題はそこではなかった。

「……実験都市、ですか」

「〈バイブル〉も〈図書館バベル〉も、言ってしまえばその名残だ。資源を効率良く循環させることで、都市単体で数百年持続可能、というのがコンセプトだった。ここは特に生命科学に関する研究が盛んで、上の教会──病院・・では、臨床実験が行われていた。この地下空間は、その研究所にあたる」

 師父が前へと進む度に光が灯っていく。それは何がしかの奇跡にも見え、刷りこまれた信仰の意識が、神秘的な印象を上塗りしようと無様に足掻く。

 違う。私はそう言って、自分の妄想を否定するしかない。頭を押さえつけ、こんなのは秘蹟でもなんでもないのだと叫ぶしかなかった。

 これが真実だ。科学という名の、本当・・だった。私を守ってきた教会も、何もかも、全部。

「君は、どうして自分たちが師父に選ばれたのか、わかるかな」

「孤立性持続点数。……これが高かったからでしょう」

 答えると、彼は満足げに頷いた。

「流石だ。しかし、それだけではない」一呼吸の間を空け、「師父の要件を教えよう。その一、孤独であれ。その二、秘密を守れ、だ」

 秘密を守るために孤独であれ、他者と密に関わることなく、ただ己が責務のみに忠実であれ──師父であるために、語るべき言葉を捨て、語らうべき友を捨てよ。彼が普段表に出てこなかったのは、それが理由というわけだ。

「とりわけ重要なのは、この〝孤独〟という要素だ。周囲に迎合せずとも生きてゆけること。一人で抱えてゆけること。それこそが、孤立性持続点数の意味するところになる。共感性融和点数は逆に、どれだけ穏やかに他者と生きてゆけるか、ということだ。

 この仕組まれた社会にあって、孤独でいるのは難しい。しかし、だからこそ、指標とすることができるものもある。

 知の獲得が暗に制限された状況下で、積極性を持って知的活動に勤しむこと。すなわち、〈図書館バベル〉へのアクセス回数が、孤独──社会性からの逸脱の指標となる。通常、子どもたちの〈図書館バベル〉の利用回数は、多くとも年間で数十回だ。その中で、君とマリナは明らかに異質だった」

 年間約四百回だ、と彼は言った。

「知ることは、往々にしてストレスを伴う。師父になる者は、それに耐えられなければならない」

 師父が足を止めた。長い通路の、最奥部。保護棟の真下に位置すると思われる場所。

 壁のプレートには〈隔離室〉と記されていた。

「見たまえ──これが私たちの、罪の証だ」


 囁き、呻き、嘆き、怒り。

 すすり泣く声。壁を叩く音。

 叫び。

 それらが充満して、この世とは思えない異様な空間を作り上げていた。

「保護棟が〝収容所アサイラム〟と呼ばれる所以だ。ここにいる人々は〈分裂者スキゾイド〉と言われている」

「〈分裂者〉……」

 うわ言のようにその単語を繰り返す。分裂者、引き裂かれた人……。

 師父が歩いてゆく。後に続くと、いくつもの視線が無遠慮に突き刺さる。私という存在を暴き、詳らかにして、白日のもとに曝そうとする、彼らの瞳。見ないで、放っておいてという願いは、不定形の暗闇へと消えてゆく。

 逃げ出したくなるのを堪え、足を運んでいく。通路に沿って覗きのついた鉄扉が並び、わずかな隙間から音が漏れ出していた。

 誰かの名前を呼ぶ声。懺悔の言葉。荒い呼吸。

 異質なそれらに囲まれながら、奥へ奥へと進んでいく。突き当たりの扉を潜ると、開けた場所に出た。壁面には長方形の暗いモニターが敷き詰められている。

「……監視室、ですか」

「もう、使われてはいないがね」

 彼は壁際に積まれた椅子を引き寄せ、私に差し出した。「座りなさい」言われるままに腰を下ろすと、彼は対面にもう一つ椅子を置き、静かに座った。

 おぞましいものだと思わないかね、と師父は言った。

「彼らは被害者だ。どん詰まりの世界の、その罪を一身に受けた哀れな人々だ。誰にも、どうすることもできない。こうして地下に閉じこめ、誰にも知られず死んでいく。そんな道を、ただ強いることしかできない。

 彼らを苛むのは、内なる声・・・・だ。罵倒し、愚弄し、否定し、拒絶する。かつて愛し愛されたはずの者の声が、彼らを死に追いやらんと一斉に牙を剥く。本来は彼らの生を支えるはずだったものが、だ。それが、うまく定着しなかったばかりに──」

 そこまで言って、師父は何かに気づいたようにかぶりを振り、「いや、今は……」と口を閉ざした。

 沈黙が流れた。

「……それで、私にこれを見せて、なんだって言うんです」

 間を埋めるように、私は言った。苦し紛れの反抗だった。さっきから、嫌な汗が滲んで、不愉快でならない。

 彼は深く深く息を吐くと、「すでに言ったように」と静かに切り出した。

「教会を出た先は、汚染され、病の漂う終末の大地だ。君はこう教わったはずだね。『加護がなければ死ぬのみだ』と」

 私は無言だったが、彼はそれを肯定と捉えたらしく、話を続けた。

「〝加護〟とは何か、という話だ。肉体を守り、危険な空間にあっても人間が問題なく活動できるようにする、この神秘の正体の話であり、〈契約コミュニオン〉の意味と、それによってもたらされるものの話だ」

 彼は制御盤コンソールを操作すると、モニターの一つを起動した。点灯した画面には、拡大された球状の機械のようなものが映し出されている。師父は私の目を見ると、「これが、救疫の秘蹟の真実だ」と言った。


「私たちの体内には、恒常性維持のための自己保存因子セルフモニタリング・システムを有するナノマシンが入っている。ナノマシンは、知っているね。……そう、〝救疫の秘蹟〟を学ぶ中で、わずかにではあるが文献があったはずだ。

 自己保存因子は本来、ただ体調を管理し、健康を維持するだけのプログラムだ。〈聖胎マリア〉の培養槽を出る際に等しく注入される。知っての通り、それだけでは、汚染され疫病の蔓延る外の世界で生きて行くことは不可能と言っていい。そこで、そういった外敵から身を守るプログラムが必要になってくる。

 初期の、まだ技術のノウハウが残っていた時代に、汚染や病に対する防御プログラムが開発され、当時の街の住民に組みこまれたことがある。結果は良好。屋外でも何ら変わりなく活動ができたそうだ」

 ここまではいいね、と師父が言う。身体の奥底……次第に存在感を増してきた胃のあたりの不快感を飲み下し、私は頷いた。

 しかしながら、と師父は続けた。

「しかしながら、どこかの段階──おそらくは、初代師父アントニオスが台頭した混迷期に、プログラムの知識も、それを書きこみ適用する方法も完全に失われてしまった。残ったのは、生きている人間の体内にある複製品だけとなった。

 当然、後の世代はその喪失にひどく追い詰められることになる。防御プログラムが直接適用された最後の世代が老人になった時、次の世代の人々は、これ以上ない焦燥に駆られたはずだ。

 そこで着目されたのが、投与されたナノマシンが有するある特徴だった。それは、近接するナノマシン内に有益なプログラムが組みこまれていた場合、それを自身にコピーするというものだ。その性質を利用し、かつ共同体を維持するための儀式としたのが、〈契約コミュニオン〉の始まりになる」

 気がつくと、私はきつく歯を噛み締めている。呼吸は乱れ、私の肉体は私の意志の外側で躍動する。未だかつて経験したことのない鈍い痛みに襲われながら、暗い予感に震えている。

「〈契約コミュニオン〉とは、ナノマシンの稼働限界が近づいた老人たちから、防御プログラムを受け継ぐ儀式だ。その方法は──」

 彼はわずかに逡巡してから、ありのままの言葉を告げた。


「──食人だよ」


 永遠とも思える時間だった。

「ひと、人を、食べ……」

 痙攣する筋肉が声を崩し、混濁する脳が、思考を乱す。

 頭が追いつかない。追いつけない。拒絶したい。認めたくない。想定したくない。抵抗したい。

 ……でも、無理だ。

 逃れられない。知ってしまったから。頭の中に、その観念はすでに根付いている。

 私だけじゃない。師父も、使徒も、長も、マリナも、バーバラたち〝集会〟のメンバーも、誰も彼もが、この無感情に巡りゆくシステムの円環の中で生を受けた。兄弟姉妹、家族なのだ、と修道士の先生は言った。その言葉は、正しかったのだ。秩序の槍は私たちの精神を刺し貫き、この地に縫い止めて、放さない。


 ──いつか、ここから逃げ出したいと思う?


 ああ、マリナ。私たちは最初から、逃れることなんて許されていなかったんだ。


「〈契約コミュニオン〉が始まった当初は、皆がこの事実を知っていただろう。しかし、時が経つにつれて、歴史は風化し、輪郭はぼやけ、幾つもの小さな物語ウソが織り交ぜられるようになった。それは混乱の予兆として捉えられ……当時の師父とその一派は、より強い物語で対抗することを選択した」

救疫きゅうやく生書せいしょ──」

 私は思わず呟いた。呪われた大地から、聖地へと至る物語。

 旅路の果てに人々が手に入れたのは、真実の意味での繁栄だったのだろうか。

「救疫生書は、旧世界におけるとある宗教の聖典を元に作成されたものだ。その上で、地下の存在を隠すため、医療を〝救疫の秘蹟〟として隠匿した。規律を定め習慣を共有し、類似したルーティーンに人々を押しこめる。そこまでしてやっと、人は生き延びることができたのだよ」

 そうしなければならなかったのだ、と伏せられた目元には、深い皺が刻まれている。これが彼の本当の姿、奇跡も何も信じちゃいない、弱々しい老人の本性なのだ。

「それじゃ、私たちは過去の奴隷じゃないか。意味なんて……」

 私たちの〝今〟という現実は、〝これまで〟に支配された無価値な代物だったのだろうか。私のこれまで、マリナとの日々、未来という空虚……どんな期待も意味をなさず、惰性によって生かされる。

 彼女のいない世界で、どう生きろというのだろう。

「意味なんてものが必要かね」

 こちらを見ることもなく、彼は言った。その瞳は、窓越しに見た都市景のように、荒涼として、渇いている。

 マリナも、最後にはこんな目をしていた。

 諦めた者の目だ、と私は思った。

 何もかも無意味だと知る。人の生存のためでなく、いつしかシステムの、社会の存続のために生かされていたのだと知る。この身に宿ったものが、発展も未来もなく、ただゆるやかに壊れていくのを待つだけの生だったのだと知る。

 こんな残酷な物語しんじつを、いったい誰に聞かせられる?

「師父とは、真理の守護者、法螺ほら吹きの王、偽りのヴェールで覆う者。これが、師父となる者の苦しみだ。

 私たちは、孤独でなければならない」

 彼の双眸が私を捉える。その黒々とした目の奥深くには、憐憫の色が宿っていた。

「儀式は、〈契約〉だけではない」

 畳み掛けるようにして、彼は言う。長年に渡って蓄積し、膿み腐り果てた澱を吐き出すように。

 一息に終わらせてしまいたい、という思いが痛いほどに伝わってくる。

 もし、〈契約コミュニオン〉だけではなく、〈生餐サクリメント〉も。あのような儀式であるならば。

 私はもう聞きたくなかった。耳を塞ぎ、すべて見えないふりをしてしまいたかった。

 けれど、もう無駄だともわかっていた。

 最期を見据えた老人は、止まらない。


「最も忌むべきは〈生餐〉だ。これこそが、私を生かし、そして罪悪の虚へと突き落とした元凶だ。

 カタリナ、よく聞きなさい。私たちだけは憶えていなければならない。忘れられたが最後、何もかもが真実無に帰してしまう。もう止まれないのだよ、私たちは……」

 やめて、などという浅ましい願いは、声にもならずに、肺腑を焼く熱と混じる。

 気持ちが悪かった。

 マリナのように、すべて吐き戻してしまいたいと思った。

 飲みこんだ唾液は、酸っぱくて、喉を焼いた。

 気持ち悪い。

 本当に、気持ちが悪い。


「〈生餐〉は、脳内を循環するナノマシンを摂取した場合に発生する現象を利用したものだ。自己保存因子を持つナノマシンは、脳内で長期間活性化していると、徐々に思考回路、つまりは人格を模倣するネットワークを構築するようになる。これは死後もしばらく残留し、他者の体内に取りこまれた際には、摂取した人間の脳内で元の人格を再現するもう一つの思考回路を形成する。この二つ目の人格は表に出ることはない。現れるのは、幻視や幻聴という形であって、主観的な文脈だ。主人格は副人格との対話によってストレスを緩和し、自己を制御し、より合理的に、社会に即した思考ができるようになる。共同体における秩序の維持に、貢献するというわけだ。

 しかし、私が〈生餐〉で得たナノマシンの耐用年数も、限界が近い。

 私が愛した男はもう、傍にはいない。

 だからこそ、私は君に託さねばならない。

 もう、わかるだろう。言うまでもないことだ。

 これが私の罪。おまえたちに継承される、生きることの罪なのだ。

 〈契約〉が肉体の保護ならば、〈生餐〉が為すのは精神の保護だ。

 老人ではいけない。思考が融和し、共鳴し、相補的でなければならない」

 最後に、彼は言った。

 私がこれから抱えるべき、罪の証を。


「私たちは、配偶子あいしたひとを食らうのだ」


「あ、ぁあ……っ」

 すべての信じ得たもの、私を支えたすべての観念が、瞬く間に腐敗し崩れ去っていく。叫ぶこともできなかった。せり上がるのは声ではなく、焼け付く吐き気だった。詰まり、掠れ、声も言葉も千々に裂かれ、私は私を抱えて、身を凍らせる。

 そして、喉の奥、全身を穿つ、私が。

 軋む。罅割れる。崩れ、解け、引き裂かれて。

 理解した。わかってしまった。

 彼女の痛みが、あの言葉の真意が。

 マリナがどんな想いで、その言葉を口にしたのか。


 私が、あなたを守るから。


「ぅ……あ、あ……」

 私が、こぼれ落ちる。私を繋ぎとめた楔は溶解し、砕けた大地の隙間へと染みこんでいく。

 マリナは私のあばらだった。

 波打つ肺腑を守り間近で鼓動に耳を澄ませる、私の骨だったのだ。

 彼女によって形作られていた。彼女によって支えられていた。

 彼女がいたから、かりそめでも、意味があると思いこんでいられたのだ。

 ごめん。

 ごめんね、マリナ。

 私が愚かだった。何一つとして、私は知らなかったのだ。

 終わるべきだった。延命などせずに、その纏わりつく管を引きちぎってでも最期を迎えるべきだった。

 この世界、赤子の私たちも。


 マリナ。マリナ。

 私は呼びかける。

 ねぇ、マリナ。

 もし神が存在するというのなら、この無機質な秩序、止めることのできないシステムこそが、私たちにとっての神だったんだ。偽りの衣は剥がれ落ちた。現れたのは、万民の目を焼き尽くし、盲目の人々を鎖で縛る醜き神のその肢体だった。

 そうでなければ、マリナ。

 あなたこそが、私の神だったんだ。

 ねぇ、マリナ。

 もしあなたが、私の神様なら。

 あなたは、私を憎むことができる?

 私のことを、狂わせてくれる?

 引き裂かれた人々が自らを傷つけるように、私もきっと、罰を受けるべきだった。

 欺瞞の罪の、その罰を。

 だから、マリナ。


 どうか、私を憎んでゆるしてよ。

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